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石斧2023年07月30日 00:11

石斧(せきふ)は古代日本で斧の刃として用いた石器である。

概要

石斧には全体を打ち欠いて仕上げた打製と全体を磨きあげた磨製とがある。縄文時代中期の打製石斧は、主に土掘り具として使われた。 大型の磨製石斧は木の伐採のために使い、小型の石磨製斧は木に穴をあけたり、骨などの加工の際に「ノミ」のようにして使った。磨製石斧は、柄に取りつける方向で大きく2つに分けられる。柄に対して刃が平行する縦斧は、主として伐採・粗削り用に使われ、柄に対して刃が直交する横斧は、木の表面を整えたりする加工用に用いられた。

出土例

参考文献

杉原荘介2023年07月30日 17:01

杉原荘介(すぎはらしょうすけ、1913年12月6日 - 1983年9月1日)は考古学者である。元明治大学教授。

概要

1913年、父杉原半・母宗穂の三男として東京市日本橋区小舟町三丁目六番地に生まれた。1923年の関東大震災で生家の日本橋杉原商店が被災したため、一家で市川市平田に居を移し,府立三中時代に姥山貝塚の威容に接して考古学に目覚めた。「少年の日、学友達と相誘い、下総姥山貝塚を訪れて、始めて見る古代の廃墟に私は無量の感慨を覚え、大きな迫力に身を委ねざるを得なかった。累々と堆積する貝層の中に、黙々として眠る古代人の営力を直感したからであろう。」と語る。1932年(昭和7年)に『史前学雑誌』(四-三・四)に「下総飛ノ台貝塚調査概報」を発表し、その後東京考古学会の同人として活躍した。長兄・次兄が早世したため,府立三中(現両国高校)卒業後,18歳で越前和紙杉原紙を扱う日本橋・杉原商店を継ぐこととなった。和服をきて帳場に座ったり、重い紙を満載したリヤカーを引いて配達したりする毎日が続き、大学で考古学を専門的に学ぶことは叶わなかった。考古学は独学で、武蔵野会で鳥居龍蔵の指導を仰ぎ,のち東京考古学会を主宰する森本六爾に師事するようになる。 東京外国語学校仏語科・上智大学外国語学校独語科を修了し、父半が亡くなり、結婚したのち、1941年、27歳で明治大学専門部地歴科に入学する。これは帝室博物館時代から親交がある後藤守一が考古学の講義を担当していたことと通学の便によるであろう。 1943年(昭和18年)明治大学専門部地歴科を卒業した。1943年9月に明治大学専門部文化文科を首席で卒業して文部省の内定を得るが、応召により杉原商店を閉じて大陸に赴く。佐倉歩兵57連隊の一等兵として召集され、戦地で病気にかかり、南京の留守部隊に残された。もし、のこされなかったら57連隊はフィリピンでわずか60人あまりを残して全滅した部隊であるから生きて帰ることはなかったであろう。1946年(昭和21年)春復員し、4月から文部省に勤務し、「くにのあゆみ」の編集等にあたった。1947年の静岡県登呂遺跡発掘調査では中心的役割を果たす。昭和23年、明治大学専門部助教授、同24年同大学文学部助教授、1949年に行われた群馬県新田郡笠懸村の岩宿遺跡発掘調査で中心となる。昭和28年、文学部教授。1959年(昭和34年)以降は、明治大学人文科学研究所長・考古学陳列館長・史学地理学科長となった。 1983年(昭和58年)9月1日死去した。享年69歳。

業績

弥生時代の研究にすぐれ、「日本農耕社会の形成」によって、明治大学から文学博士の学位が授与された。日本考古学協会、弥生式土器文化総合研究特別委員会の委員長として活動し『日本農耕文化の生成』を刊行する。1943年(昭和18)12月、藤森栄一の経営する葦牙書房より遺書『原史学序論』は出版された。初版1000部であり、太平洋戦争が激烈な様相を帯びてきたその時代にこのような純学術書出版がなされたということは、特筆に値する。この初版の序文の末尾に掲げられたのが、「本書正に校了ならんとする日、応召を受く、筆者の光栄これに過ぎず。感激措く能はず、以て記す。」の言葉であった。杉原はこの本を残さして出征したが、考古学者杉原荘介としての遺書でもあった。

