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勝坂式土器2025年08月15日 21:45

勝坂式土器

勝坂式土器(かつざかしきどき)は縄文時代中期に関東地方西部から山梨県、長野県に分布する土器形式である。

概要

勝坂式土器は紀元前4500年から紀元前3000年頃に作られた時代である。器壁が厚いことから鳥居龍蔵により厚手式と呼ばれる土器群とされた。神奈川県相模原市勝坂遺跡出土の土器を標識とする。縄文中期の前半に位置づけれられる。

形式分類

形式や文様構成からⅠ式、Ⅱ式、Ⅲ式に分類される。Ⅰ式(1段階)は結節沈線(半裁竹管などの工具を押し引いて沈線の中に節を創った文様)から横帯文(文様が横方向へ帯状に展開する文様)を多用する。Ⅱ式(2段階)は抽象文(人や動物のような形をした文様)となる。Ⅲ式(3段階)は口縁部を無文とするものと口縁部に文様帯が展開するものである。 粘土紐を貼り付けて造形される立体的な装飾装飾文様や顔面把手(顔を表現した取っ手)、粘土紐を多用する複雑な文様などを特徴とする。

発見

1926年に大山柏が率いる大山史前学研究所が現在の神奈川県相模原市南区磯部の勝坂遺跡での発掘調査により検出した土器群を山内清男は、『縄文土器の細別と大別』で中期初頭の五領ヶ台式と中期後半の加曾利E式の間に「勝坂式」として位置付けた。

出土例

  • 深鉢形土器 - 武蔵多喜窪遺跡、国分寺市西元町一丁目、縄文時代中期前半
  • 深鉢土器 - 下野谷遺跡、西東京市東伏見、縄文時代中期
  • パネル文系の土器 - 市立第五中学校遺跡、東京都三鷹市、パネル文系の土器
  • 丸山遺跡

参考文献

  1. 大山柏(1927)「神奈川縣下新磯村字勝坂遺物包含地調査報告」史前研究會小報1
  2. 山内清男(1967)「勝坂式」日本先史土器図譜第1部

敷石住居2025年08月10日 23:18

敷石住居(しきいしじゅうきょ)は、平たい石を床に敷き詰めた縄文時代の住居である。 「柄鏡形敷石住居」ともいう。

概要

関東地方と中部地方(東京、神奈川、静岡、山梨、長野、群馬)を中心として、縄文時代中期終末期に出現し、後期中葉期に廃絶する。敷石をもたない柄鏡形構造をもつ例も存在する。 特徴は(1)床に石を敷くこと、(2)住居に付属して突出する出入口施設(「張出部」と呼ぶ)をもつことである。敷石は拳大から一抱えもある石である。住居の平面形態は柄の付いた鏡や鍵穴のような形であり、住居の出入口となる。囲炉裏を中心に平板石をきれいに敷き詰める事例がある。

累積寄与率

「柄鏡形敷石住居」は1924年(大正13年)10月、東京府南多摩郡南村(現・東京都町田)高ヶ坂字坂下の地の牢場遺跡で初めて発見された。川島義一(2023)による多重対応分析(カテゴリカル変数に対する主成分分析)では第一主成分であるDim1と第二主成分であるDim2の寄与率の合計値(累積寄与率)は26.7%と非常に低い結果となっている。川島義一(2023)は「柄鏡形敷石住居」は加曾利EⅢ(新)式期に突然出現したものではなく、それまでの多様な遺構属性の組み合わせを引き継ぎ、そこに張出部を設け、敷石・周礫を施したものと考えるべきであると指摘した。 従来の柄鏡形住居址の分類とは異なっており、川島義一(2023)は累積寄与率を用いて新たな視点を提供した。

住居内の暮らし

一見して敷石住居には床にゴロゴロと石があるので、暮らしにくいようにみえる。しかし、じつは住みにくくはないようだ。住居内に石を敷く目的は、地面からの湿気を防ぎ、冬の凍結や湿気を防ぎ、ぬかるみを抑えることにあった。丸石(川原石など)が多く、石の間に隙間が空くため、そこに泥や小石、敷物を置くことができた。

