甕棺墓 ― 2025年01月06日 00:20

甕棺墓(かめかんぼ)は弥生時代の前期に登場し、土器に亡くなった人の手足を折り曲げて甕棺に入れ、土の中に埋める埋葬方法である。
概要
墓制には木棺墓、石棺墓、甕棺墓、土坑墓などがある。九州の弥生時代では初期に木棺墓、石棺墓が行われ、縄文時代の原型はあるものの、弥生時代前期中頃に成人用甕棺が成立した。 甕棺墓は弥生時代の北部九州を中心とする地域に多く分布する。大型の土器に死者を埋葬する甕棺墓は北部九州に特徴的な墓制とされる。大型の素焼きの土器を使用して、多数集合した共同墓地を形成している。成人用甕棺からはしばしば青銅器などの副葬品が出土する。弥生時代衣服の一部の絹織物片、毛髪、管玉、勾玉、鉄製品などが副葬されることがある。副葬品の違いから階級社会が推定されている。200年間、盛んに使われていた。埋葬用には専用の大型土器(甕)を製作する。吉野ヶ里遺跡では約2500基の甕棺墓が発掘されている。
目的
甕棺に埋葬すると骨がよく残るため、死後の再生を願うことから、甕棺墓が普及した。甕棺では遺体を屈曲させる屈葬となる。
支石墓との違い
支石墓は弥生時代「前期」の墓で、甕棺墓は弥生時代前期から後期の埋葬方法である。 支石墓は箱式石棺や土壙などの埋葬施設を設け、その上に大きな石を置く埋葬方法である。大石を支えるために石(支石)を置くことから支石墓と呼ばれる。 支石墓は巨大な蓋石を数個の塊状の石(支石)で支え、その下に埋葬部を作るものである。朝鮮半島からの影響が明らかにあらわれる。
埋葬法
単棺と合口棺とがある。前者は1つの甕に石蓋、土器や木蓋などで蓋をする、後者は2つの甕を開口部で合わせたものである。
出土例
- 甕棺墓群「甕棺ロード」- 吉武高木遺跡 福岡市西区大字吉武
- 安国寺甕棺墓群 - 福岡県久留米市山川神代
- 甕棺墓 - 須玖岡本遺跡 弥生時代中期前半(紀元前150年頃)
参考文献
- 藤尾慎一郎(1988)『九州の甕棺: 弥生時代甕棺墓の分布とその変遷』国立歴史民俗博物館研究報告第21集
- 吉井秀夫(1991)「朝鮮半島錦江下流域の三国時代墓制」史林 74巻1号,pp.63-101
- 鏡山猛(1939)「我が古代社会に於ける甕棺葬」史淵 21,pp.83-123
下寺尾西方遺跡 ― 2025年01月06日 00:29
下寺尾西方遺跡’(しもてらおにしかたいせき)は、神奈川県茅ヶ崎市にある縄文時代、弥生時代、古代に渡る複合遺跡である。
概要
下寺尾西方遺跡は神奈川県茅ケ崎市北西部の寒川町との市町境に位置する。弥生時代中期後半に繁栄した集落は、いずれも中期末に急激に衰退し、後期初頭には継続しない。これは、相模地方に共通して認められる不思議な現象である。弥生時代中期後半における環濠集落の形成から終末に至る変遷を知ることができる遺跡である。当初の環濠集落から拡張された集落への拡大は2 倍以上であり、新たな環濠を構築し集落面積を広げるための土木技術の確保や労働力の調達などを可能とする社会であった。集落建設や拡張という行為が計画的にかつ組織的に行われたと見られる。一遺跡で宮ノ台式期全般に亘るという例は少ない。また下寺尾西方遺跡は南関東(神奈川県・東京都・埼玉県・千葉県)における弥生時代中期の環濠集落として最大級の規模を有している。ここでは主として弥生時代の遺跡について、説明する。
2002年調査
竪穴住居37軒(14軒を調査)、環濠1条、溝1条、土坑1基、遺物集中1個所を確認した。弥生時代中期後葉の宮ノ台式期に当たる。出土遺物は、竪穴住居から出土した鉄斧と勾玉未成品がある。鉄器としては板状鉄斧2点と用途不明鉄製品1点が出土した。鉄斧は長さ7cmとl1cmのものが各1点ずつである。勾玉は長さ6.09 ㎝と大型で、穿孔が行われていない未成品である。南関東における拠点集落と位置付けられており、弥生時代中期社会の様相を知るうえで重要な遺跡として評価されている。弥生時代は利器が石器から鉄器へと転換する大きな画期にあたるが、南関東における鉄器導入期の実態を知ることができるという点でも重要である。**環濠 2本の環濠(大溝)が確認されている。内側の環濠は最初に掘られ、東西200m、南北250mで環濠内の面積約40,000 ㎡、幅約3m、深さ約1.5m、断面形態は「V」字状をなす。 外側の環濠は新たに掘られたもので、断面は逆台形、東西約400m、南北250mに拡大され、環濠内の面積は約84,000 ㎡に達した。2つの環濠が重複することはなく、環濠2の西側と南側の西半部分は、環濠1から約6~8m外側のところにほぼ平行して掘削された。環濠集落の規模としては、外側の環濠は南関東で最大級の規模である。弥生時代中期後葉の宮ノ台式期の集落は、環濠が台地のほぼ全域に及ぶ。環濠2の内側からは竪穴建物58 棟を確認し、なかには焼失した建物があった。
古代遺跡
古代遺跡は、大型掘立柱建物によって構成される官衙関連遺構が発見されている。「高座郡衙」と推定されている。2002年の県立茅ケ崎北陵高校のグラウンドの発掘調査によって、発掘された7世紀末から9世紀前半にかけての相模国高座郡の役所跡である。郡庁は東西幅が推定で約66mと、全国的に見ても大きな規模でと見られる。ほか寺、津、祭祀場を発見している。高床式倉庫(正倉院)が少なくとも4軒建ち並ぶ様子が発見されている。詳細は「下寺尾官衙遺跡群」を参照されたい。
遺構
縄文時代
- 竪穴住居
- 集石1基
弥生時代
- 竪穴住居37軒
- 環濠1条
- 溝1条、
- 土坑1基、
- 遺物集中1個所
遺物
弥生時代
- 鉄斧 2点
- 勾玉未成品 大型
- 用途不明鉄製品 1点
指定
- 2019年(平成31年)2月26日 史跡指定
時期
展示
アクセス
- 名称:下寺尾西方遺跡
- 所在地:神奈川県茅ヶ崎市下寺尾字西方505番2
- 交 通: JR寒川駅から徒歩約20分
参考文献
- 神奈川県考古学会(2003)「茅ヶ崎市下寺尾西方A遺跡」第27回神奈川県遺跡調査・研究発表会発表要旨
- 茅ヶ崎市・茅ヶ崎市教育委員会(2024) 「史跡 下寺尾西方遺跡 保存活用計画(案)」
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