旧練兵場遺跡 ― 2025年04月02日 00:06
旧練兵場遺跡(きゅうれんぺいいじょういせき)は香川県善通寺市仙遊町を中心とする縄文時代後期から中世にいたる複合遺跡である。かって「旧練兵場遺跡」、「善通寺西遺跡」、「仙遊遺跡」、「彼ノ宗遺跡」、「仲村廃寺」などの遺跡名で呼ばれていた。
概要
旧練兵場遺跡は,丸亀平野の南西部にある。香川県で最大級の規模と内容を有する弥生時代の集落遺跡である。東西約1km、南北約0.5km範囲にある。集落規模は45万m2に及び、吉野ヶ里遺跡にも匹敵する。 笹川龍一(1988)は彼ノ宗遺跡の調査成果から、善通寺市付近で弥生時代後期前後に住居Ⅲ跡廃絶時に銅鏡片、土玉、ガラス玉、管玉などを用いた祭祀が行われた可能性を示唆した。 また他地域から持ち込まれた土器が出土している、土佐、豊後、筑前、河内、阿波の土器もあるが、特に瀬戸内海沿岸(吉備、防長、伊予、安芸)の土器が多い。 弥生時代から古墳時代まで同じ場所で長期に継続して集落が営まれたため、その間の社会の変化を検討できる遺跡である。銅鏃は約80本が出土し、全国最多である。
調査
旧日本陸軍善通寺練兵場用地が戦後開発された際に確認された遺跡である。周辺の遺跡には弥生時代前期段階として甲山北・乾e永井e稲木の各遺跡で土器が出土し、また五条遺跡・中ノ池遺跡では大規模な環濠を伴う集落遺構が確認されている。弥生時代後期段階になると,遺跡の数や規模が大型化し,平成7年度の本遺跡内での発掘調査からも40棟を超える竪穴住居跡が確認されている。1997年調査では弥生時代中期後半頃から後期終末頃までに埋没した竪穴住居跡15基、掘立柱建物跡3棟,土器棺墓2基以外に,相当数の柱穴跡が重複する状態で検出された。 弥生時代中期末から後期初頭では、竪穴住居1 棟、掘立柱建物6 棟が検出された。このうち、掘立柱建物800 は柱の間隔が450 cmを測る1 間×1 間の大型建物です。 掘立柱建物跡の柱穴は大型であり、高層の建物跡の可能性が指摘された。
記号土器
旧練兵場追跡では、今回の調査で記号土器が4点出土した。香川県下の絵画・記号土器資料は15遺跡54点が知られている。前田東・中村遺跡、久米池南遺跡、太田下・須川遺跡、空港跡地遺跡、上天神遺跡、大空遺跡、などである。住居を建てる際に、後世の地鎮めのように意識的に埋置した可能性が考えられている。叉形記号は水鳥の絵画が記号化した土器もある。
遺構
- 竪穴建物
- 掘立柱建物
- 柱穴
- 土坑
- 溝
- 河川
遺物
- 弥生土器
- 土師器
- 須恵器
- 石器
- 磨製石庖丁
- 石杵
- 石臼
- 小玉
- 臼玉
- 管玉
- 勾玉
- 土玉
- 銅鏃
- 耳環
- 鉄釘
- 鉄鎌
- 把手付鉢
- 銭貨(銅銭)
- 支脚
- 匙形土製品
- 船形土製品
- 把手付鉢
- ミニチュア鉢
展示
- 高知県立埋蔵文化財センター蔵
指定
所在地等
- 名称: 旧練兵場遺跡
- 所在地:香川県善通寺市仙遊町
- 交通:
参考文献
- 香川県教育委員会(1997)「旧練兵場遺跡」
- 善通寺市(2001)「旧練兵場遺跡」市営西仙遊町住宅建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書
- 笹川龍一(1988)『九頭神遺跡発掘調査報告書』 九頭神遺跡発掘調査団・善通寺市教育委員会
泉坂下遺跡 ― 2025年03月31日 00:09
泉坂下遺跡(いずみさかしたいせき)は茨城県常陸太田市にある縄文時代から弥生時代の遺跡である。
概要
茨城県北部を流れる久慈川から西700mほど、標高20~21mの段丘面にあり、丘陵突端から1.5㎞ほど北の位置である。低地との比高差は約1mである。久慈川と玉川の合流する付近、久慈川右岸の低地で、久慈川から一段高い低位段丘に乗る。再葬墓が営まれた泉坂下遺跡は、後世に水田として利用されたため、耕作土が浅く、様々な壺の多くが破壊を免れた。弥生時代中期前葉の再葬墓群で知られる。東西2群、計30基を確認している。 うち1基の墓壙から人面付壺形土器が完形で出土した。人面付壺形土器1点、壺形土器53点、甕形土器残欠2点と、滑石製の玉5点を1括して国の重要文化財に指定された。
