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加曽利貝塚2025年08月02日 00:20

加曽利貝塚(かそりかいづか)は千葉県千葉市にある縄文時代の遺跡である。

概要

日本最大級の貝塚であり、縄文時代中期中葉に形成された直径約140mで環状の「北貝塚」と縄文時代後期前葉(約5000年前)から中葉(約4000年前)に形成された長径190mで馬蹄形(馬のひづめ形)をした「南貝塚」が連結し、[8字」形となっている珍しい形の貝塚である。 縄文時代の竪穴式建物、貯蔵穴、埋葬遺構をともなう集落遺跡である。 時期が異なる2つの大型環状貝塚が継続して作られた例は他にはなく、約2000年に渡り、長期に継続して集落が営まれていた。東京湾東岸に集中する大型環状貝塚はもとより、全国的にみても最大級の貝塚である。遺跡のほぼすべてが良好な状態で保存されていることは、他に例を見ない財産である。 千葉市内の都川の支流の坂月川を北に2km遡った西側(右岸)の東西約500メートル、南北約800メートルの台地上に位置する。貝塚を含む土層は台地の東側縁辺に東西300m、南北400mにわたり分布する。 貝塚から大量の貝殻のほか、クロダイやスズキなど魚の骨、イノシシやシカなどのの骨、炭になったクリやクルミなどが出土した。縄文土器、石器やシカの角・骨などで作った道具類、ヒスイなどの貴重な石やシカの角などで作ったアクセサリーも出土した。ヒトや狩りのパートナーのイヌも埋葬されていた。 加曽利貝塚は日本の縄文時代研究にとっても重要な意味がある。「加曽利貝塚博物館」では、貝塚から出土した土器などを資料展示する。 遺構の面積は20haを超え、現在約15.1haが特別史跡として保存されている。

縄文時代の遺跡の特別史跡指定

加曾利貝塚は貝塚としては初めて特別史跡に指定された。縄文時代の遺跡としては、4番目である。

  1. 尖石石器時代遺跡(長野県茅野市) 1952年
  2. 大湯環状列石(秋田県鹿角市) 1956年
  3. 三内丸山遺跡(青森県青森市)
  4. 加曾利貝塚(千葉県千葉市)2017年

調査

1907年(明治30年)、東京人類学会がはじめて発掘調査を行った。 1922年の大山前史学研究所による地形測量で、加曾利貝塚は二つの環状貝塚から形成されることが明らかとなった。 1924年(大正13年)の東京帝国大学人類学教室の山内清男、宮坂光弐等の発掘調査で、は層位学的な発掘調査が行われ、B地点からは堀之内貝塚(千葉県市川市)で見つかっていた特徴の土器と、その上層から新たな特徴の土器が出土した。またE地点では堀の内式土器と その下層からB地点とは異なる新たな特徴の土器が検出された。この新たな特徴の土器群にはそれぞれ加曾利貝塚の調査地点名から「賀曽利B式」「賀曽利E式」の2つの土器形式が設定された。この調査の大きな成果は、地層の上下関係より「賀曽利E式→堀之内式→賀曽利E式」という土器の変化の新旧関係を層位的にはじめて捉えた。縄文時代の人々が時期ごとに異なる特徴の土器を作り出していることを層位学的に証明したことは、「土器形式編年研究」であり、その後の縄文土器研究を飛躍的に発展させるきっかけとなった。

