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泉坂下遺跡2025年03月31日 00:09

泉坂下遺跡(いずみさかしたいせき)は茨城県常陸太田市にある縄文時代から弥生時代の遺跡である。

概要

茨城県北部を流れる久慈川から西700mほど、標高20~21mの段丘面にあり、丘陵突端から1.5㎞ほど北の位置である。低地との比高差は約1mである。久慈川と玉川の合流する付近、久慈川右岸の低地で、久慈川から一段高い低位段丘に乗る。再葬墓が営まれた泉坂下遺跡は、後世に水田として利用されたため、耕作土が浅く、様々な壺の多くが破壊を免れた。弥生時代中期前葉の再葬墓群で知られる。東西2群、計30基を確認している。 うち1基の墓壙から人面付壺形土器が完形で出土した。人面付壺形土器1点、壺形土器53点、甕形土器残欠2点と、滑石製の玉5点を1括して国の重要文化財に指定された。

調査

前の地権者の自宅敷地内にあったが、その後、水田として整地する際に出土した遺物を、大宮町歴史民俗資料館及び上野小学校に寄贈した。1995年に大宮町歴史民俗資料館が『大宮の考古遺物』の展会を開催して遺物を展示し、同名の図録を発行したことにより、泉坂下遺跡の存在が世に知られた。寄贈された遺物は縄文時代の石器7点,弥生時代の土器2点であった。石器は石棒と石剣の成品または未成品である。弥生時代の壷形土器は「植木の移植の際に出土した」もので,3個体ほどの土器がまとまって出土し,残りの良い1点のみを寄贈したという。器高417㎜,口径142㎜である。2006年1月8日から発掘調査を開始し、その結果,泉坂下遺跡に再葬墓7基が確認された。第1号住居跡から師器坏と甕、須恵器甕の破片等が出土した。竈の構築方法に特異性があった。第1号住居跡の廃絶時期は10世紀前葉と想定された。墓壙は第1~6号の6基,遺構は第1~3号の3基、土壙は第7~9号の3基であった。

人面付壺形土器

第1号墓壙から口縁部から頸部にかけて人面表現のある壷形土器が出土した。口唇部は無文、口縁部に縄文がある。一部は破損しているが、全体が残存する人面付壺形土器としては最大である。立体的な表現が特徴的な優品。出土状況が明確であり、資料的価値は大きい。直径は胴部で38.0cm、高さ77.7cm、口径14.0センチメートル、頸径12.0センチメートル、胴径38.0センチメートル、底径12.5センチメートルである。右目の下や右顎などに赤彩が残るため、顔の部分は赤く塗られていたと考えられる。口縁部を半球形に膨らませ、その部分を頭部に見立て、面長の顔面が表現された大形の人面付きの壺形土器である。

遺構

縄文時代

  • 竪穴住居跡1
  • 土坑2

弥生時代

  • 再葬墓7
  • 土坑4
  • 溝跡1

遺物

縄文時代

  • 竪穴住居跡1
  • 土坑2
  • 縄文土器
  • 土製品
  • 石器・石製品
  • 骨角製品
  • 巨大サメ歯化石

弥生時代

  • 弥生土器

展示

  • 常陸大宮市歴史民俗資料館 大宮館

指定

  • 昭和29年9月15日 国指定重要文化財 茨城県泉坂下遺跡出土品
  • 平成29年10月13日 国指定史跡

所在地等

  • 名称: 泉坂下遺跡跡
  • 所在地:茨城県常陸大宮市泉字坂下918 外21筆
  • 交通:

参考文献

  1. 鈴木素行編(2011)『泉坂下遺跡の研究』
  2. 常陸大宮市教育委員会(2013)「泉坂下遺跡Ⅱ」茨城県常陸大宮市埋蔵文化財調査報告書第16 集
  3. 常陸大宮市教育委員会(2014)「泉坂下遺跡Ⅲ」茨城県常陸大宮市埋蔵文化財調査報告書第21 集

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