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上侍塚古墳2025年06月28日 00:10

上侍塚古墳(かみさむらいづかこふん)は栃木県大田原市にある古墳時代の前方後方墳である。

概要

那珂川の西側段丘上に南北に約800mの距離で2つの古墳が並んでいるが、その南が上侍塚古墳である。上侍塚古墳は那須地域で最大の古墳である。1692年(元禄5年)、水戸光圀の命により発掘された。古墳の築造順としては「上侍塚北古墳→上侍塚古墳→下侍塚古墳」とされる。築造年代は西暦400年頃(古墳時代中期初頭の4世紀末葉)とされる。

調査

墳丘の近くで径30~40㎝の川原石が約200個出土した。これらは墳丘表面の葺石が墳丘に近い部分で転落したと見られる。2021年度の調査で古墳の北・西・南で幅約20mの周溝を確認した。東側では確認できなかった。深さは西側で約2mで、南北に向かって浅くなる。 2022年度の調査(公益財団法人とちぎ未来づくり財団埋蔵文化財センター(2022))では上侍塚古墳の北西側の周溝は幅が広く掘られていることが分かった。地中レーダー探索では、墳丘に段が作られていることが判明し、前方部は2段、後方部は3段と判明した。また後方部墳頂部に掘り込みがあること判明した。2023年のトレンチ調査で古墳を築造する前の地表は標高141.8m前後であり、現在の今の地表より1.6m高かったことが判明した。緩斜面の端では、小形の壷や高坏など多量の細かい破片として出土した。葬儀に使用した土器を意図的に割ったと考えられている。葺石は平坦部ではなく、斜面のみ葺かれていたことが判明した。それまでの想定築造時期(4世紀後半)より古い文様がある土器が出土しており、古墳が造られた時期について調査終了後も検討が必要となった。墳頂部の堀込みは深さ3mにあり、江戸時代(元禄5年)のものである可能性がある。前方部南端は後世の攪乱のため価確認できなかった。後方部の東西幅は約58.6mと判明した。

規模

  • 形状 前方後方墳
  • 墳長 114m
  • 後方部 60.5×58m 高11.5m
  • 前方部 幅52m 長53.5m 高6.5m

遺構

遺物

  • 捩文鏡 仿製鏡
  • 石釧(材質不明)
  • 碧玉製管玉2
  • 鉄刀あり
  • 鉄鉾1
  • 鉄鏃
  • 刀子?
  • 土師器 高杯?

築造時期

  • 西暦400年頃

指定

考察

栃木県では25基の前方後方墳が確認されている。前方後方墳は尾張地域のシンボルであり、上侍塚古墳を築造した人々は尾張出身であったであろう。また土器は東海地方や南関東(神奈川県)の特徴をもつものがあった。東海地方から南関東へ、さらに栃木県に移動した人々がいたことも考えられる。古墳の形状は、4世紀後半より早い段階を思わせる。

展示保管

アクセス等

  • 名称:上侍塚古墳
  • 所在地:栃木県大田原市湯津上
  • 交通:JR西那須野駅から車で約35分

参考文献

  1. 公益財団法人とちぎ未来づくり財団埋蔵文化財センター(2022)『上侍塚古墳』第1回現地説明会資料
  2. 公益財団法人とちぎ未来づくり財団埋蔵文化財センター(2023)『上侍塚古墳』第2回現地説明会資料
  3. 公益財団法人とちぎ未来づくり財団埋蔵文化財センター(2023)『上侍塚古墳』第3回現地説明会資料

上野三碑2025年06月28日 16:14

上野三碑(こうずけさんぴ)は群馬県高崎市にある山ノ上碑・多胡碑・金井沢碑の3つの石碑を総称していう。

概要

飛鳥時代末期から奈良時代初期(7世紀後半から8世紀前半)にかけて、群馬県高崎市南部に建立された山上碑・多胡碑・金井沢碑の3つの碑の総称である。日本国内に現存する古代の石碑は18例のみであり、その中の3例が互いに近接して群馬県に残っていることは珍しい。上野三碑は文化財保護法により、国の特別史跡に指定されている。群馬県の多胡碑、栃木県の那須国造碑、宮城県の多賀城碑は日本三古碑とされている。また山上碑は飛鳥時代の681年に建てられたものであり、完全な形で残っている石碑としては日本最古である。

