縄文時代 ― 2025年06月05日 00:29
縄文時代(じょうもんじだい)は、始まりが紀元前1万4000年頃から紀元前800年くらいまでの軌間をいう時代区分である。旧石器時代の次の時代で弥生時代の前である。
概要
旧石器時代と縄文時代の大きな違いは、「土器」使用の有無である。「土器」の使用が縄文時代のはじまりである。弓矢が使用され始め、ムラが形成された。縄文時代の開始時期は紀元前16,000年、紀元前13000年など諸説ある。
稲作との関係
九州地方の縄文遺跡から稲作の証拠が発見され始め、紀元前10世紀から9世紀頃には今か大陸から稲作が伝わったと考えられている。水田稲作の開始が弥生時代の始まりであり、プラントオパールがみつかっただけでは、水田稲作とはいえない。福岡県の板付遺跡や佐賀県唐津市の菜畑遺跡などから、炭化米や土器に付着したモミの圧痕、水田跡、石包丁、石斧といった農具、用水路、田下駄等が発見されている。水流をせき止めて調整する柵も見つかっている。長崎県雲仙地方の山ノ寺遺跡、大分県の大石遺跡からは、イネの圧痕がみられる土器が発見されているが、稲の痕跡だけで水田稲作を断定することは難しい。
弥生時代開始の研究
高精度14C年代測定から縄文から弥生への移行の時期は400BCよりは古く、750BC~400BCの間のどこかに位置する可能性が高いとする。較正曲線の特異性のため、750BC~400BCの 期間については14C年代で実年代を決めるのが非常に難しいとされた。今後、データ数を増やすことが必要である(今村峯雄(2001))。 藤尾慎一郎(2024)らは梅白遺跡、雀居遺跡、橋本一丁田遺跡などでのAMS測定(炭素14年代測定)により紀元前9世紀まで水田稲作が遡るとし、これが現在の定説となっている。
縄文時代の食べ物
網羅的生業と言われ、周囲の自然から採取できる食べ物は何でも食べていた。栗、クルミ、トチ、ドングリなどの植物、猪、鹿などの動物、鯛、鱸などの魚や貝類などである。
参考文献
- 今村峯雄(2001)『縄文~弥生時代移行期の年代を考える-問題と展望』第四紀研究40巻6号,pp.509-516
- 藤尾慎一郎(2024)『弥生人はどこから来たのか』吉川弘文館
- 山田康弘(2019)『縄文時代の歴史』講談社
艸墓古墳 ― 2025年06月06日 00:05
艸墓古墳(くさはかこふん)は、奈良県桜井市谷にある方墳である。「カラト古墳」とも言われる。
概要
大和盆地の東南部、寺川左岸の丘陵上に立地し、墳形は方墳(南北28m×22m、24m説あり)で、東西22m、高さ8m(7m説あり)の規模である。石室は東南に開口する。古墳時代終末期の7世紀前半~7世紀中葉の築造と推定されている、墳丘には葺石が認められる。
調査
遺構
埋葬施設は花崗岩を用いた両袖式横穴式で、玄室部は巨大な花崗岩を用い、全長13.3m。長さ4.4m、幅2.7m、高さ2m。羨道部は長さ8.8m、玄門幅1.9m、高さ約1.5mである。奥壁は1石、玄室側壁石は2石である。玄室の側壁と天井石の間隙に漆喰を塗る。石棺は竜山石製の刳抜式家型石棺で6個の縄掛突起がある。玄室中央に凝灰岩を用い、刳抜式家形石棺が置かれる。 石棺の石材は加古川流域産(現・兵庫県)の竜山石であり、その構造から、まず石棺を安置し、その後に石室、最後に墳丘を築いたと推測される。
規模
- 形状 方墳
- 規模 28×22m、高8m
- 外表施設
- 葺石 葺石あり
- 主体部
- 室・槨両袖型横穴式石室
- 棺 刳抜式家形石棺
遺物
正式な発掘調査はされていないため、出土遺物は不明。
指定
1974年(昭和49年)6月18日 国の史跡に指定。
アクセス
- 名称:艸墓古墳
- 所在地: 〒633-0053 奈良県桜井市谷657
- 交 通: JR桜井駅から徒歩25分
参考文献
- 大塚初重(1996)『古墳辞典』東京堂出版
- 青木敏(2022)『古墳図鑑』日本文芸社
S字甕 ― 2025年06月06日 00:06
S字甕(えすじかめ)は2世紀前半に伊勢湾沿岸部で出現した土器で、九州北部から東日本まで広がる代表的な土師器である。
概要
