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玉杖2023年07月28日 08:07

玉杖(ぎょくじょう)は古墳時代前期の儀式用の杖である。

概要

上端にT字型の杖頭をもち、下端には筒形の石突を備え、両者の間に管球状の石製品を連結し、一本の棒状の杖にしたものである。4世紀代の碧玉製品がみられる。副石室に納められる杖状の威儀具である。中国漢代の「玉杖」に倣い、この名称がつけられた。

副葬品の変遷

4世紀の玉杖は呪術的なものである、当時の権力者は、呪術で地域を治める、宗教的な役割を担っていた。後期の古墳では馬に関係する武具や、黄金にきらめく装身具などが見つかっており、権力者がより現実的な力を持ち始めている。古墳時代半ば以降、朝鮮半島から人や馬が渡ってきたことがきっかけの一つとと考えられている。縄文時代以来の生活様式や政治意識は、大陸の影響を受けて急速に変化した。

事例

  • 玉杖 - 茶臼山古墳出土。奈良県桜井市。
  • 玉杖形石製品 - 出土地不詳 碧玉製。国立東京博物館。
  • 玉杖形木製品 - 東園田遺跡出土、兵庫県尼崎市。
  • メスリ山古墳 –
    • 合計4点の出土があり、頭部に十字形の装飾をもつものと、翼形の装飾をもつものの2種、軸部が鉄芯で碧玉製のものと有機質(木製と推定)のものの2種がある。展示の2点は、碧玉製の頭部の2種と下端(石突)部の間に、軸部の推定復元品を組み合わせた。

歴史意識の古層2023年07月28日 22:27

歴史意識の古層(れきしいしきのこそう)は思想家の丸山真男が規定した日本人の古代から続く歴史意識の基底である。

概要

丸山真男は古代の『古事記』『日本書紀』や中世の史料を用いて歴史意識の古層を概念化した。 そして歴史意識の古層を構成する基底カテゴリー(基底動詞)を、「なる」「つぎ」「いきほい」の3つに集約した。三つの原理は相互に密接に関連しあうものである。

「なる」の意味

宣長は「なる」には三つの意味があると説いた。①「無りし物の生り出る」②「此物のかはりて彼物に変化」③「作事の成終る」の三つである。①は伊耶那岐と伊耶那美の「生む」行為によって神の出現を語る前段階としては、「なる」としか表現できかった。②は「化」で変化・変身を表す。③は「成」で完成を意味する。

  1. 無から有が生まれる(生)  be born
    1. 「生む」場合に「親―子」関係が生じる。
  2. あるものが別のものになる(変) be transformed
  3. ものごとが成り終わる(完成) be completed

「なる」の使用例

「生」の事例

  • (原文『古事記』上巻) 天地初發之時、於高天原成神名、天之御中主神。
  • (釈読)天地(あめつち)初(はじめ)て發(ひら)けし之の時。於高天原(に)成れる神(の)名は、天之御中主(あめのみなかぬし)の神。
  • (大意)天地が初めてできたとき、高天原に生まれた神の名前は天の御中主であった。

「変」の事例

  • (原文『古事記』上巻) 於是思奇其言、竊伺其方產者、化八尋和邇而、匍匐委蛇。
  • (釈読) ここにその言を奇(あや)しと思ほして、そのまさに産みますを伺見かきまみたまへば、八尋鰐になりて、匍匐はひもこよひき。
  • (大意)その言葉を不思議に思って、まさに子供を産もうとする最中に、覗きみたところ、八丈もある長い鰐になつて這いつくばっていました。

「完成」の事例

  • (原文『古事記』上巻)是時有光海依來之神、其神言「能治我前者、吾能共與相作成。若不然者、國難成。
  • (釈読) この時、海を光てらして、依り來る神あり。その神の言のりたまはく「我がみ前をよく治めば、吾あれよくともどもに相作り成さむ。
  • (大意)このとき海を照らしてやってくるものがいた。その神が言われることは、「わたしをよく祀れば、一緒に国を完成させましょう。

つぎの意味

国生みの最初から伊弉冉の「神避」に至るまで、「次」は47回出現する。世界を時間的連続性で語ることは、無窮性、血統的正当性を強調するものといえる。

  • (原文『古事記』上巻) 次高御產巢日神、次神產巢日神。此三柱神者、並獨神成坐而、隱身也。
  • (釈読) 次に高御産巣日神。次に神産巣日神。此の三柱の神は、並なみ独り神と成なり坐まして身を隠しき。
  • (大意) 次の神樣はタカミムスビの神、次の神樣はカムムスビの神、この御三方は皆お一人で出現され、やがて姿を隠した。

「いきほひ」の意味

「いきほひ」は自然の成長・増殖・活動を魂の活動としてとらえる、古代日本人のアニミズムの観念が盛り込まれていると解釈されている。

  • (原文『日本書紀』神代上) 亦曰、伊弉諾尊、功既至矣、德文大矣、於是、登天報命、仍留宅於日之少宮矣。
  • (釈読) 伊弉諾尊、功(こと)既に至りぬ。德(いきほひ)また大きなり。ここに天に登りまして報(かえりこと)命(もう)したまふ。倭柯美野(ワカミヤ)にとどまりたまう。
  • (大意) 伊弉諾尊の役割は完了した。その活動は勢いがあり、天に昇り報告したあとは、日のわかみやにとどまった。