寝るときは植物素材の敷物を敷いていた。

乾かわしたヨシやスゲ、カヤなどの植物を厚く敷き詰めると、クッション性と保温性を確保でき、寝ることができる。石に直接触れると冷たいので、厚手の敷物は必須であった。

シカや猪、熊の皮を使う

シカやイノシシの皮は断熱効果が高いので、冬の寝具(掛け布団)となる。

害虫からの防御

石床は土の床より水はけがよく、腐敗や害虫の発生、侵入を防げる。

敷物を使用した証拠

縄文時代に敷物を使った証拠は、土器の底部についた敷物圧痕である。縄文時代の下宅部遺跡では219 点の資料のうち敷物圧痕は119 点にみられた(真邉彩(2014))。編物底(117 点)では広義のござ目編みが最も多く,次いで網代編みとなるように,基本的に2種類に限定されている。素材の候補としてイネ科タケ亜科の割り裂き材である可能性が指摘されている。

敷石住居の事例

  • 牢場遺跡 町田市、縄文時代後期
  • 中山敷石住居跡 群馬県吾妻郡高山、縄文時代の中期後半から後期前
  • 柴原A遺跡 福島県三春町柴原字柴原、縄文時代の中期から後期

参考文献

  1. 山本暉久(2017)「柄鏡形(敷石)住居址研究の五〇年」昭和女子大学文化史研究 20号, pp.1-3
  2. 川島義一(2023)「鏡形住居の出現期の再検討:地域の遺跡群研究の視点から」國學院大學大学院紀要 48,pp.193-210
  3. 真邉彩(2014)「下宅部遺跡における縄文土器の敷物圧痕分析」国立歴史民俗博物館研究報告 第187 集

勝坂遺跡2025年08月08日 00:10

勝坂遺跡(かつさかいせき)は神奈川県相模原市南区にある縄文時代中期の集落跡である。

概要

勝坂遺跡は相模川の東岸沿いに走る標高70mの相模原台地の西縁端に位置する縄文時代中期の集落跡である。遺跡の東北は小高い丘陵であり、西側は急傾斜の崖であり、相模川の沖積地に接する。遺跡中央部は豊かな湧水がある小谷が入り込み、東側にA地点、西側にB地点、C地点、D地点の合計4個所で遺構と遺物が発掘された。全体は馬蹄形である。 遺跡は都市公園「史跡勝坂遺跡公園」として整備保存されている。公園内の管理棟では勝坂遺跡出土品やパネルの展示を行う。

発掘調査

考古学者の大山柏が1926年(大正15年)に発掘すると、11 個の土器や顔面取手を含む土器破片 593 個と、53 個の打製石斧を検出した。遺跡の西側で縄文時代草創期の住居跡遺構と石器及び土器が検出された。土器は古い特徴が見られる。敷石住居は縄文時代草創期から500年後の遺跡である。

勝坂式土器

大山柏が発掘したA地点の土器は装飾的な文様、他の縄文土器より文様が立体的である、顔面把手などの特徴から、後に山内清夫により「勝坂式」土器と名付けられ、縄文時代中期(約 4500年前)の標式土器となった。縄文時代中期中葉に横浜市域を含めた関東地方南西部に広く分布しており、この時代の遺跡からは類似の文様が描かれた土器片が大量に見つかる。同時に発見された多くの打製石斧を、土を掘る道具と考えた原始農耕論が提唱された。実際は土掘り道具であり、山芋や球根を取って食べたと推測されている。

遺構

  • 敷石住居1
  • 土器集中1
  • 集石
  • 竪穴建物
  • 土坑
  • 配石4+
  • 炉3
  • 屋外埋甕

遺物

  • 縄文土器(無文)
  • 縄文土器
  • 石器
  • 黒曜石
  • 打製石斧
  • 石匙
  • 磨石
  • 凹石
  • 石皿
  • 石錘
  • 石棒