遺跡保存運動

郷土史家の武田宗久が保存の必要性を提起し、市民による保存運動が拡がり、国会でも議論が繰り広げられた。

遺構

1962年(昭和37年)の発掘調査で縄文時代中期中葉の竪穴式建物が見つかった。

  • 竪穴式建物 - 縄文時代中期中葉
  • 貯蔵穴
  • 埋葬遺構
  • 土坑
  • 堤状貝層
  • 遺構内貝層
  • 溝状遺構
  • 柱穴

遺物

  • 異形台付土器 – 縄文時代後期
  • 石棒 - 緑泥片岩製、点紋緑泥片岩製
  • 貝輪 - オオツタノハ製
  • イボキサゴ
  • アサリ
  • シオフキ
  • アラムシロ
  • クロダイの骨
  • イノシシの骨
  • 鹿の骨
  • 縄文犬の骨 14から15例
  • 加曾利E式土器
  • 加曾利B式土器
  • 堀之内式土器
  • 縄文土器(中期~晩期)
  • 土偶
  • 土版
  • 耳飾
  • ミニチュア土器
  • 有孔土製円板
  • 土器片錘
  • 土器片円板
  • 焼成粘土塊
  • 石器
  • 石鏃
  • 打製石斧
  • 磨製石斧
  • 磨石
  • 石皿
  • 台石類
  • 砥石
  • 軽石
  • 玉類
  • 石棒
  • 石剣
  • 弭形角製品
  • 骨角鏃
  • ヤス状刺突具
  • 加工角
  • 加工歯牙
  • 貝刃
  • 貝輪
  • 埋葬人骨
  • 動植物遺体

指定

  • 昭和46年3月22日 – 史跡指定 北貝塚
  • 昭和52年 史跡指定 南貝塚
  • 2017年(平成29年)10月 - 特別史跡指定

展示

  • 加曽利貝塚博物館

アクセス等

  • 名称:加曾利貝塚
  • 所在地:〒264-0028 千葉県千葉市若葉区桜木8丁目33−1
  • 交通:千葉都市モノレール2号線 桜木駅 徒歩15分。1.1km。

参考文献

  1. 文化庁(2018)『発掘された日本列島 2018』共同通信社
  2. 西田泰民(2014)「1924 年の加曾利貝塚調査」Anthropological Science122 巻2 号
  3. 八幡一郎(1924)「千葉県加曽利貝塚の発掘」人類学雑誌39,pp.209–212
  4. 平瀬信太郎(1926)「加曽利貝塚の貝類について」人類学雑誌42巻7号

観音寺山遺跡2025年08月02日 11:51

観音寺山遺跡(かんのんじやまいせき)は大阪府和泉市にある弥生時代後期の集落遺跡である。中高瀬観音山遺跡とは別の遺跡である。

概要

和泉山地から槇尾川沿いにのびる丘陵の尾根上にある。標高60~65m、周囲の平地との比高差は約25mである。高台の弥生集落跡であり「高地性集落」と考えられている。竪穴住居が120軒ほど検出されている。住居群の周囲には住居域を取り囲むと考えられる大溝(環壕)がみつかっている。観音寺山遺跡は近畿地方における大規模高地性集落の例として度々言及される。

遺跡の性格

観音寺山遺跡の集落は弥生時代後期のみに機能した集落と考えられている。等高線に沿って作られた大溝と尾根上に作られた中小規模の溝とが検出されている。住居群は3つあるが、それぞれの住居群が環濠で囲まれていた。集落規模は100人前後と想定されている。弥生時代後期中葉や後期後葉に集落の人口は減少傾向をたどる。100年を超える長期継続した遺跡であり、争乱時のみ使用された施設ではないと判断できる。