調査
前の地権者の自宅敷地内にあったが、その後、水田として整地する際に出土した遺物を、大宮町歴史民俗資料館及び上野小学校に寄贈した。1995年に大宮町歴史民俗資料館が『大宮の考古遺物』の展会を開催して遺物を展示し、同名の図録を発行したことにより、泉坂下遺跡の存在が世に知られた。寄贈された遺物は縄文時代の石器7点,弥生時代の土器2点であった。石器は石棒と石剣の成品または未成品である。弥生時代の壷形土器は「植木の移植の際に出土した」もので,3個体ほどの土器がまとまって出土し,残りの良い1点のみを寄贈したという。器高417㎜,口径142㎜である。2006年1月8日から発掘調査を開始し、その結果,泉坂下遺跡に再葬墓7基が確認された。第1号住居跡から師器坏と甕、須恵器甕の破片等が出土した。竈の構築方法に特異性があった。第1号住居跡の廃絶時期は10世紀前葉と想定された。墓壙は第1~6号の6基,遺構は第1~3号の3基、土壙は第7~9号の3基であった。
人面付壺形土器
第1号墓壙から口縁部から頸部にかけて人面表現のある壷形土器が出土した。口唇部は無文、口縁部に縄文がある。一部は破損しているが、全体が残存する人面付壺形土器としては最大である。立体的な表現が特徴的な優品。出土状況が明確であり、資料的価値は大きい。直径は胴部で38.0cm、高さ77.7cm、口径14.0センチメートル、頸径12.0センチメートル、胴径38.0センチメートル、底径12.5センチメートルである。右目の下や右顎などに赤彩が残るため、顔の部分は赤く塗られていたと考えられる。口縁部を半球形に膨らませ、その部分を頭部に見立て、面長の顔面が表現された大形の人面付きの壺形土器である。
遺構
縄文時代
- 竪穴住居跡1
- 土坑2
弥生時代
- 再葬墓7
- 土坑4
- 溝跡1
遺物
縄文時代
- 竪穴住居跡1
- 土坑2
- 縄文土器
- 土製品
- 石器・石製品
- 骨角製品
- 巨大サメ歯化石
弥生時代
- 弥生土器
展示
- 常陸大宮市歴史民俗資料館 大宮館
指定
- 昭和29年9月15日 国指定重要文化財 茨城県泉坂下遺跡出土品
- 平成29年10月13日 国指定史跡
所在地等
- 名称: 泉坂下遺跡跡
- 所在地:茨城県常陸大宮市泉字坂下918 外21筆
- 交通:
参考文献
- 鈴木素行編(2011)『泉坂下遺跡の研究』
- 常陸大宮市教育委員会(2013)「泉坂下遺跡Ⅱ」茨城県常陸大宮市埋蔵文化財調査報告書第16 集
- 常陸大宮市教育委員会(2014)「泉坂下遺跡Ⅲ」茨城県常陸大宮市埋蔵文化財調査報告書第21 集
上宮田台遺跡 ― 2025年03月30日 00:27
上宮田台遺跡(かみみやただいいせき)は千葉県袖ケ浦市にある縄文時代の遺跡である。
概要
関東南部の槍水川に面した下総台地上の標高約65mに位置する。縄文時代中期末から晩期中葉にかけて作られた環状集落である。住居は縄文時代後期堀ノ内1式から晩期初頭まで継続して営まれている。
調査
2002年から2004年にかけて発掘調査が行われた。竪穴住居跡、遺物包含層が見つかった。縄文時代後期前葉から晩期初頭にかけては、竪穴住居約80棟、土坑約30基、地点貝層1基が環状に配置されていた。縄文時代晩期前葉では集落の中央部分が削られて窪地状になり、その内側に竪穴住居20棟、土坑20基が作られた。立川ローム層はほぼ水平の堆積であるため、窪地は人為的な削平である可能性が高い。集落が途絶えた後、土器、土偶、土版、環状土製円板、耳飾り、ミニュチュア土器、石剣、玉類が残された。人面付土版は縄文時代晩期前葉の安行3b式のもので、目、鼻、口と顔の輪郭が隆帯で描かれる。 縄文早期では押型文土器が出土する。縄文晩期は大洞C2からA式が多量に出土した。東海系土器も出土した。縄文時代晩期中葉ではイノシシ形土製品のほか、在地の安行系及び前補系土器とあわせて、大洞系土器や東海系土器などが多数出土した。 石器は製品のほか石核が特に多い。 土偶は中央窪地を中心に多量に出土し、縄文時代晩期のものが多い。