岩宿遺跡

昭和25年の岩宿遺跡の第二回目の本発掘の際に大変なことが起きた。その日の発掘が終わり、宿舎の国瑞寺に引き揚げて遺物の剥片に整理番号を記入していた大塚初重の目の前にオート三輪が横付けされた。その中から血相を変えて飛び出してきたのは、旧石器反対論者の筆頭であった東京大学の山内清男であった。「君たち明治の学生だな」「杉原君いるか、芹沢長介君いるか」「こんなもの旧石器ではない!!無駄な発掘を止めて東京へ帰り給え!!」と大きな声で叫んだ。ちょうどおなじころ山内は桐生考古学会の薗田芳雄とともに、杉原先生の発掘を否定するための発掘を岩宿遺跡の近くの桐生市普門寺遺跡で行っており、その帰り道に立ち寄ったのであった。しかし杉原荘介や芹沢長介に会うと何も言わなかった。 今では当たり前のように岩宿遺跡を旧石器と認めているが、昭和24年、25年の考古学会では岩宿の石器を認める人はほとんどいなかった。岩宿遺跡はわが国における旧石器文化の解明に大きく寄与した遺跡として重要な遺跡となっている。

人柄

11歳年長の山内清男から「荘介旦那」と名付けられ、,学界では,杉原はことを進める際の強引さが語り草になった。大学では,若旦那としての力わざとともに,若者を統率するツボを押さえる機微も備えており,また学界でも行政面等での実行力を評価する小林行雄の声もある。 座散乱木遺跡の発掘調査をおこなった東北旧石器談話会代表の鎌田俊昭は家業を継がなければいけなくなり、杉原に報告に行ったところ、「オレは家業を捨てて、考古学に邁進したんだ。お前も家業を捨てて考古学に命を懸けろ。」というように怒られたという。 東京外語大学でフランス語を学び、上智大学でドイツ語を学んだ杉原は、大変語学が達者であった。後年、演習や口頭試問のなかでよく、「一言でいうとどうなんだ」とか、「英語で言って見ろ」という言葉が出た。 市川市内の三大貝塚である姥山、曽谷、堀之内の三貝塚、下総国分寺、須和田遺跡、鬼高遺跡らはいずれも杉原荘介の尽力によって保存され遺跡公園となっている。「市川市は俺の第二の故里だ。杉原が市川にいても、遺跡の一つや二つ保存も出来やしないじゃないかということを絶対人にはいわせない。」といった。

参考文献

  1. 杉原荘介(1946)『原史学序論—考古学的方法による歴史学確立への試論』葦牙書房
  2. 杉原荘介(1951)『貝塚と古墳 中学生歴史文庫・日本史1』福村書店
  3. 杉原荘介(1959)『登呂遺跡』中央公論美術出版
  4. 杉原荘介(1975)『弥生式土器』日本の美術 44、小学館
  5. 熊野正也「市川の文化財と杉原荘介」『考古学者・杉原荘介』
  6. 杉原荘介先生を偲ぶ会編(1984)『考古学者・杉原荘介―人と学問』
  7. 杉原荘介(1964)『日本原始美術 第4』講談社
  8. 大塚 初重(1984)「杉原荘介教授のご逝去を悼む〔含 略歴・主な業績〕 (日本細石器文化の研究-2-<特集>)」駿台史學通号 60、明治大学史学地理学会
  9. 杉原荘介(1972)『日本青銅器の研究』中央公論美術出版

上野三碑2023年07月30日 17:17

上野三碑(こうずけさんぴ)は群馬県高崎市にある山ノ上碑多胡碑金井沢碑の3つの石碑である。

概要

飛鳥時代末期から奈良時代初期にかけて、高崎市南部に建てられた山上碑・多胡碑・金井沢碑の総称である。日本国内に現存する古代の石碑は18例しかなく、その内の3例が近接して残っているのは珍しい。

ユネスコ

10月24日からフランス・パリにおいて「世界の記憶」の登録の可否を審議する国際諮問委員会が開催され、登録が決定された。

経過

  • 2014年(平成26年)11月1日 上野三碑世界記憶遺産登録推進協議会発足
  • 2015年(平成27年)9月24日 ユネスコ国内委員会から、岐阜県・八百津町が申請していた「杉原リスト」とともに国内候補に選定される。
  • 2016年(平成28年)5月19日 文部科学省を通じてユネスコへ登録申請書を提出
  • 2017年(平成29年)10月31日、ユネスコ世界の記憶に登録される。