指定

  • 1974年(昭和49年) 7 月 2 日、国指定史跡
  • 1980年(昭和55年)10月22日(追加指定)- 勝坂遺跡D区
  • 1984年(昭和59年)1月11日(追加指定)- 勝坂遺跡D区
  • 2006年(平成18年)1月26日(追加指定)- 勝坂遺跡A区
  • 2019年(令和元年)10月16日(追加指定)- 勝坂遺跡A区

展示

  • 旧石器ハテナ館
  • 相模原市立博物館

所在地等

  • 名称:勝坂遺跡
  • 所在地:〒252-0327  神奈川県相模原市南区磯部1780
  • 交通:JR下溝駅 徒歩 20分

参考文献

  1. 相模原市教育委員会(1993)『相模原市埋蔵文化財調査報告18:埋蔵文化財発掘調査概報集』相模原市教育委員会
  2. 相模原市教育委員会(2018)『国指定史跡勝坂遺跡総括報告書』相模原市教育委員会編

古代の動物2025年08月05日 15:39

古代の動物(こだいしのどうぶつ)は古代史に現れる動物である。

概要

古代にどのような動物がいたかは、完全には解明されていないが、時代により生息していた動物が異なる。気候の大幅な変動で植物相と気温が変わり、動物も変わったと思われる。

旧石器時代

旧石器時代にはナウマン象やマンモス(北海道)、ヘラジカ、オオツノジカがいたことは化石で証明されている。旧石器時代には本州にもヒグマがいた。ヘラジカは寒冷地に住む動物で、北海道と本州に生息していた。

縄文時代

縄文時代ではイノシシ、シカ、ウサギ、タヌキ、クマ、イヌがいた。縄文人は弓矢や落とし穴を使って、シカやイノシシなどの動物を捕獲していた。犬は縄文時代から現れる。縄文犬と呼ばれる。縄文時代になると大型動物は絶滅した。 陸上で暮らす哺乳類の中で、最も多く食べられたのは鹿と猪である。東北から九州にかけてすべての遺跡で骨が出土する。西日本ではイノシシ、東日本ではシカの割合が高い傾向がある。ほとんどの遺跡で鹿と猪の骨が占める割合は5割を超えている。縄文時代にはイノシシの土偶が数十例出土しているのに対して,シカの土偶は非常に少ない。 三内丸山遺跡ではムササビと兎が陸獣の大部分を占める。鹿と猪が長期間の捕獲により局地的に枯渇したと考えられる。 海獣の利用は地域差が大きい。オットセイ、アシカ、トド、クジラ、ジュゴンなどである。クジラは大型のものは少なく、ゴンドウクジラ、イルカが多い。縄文時代の家畜はイヌだけであって、イヌは主として狩猟用であった。

弥生時代

シカ、イノシシ、イヌ、シカ、イノシシ、イヌ、鴨、雉などがいた。 魏志倭人伝 (三国志 魏志東夷伝倭人条)によると「其地無牛馬虎豹羊鵲」(その地には牛、馬、虎、豹、羊、鵲なし)と書かれている。虎、豹、羊はいなかった。牛は五島遺跡(大浜遺跡)から牛の骨が出土しているので、弥生時代に牛がいた証拠となる。また阿良貝塚からは小型の牛の骨が出土している。西本豊弘(1994)によれば、弥生時代の拠点集落においては家畜豚60%、野生猪20%、鹿20%の割合であった。 馬はいなかったようである。鹿と猪は縄文時代から引き続き日本列島に生息していた。弥生時代は農業が本格的に行われ、農耕中心で、狩猟は農作業の繁忙期以外に片手間で行われようになった。また家畜の肉を食べるようになった。イヌとブタが肉を食べるための家畜となった。西日本の弥生遺跡では豚が多量に食べられた。 弥生犬は縄文犬よりサイズが大きい。縄文時代のイヌは埋葬されたが,弥生時代のイヌは埋葬されていない。

古墳時代

古墳時代から家畜の牛や馬が出土するようになる。運搬用の家畜、農耕用の家畜、軍事用の家畜として利用された。死んだ家畜が食べられることもあった。犬は弥生時代以降、継続して食べられていた。