ユネスコ

10月24日からフランス・パリにおいて「世界の記憶」の登録の可否を審議する国際諮問委員会が開催され、上野三碑の登録が決定された。群馬県では、上野三碑世界記憶遺産登録推進協議会及び高崎市とともに、登録祝賀セレモニーを2017年(平成29年)11月1日(水曜日)に群馬県庁にて開催した。

経過

  • 2014年(平成26年)11月1日 上野三碑世界記憶遺産登録推進協議会発足
  • 2015年(平成27年)9月24日 ユネスコ国内委員会から、岐阜県・八百津町が申請していた「杉原リスト」とともに国内候補に選定される。
  • 2016年(平成28年)5月19日 文部科学省を通じてユネスコへ登録申請書を提出
  • 2017年(平成29年)10月31日、ユネスコ世界の記憶に登録される。

参考文献

  1. 鬼頭清明(1991)「上野三碑をめぐって」『古代日本金石文の謎』学生社

町田久成2025年06月28日 16:47

町田久成(まちだひさなり, 1838年1月27日 - 1897年9月15日)は、旧薩摩藩士、初代の帝国博物館(現在の東京国立博物館)館長である。

概要

薩摩の島津氏門族で薩摩国(鹿児島県)石谷城主町田久長の長男として生まれる。母は吉利郷領主小松清穆の長女・町田国子である。1856年(安政3年)19歳で江戸に出て「昌平坂学問所」で官学・国学を学ぶ。帰藩後の1863年、大目付、藩開成所掛となる。「薩英戦争」では本陣警護隊長として参戦する。部下に東郷平八郎がいる。1864年の「禁門の変」では兵士約600人の六郷隊隊長となる。1865年(慶応1年)、森有礼ら薩摩藩の留学生を率いて渡英する。約2年の滞在でロンドンをはじめ、パリ万博にも赴いた。滞欧中は大英博物館やケンジントン博物館などを見学し、博物館事業の重要性を認識しした。1867年6月に帰国する。1868年、参与職外国事務掛となる。 帰国後は1970年(明治3年)、物産局が設けられたばかりの大学南校に勤め、その後は外国官判事、外務大丞などを歴任する。1871年(明治4年)に「集古館建設の提言」を行う。古器物(文化財)の保護、複製(模写)を建議した。は「明治期における文化財保護の歴史の端緒」を開いたと評価される。久成の提言は、翌月に「古器旧物保存方」の公布として実現した。 1872年、3月湯島聖堂にて「湯島聖堂博覧会」を開催する。ウィーン万博への出品物を披露する。1872年(明治5年)、蜷川式胤、内田正雄や画家高橋由一、写真家横山松三郎らとともに、正倉院をはじめとする社寺の宝物調査のため約4か月間出張する。

1882年3月、東京帝室博物館(後の東京国立博物館)初代館長に就任した。博物局・内山下町(現・日比谷公園)の博物館時代に、東京国立博物館、国立科学博物館、東京都恩賜上野動物園の3館の基礎を作ったことで高く評価されている。1882年10月 東京帝室博物館長を辞職。1883年10月農商省博物局勤務。1885年3月元老院議官となる。この頃、町田の元に岡倉天心、フェノロサが町田の向島小梅の別送に足繁く通う。1889年、12月。元老院議官を辞職する。 1890年(明治23年)、園城寺法明院住職桜井敬徳阿闍梨によって仏門に入り、園城寺(三井寺)末光浄院の住職になった。1896年(明治29年)。病にかかり上京、寛永寺の子院である明王院(現在は廃絶)で療養していたが、翌年病が悪化し1897年9月15日に滞在先の上野公園の韻松亭で世を去る。享年60歳。

顕彰

三井寺では功績に酬いるため町田に権大僧正の僧位を贈った。1912年、東京の帝室博物館(現在の東京国立博物 館本館北側)の庭に顕彰碑として町田久成の銅像が設置される。 墓は、滋賀県大津市の園城寺(三井寺)山内の法明院と東京津梁院墓地(東京都台東区上野桜木1-14-29、明治31年9月)にある。

参考文献

  1. 奈良国立博物館(2008)『正倉院展60回の歩み』奈良国立博物館
  2. 東京国立博物館(1981)『特別展 正倉院宝物』東京国立博物館
  3. 由水常雄(2006)『天皇のものさし』、麗澤大学出版会