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中沢遺跡(草津)2023年07月09日 10:05

中沢遺跡(草津)(なかざわいせき)は滋賀県草津市西渋川から栗東市中沢にある縄文時代から中世までの複合遺跡である。

概要

琵琶湖の南東部の草津市から栗東市にかけて所在する。 葉山川が形成した扇状地先端部に立地する集落遺跡で、草津市と栗東町にまたがる東西約400m、南北約600mの範囲である。

発掘調査

平成23年度から平成24年度にかけて宅地造成工事に伴い実施した遺跡南側の発掘調査を行った。古墳時代前期から中期(4~5世紀)の河川跡を確認した。直線距離で約130mあり、 その動物の骨や植物の種、土器、木製品、石製品が多数が出土した。

石製品

遺物の大半は石製品で、そのうち鍬形石は河川河道の底付近から鍬形石が見つかった。 緑色凝灰岩製で、表面に縞状の葉理が認められる特徴から、北陸産出の石材を使用している。 同じ石材の鍬形石は奈良県と岐阜県に集中する。鍬形石は上半部のみで、高さ8.9cm、幅8.7cm厚さ1.9cmで祭祀に使われたとみられる。鍬形石は首長の権威を表す石製品とされ、集落跡からの出土は奈良県天理市の岩室・平等坊遺跡に続き、全国で2例目である。 石製品に子持勾玉があり、滑石製で、弧状に湾曲した親勾玉の背部と脇部と腹部に子勾玉が付けられている。通常、上部には紐を通すための円形の孔が開けられているが、本例は開いていない。鍬形石などの腕輪型石製品は石川や福井で生産され、陸上または琵琶湖のルートを経て近江を通り、大和(奈良)に運ばれた。北條芳隆・東海大教授は「奈良と同じ石材の鍬形石の出土は、大和政権との結びつきの深さをうかがわせ、北陸、東海と畿内を結ぶルートに位置し、交通の要衝を押さえる近江の勢力の重要性を示している」と語る。

木製品

木製品の出土も多く腰掛や高坏が出土した。規模の大きな前方後円墳からは石や埴輪の腰掛や高坏が出土するので、祭祀に用いられるものとみられる。 腰掛は裾が大きく広がる台形状の脚と台部とが一木で削り出されている。この形態は出土例が少なく、古墳に副葬される石製品や埴輪の椅子に似ている。幅48cm、奥行き23.5cm、欅を用いた一木作り。古墳に副葬される椅子型石製品や埴輪の腰掛に似ている。この地域に有力者が存在していたとみられる。ひじ掛けの丸縁には補修した跡がある。

遺構

遺物

  • 鍬形石、
  • 子持勾玉、
  • 有孔円板、
  • 剣形石製品、
  • 管玉、
  • 臼玉、
  • ガラス小玉、
  • 二重口縁壺、
  • 小型壺、
  • 小型素文鏡、
  • 腰掛、
  • 木製高杯、
  • 円板形木製品、
  • 剣形木製品、
  • 刀形木製品、
  • 舟形木製品

指定

アクセス等

  • 名称:中沢遺跡
  • 所在地: 群馬県草津市渋川二丁目、栗太郡栗東町中沢
  • 交通:

参考文献

  1. 別所健二(1984)「弥生~古墳時代の農業用水路の検出 (草津市西渋川 中沢遺跡)」滋賀文化財だよりNo.83、滋賀県文化財保護協会
  2. 奥田尚(1989)「野洲川下流域の後期弥生土器の砂礫の観察」滋賀文化財だより No141号 大津、滋賀県文化財保護協会

投馬国2023年07月09日 11:45

投馬国

投馬国 (とうまこく、つまこく)は、『魏志倭人伝』に記載された倭国の国のひとつである。邪馬台国の九州説と近畿説とで、比定場所が異なる。

概要
魏志倭人伝では直前の行程である不彌國から投馬国まで「水行20日」を要すると書かれている。投馬国から邪馬台国までは「水行十日 陸行一月」とする。水行とは海岸を伝いに船で移動することをいい、陸行と対比されている。渡海とは海岸の見えない海を渡ることを意味する。

比定場所
投馬国の比定場所には複数あり、定まっていない。 大きく分けると邪馬台国九州説と近畿説とで、大きく異なる。 名前の類似を元にした比定もあるが、根拠が薄いと考えられる。