参考文献

  1. 森浩一(1992)『人と動物の物語1 日本古代の牛をめぐつて』同志社時報,pp.148-150
  2. 西本豊弘(2010)『事典・人と動物の考古学』吉川弘文館
  3. 西本豊弘(1995)「縄文人と弥生人の動物観」国立歴史民俗博物館研究報告,巻 61,pp.73-86
  4. 西本豊弘(1991)「弥生時代のブタについて」国立歴史民俗博物館研究報告,巻 36,pp. 175-194
  5. 西本豊弘(1993)「弥生時代のブタの形質について」国立歴史民俗博物館研究報告、巻50, pp.1-15
  6. 西本豊弘(2003)「縄文時代のブタ飼育について」国立歴史民俗博物館研究報告、巻108, pp.49-70
  7. 石神裕之(1999)「古代文芸と鹿・猪の意識について: 考古学的視点を織りまぜて」三田国文、No30,pp.14-30
  8. 愛知朝日遺跡ミュージアム(2022)「弥生人といきもの2022」企画展パンフレット

堀之内貝塚2025年07月30日 00:10

堀之内貝塚(ほりのうちかいづか)は千葉県市川市にある縄文時代の集落遺跡である。

概要

関東平野を流れる江戸川の東約2.5km水戸街道と千葉街道の中間に堀之内貝塚がある。北に長い台地の先端にある馬蹄形の貝塚で、規模は長径230m、短径120mである。 縄文時代後期初頭の堀之内式土器(Ⅰ式、Ⅱ式)の基準になる標識遺跡である。堀之内1式は縄文を施して太い線で文様を描いたものである。堀之内2式は細い線の間に縄文を施して文様を描いている。東方約400mに縄文時代中期末から後期前葉の権現原貝塚の集落跡がある。近接しているので、関連があると見られる。南側に道免き谷津遺跡が発掘され、台地直下の低地から木組遺構と大量のトチの実が発見された。堀之内貝塚のアク抜き施設とみられる。 貝塚の東側隣接地に市立市川考古博物館がある。

調査

1904年(明治37年)10月16日、東京人類学会が堀之内貝塚の発掘を行った。日本で初めて全身骨格が揃った埋葬人骨が発見された。1954年(昭和29年)に、日本人類学会創立70周年記念事業の一環として、早稲田大学・慶応大学・明治大学による発掘がおこなわれ、貝塚の測量図が作成された。竪穴建物跡6軒、人骨13体が発見されている。竪穴建物跡は少ない。貝塚を構成する貝類は、後期前半はハマグリとイボキサゴが主体を占めるが、晩期にはハマグリとオキシジミが主体となる。縄文海退の影響とみられる。縄文時代の人々はアサリ、ハマグリ、イボキサゴ、クロダイ、スズキ、イノシシ、ニホンジカなどを捕食していたと見られる。

遺構

  • 馬蹄形貝塚
  • 馬蹄形貝塚

遺物

  • 縄文土器
    • 称名寺式
    • 掘之内1式
    • 堀之内2式
    • 加曽利B1式
    • 安行2式
    • 安行3a式
    • 安行3c式
    • 大洞B式
    • 大洞C式+大洞C1式)
  • ミニチュア土器
  • 土偶
  • 土版
  • 有孔土製円盤
  • 土製耳飾
  • 有溝土錘
  • 石鏃
  • 磨製石斧
  • 打製石斧
  • 浮子凹石
  • 磨石
  • 冠状石製品
  • 硬玉製大珠
  • 貝輪
  • 骨製針
  • 牙錘
  • 鹿角製ソケット
  • 動物遺存体
    • 貝 - ウミニナ、イボキサゴ、ハマグリ)
  • 魚類
    • ドチザメ
    • イワシ
    • ボラ
    • マアジ
    • スズキ
    • へダイ
    • クロダイ
    • マフグ
    • コチウシノシタ)
  • ウミガメ
  • 獣骨
    • キジ
    • イノシシ
    • ニホンジカ
    • アナグマ
    • ニホンイヌ
    • ノウサギ
    • アカネズミ
    • サル

