破鏡 ― 2024年03月31日 00:58
破鏡(はきょう)は鏡を打ち割ることである。 「破砕鏡」とも言われる。
概要
寺村直人(2003)は鏡の出土状態を5つに分類した
- 1類 - 原型に近い
- 2類 - 1類よる優れる
- 3類 - 重なっている、集積されている。
- 4類 - 分かれている
- 5類 - その他
福永伸哉(1995)は「身体を取り囲む多数の鏡も単なる威信財ではなく、『僻邪』の役割を与えに不可欠な品目であり、「永久に地中に埋めてしまうことのできる鏡が身体を取り囲むだけの数量に足らなかった場合、やや省略された形として頭足分離型配置が表れる」と論じる。 破砕副葬は副葬するときに完形であった銅鏡を故意に打ち割ったものである。 この特徴は弥生時代後期から終末期に限定的に見られるもので、古墳時代には再び完形鏡の副葬が一般化するとされる。
中国での破鏡の意味
黄名時(1995)は中国では「離散した夫婦が再び一緒になったり、別離の夫婦がまた巡り会う」といった意味で使われるという。淵源は古く、『神異経』伝説を紹介する。つまり夫婦の再会を期すために1つの鏡をそれぞれが持つ。、『神異経』では妻が他人と通じたため鏡片が鵠とんなって夫の元まで飛び、夫は妻の不倫を知ったとされる。道教徒や呪術師は神仙術修得の用具に鏡を使い、鏡には妖怪変化を退ける力や邪気を払う効用があると考えられていた黄名時((1995))。
破鏡の要因
完形鏡の不足による分割配布や破砕副葬との関連、あるいは鏡片として舶載された可能性などが指摘されている。梅原はは岡山県苫田郡高野村竹塚出土の半円方形帯鏡片について、「破鏡」の語を使用し、また本鏡片に2ヶ所の穿孔があることから、長期間の伝世を想定している(梅原1952)。1963年に兵庫県播磨大中遺跡から出土した、2つの穿孔を持つ内行花文鏡片が知られており、身具や護符とする見解(小林1955)や、穿孔位置・形態的類似性などから穂積み祭儀における石庖丁の代用品としての用途を想定する見解(瀬川1969)などがだされた。高倉洋彰(1976)は、弥生時代後期後半以降の舶載鏡流入減少に起因する絶対数の不足を補う目的をもって出現したと説明する。
考察
辻田(2007)のデータでは、弥生時代終末期には完形鏡は53.9%で破砕鏡は16.1%であった。古墳前期では、完形鏡は85.4%で破砕鏡は14.6%となっている。そこに宗教意識の変化を読み取ることができる。
桜井茶臼山古墳の大量の鏡は、すべて破砕されているが、これには2つの説がある。最初から破砕されていたという説は、森浩一、石野博信や今尾文昭が支持する。これに対して、埋葬時は完形であり、その後の盗掘などで破砕されたとするのが、福永伸哉教授と橿原研の人々である。結論的にはなかなか難しいが、石野博信の指摘する「盗掘者が侵入して乱暴にかきまわしても、百片を超える1~2センチの小片になるだろうか」との疑問は解決していない。多数の小片に分かれるのは、埋葬時の徹底的な破砕が合理的にみえる。しかし、埋葬時の徹底的な破砕であれば、元の小片をすべて格納するのではないかと考えられるし、大部分が無くなっている鏡があるということは、盗掘者が持ち去ったことが考えられる。最終的に1~2センチの小片になったのは歴史上何度も到来した盗掘者が踏み荒らしてしまった理由と考えることもできるであろう。
参考文献
- 寺村直人(2003)「破砕鏡の副葬配置とその意義」_金大考古41,pp5-6
- 福永伸哉(1995)「三角縁神獣鏡の副葬配置とその意義」『日本古代の葬制と社会関係の基礎的研究』大阪大学文学部、文部省科学研究費補助金研究成果報告書
- 福永伸哉(2005)『三角縁神獣鏡の研究』大阪大学出版会
- 辻田淳一郎(2007)『鏡と初期大和政権』すいれん舎
- 辻田淳一郎(2005)「破鏡の伝世と副葬一穿孔事例の観察から-」史淵142,pp.1-39
- 高倉洋彰(1976)「弥生時代副葬遺物の性格」『九州歴史資料館論集』2、九州歴史資料館
- 瀬川芳則(1969)「石庖丁再考一その思想的背景について一」『考古学研究』15-3、考古学研究会
- 小林行雄(1955)「古墳の発生の歴史的意義」、『史林』38-1、史学研究会
- 梅原末治(1952)「岡山県下の古墳発見の古鏡」『吉備考古』85,pp.1-14
- 黄名時(1995)「「破鏡(重回)」の伝承とその習俗」名古屋学院大学外国語学部論集
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