参考文献

  1. 鬼頭清明(1991)「上野三碑をめぐって」『古代日本金石文の謎』学生社

山ノ上碑2023年07月30日 17:18

山ノ上碑(やまのうえのひ)は群馬県高崎市山名町にある完全な形で残っているものとしては日本最古の石碑である。 金井沢碑多胡碑と併せて、「上野三碑」といわれる。

概要

石をあまり加工しないで使っている点で、新羅の石碑(6世紀)に類似する。碑は高さ111センチの輝石安山岩の自然石である。

大意

放光寺の長利という僧が母のために石碑を建てたことと、長利の母方、父方双方の系譜が書かれる。

碑文

碑文は漢字53字を4行に分けている。文は表面に陰刻される。書体は古い隷書体の特徴がある。

  • 辛巳歳集月三日記
  • 佐野三家定賜健守命孫黒賣刀自此
  • 新川臣兒斯多々彌足尼孫大兒臣娶生兒
  • 長利僧母爲記定文也 放光寺僧

釈読

辛巳年(681年)十月三日に記す。 佐野屯倉を定められた健守命の子孫の黒売刀自。これは、新川臣の子の斯多々弥足尼の子孫である大児臣に嫁いで生まれた子である長利僧が母(黒売刀自)の為に記し定めた文である。放光寺の僧。

辛已歳は681年(天武天皇10年)、集月は意味不明だが、集と十は音が通じるため「十月」と言われる。放光寺は東国有数の大寺院であったこと、仏教が当時の先進的な思想であったことから、長利は相当の知識人であったとみられる。前橋市総社町にある山王廃寺から「放光寺」の文字を刻んだ瓦が出土しているため、長利が勤めた放光寺は山王廃寺と推定されている。

アクセス等

  • 所在地:〒370-1213  群馬県高崎市山名町山神谷210
  • 交通:西山名駅から徒歩で20分

参考文献

  1. 鬼頭清明(1991)「上野三碑をめぐって」『古代日本金石文の謎』学生社

多胡碑2023年07月30日 17:21

多胡碑(たごひ)は群馬県高崎市にある奈良時代の石碑である。 山ノ上碑金井沢碑ともに上野三碑の一つと言われる。

概要

多胡碑は、奈良時代初めの和銅4年(711年)に上野国の14番目の郡として、多胡郡が建郡されたことを記念して建てられた石碑である。建郡に際して、「羊」という渡来人とおもわれる人物が初代の郡長官となったと推定される。上野国分寺跡から「羊」と記された瓦が発掘されている事から、羊氏はこの地方の有力な豪族であったと考えられている。 命令に署名した高位高官として、左中弁正五位、多治比真人、太政官二品穂積親王、左大臣正二位石上麻呂、右大臣正二位藤原不比等が名を連ねる。多胡郡を作ることは『続日本紀』にも登場する。 碑はカギのかかった堂内にあり、ガラス越しに観覧できる。

石碑

碑は方柱形の天引石の切石で、上に笠石が乗る。笠石・碑身・台石から構成される。笠石は幅95センチ・奥行90センチ・中央厚さ27センチ・軒面厚さ15~17センチで、方形の笠のような形で下部がへこむ。碑身は高さ129センチ・幅69センチ・厚さ62センチの方柱状で上部に低いホゾがあり、この上に笠石が載る。 牛伏砂岩といわれる花崗岩質砂岩を成形し、前面の平らな部分に縦書き6行で80字が丸底彫りされている。台石は第二次大戦後、コンクリート製に造り替えられた。

大意

片岡、緑野、甘楽3郡から300戸をさいて新たに多胡郡を設置せよというもので、建郡の碑である。碑文は6行80文字から成る和文並びの漢文であり、その彫り方は、以前は薬研彫りと考えられていたが、2004年のレーザーによる三次元形状計測の結果、丸底彫りと判明した。書体は丸みを帯びた六朝風の楷書体で古くより名筆として文人墨客に知られており、室町時代の連歌師である宗長や、江戸時代の儒学者である伊藤東涯などの著書にも取り上げられている。18世紀以降に多胡碑の拓本が朝鮮通信使を通して中国に渡り、その書風が評価され、後世の日本の書家にも影響を与えた。

碑文

  • 弁官符上野国片野郡緑野郡甘
  • 良郡并三郡内三百戸郡成給羊
  • 成多胡郡和銅四年三月九日甲寅
  • 宣左中弁正五位下多治比真人
  • 太政官二品穂積親王左太臣正二
  • 位石上尊右太臣正二位藤原尊

釈読

朝廷の弁官局から命令があり上野国片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡の中から三百戸を分けて新たに郡をつくり、羊に支配を任せる。郡の名は多胡郡とすること。和銅四年(711年)三月九日甲寅に命令が伝えられた。左中弁正五位下多治比真人(三宅麻呂)。太政官の二品穂積親王、左太臣正二位石上(麻呂)尊、右太臣正二位藤原(不比等[ふひと])尊。