現代との関係

丸山真男はリニアな歴史観であり、オプティミスティックなものと丸山は指摘する。生成増殖のリニアな継起、構造化されない終わりのないプロセスである。限りなく続く無限の連鎖過程は、目的や意味を示さない。物事の「いきほひ」に任せて生きること、それ自体が問題であるという。 丸山真男は日本人は物事の筋道や道理より、その場の勢いを重んじる傾向があると考えていた。記紀神話に見られる日本人の歴史認識が、その後の日本人の発想の基底となっていることを指摘した。丸山は記紀神話の中に宇宙創世神話は現実の人間の歴史と連続していることを強調している。こうした発想の原点を丸山は本居宣長から得ていた。 勢や次は、丸山の指摘した思想がいわば血肉化しないまま、新しい流行を次々と追っていき、その新しい流行と過去の流行とは連続しておらず、その都度その都度と器用に新しい流行を摂取していくことに現れる。京都学派は、思想的格闘の基準となるべき座標軸が欠けていた。それゆえ超近代と前近代という異質な要素を深い思考なしにつなぎ合わせてしまった。継ぎ接ぎのパッチワークにより、異質な要素を共存さえることを丸山は「雑居」とよんでいる。

参考文献

  1. 丸山真男(2003)「「歴史意識」の古層」『丸山真男集 第10巻』,岩波書店

周濠2023年07月28日 22:53

周濠(しゅうごう)は古墳の周囲に掘られた堀である。周堀または周湟ともいう。

概要

行燈山古墳で周濠が成立したと考えられている。古墳が墓から政治的シンボルに変化したことが周濠の形成と関係がある。佐紀陵山古墳で釣鐘型周濠が生まれる。 初期の古墳では自然地形を利用して、丘陵の突端であったり、丘陵の尾根などでは、自然地形と墳丘を区別するため、一部にだけ周濠を作る場合がある。丘陵の末端部や傾斜地に築造された前方後円墳では、墳裾に高低差がある場合があり、周濠に段差を設ける場合がある。

纒向石塚古墳

「纒向型」の中でも最古級とされる奈良県桜井市の纒向石塚古墳 の周濠は馬蹄形であったことが確認されている。同型の周濠がその後、全国に波及している。高島(2008)は「周濠は、単に墳丘と外界とを画するものではなく、幾つもの要素により世に被葬者の権力・個性を表示するものであった」と指摘する。

参考文献

  1. 高島 敦(2008)「古墳の周濠の意義」奈良大学大学院研究年報 (13), pp.174-178

纒向石塚古墳2023年07月28日 23:46

纒向石塚古墳(まきむくいしづかこふん)は奈良県桜井市にある前方後円墳の発生期の古墳である。

概要

纒向遺跡の中心から西寄りにある。纏向遺跡内では最古の古墳の可能性がある。東西方向に張り出し部がある。墳頂部は太平洋戦争末期に削平され、そこに高射砲か対空機銃の砲台の基礎部分の跡が検出された。その際、埋葬施設の検出や遺物の出土がなかったとされる。出土した弧紋円盤は吉備系の祭祀用遺物である。最古段階の前方後円墳と考えられている纏向型前方後円墳の周濠の全形が判明したことは初めてであった。

調査

1971年の発掘調査で周濠から出土した多くの遺物の年代観から、3世紀初頭の築造とされ、最古の古墳として当時注目を浴びた。1972年の調査により幅約200mの周濠を検出した。周濠より農具や鶏形木製品、弥生時代後期最終末期から古墳時代初頭の土器が出土した。 築造時期は出土時から庄内0式(3世紀前半)とされる。 卑弥呼の墓ともいわれる箸墓古墳などの前方後円墳が定型化する以前の古墳で、極端に前方部が低い。後円部径:前方部長の比率が3:2:1の比率を有しているのが特徴である。後円部は不整形円形で、前方部は三味線の撥状に開く。 第2次調査では墳丘南側の周濠から弧文円板や土器が出土した。北側のくびれ部を検出した。1989年の第4次調査では周濠内に水を引き込む導水溝などを確認した。周濠内から多量の鋤・鍬・建築部材などの木製品が出土した。導水溝から出土した土器は庄内3式期(3世紀中頃)のものであることや、墳丘盛土内から出土した高杯などから、庄内3式期築造との説が出され、長く論争が続いた。しかし盛土内から出土した土器片に庄内式の新しい段階のものや布留式期の土器片が混じっていないことから庄内1式(3世紀前半)の築造の可能性が新たに指摘された。

年輪年代分析

第4次調査で出土した木製品の板材の年輪年代分析が行われた。材種はヒノキで、辺材である。試料の年代は177年であるが、外側に1cmあったとすると、18年輪が形成され、195年となる。西暦200年頃に伐採されたものと考えられる。

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 墳長 93m
  • 後円部 径62m 
  • 前方部 幅30m 長30m

外表施設

  • 葺石 あり

遺構

  • 【周濠】あり(幅19~24m、最大38m)

遺物

周濠内から、出土した。

  • 鳥形木製品・
  • 弧文円板
  • 杖状木製品・
  • 柱(以上木製品)、
  • 纏向Ⅰ~Ⅲ式併行の土器群。
  • 石槍 – サヌカイト製

築造時期

  • 纏向石塚古墳の築造時期に関して、3説がある。
    • 西側周濠の出土土器を評価(庄内0式期 3世紀初頭)、
    • 盛土内出土土器を評価する考え方(庄内1式期 3世紀前半)と
    • 導水溝出土土器を評価する考え方(庄内3式期 3世紀中頃)
  • 3世紀初頭

指定

  • 平成7年 市指定史跡
  • 2006年1月26日 纏向古墳群の一部として国史跡指定

アクセス等

  • 名称:纒向石塚古墳
  • 所在地:奈良県桜井市太田字石塚
  • 交通:JR巻向駅から徒歩15分

参考文献

  1. 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
  2. 大塚初重(1982)『古墳辞典』東京堂
  3. 桜井市教育委員会(2021)『纒向石塚古墳 発掘調査報告書 第38集』
  4. 伊達宗泰編(2000)『古代おおやまとを探る』学生社