高句麗 ― 2023年10月19日 00:43
高句麗(こうくり.고구려)は古代に中国東北部、朝鮮半島北部に勢力を築いた民族と国家である。別名を貊(はく)と言う。日本では「高麗」「貊(狛)」を「こま」と読む。
概要
古代の朝鮮の三国時代に、中国東北地方から朝鮮半島にかけて支配した強国であった。最盛期には中国東北部南部から、ロシア沿海地方の一部、朝鮮半島の大部分を支配した。 本来の国名は高句麗であるが、金石文と歴史記録をもとにして長寿王の時代に「高麗」と改称したとされる。韓国の英文国号の「コリア」も高麗に由来する。道教、仏教、律令、太学などの制度を導入し、体系的な制度を整備して国家を運営した。民衆は君主を「天帝之子」(천제지자)と呼んだ。
歴史
最も古い記録は『漢書』「地理志」に玄菟郡の首県として高句驪県が言及されているもので、玄菟郡の設置は前漢の武帝の時代、前107年であった。 部族連合国家の高句麗は、後漢末に遼東の太守公孫氏に追われ、209年、鴨緑江流域に移り、その北岸に丸都城を築いた。これが実質的な建国となる。 中国東北部から朝鮮半島北部にかけて活動していたツングース系の貊人が鴨緑江流域に建国したとされる。順次領土を拡大し、 高句麗の第15代美川王は遼東郡に出兵し、さらに313年に楽浪郡を滅ぼし、翌314年には帯方郡も攻略した。馬韓は百済が統一し、辰韓は新羅が統一した。4世紀後半からの朝鮮半島は百済、新羅、高句麗の三国時代に移行した。 4世紀の第19代広開土王(在位394~412年)のとき、最盛期を迎える。396年には百済と朝鮮半島に進出した倭人(倭国)と戦い。これを破った。その他、周辺に盛んに遠征して領土を広げ、その勝利を記念する石碑である広開土王碑が次の長寿王により首都丸都城付近に建てられた。嬰陽王(在位:590年-618年)の時代に隋は611年、613年、614年の3回に亘り、高句麗への遠征を行ったが、これを制圧することはできなかった。 高句麗の第28代・最後の王の宝蔵王(在位642年 - 668年)は中国の隋・唐の侵攻に強く抵抗したが、668年の第3次侵攻で平壌長安城を落とされ、唐に滅ぼされた。
仏教
高句麗の小獣林王(在位371~384年)は国力の充実を図った。372年、華北を統一支配していた前秦(五胡の一つ氐が建国した)の苻堅は高句麗に僧順道や仏像・経典を高句麗に送り、これが朝鮮仏教の始まりとなった。
参考文献
流雲文 ― 2023年10月19日 19:02
流雲文(りゅううんもん)はゆっくりと空にたなびく雲を文様化したものである。 「飛雲文」ともいう。
概要
中国では雲のかたちや色で吉兆を占っていた。日本に伝わり、雲が文様として描かれた。 銅鏡、画像石また他の器物の縁飾として盛んに使用された。 流れるような曲線が連続進行し、規則的に展開していく文様である。
出土例
- 流雲文 - 変形方格規矩鏡、奈良県奈良市、佐紀陵山古墳、4世紀末から5世紀前半
- 流雲文 - 冠、宮地嶽古墳、福岡県福津市、7世紀前半
参考文献
武庫泊 ― 2023年10月19日 20:09
武庫泊(むこのとまり)は兵庫県武庫川河口付近にあった古代の海港とされる。
概要
兵庫県西宮市付近と言われる。輪田の泊(現在の神戸港)とする説もある。 武庫川河口付近は古代より武庫泊、武庫津、武庫浦などと呼ばれている。
語源
- (1)向こう説
- 大阪湾をはさみ難波津の対岸にあたるので「向こう」が武庫の語源といわれる。
- (2) 兵器庫説
- 奈良時代に「務古」、「牟故」、「六児」、「武庫」などと書かれ、「日本書紀」の「各国・各郡に兵庫を作らせる」から兵器庫があったため武庫となったとする説
- (3) 六甲からの変化説
- 「摂津風土記」の神功皇后伝承を引用して、武器や六個の甲を埋めたため六甲(むこ)と呼ばれたとするものもある
万葉集
- (巻三(283))住吉の得名津に立ちて見渡せば 武庫の泊ゆ出づる船人
- (詠み人)高市連黒人が旅先で詠んだ一首。
- (大意)住吉の得名津に立って見渡すと、武庫の港から出航してゆく船人がみえる
日本書紀
- 日本書紀 巻第廿五 孝德天皇
- (原文 三年) 十二月晦、天皇還自温湯而停武庫行宮武庫、地名也。是日、災皇太子宮。時人、大驚怪。
- (大意)12月の晦日に天皇は有馬温泉から帰り、武庫の仮宮に泊まる。この日、皇太子の宮が火災となり人々は驚いた。
- 日本書紀 卷第卅 持統天皇
- (原文 三年)丙申、禁斷漁獵於攝津國武庫海一千步內・紀伊國阿提郡那耆野二萬頃・伊賀國伊賀郡身野二萬頃、置守護人、准河內國大鳥郡高脚海。
参考文献
八角墳 ― 2023年10月19日 23:13
八角墳(はっかくふん)は古墳時代の末期に作られた八角形の古墳である。
概要
八角墳は森浩一の提唱によれば最終末古墳に含まれる。発見例は十基程度である。広い意味での中国政治思想の八角形が天下八方の支配者にふさわしいという思想の影響が考えられている。舒明天皇の墓から開始されたと考えられ、ヤマト大王の墓に固有の陵墓形との説があるが、奈良県だけではなく東京都多摩市の稲荷塚古墳をはじめ東日本など各地で少数ではあるが確認されていることから、即位した大王だけの形式という解釈には異論がある。
出土例
- 段ノ塚古墳 奈良県桜井市
- 御廟野古墳 京都市
- 野口王墓古墳 奈良県高市郡明日香村
- 中尾山古墳 奈良県明日香村
- 束明神古墳 奈良県高市郡高取町 、未定
- 岩屋山古墳 方形墳のう上に八角形の墳丘を営んでいた可能性
- 稲荷塚古墳 東京都多摩市百草
- 三津屋古墳 群馬県北群馬郡吉岡町・7世紀前半
- 経塚古墳:山梨県笛吹市(旧一宮町)
- 伊勢塚古墳:群馬県藤岡市・6世紀前半
- 中山荘園古墳:兵庫県宝塚市
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