指定

  • 1954年 特別史跡指定

多胡碑記念館

隣接して多胡碑記念館が建てられる。上野三碑(や日本三古碑の複製・多胡碑の書にかかわる刻石の拓本などを展示する。

アクセス等

  • 名称:多胡碑
  • 所在地:〒370-2107  群馬県高崎市吉井町池1095
  • 交通:吉井駅から徒歩で30分

参考文献

  1. 鬼頭清明(1991)「上野三碑をめぐって」『古代日本金石文の謎』学生社

金井沢碑2023年07月30日 17:23

金井沢碑(かないざわひ)は群馬県高崎市にある奈良時代の石碑である。 山ノ上碑多胡碑とともに上野三碑の一つと言われる。

概要

江戸時代の中ごろに出土した。 奈良時代前半の726年(神亀3年)に三家氏を名乗る豪族が、先祖の供養と一族の繁栄を祈って建てた石碑である。三家氏は、佐野三家を管理し、山上碑を建てた豪族の子孫であると考えられる。碑文から、女性が結婚後も実家の氏の名で呼ばれており、子供達と共に実家の祖先祭祀に参加していることが分かる。碑文に現れる「群馬」は、群馬県内では最古の事例となる。金井沢碑から古代東国での仏教の状況、家族関係、行政制度の実態が分かる。 自分から遡り七世の父母、自分の父母のために供養することは仏教の思想である。「家刀自」は一家家を統括する女性の地位であり、主婦である。知識は「仏教の教え」をいう。「鍛師」は製鉄や金属加工に携わる職人である。 大宝元年(701年)に制定された大宝律令によって定められた国郡里制(国、郡、里の地方編成)、および和銅6年(713年)の好字二字令に基づく地名が文中に認められる。

石碑

高さ110センチ、幅70センチ、厚さ65センチ。硬質の輝石安山岩の自然石を使用し、前面の平らな部分に、縦書き9行で112字が刻まれる。台石にはめこまれ、文はその表面に陰刻される。文字は、古い隷書の特徴が見られる楷書である。薬研彫によって刻られる。

大意

神亀3年2月、七世父母、現在の父母等のために天地に誓願して作る旨を記したものである。

碑文

  • 上野国群馬郡下賛郷高田里
  • 三家子□為七世父母現在父母
  • 現在侍家刀自他田君目頬刀自又児加
  • 那刀自孫物部君午足次蹄刀自次乙蹄
  • 刀自合六口又知識所給人三家毛人
  • 次知万呂鍛師礒部君身麻呂合三口
  • 如是知識結而天地誓願仕奉石文
  • 神亀三年丙寅二月二九日

釈読

上野国群馬郡下賛郷高田里に住む三家子□が、祖先および父母の為に、家刀自(主婦)の立場にある他田君目頬刀自、その子の加那刀自、孫の物部君午足、次の刀自、その子の若刀自の合わせて六人、また既に仏の教えで結ばれた人たちの三家毛人、次の知万呂、鍛師の礒部君身麻呂の合わせて三人が、仏の教えによって祈る石文である。

神亀三(726)年丙寅二月二十九日

指定

  • 1921年(大正10年)3月3日 国の史跡指定
  • 1954年(昭和29年)国の特別史跡に指定

アクセス等

  • 名称:金井沢碑
  • 所在地:〒370-1213  群馬県高崎市山名町金井沢2334
  • 交通:根小屋駅から徒歩で10分

参考文献

  1. 鬼頭清明(1991)「上野三碑をめぐって」『古代日本金石文の謎』学生社

集石遺跡2023年07月30日 19:02

集石遺跡(しゅうせきいせき)は、縄文時代 で検出される多数の石が集まった遺構である。「集石遺構」ともいう。

概要

多くの石(礫)を集約して加熱し、肉などを焼いた調理施設と推定される。集められた石に焼けた痕があることや炭が発見され、高熱によりヒビが入ったり破砕したりしたものが多いことから,石を焼いて蒸し焼きをした施設と考えられる。九州地方や関東地方などで発見例が多く、縄文時代早期(約8000年前)を中心に利用された型式である。 穴を掘っている場合は集石土坑ともいう。現代の日本考古学界や埋蔵文化財の発掘調査現場では、旧石器時代の層位から検出される。

出土例

  • 集石炉 - 鴻の巣遺跡 拳大から人頭大の礫を集め方形に組んだ石組炉の一種である。炉を築く部分に大きな穴を掘ってその中央に炉の床となる大型の平らな石を置く。その周囲に一回り小型で厚みのある角礫を積んで炉の壁を築いています。最後に土で埋め戻して完成する。炉の規模は1辺約50cmである。
  • 集石土坑 - 中谷遺跡、山梨県都留市
  • 集石遺構 - 雀ヶ野遺跡群、 宮崎県都城市

参考文献