指定

  • 1964年(昭和39年) 国指定史跡
  • 1967年(昭和42年) 追加指定
  • 1972年(昭和47年) 追加指定

展示

  • 市立市川考古博物館

考察

アクセス等

  • 名称: 堀之内貝塚
  • 所在地:千葉県市川市堀之内2丁目15番
  • 交通: 北総線 北国分駅から徒歩10分(850m)/千葉県市川市堀之内2-15

参考文献

下太田貝塚2025年07月24日 00:10

下太田貝塚(しもおおだかいづか)は千葉県茂原市にある縄文時代の遺跡である。

概要

房総半島は平坦な台地と丘陵、埋没谷で構成されている。下太田貝塚は房総丘陵の北東端に近い埋没谷に作られた低湿地遺跡である。縄文時代中期中葉から縄文時代晩期後葉にかけて営まれた遺跡である。縄文時代中期後葉から後期後葉に掛けては墓域が形成された。3時期の墓域が一時的に重なりながら、環状に埋葬した。人のほかイノシシやイヌの幼獣の埋葬も見られる。出土した高さ38cmの土器棺には2体以上の乳幼児骨が入っていた。 縄文時代中期から後期にかけての集団埋葬墓地から人骨が300体以上が出土した。土器、石器、勾玉、土偶、猪牙形ペンダント、鹿角製ペンダント、サメ椎骨製ペンダントなど多くの遺物が発掘された。

縄文時代の身分差

埋葬方法により縄文時代に身分差があったことを推測させる。男女数の差はほとんどなかった。多数遺骸集積土坑では2m前後の楕円形の土坑中に数十人文の遺体をまとめて埋葬する。乳幼児を含めて埋葬する。単独・単葬土坑では長楕円形の土坑中に1体づつ埋葬し、乳幼児は含まれない。明らかに埋葬時の取り扱いが異なっている。 単独・単葬例中に堀之内1 式から加曽利B3 式期までの人骨が含まれる。多数遺骸集積土坑には堀之内2 式から加曽利B1 式期までの人骨が含まれる。山田康弘(2018)は 縄文時代の後半期には集団関係の再構築や集団統合・紐帯強化のための手段として、人骨および墓の利用墓を集団の「記念墓」、「モニュメント」にしていると指摘した。

調査

遺構

  • 竪穴状遺構
  • 土坑
  • 土器包含層
  • 墓壙
  • 自然流路
  • ピット群
  • 貝層

遺物

  • 縄文土器(中期+後期+晩期)
  • 土製品
  • 石器
  • 骨角器
  • 石製品
  • 木製品
  • 人骨
  • 獣骨

指定

  • 昭和48年1月10日 茂原市指定文化
  • 平成10年10月1日 茂原市指定文化財

展示

考察

アクセス等

  • 名称: 下太田貝塚
  • 所在地:千葉県茂原市下太田1045-2
  • 交通:

参考文献

  1. 総南文化財センター(2003)『総南文化財センター調査報告50:千葉県茂原市下太田貝塚』千葉県茂原土地改良事務所
  2. 山田康弘(2018)「「モニュメント」としての多数合葬・複葬例再考」国立歴史民俗博物館研究報告 第208 集

新田Ⅱ遺跡2025年07月16日 00:24

新田Ⅱ遺跡(しんでんにいせき)は岩手県遠野市にある縄文時代の遺跡である。

概要

新田Ⅱ遺跡は岩手県遠野市街地から西へ約4kmに位置する。新田Ⅱ遺跡のある新田集落は猿ヶ石川の左岸(南岸)に形成された河成段丘面および山麓緩斜面に立地し、それらの地形面を開いて流れる新田沢の谷底低地の標高250mの地点である。 縄文時代前期集落は20棟の住居跡、墓孔の可能性が高い土坑、貯蔵穴、道路跡、石列を伴う溝跡、広場からなる。中央の広場を囲うように住居が配置され、住居には貯蔵穴が作られる。 本遺跡の特徴は、1棟の小型住居を除き、幅4.5mから6m、長さ8mから14mの大型住居が主体である。特に3号住居は幅6m、長さ12.5mの大型住居として、新田Ⅱ遺跡では最大である。 大型住居が主体となる集落は大平洋側の遺跡では珍しい。多人数での共同作業などに使用されたと見られる。 住居の間や広場に土坑が存在し、集落は環状あるいは馬蹄形を呈していた。定住生活を生業として支えたのは、石錘、磨石などを使う堅果類の調理や川魚などの捕獲であった。