正式名をS字状口縁台付甕という。口縁が短く「S字状」に屈曲し、器壁が薄く、軽量である。デザインが規格化されている。2世紀から3世紀初頭では、三重県、愛知県、岐阜県などの伊勢湾沿岸部のみに見られる。3世紀中頃になると全国的に広がる。東日本の一部地域では在地で作られるようになり、「上野形S字甕」「駿河型S字甕」などが生み出される。 S字甕の胎土には混和剤として砂礫が多く含まれる。混和剤の砂は角閃石、石榴石、黒雲母など濃尾平野では取れないものを使う。有力な材料供給候補地として三重県の雲出川が挙げられている。
分類
S字甕は、(1)0ぜろ類・(2)A類(2世紀)、(3)B類、(4)C類(3世紀)、(5)D類(4世紀)、(6)宇田型甕(5から6世紀前葉)の6つに分類される。
出土例
- S字甕 - 朝日遺跡、愛知県清須市、弥生時代
- S字甕 - 南部Ⅰ遺跡、富山県富山市、弥生後期から古墳前期
- S字甕 - 博多遺跡群、福岡県福岡市、弥生時代、古墳時代
- S字甕 - 井田遺跡、三重県、弥生終末期
参考文献
- 朝日遺跡ミュージアム(2024)『「S字甕」というとても薄い甕が流行っていた件』
土偶 ― 2025年06月07日 00:24
土偶 (どぐう)は縄文時代に作られていた人物を模した土製の焼き物である。
概要
土偶の登場は縄文時代の草創期末葉(約1万年前)となる。人形では女性像が多いが、男性像も含まれる。弥生時代になると姿を消す。
三内丸山遺跡では大型板状土偶が知られる。女性像では胸部や臀部だけでなく、妊娠しているように大きく下腹部を表現する例も見られる。安産、多産、豊穣、再生を願った偶像とされてきた。動物や道具をかたどったものは「土偶」といわず、「土製品」となる。
著名な土偶に重要文化財の「遮光器土偶」がある。東京国立博物館に収蔵される。眼が眼鏡状に表現される。
土偶の生産は縄文時代であるが、埴輪は古墳時代の生産である。埴輪は武人、力士、巫女などの人物、犬馬などの動物、家屋など様々なものを表現する。埴輪は古墳時代の儀礼用の焼き物である。土偶は女の人の形を表すモノが多い。 土偶の分布
縄文時代の後期・晩期には日本全国に分布する。分布の中心は複雑な形状を持つ東日本の土偶である。
各期の土偶
時代区分 | トピック | 特徴 | 遺跡等 |
草創期 | 土偶の出現 | 頭部や手足の省略 | 相谷熊原遺跡/相谷土偶/滋賀県蔵 |
早期 | 胴部が中心/千葉と茨城に多い | 胴部中心の造形 | 上野原遺跡/土偶/鹿児島県 |
前期 | 小型が継続 | 東北関東甲信の出土 | 釈迦堂遺跡/板状土偶/山梨県笛吹市 |
中期 | 爆発的に数が増える | 立体化、大型化、デザインが豊富になる | 棚畑遺跡/国宝 縄文のビーナス/長野県茅野市/尖石縄文考古館蔵 |
後期 | 内陸部、千葉、茨城 | 漁業との関連 | 郷原遺跡/ハート形土偶/群馬県東吾妻町 |
晩期 | 東北関東中心 | 衰退から消滅へ | 亀ケ岡遺跡/遮光器土偶/青森県つがる市/東京国立博物館 |
出土例
縄文時代の後期・晩期には日本全国に分布する。分布の中心は複雑な形状を持つ東日本の土偶である。
-遮光器土偶 - 石船戸遺跡 新潟県内で最大
-嘆きの土偶 - 井戸尻遺跡
-国宝「土偶」 - 尖石遺跡
1. 武藤康弘,譽田亜紀子 (2014)『はじめての土偶』世界文化社
2.竹倉史人(2022)『土偶を読む図鑑』小学館
柵形埴輪 ― 2025年06月07日 00:30
柵形埴輪(さくがたはにわ)は上部に鋸刃状の山形の突起を持ち、その下に2列の突帯を巡らせる埴輪である。
概要
横断面の形状は楕円形を呈する。古墳時代前期後半から中期にかけて近畿の古墳から出土する、地方の古墳からも出土例がある。 多くは前方部や造り出し部から出土する。 今城塚古墳では、柵形埴輪が古墳の区切りを示す配置であり、境界または結界のような役割があったと見られる。
参考文献
- 小笠原好彦(2002)「首長居館遺跡からみた家屋文鏡と囲形埴輪」日本考古学9 巻13 号
- 奈良新聞(2022)「囲形埴輪の内側に家形埴輪配置 奈良・富雄丸山古墳」2022年2月4日
- 世田谷区郷土資料館(2016)『国重要文化財指定記念 野毛大塚古墳展』世田谷区郷土資料館
北青木遺跡 ― 2025年06月07日 00:45
