同志社大学歴史資料館 ― 2024年03月18日 00:08
同志社大学歴史資料館(同志社大学歴史資料館)は同志社大学の所蔵する考古資料や民俗・民族資料を保管展示する博物館相当施設である。
概要
文学部考古学資料室の研究調査と、今出川・新町・京田辺の各キャンパスの発掘調査により収集された1,000,000点を超える考古資料や民俗・民族資料を保管展示する。公開講座を年に6回開催する。
展示
- 観音寺山遺跡出土弥生土器・石器群
- 和歌山市井辺八幡山古墳出土 人物埴輪
- 濁り池窯址出土初期須恵器群
- 柱状石斧(磨製) 慶州出土
- 石鏃 - ムシリ遺跡
- 打製石包丁 - 四ツ池遺跡 森寄贈
- 器台 - 観音寺山遺、弥生土器
- 椅子形土製品 - 百舌鳥大塚山古墳、土製模造品、森寄贈
- 馬形埴輪 - 井辺八幡山古墳
- 飯蛸壺 - 四ッ池遺跡、森寄贈
- 器台 - 須恵器、大野池西窯、森寄贈
- 石鍋 - 六角町遺跡
- 短茎鏃(鉄鏃)- 城ノ山古墳(堺市)
- 方格規矩鏡 - 新沢500号墳、森寄贈
- 三角縁神獣鏡 - 西山2号墳
- 画文帯神獣鏡 - 和泉黄金塚古、森寄贈
- 小型斜行櫛歯文鏡 - 八並遺跡
- 位至三公鏡 - 高月古墳、森寄贈
諸元
- 名 称:同志社大学歴史資料館
- 開 設:1996年(平成8年)2月
- 休館日:土・日曜・祝日&夏期休業期間&冬期休業期間
- 開館時間:10:00~11:30、12:30~16:00
- 観覧料:無料
- 所在地: 京都府京田辺市多々羅都谷1-3
- 交通:JR学研都市線「同志社前」駅から徒歩約10分
多賀城碑 ― 2024年03月18日 00:11
多賀城碑(たがじょうひ)は奈良時代に東北地方征圧のために国によって造られた古代城柵の一つで、東北地方の政治や軍事、文化の中心となった多賀城の創建と修復の年を刻んだ古碑である。
概要
群馬県の多胡碑、栃木県の那須国造碑とともに日本三古碑とされる。平成10年6月30日に国の重要文化財(古文書)に指定され、2024年3月15日に開かれた文化庁の文化審議会で国宝に指定するよう答申された。 多賀城の南門近くにある丘陵上の小堂の中に建つ。高さ196cm、最大幅92cmの材質は花崗岩質砂岩で、ほぼ真西向きに立つ石碑である。碑面をほぼ真西に向ける。碑面に141字の文字が彫られる。前段では多賀城の位置を書き、後段では大野東人が多賀城を築き、藤原朝狩が修造したことを記す。奈良時代から平安時代にかけて東北地方の政治や軍事、文化の中心として栄えた多賀城の創建年代は、続日本紀に記載が無く、724年(神亀元年)に創建されたことを伝える唯一の歴史資料である。希少な奈良時代の金石文として価値が高いと評価される。
発見
多賀城碑は江戸時代の寛文・延宝年間に発見された。土中からの出土とも伝えられる。 1689年(元禄二年)には松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅の途中で立ち寄った。のちに徳川光圀の注目するところとなり覆屋を作った。
拓本の文字(原文)
- 西
- 多賀城
- 去京一千五百里
- 去蝦夷國界一百廿里
- 去常陸國界四百十二里
- 去下野國界二百七十四里
- 去靺鞨國界三千里
- 此城神龜元年歳次甲子按察使兼鎭守將
- 軍從四位上勳四等大野朝臣東人之所置
- 也天平寶字六年歳次壬寅參議東海東山
- 節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
- 將軍藤原惠美朝臣朝獦修造也
- 天平寶字六年十二月一日
(大意)
- 京を去ること一千五百里
- 蝦夷國の界を去ること百二十里
- 常陸国の界を去ること四百十二里
- 下野國の界を去ること二百七十四里
- 靺鞨國の界を去ること三千里
- 此城は神龜元年、歳は甲子に次る 按察使兼鎭守將軍
- 從四位上勳四等大野朝臣東人の置くところなり。
- 天平寶字六年、歳は壬寅に次る
- 參議東海東山節度使從四位上仁部省卿兼按察使鎭守
- 將軍藤原惠美朝臣朝獦が修造した。
- 天平宝字六年十二月一日
偽作説
新井白石は、学識の浅い者が書いた偽作であると断じた。偽作説の根拠は以下の通り。
- 藤原朝狩(藤原朝獦)は天平宝字6年(761年)12月1日に参議であることはおかしい。
- 靺鞨国は渤海国であるべきだ。
- 記載された里程は正史に合致しない。
- 他の碑とは形が異なる。
- 多賀城碑は江戸時代に、仙台藩が佐久間洞巖に命じて作らせた偽作である
真作説
以下の理由から碑の内容と矛盾するものではなく、真作と確定した。
- 藤原朝狩(藤原朝獦)は天平宝字六年十二月一日に参議に就任した。
- 中国史書(旧唐書)に渤海国は渤海靺鞨と書かれる。続日本紀にも靺鞨は登場する。
- 里程は実際の距離ではない。
- 碑文の文字配置は奈良時代の天平尺が使われている。
- 碑の形は中国の円首碑と呼ばれる伝統的な様式である。
- 多賀城跡の発掘調査により、造営開始年代は720年から721年の間と判明した。
- 724年に造営が完了したとしても、矛盾はない。
- 多賀城の修造年代は749年から767年の間と判明した。碑の記載と矛盾がない。
- 碑は建立当初からこの場所にあったことを示す証拠が出た。
考察
続日本紀にに多賀城の記載がないのは、天平宝字8年(764年)9月の藤原仲麻呂の乱で藤原朝狩(藤原朝獦)が逆賊になった(反乱を起こした)ため、藤原朝狩の功績の一部なので、記載されなかったのではなかろうか。
アクセス等
- 名称:多賀城碑
- 所在地:〒985-0864 宮城県多賀城市市川字田屋場54
- 交通:JR東北本線国府多賀城駅から徒歩14分
参考文献
- 平川南(1999)「古代碑文のかたるもの」『よみがえる古代の碑」財団法人歴史民族博物館振興会
最近のコメント