比定場所の各説                                                                                                                                                      
分類 比定地 主な提唱者 文献
九州説 肥後国託麻郡玉名 新井白石 外国之事調書
九州説 日向国児湯郡妻「都万」 本居宣長 馭戎慨言
九州説 肥後当麻郷」 藤井甚太郎 邪馬台国の所在について
九州説 筑後国 白鳥庫吉 卑弥呼問題の解決
九州説 薩摩国薩摩郡 吉田東吾, 久米邦武 日韓古史談, 日本古代史
九州説 大分県日田郡五馬 富来隆魏志「邪馬台」の新考察史
九州説 豊の国(豊前・豊後) 村上義雄邪馬台国と金印
九州説 五島列島 角田彰男邪馬台国五文字の謎
近畿説 備後国沼隈郡鞆 新井白石古史通或問
近畿説 周防国佐婆郡玉祖郷 内藤虎次郎卑弥呼考
近畿説 備前国「玉の浦」 青木慶一邪馬台の美姫
近畿説 出雲 笠井新也邪馬台国は大和である
近畿説 但馬 山田孝雄狗奴国考
近畿説 備中吉備 西谷正魏志倭人伝の考古学

投馬国(近畿説)の備中吉備比定説
比定場所表に挙げたように、九州説と近畿説とでは、投馬国の比定場所が大きく異なる。 前提として、投馬国に至る水行20日とその後の水行10日合わせると水行30日で、不彌國から邪馬台国までの3分の2の距離にあると考えられる。さらに人口は5万と奴国の2万よりおおく、邪馬台国の7万より少ない。そこで投馬国としては大規模な遺跡が残っている場所が想定できる。考古学者の西谷正氏はそこから投馬国は備中吉備を想定する(西谷正(2009))。中でも弥生時代の遺跡として、上東遺跡:が浮上する。上東遺跡には古代の船着き場の遺構が出土している。出土物から遺構からして3世紀の拠点集落であったと考えられる。上東遺跡からは卜骨、瓦質土器が見つかっており、投馬国であったとしても不思議ではない。

投馬国所在地の前提条件
木下(2023)は投馬国所在地の前提条件として次の4つを挙げる。
1.拠点集落として大集落が存在すること
2.王墓クラスの墳墓が存在すること
3. 王墓にふさわしい特色ある遺物、副葬品が出土すること
4.拠点として引き続き繁栄していること
4番目は伊都国や奴国のような弥生時代から古墳時代まで続く拠点でなければ、魏志倭人伝に書かれないと考えられる。また船が立ち寄れる場所(船着き場)があることが望ましい。 4条件からすると、九州説では近畿説では備中、出雲が有力である。 九州説では筑後川の筑紫平野が主流となっているが、条件2,3を満たすことが難しい。

地名との関連
地名は必ずしも前提条件ではないが、考慮要素にはなる。 備中に「玉嶋」という地名がある。TamaとTumaとは、発音が似る。現在でも岡山県に「玉島」がある。3世紀にも「玉嶋」の地名があったのか、という問題は残る。 備中に「多麻浦」という港があり、これは奈良時代になるが遣唐使の経路になっている。 Tama → Tuma と発音は似る。 また備前には「嶋」、備中に「志麻」の地名があり、古代からある名称である。TumaとSimaとでは発音が異なる。
鳥越説では、吉備国の建国の祖である「御友別」(日本書紀応神天皇廿二年春三月、秋九月辛巳)が登場する。「御」は尊称、「別」は姓なので、友(Tomo)を名前とする。TumaとTomoは発音が似る(参考文献1,pp.99-103)。ただし人名と地名という違いがある。

投馬国(近畿説)の出雲比定説
田中義明は投馬国を出雲に比定する。神庭 、加茂岩倉遺跡など弥生責銅器が 大量に発見されていること、銅剣358本,銅矛 16本,銅鐸 6個が荒神谷遺跡から見つかっている。出雲市西谷丘陵遺跡は弥生後期に出雲平野の村落群を統合した大首長の 墳墓とみられる遺跡であった。距離的にも不彌國から邪馬台国までの間にある。

参考文献
1.鳥越慶三郎(2020)『倭人倭国伝全釈』KADOKAWAM
2.石原道博編訳(1951)『新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店
3.西谷正(2009)『魏志倭人伝の考古学』学生社
4.田中義昭(2000)「古代出雲は投馬国」日本音響学会誌/56 巻2号,pp.129-130