北青木遺跡(きたおおぎいせき)は兵庫県神戸市にある縄文時代後期から中世にかけての複合遺跡である。
概要
海岸線に並行に並ぶ砂丘上と堤間湿地に立地する弥生時代前期から後期の遺跡である。阪神電車青木駅から深江駅間の東西最大幅約550m、南北最大幅約250mの範囲(約10万㎡)と推定されている。弥生時代中期および後期の方形周溝墓や円形周溝墓を8基検出した。供献土器の可能性がある穿孔された前期および中期の壺が出土した。 周溝墓の検出や供献土器と考えられる土器の出土は、弥生時代前期から後期まで継続しており、当地は弥生時代を通じて墓域や祭祀空間として使用されていた可能性が考えられる。
調査
第五次調査で、海辺の砂丘上から8月30日銅鐸が埋納された状態で出土した。遺構を切り取って持ち帰り、室内での詳細な調査に切り替えた。北青木銅鐸と命名した。鉦の上端は失われているが、それ以外は原形を保って残存している。残存高は19。2cm(復元高:約21cm)である。文様はいずれも不鮮明で、表面には亀甲形の皺が多数認められる。形式は四区袈裟欅文銅鐸である。亀山型と呼ばれるグループに属し、近畿地方と徳島県でこれまでに24口が出土している。考古学的観察の他X線透過による内部構造調査、鉛同位体比分析、蛍光X線分析、ICP分析法などの理化学的分析調査を行った。蛍光X線分析では銅・錫・鉛、ヒ素など、古代青銅製品の素材として一般的な元素が検出された。X線透過撮影調査で鈕上半とA面右側鰭に見られた異常なX線吸収差は腐食によるものか、鋳造欠陥によるものか断定できなかった。ICP発光分光分析・ICP質量分析により、銅、錫、鉛)を配合した合金であることが判明した。
木棺と年代測定
4基の木棺墓に木棺が埋置されていた。木棺墓2の棺材はコウヤマキ製である。棺は端を欠損しているが、残存長109.6cm、幅38.4cm、厚さ3.4cmである。木棺墓3の棺材(底板)はヒノキである。木棺墓2の底板の年輪は250B.C.~100B.C.あたりの年代が推定された。木棺墓3の底板の年輪年代は年代不明であった。
遺構
- 方形周溝墓
- 円形周溝墓
- 溝
- 河道
- 土坑
- 井戸状土坑
- 柱穴
- ピット
遺物
弥生土器 チャート片
- 須恵器
- 土師器
- 灰釉陶器
- 緑釉陶器
- 黒色土器
- 瓦器
- 瓦
- 陶磁器
- 土錘
- 縄文土器
指定
アクセス等
- 名称: 北青木遺跡
- 所在地:神戸市東灘区青木4・5丁目
- 交通:
参考文献
- 神戸市教育委員会(2012)「北青木銅鐸」
- 神戸市教育委員会(2014)「北青木遺跡第7次発掘調査報告書」
方格規矩鏡 ― 2025年06月07日 21:14
方格規矩鏡(ほうかくきくきょう)は、中央の鈕を方形の区画で囲み、その外側にT・L・V字形の文様を敗する銅鏡である。
概要
古代中国の漢代から魏・晋代にかけて流行した銅鏡である。「天円地方」の世界観に基づく図柄である。方格は地(大地)を表し、外形の円形は天空を表す。立体的な天地の構造を表現している。鈕と周縁の間に種々の動物などを配置する。動物として青龍、白虎、朱雀、鳳凰・玄武、亀、蛇がある。四神とよばれるこれらの霊獣は、天の東西南北を代表する星座を表現する。四神などの間を埋めつくす渦状の文様は、宇宙に満ちるエネルギー「気」である。中央の方格に十二支の文字を時計回りに配し、その周囲に四神を配するものがある。 方格規矩四神鏡の、周縁の内側などに鋳出される銘文には、鏡の所有者の世俗的な願望すなわち長生き、大金持ちになる、立身出世できるなどが約束される。
製作年代
中国の前漢時代末から後漢時代、日本では弥生時代にあたる時期に、さかんに作られた銅鏡である。 弥生時代の北部九州の墓あるいは古墳時代前期にも見られる鏡式である。
出土例
- 方格規矩鏡 - 龍門寺古墳、岐阜県岐阜市、後漢代の中国鏡
- 流雲文縁方格規矩鏡 - 天神山古墳、奈良県、古墳時代、重要文化財
- 変形方格規矩鏡 - 山城国物集女恵美須山古墳、古墳時代4世紀、京都国立博物館
- 唐草文方格規矩四神鏡 - 五穀神社出土、福岡県嘉麻市上臼井、弥生時代後期
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