Bing
PVアクセスランキング にほんブログ村

紫香楽宮2025年05月05日 00:24

紫香楽宮(しがらきみや)は奈良時代に聖武天皇が建設を命令し、一時は遷都された宮都である。

概要

741年(天平13年)、聖武天皇は恭仁宮に遷都した。同じ年に諸国に国分寺、国分尼寺の造営の詔勅を出した。742年(天平14年)8月、聖武天皇は近江国甲賀郡紫香楽村に行幸の詔を発し、同時に造離宮司が補任された。聖武天皇は恭仁京(京都府木津川市)の離宮として紫香楽宮を造営を開始した。743年(天平15年)11月の体骨柱(大仏鋳造の内型の芯柱)を立てる式典に際して、天皇自身が綱を引いたと記録される。『続日本紀』天平16年(744年)2月24日、聖武天皇は紫香楽宮に行幸した。紫香楽宮の建設状況の確認があったとみられる。天平16年(744年)、朝廷では難波宮を都にする準備を進めており、2月末には正式に難波を都と宣言した。一方では、紫香楽宮の建設は引き続き進行していた。 翌745年(天平17年)1月になると聖武天皇は紫香楽宮に遷都し、新京として百官朝賀の新年儀式を執り行なった。紫香楽宮は「新京」と呼ばれ、宮殿の門前に立てる大きな楯と槍が立てられた。ところが4月ごろ香楽宮や甲賀寺周辺の山々で大火災が相次いだ。その上、美濃国(岐阜県)で起きた大地震の余震と思われる地震などの災害も起こり、人心の不安が募ったことから、天平17年5月には再び平城京に遷都し、紫香楽宮は無人の地となった。 わずか3ヵ月前後の宮都であった。 数年間に、めまぐるしく「平城京→恭仁京→難波宮→紫香楽宮→平城京」と相次いだ遷都の事情は不明な点が多い。

調査

1923年、考古学者の黒板勝美が現地視察を行い、257個の礎石の配置図を作成した。1926年、内務省により「紫香楽宮跡」は国の特別史跡に指定された。しかし肥後和男は礎石配置が寺院に類似すること、宮殿遺構の礎石にしては多すぎると指摘した。1930年1月6日から9日まで短期間の発掘調査が行われ、経楼跡、鐘楼跡、塔跡、塔院の垣が検出された。東大寺の建物配置に類似すること、山城国分寺跡と同笵瓦が出土することから寺院跡と判明した。現存する礎石遺構が大仏建立のために建立された甲賀寺とするなら、東大寺の規模と比較すると面積は3割弱となり、丘陵全体では東大寺に匹敵するの面積が確保できるが、「国中の銅を尽くし、大山を崩す」という大仏建立の詔の表現に対して、その規模が小さいことが論議の的となる。

1984年に宮町遺跡で発掘調査が行われ、掘立柱、塀の跡の柱穴群、溝などが検出された。信楽町教育委員会の単独発掘調査の第4次調査で、溝から「奈加王」「垂水○」などと記された6点の木簡が発見された。1993年の第13次調査で、四面庇の大型東西建物が検出され、「天平十三年十月」と記される駿河から鰹を貢納する調の付札木簡が出土した。「天○○五年十一月二日」と記された木簡は、『続日本紀』天平十五年10月16日条に紫香楽で盧舎那仏を造仏する詔勅が出され、東海、東山、北陸の三道から貢納する調は紫香楽に運ぶよう命じている。これに対応する調の木簡とみられる。2000年の調査では南北棟の掘立柱の建物が検出され、100mを超える大型建物と判明した。宮町遺跡の中央の南半分に位置し、『続日本紀』天平17年(745年)正月七日条に記載される紫香楽宮の朝堂と見られる。宮町遺跡が紫香楽宮であることは決定的になった。宮町遺跡の一部は、平成17年に史跡紫香楽宮跡に追加指定された。小規模の宮殿と思われていた紫香楽宮が、相当に大規模な宮であったことが明らかになった。正殿と東西脇殿の朝堂区画と、その北方に西建物と東建物を中心とする内裏区画が作られていた。

遺構

  • 掘立柱建物
  • 掘立柱塀1
  • 溝1

遺物

  • 須恵器
  • 土師器
  • 木簡
  • 銭貨
  • 墨書土器
  • 木製品

指定

被葬者

築造時期

展示

アクセス等

  • 名称:紫香楽宮
  • 所在地:滋賀県甲賀市信楽町宮町
  • 交通: 宮町遺跡まで信楽高原鐵道 雲井駅 徒歩45分/紫香楽宮遺跡跡まで信楽高原鐵道 雲井駅 徒歩 15分/雲井駅から雲井国道線(信楽駅?雲井駅・小学校経由)バス 宮町遺跡前まで19分

参考文献

  1. 甲賀市教育委員会(2023)『甲賀市文化財報告書41:史跡紫香楽宮跡(宮町地区)発掘調査報告書』甲賀市教育委員会