発掘調査

1965年、弥生遺跡が存在することが知られていた丘陵上に住宅開発が計画されたため、開発会社や地元自治体との協議により、同志社大学の森浩一名誉教授(当時は助教授)らを中心として観音寺山遺跡調査団が結成された。同志社大学・関西大学の学生らを中心とした調査団が1968年2月から8月にかけて多数の竪穴住居を発掘した。50000㎡を超える広大な面積を短期間で調査する厳しい状況にあったが、多量の出土遺物を検出・記録して約半年の調査を完了した。調査できたのは集落の約3分の2であった。 当時は同志社大学の学生であった若林邦彦(現同志社大学 歴史資料館 教授)と辰巳和弘(現同志社大学 歴史資料館 教授)は大学院と大阪府文化財センター時代に遺物整理を行い、出土した土器の実測図を作成し、1999年に調査報告書を刊行した。 竪穴住居は120軒近く検出されている。サヌカイト製石器(石鏃・尖頭器など)や礫石器(敲石・磨石・石皿・投弾など)が多数出土した。サヌカイト製の打製石器は320点が出土している。多数の武器類と考えられる石器(石鏃・尖頭器・投弾など)は戦乱があったと想定される。しかし、集落成立の初期である弥生後期前葉では武器類を必要とする状況があったと考えられている。投弾と呼ばれる円礫を研磨した石器が93点出土した。戦闘用の石器と考えられている。 石包丁が10点出土したことから近隣の低湿地で稲を収穫していたことが判明している。 堅果類加工用の調理を行う石器(磨石・石皿など)が多数出土することは、平野部での水田耕作による米よりも山地の植物を多く利用した食生活を営んでいた可能性も考えられる。 大阪湾南岸部で見られる蛸壺が多数出土している。住民は沿岸部で行われていた漁労に関わっていたと思われる。

環壕

環壕の幅は3mを超え、深さは2m、断面はV字形であり、典型的な弥生時代の環壕である。環壕の造成には集落メンバーの大規模な協働作業が必要だったと考えられる。集落の居住域が形成されるときに社会的緊張状態(争乱)があったとの理解もある。環壕は弥生時代後期前葉の段階で埋没していた。つまり集落形成の初期段階では濠や区画溝などの防御施設を必要としていたが、その後に不要になって埋められたとも考えられる。

高地性集落

1960年代の日本考古学会では観音寺山遺跡は「高地性集落」として理解されてきた。つまり稲作の可能な低湿地から遠い丘陵上の集落であるため、立地の特殊性は弥生時代の戦(倭国乱)乱と結びつけて考えられてきた。高地性集落は小野忠熈博士が山口県東部の弥生遺跡朝で最初に着目した。岡山遺跡(山口県周南市)や天王遺跡(同前)など丘陵の上の弥生集落に濠状施設により囲まれた竪穴住居を発見した。

倭国乱との関係

小野博士は濠状施設を集落防御のための施設と考えた。梅原末治は北部九州の弥生時代中期中葉の須玖式土器に後漢末の青銅鏡と考えられていた菱鳳鏡が共伴するとし、その時期を二世紀後半とした。 『後漢書 東夷伝倭人条』に二世紀後半となる140年から180年頃に倭国で戦乱ないし政治的な動乱があったと記されている。 さらに佐原真は紫雲出山遺跡の発掘調査報告書で、弥生時代中期の弥生遺跡から打製石鏃が極端に大型化・重量化することを指摘し、それは戦乱に対応する武器であろうと考えた。

遺構

  • 環濠 大溝(環壕)
  • 竪穴建物 竪穴住居跡

遺物

  • 弥生土器
  • 石器 サヌカイト製石器
    • 石鏃
  • 尖頭器
  • 礫石器
    • 敲石
    • 磨石
    • 投弾
    • 石皿

展示

  • 同志社大学 歴史資料館

所在地等

  • 名称:観音寺山遺跡
  • 所在地:大阪府和泉市弥生町3丁目4
  • 交通:泉北高速鉄道線 泉中央駅から約1500m。

参考文献

  1. 同志社大学歴史資料館(1999)『大阪府和泉市 観音寺山遺跡発掘調査報告書』同志社大学歴史資料館
  2. 若林邦彦(2013)『「倭国乱」と高地性集落論・観音寺山遺跡』新泉社
  3. 小野忠熈編(1953)『島田川:周防島田川流域の遺跡調査研究報告』山口大学島田川遺跡学術調査団
  4. 梅原末治(1940)『日本考古学論攷』弘文堂書房
  5. 和島 誠一(1985)『日本の考古学 3 弥生時代』河出書房新社
  6. 香川県三豊郡詫間町文化財保護委員会(1964)『紫雲出 : 香川県三豊郡詫間町紫雲出山弥生式遺跡の研究』