難波宮 ― 2025年03月13日 22:32
難波宮(なにわのみや)は、大阪市中央区にある飛鳥時代から奈良時代時代にかけての宮殿跡である。
概要
飛鳥から奈良時代にかけて前後2期の難波宮跡が確認されている。2時期の宮殿遺構は前期難波宮、後期難波宮と区別する。『日本書紀』『続日本紀』などで存在は知られていたが実際の所在は不明であった宮殿の遺構が見つかった。
調査
前期難波宮の遺構に火災痕跡があり、686年(朱鳥元年)に焼失した天武天皇の難波宮にあたる。孝徳天皇により造営された難波長柄豊碕宮と考えられている。後期難波宮は聖武天皇によって再建された難波宮である。1954年(昭和29年)から開始された、山根徳太郎を中心とする発掘調査により、1961年、現在の史跡指定地に難波宮があることが明らかにされた。
難波遷都の目的
天皇中心の中央集権体制を作るため遷都したとされた。また激変する半島情勢に対応し、対外情報の入りやすい場所として選ばれた。
前期難波宮
前期難波宮は、孝徳天皇によって造営された「難波長柄豊碕宮」と考えられている。蘇我氏を滅ぼした乙巳の変(645年)のあと、645年(皇極4年)に孝徳天皇は中大兄皇子や中臣鎌足とともに飛鳥から難波宮に遷都した(『日本書紀』原文:大化元年冬十二月乙未朔癸卯、天皇遷都難波長柄豐碕。)。しかしすぐに宮殿ができるわけではなく、長柄豊碕宮以前の諸宮の多くは、既存の朝廷の施設を改築したものとされる。大化二年春には、「天皇、御子代離宮」「或本云、壞難波狹屋部邑子代屯倉而起行宮。」と書かれており、これを裏付ける。大化3年記事に記載のある小郡宮は650年(白雉元年)から宮殿の造営が始まり、2年後の652年(白雉3年)9月に宮殿が完成したと『日本書紀』に記される(『日本書紀』原文:秋九月、造宮已訖。其宮殿之?、不可殫論。冬十二月晦、請天下僧尼於?裏、設齋・大捨・燃燈。)。僧侶を呼び斉会を行った。国内最初の本格的宮殿であり、内裏前殿の両側に八角形の楼閣風建物がそびえ、14棟以上の朝堂、宮城南門(朱雀門)などを有する。建物はすべて掘立柱建物であり、瓦は使われていない。 654年(白雉5年)10月に孝徳が死去し、都が飛鳥に移るまで使用された。 朱鳥元年(686年)の火災によって焼失したと日本書紀に書かれる。
後期難波宮
(726~784年)の時期に属する建物の基壇跡が見つかった。基壇跡は東西約11m、南北5m以上の規模であった。基壇の周辺に凝灰岩の破片が見つかり、建物の外装に使用していたものが解体の際に壊され飛び散ったものと考えられる。また重圏文軒丸瓦をはじめとする後期難波宮の時期の瓦も基壇の周辺から見つかっている。こうした状況から、今回検出した建物は朝堂などと比べるとやや小型であるが、凝灰岩で覆われた基壇を持ち、重圏文の瓦で飾られていたことが分かる。神亀3年(726)に聖武天皇によって前期難波宮と同じ場所に造られた。中心部は大極殿や8棟の朝堂、内裏などで構成される。このうち政務や儀式が行われた大極殿・朝堂は礎石建物で瓦茸屋根が採用されたが、天皇の居住空間である内裏は従来からの掘立柱建物で瓦を使用していない。
遺構
前期難波宮
- 掘立柱建物 飛鳥時代
難波宮下層遺跡
- 柵4
- 建物2
- 溝1
- 柱穴
遺物
- 瓦
- セン
- 土師器
- 須恵器
- 木簡
- 木製品
- 漆容器
- 絵馬
- 新羅土器
- 軒瓦約220
- 鬼板
- 重圏文軒丸瓦
- 重圏文軒平瓦
- 丸瓦
- 凝灰岩
- 天目茶碗
- 肥前陶器
- 焼塩壺
- 信楽焼
- 信楽焼(腰白茶壷)
- 一石五輪塔
- 羽口
出土木簡
難波宮「玉作五十戸俵」木簡
2015年2月3日に、地方の行政単位「五十戸」を記した木簡が発見されたと大阪市博物館協会大阪文化財研究所が発表した。646年に出した大化改新の詔に「役所に仕える仕丁は五十戸ごとに1人徴発せよ」(日本書紀)が記載される。 「玉作五十戸俵」の木簡は7世紀後半の記載様式とみられる。文字は片面のみである。両側に三角形の切込みがあったので「荷札木簡」と分かる。五十戸は「サト」と読む飛鳥時代の書き方である。律令制では五十戸が1里であった。意味は「玉作のサトから米俵を貢納した」。 庚午年籍以後と考えられていた地方支配の制度が、天智4年(665)以前に遡ることが示された。飛鳥時代の制度は「国―評―五十戸」と考えられる(四国新聞,2015年2月3日)。玉作の地名は陸奥や土佐などに見られる。
難波宮跡出土万葉仮名文木簡
史跡難波宮跡の南西約100m、前期難波宮(長柄豊碕宮)の建設に伴うと考えられる整地層の直下の地層から出土した。地層の時期は、前期難波宮が完成する白雉3年(652)前後より古いと考えられている。簡の片面に「皮留久佐乃皮斯米之刀斯□」と11字が完全に残り、12字目をわずかに残して折れている。万葉仮名文の成立はこれまで7世紀末頃とされていたが、この木簡の出土により、その成立が7世紀中頃まで遡る可能性が出てきている。1字を1音に当てるのは万葉仮名の方式である。木簡は「春草のはじめのとし」と読む。“春草の”は万葉集では枕詞として使われており、全体は五音・七音を重ねた和歌と考えられる。日本語表記や和歌の重要な資料である(大阪市,2019年1月9日)。
史跡
宮殿の中心部とされる範囲が国の史跡に指定され、史跡公園として整備されている。史跡は2種類の方法で示されており、地表面より一段高くし、石造りで基壇を示すものが726年(神亀3年)から造営された後期難波宮、一段低くして赤いタイルを敷き、赤い御影石で柱位置を示し、サザンカの生け垣をめぐらせているものが「大化改新」による難波遷都の後、白雉元年(650)から造営が始められた「難波長柄豊碕宮」である。昭和37年(1962)に後期難波宮大極殿一帯の17.500m2が国指定史跡になり、以後数度の追加指定を経て、現在の史跡指定範囲は大阪歴史博物館南側の広場を含め、約13万m2に及ぶ。
- 昭和39年5月2日(第1次) 国指定史跡
史跡難波宮跡
難波宮の跡地の一部は難波宮跡公園として整備されている。
アクセス等
- 名称:難波宮
- 所在地:〒540-0006 大阪府大阪市中央区法円坂1丁目6
- 見学:営業:入園自由 但し、難波宮跡資料展示室は10:00~17:00※展示室の見学は要事前連絡
- 交通: 地下鉄谷町線「谷町四丁目」駅すぐ、JR大阪環状線「森ノ宮」駅より徒歩5分
参考文献
- 近つ飛鳥博物館(2015)「歴史発掘おおさか2015」近つ飛鳥博物館
- 難波宮跡出土万葉仮名文木簡,大阪市,2019年1月9日
- 「大阪・難波宮跡に「五十戸」木簡」四国新聞,2015年2月3日
- 「難波宮 現地公開資料」,大阪市文化財協会,2009年3月14日
- 植木久(2009)『難波宮跡』同成社
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