動物痕跡
脊椎動物は後期の遺構・貝層からイノシシが主体的に出土した。晩期の遺構・包含層はニホンジカが主体となっている。焼かれた獣骨片
遺構
- 中央窪地(晩期遺物包含層)
- 集積遺構
- 竪穴住居跡
- 竪穴状遺構97
- 土坑45
- 溝状遺構2
- 貝層
- 小ピット300
- 集石1
- 溝2
遺物
- 縄文土器(早・中・後・晩期、釣手土器・異形台付土器・手燭形土器)
- 土製品(土偶・動物形土製品・土版・有孔土製円盤・耳飾り)
- 石器
- 石製品
- 石鏃
- 掻器
- 削器
- 石錘
- 石錐
- 石核
- 石剣
- 石棒
- 敲石
- 砥石
- 浮子
- 磨石
- 石斧
- 石皿
- 玉類
- 獣骨
- 敲石
- 土偶
- 動物形土製品
- 土版
- 有孔土製円盤
- 耳飾
指定
所在地等
- 名称: 上宮田台遺跡
- 所在地:千葉県袖ケ浦市上宮田字羽雄190ほか
- 交通:
参考文献
南堀貝塚 ― 2025年03月29日 00:24
南堀貝塚(なんぼりかいづか)は神奈川県横浜市都筑区にある縄文時代前期の遺跡である。
概要
縄文時代の横浜市では、縄文海進により海が内陸に入り込み、鶴見川流域は湾口が広くて水深が浅いため干潟が発達し、貝類を採取しやすい環境にあった。鶴見川や早渕川に海が入り、人々は海で貝を採り、貝殻を斜面などに捨てていた。縄文前期の黒浜・諸磯a期の集落が検出された。
和島誠一の縄文社会論
和島誠一は縄文時代の採取経済では単純協業と初源的分業、乱獲を防ぐ統制力が必要となるが、住居の均一性と集団墓地から階級分化がまだ見られないとした。南堀貝塚の発掘成果を元に、住居群の配置、出入口の方向、中央の共同広場、共同ゴミ捨て場から縄文時代の集落構造を立体的に復元した。
調査
縄文時代の集落の在り方を調査するため1955年(昭和30年)南堀貝塚が調査された。竪穴住居址、落とし穴、炉穴、縄文土器、石器、貝塚、動物の骨、貯蔵穴などが出土した。
遺構
- 落とし穴
- 炉穴
- 竪穴建物
- 土坑
- 落し穴 炉穴
- 竪穴住居址
- 土壙
- 斜面貝層
遺物
- 縄文土器
- 石器
- 貝
- 動物遺存体
指定
アクセス等
- 名称:南堀貝塚
- 所在地:神奈川県横浜市都筑区南山田3丁目40付近
- 交通:横浜市営地下鉄「北山田駅」から徒歩14分/1.0km
参考文献
- 横浜市埋蔵文化財センター(1990)『全遺跡調査概要』港北ニュータウン埋蔵文化財調査報告 10
- 横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター(2008)『港北ニュータウン地域内埋蔵文化財調査報告40:南堀貝塚』横浜市教育委員会
- 和島誠一(1958)「南堀貝塚と原始集落」『横浜市史』資料編21
- 丹羽佑一(1978)「縄文時代中期における集落の空間構成と集団の諸関係」史林 61 (2),pp.274-312
有舌尖頭器 ― 2025年03月26日 00:25

有舌尖頭器(ゆうぜつせんとうき)は裏表の表面を平坦にして、鋭い先端部と茎状の基部をもつ石器である。 「有茎尖頭器」ともいう。
概要
根元の細く厚い部分は茎部として、柄に取りつけやすくしている。差し込み用の逆三角形の出っ張り形状が多い。投てき用の道具は、人類が自然環境の変化に適応するために重要であった。縄文時代草創期の隆起線文土器から爪形文土器までの限られた時期に現れる石器である。舌があることにより、両側に反しができる。反しは、釣り針の先のように、動物に突き刺さった後で容易に抜けないようにする引っ掛ける役割をする。