調査

縄文時代の川が発見されており、そこから大量の土器をはじめ食べかすのトチノミやクルミが出土している。中でも縄文時代のクルミなどが水の作用で状態が良いまま見つかることは非常に珍しく、新田沢沿いで営まれた縄文人の生活を知る手がかりになる。 縄文時代前期初頭から晩期末葉の新田沢の変遷が確認され、沢岸から捨て場や堅果類(クルミ・トチノキ・クリ)の堅果類集中が多数検出された。堅果類は、地下水位が高いため腐食せずに残りそのまま出土した。検出した遺構は、東区が竪穴住居跡1棟・土坑1基・ピット11 個、西区が沢跡7期・土器設置遺構2基・土器集積遺構1基・堅果類集中範囲多数・礫群2基・焼土遺構1基・ピット2個・溝跡9条であった。縄文時代中期中葉の住居から出土した土器を編年に当てはめると、ⅡA類は主に大木8a式新段階に相当し、ⅡB類は大木8b式中~新段階に相当すると見られる。

放射性炭素年代測定(AMS測定)

黒色から出土した種実、土器付着炭化物、建築部材(木片)、自然樹木などについてAMS測定を行った。14C年代は黒色土出土の種実は2450 ±30yrBP、土器付着炭化物は2660 ±30yrBP、暦年較正年代(1σ)は(1)744 ~ 417cal BC、(2)792 ~596cal BC、(3)793 ~ 597cal (4)BC1438 ~ 1393cal BC、(5)825 ~ 801cal BC、(6)3339 ~ 3114cal BC、(7)1371 ~ 1222cal BC、(8)2429 ~ 2211cal BCであった。(1)、(2)、(3)は縄文時代晩期後半から弥生時代への移行期にあたると見られる。(4)は縄文時代後期後葉、(5)は縄文時代晩期中葉、(6)は縄文時代中期前葉、(7)は縄文時代後期後葉から晩期初頭、(8)は縄文時代後期初頭とされる。幅広い年代が示されている。(7)は、土器で調理された海産物が焦げ付いたものである場合は海洋リザーバー効果により古い年代と見積もられる可能性が指摘されている。

遺構

  • 竪穴住居跡
  • 土坑
  • 焼土遺構
  • 土器集積遺構
  • 土器設置遺構
  • 礫群
  • 沢跡
  • 柱穴状ピット
  • 堅果類集中範囲

遺物

  • 縄文土器(前期初頭 中期中葉~末葉 後期初頭~中葉 晩期中葉~末葉)
  • 土製品(土偶)
  • 垂飾
  • 耳飾土版
  • 球状
  • 土錘
  • 円盤
  • 焼成粘土塊
  • 剥片石器
  • 礫石器
  • 石棒
  • 昆虫
  • 焼骨
  • 堅果類
  • 木葉
  • 樹木

指定

展示

考察

環状または馬蹄形の集落は縄文時代ではよく見られる。中央の広場では何らかの祭祀が行われたであろう。それを裏付けるのが長さ14.3cmのカツオブシ形石製品、長さ56.5cmの長大な石棒である。異形石器は三角形のような形で朱が塗られている。中央の広場は、共同作業や集団での儀式、葬送儀礼葬などに使われたようであり、集落にとって重要な場所とみられる。 大型の壺は胴部中央に最大径があり、口縁部を欠いているが50.9㎝(残存高)以上の器高のある大形土器である。曲線を多用する文様に特徴がある。

アクセス等

  • 名称 : 新田Ⅱ遺跡
  • 所在地: 岩手県遠野市綾織町下綾織31地割147-1地内
  • 交通 :

参考文献

  1. 岩手県文化振興事業団(2014)「新田Ⅱ遺跡発掘調査報告書」岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書第622集