広田遺跡 (種子島) ― 2025年05月15日 00:08
広田遺跡 (種子島)(ひろたいせき)は鹿児島県南種子町にある弥生時代から古墳時代の遺跡である。
概要
弥生時代から古墳時代にかけての種子島では海岸砂丘に墓地が作られた。種子島の南東部の海岸に面する砂丘上にある墓地遺跡である。北側墓群と南側墓群がある。出土遺物から女性のシャーマンまたは女性首長とみられるリーダーがいたとみられる。
調査
広田遺跡は1957年から1959年にかけて国分直一、盛岡尚孝、金関丈夫らにより調査され、特徴的習俗をもつ遺跡として全国から注目された。弥生時代から古墳時代にかけての90個所の埋葬遺構と貝のアクセサリーを持つ人骨157体が確認された。北側墓群で魚・獣骨の貝溜まりと鉄製釣針滑石製石鍋が出土した。 2003年度には広田遺跡学術研究会による調査が行われた。 上層は古墳時代後期、下層の新段階は古墳時代中期、下層の古段階は弥生時代後期後半から古墳時代前期である。 広田遺跡に埋葬された人々は身長が低いことが判明した成人男性で平均154cm、女性で143cmである。同じ頃、北部九州の弥生人は成人男性で平均163cm、女性で152cmであり、10cm前後の差がある。また上顎の側切歯を1本だけ抜歯し、後頭部を扁平にする風習(絶壁頭)があった。 2005年から2006年の調査で2966点に及ぶ貝製の装身具28点のガラス製小玉が出土した。南海産の貝(オオツタノハ製貝輪)を素材とした貝輪、幾何学紋様を掘った貝符、竜佩型貝製垂飾、有孔円盤状貝製品など総数44242点の及ぶ出土品である。下層の貝符は再送された人骨の周囲や上に置かれていた。孔がないものは装飾品ではない副葬品とみられる。貝符の文様は中国古代の青銅器や玉類の施文の爬虫文や饕餮文(とうてつもん)に類似すると国分直一や金関丈夫が指摘した。中国文化の影響があると見られる。新田英治は饕餮文ではなく、龍文であると指摘する。木下尚子は貝符の高い彫刻技術と洗練されたデザインは同時代の日本列島には類例が見当たらず、中国大陸系の文化とみることが適切とした。
遺構
- 土壙墓
- 覆石墓
遺物
弥生時代
- 弥生土器
- 人骨100以上
- 貝製品
- 紡錘車
- 石錐
- 鉄製釣針
- 動物遺存体(獣(骨)
- 貝
- 弥生終末期の甕
- 中津野式土器
- 貝符
- 貝輪
- 竜佩型貝製垂飾
- イモガイ珠
- ガラス小玉
- マクラガイ珠
- ヤコウガイ容器
- ノシ貝珠
- 太型ツノガイ珠
- 細型ツノガイ珠
- 有孔円盤状貝製品
- 孔板状貝製品
- 貝鏃
- 磨製石鏃
考察
展示
- 広田遺跡ミュージアム
指定
所在地等
- 名称: 広田遺跡
- 所在地:鹿児島県熊毛郡南種子町
- 交通:
参考文献
- 鹿児島県南種子町教育委員会(2007)『南種子町埋蔵文化財発掘調査報告書15:広田遺跡』鹿児島県南種子町教育委員会
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