用途
大型のものは槍先として用い、手で投げる槍の先端に付けた石器で、ナウマンゾウやオオツノジカなどの大型獣の狩猟に使われた。木製の棒に取り付けて槍とし、手で投げたり突いたりして、大型動物の狩りを行った。小型のものは矢として用い、鹿、イノシシなどの狩猟に使われた。北海道から九州まで広く分布するが、九州の出土例は少ない。使用石材は北海道では黒曜石、東北から北陸にかけては硬質頁岩、関東では多様な石材が使われる。中部と西日本ではチャートやサヌカイトが使われる。中部では岐阜県南部から愛知県中央部にかけて多くの有舌尖頭器が出土しいる。
登場時期
通説は舌尖頭器の登場は縄文時代草創期とされている。旧石器時代終末期から縄文時代への移行期に現れたとの見解もある。
出土例
- 有舌尖頭器 加曽利貝塚、千葉県千葉市、縄文時代(草創期)
- 有舌尖頭器 野畑春日町遺跡、大阪府豊中市春日町、旧石器時代から縄文時代の移行期
- 有舌尖頭器 平林遺跡、山梨県南巨摩郡身延町和田地内、縄文時代
参考文献
縄文海進 ― 2025年03月23日 00:50
縄文海進(じょうもんかいしん)は約1万年前から6000年前に海水面が大幅に上昇して陸地が縮小したことをいう。
概要
最盛期の大阪では現在より2mから3m程度海水面が高かった。関東地方では、現在の内陸部にも貝塚が形成された。海進の原因は約6,000年前に北極や南極にあるった厚さ数千メートルの巨大な氷床が溶けて、海水に流入し海水の体積が増えたためである。その頃の海水面は、現在に比べて2~3メートル高かった。海水の量が増えたことにより重みで海底が沈降し、海洋プレートの下にあったマントルが押し出され、大陸プレートの下に移動し、陸地が隆起した。現在のさいたま市内にも奥東京湾(現在の東京湾より奥深い)の一部が入り込んだ。
縄文海進の前の寒冷期
約2万8千~1万9千年前には氷床の量は最大となり、海水面は現在よりも120m~130m低かった。旧石器時代は、かなり寒い気候であり、平均気温は今より7から8度低かった。
参考文献
南堀貝塚 ― 2025年03月18日 00:13
南堀貝塚(なんぼりかいづか)は神奈川県横浜市都筑区にある縄文時代前期の遺跡である。
概要
縄文時代の横浜市では、縄文海進により海が内陸に入り込み、鶴見川流域は湾口が広くて水深が浅いため干潟が発達し、海の貝類を採取しやすい環境にあった。鶴見川や早渕川に海が入り、人々は海で貝を採り、貝殻を斜面などに捨てていた。縄文前期の黒浜・諸磯a期の集落が検出された。
和島誠一の縄文社会論
和島誠一は縄文時代の採取経済では単純協業と初源的分業に伴い、乱獲を防ぐ組織的な統制力が必要となるが、住居の均一性と集団墓地から階級分化はまだ見られないとした。南堀貝塚の発掘成果を元に、住居群の配置、出入口の方向、中央の共同広場、共同ゴミ捨て場から縄文時代の集落構造を立体的に復元した。
調査
縄文時代の集落の在り方を調査するため1955年(昭和30年)南堀貝塚が調査された。竪穴住居址、落とし穴、炉穴、縄文土器、石器、貝塚、動物の骨、貯蔵穴などが出土した。
遺構
- 落とし穴
- 炉穴
- 竪穴建物
- 土坑
- 落し穴
- 炉穴
- 竪穴住居址
- 土壙
- 斜面貝層
遺物
- 縄文土器
- 石器
- 貝
- 動物遺存体
指定
アクセス等
- 名称:南堀貝塚
- 所在地:神奈川県横浜市都筑区南山田3丁目40付近
- 交通:横浜市営地下鉄「北山田駅」から徒歩14分/1.0km
参考文献
- 横浜市埋蔵文化財センター(1990)『全遺跡調査概要』港北ニュータウン埋蔵文化財調査報告 10
- 横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター(2008)『港北ニュータウン地域内埋蔵文化財調査報告40:南堀貝塚』横浜市教育委員会
- 和島誠一(1958)「南堀貝塚と原始集落」『横浜市史』資料編21
最近のコメント