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卑弥呼と大和王権2024年12月17日 01:11

卑弥呼と大和王権(ひみことやまとおうけん)は2024年12月07日に開催された古墳時代の大和に関する講演会である。

概要

  • タイトル 「卑弥呼と大和王権-古墳時代の大和を考える-」
  • 主催    大和文化会
  • 会場    銀座ブロッサム 中央会館(東京都中央区銀座2-15-6)
  • 定員 900名(申込先着順)
  • 日時    2024年12月08日(日) 14時00分から16時00分

講演1 12時50分~14時10分

「倭王のイメージ -古墳と王権-」

奈良県立橿原考古学研究所 学術アドバイザー 岡林孝作先生

倭王のイメージは『魏志倭人伝』に記載されている。最初の前方後円墳は250年頃に築かれたから、『魏志倭人伝』は同時代史料であり、貴重である。「大王」の初出は埼玉稲荷山鉄剣の銘文と江田山古墳の鉄剣銘である。倭王朝は中国の王朝と交流があった。262年に伊与を告諭しており、266年張政の帰国を送ったとされる。

桜井茶臼山古墳に見られるように倭王は産業を支配する王であった。当時の朱は非常に高価であった。それを多量に使用する王墓を作っていることは、倭王が強大な財力を持っていたことを示す。当時の倭は豪族連合の国家であったが、その中で倭王の前方後円墳は、同時期で最大の規模の古墳であり、その時代の階層的構成(秩序)の頂点にある。

講演2 14時30分~16時00分

「纒向遺跡とヤマト王権-私の邪馬台国論-」

桜井市纒向学研究センター 所長 寺沢薫先生

卑弥呼は巫女のイメージと弥生中国のイメージとがある。弥生時代は「白鷺=神」であったから、白鷺の扇を持ち、絹傘を差し掛けている。服は白ではなく、トキ色、すなわち黄色ものある白である。ところで纏向遺跡は発見されてからすでに50年を経過する。

『日本書紀』によれば、崇神の王統は三輪山西南麓の磯城・纒向に宮を構えたとされている。垂仁は纏向に都を定めたと書かれる。纏向の名前は古くからある。纏向遺跡は2世紀では集落は何もなく、3世紀になって突然に出現した都市である。農業を行った痕跡は極めて薄い。一方、唐古・鍵遺跡からは農具が多く出土するので、大きな違いがある。

唐古・鍵遺跡から纏向遺跡に移住したとは考えにくい。唐古・鍵遺跡では伐採用斧の柄、竪杵、一木鋤、平鍬 鎌、杵などの木製農耕具が出土する。一方、纏向遺跡からは鎌や鍬が出土しない。95%は鋤などの土木用具である。当時の纏向遺跡は物流・交通の要衝であった。纏向に登場した前方後円墳は倭国の全国に広がった。纏向遺跡に祭祀の象徴として最も古い段階の導水遺構がある。さらに大型の王宮が発見されている。前方後円墳は、初期型の石塚古墳、矢塚古墳、ホケノヤマ古墳が定型化されて勝山古墳と東田大塚古墳が登場した。それらから最初の定型的前方後円墳の箸墓古墳が登場した。最古の希少品として、倭の天蚕で作られた絹製品が出土し、紅花やバジルの花粉が見つかっている。西アジアから中国経由で齎された貴重品である。纏向遺跡からは北部九州から南関東までの各地の土器が出土している。

弥生時代200年頃までに紀元前の北部九州で「国家」が登場した。橋口氏が弥生時代の戦死者リストを作成しているが、ほとんどの使者は北部九州であった。最初の倭国王帥升は伊都国王であり北部九州にいた。

その後に倭国乱があり、卑弥呼共立の時期のAD204年以後は、纏向遺跡に政権が移動した。新生倭国は女王を王とした。纏向遺跡は邪馬台国の王都ではない。倭国の首都である。卑弥呼は大和政権の最初の王(大王)である。王国と呼んで良いだろう。ここから飛鳥時代の明日香に繋がる。

参考文献

  1. 「卑弥呼と大和王権-古墳時代の大和を考える-」講演資料、大和文化会
  2. 岡林孝作(2018)『古墳時代棺槨の構造と系譜』同成社
  3. 寺沢薫(2008)『王権誕生』講談社
  4. 寺沢薫(2023)『卑弥呼とヤマト王権』中央公論新社

弥生時代2024年12月17日 23:45

弥生時代(やよいじだい,Yayoi Period)は日本の時代区分のひとつである。縄文時代の次の時代で、古墳時代の前の時代である。

概要

弥生時代前史

藤尾慎一郎(2015)によれば、朝鮮半島では紀元前13世紀に畑作が始まっていた。朝鮮半島で水田耕作が始まるのは紀元前11世紀からとされる。蔚山広域市(ウルサンコウイキシ)のオクキョン遺跡(蔚山広域市)では紀元前11世紀の水田跡が見つかっている(参考文献5)。水田の1区画は1から3平方メートルの小区画で、かなり小規模の水田である。朝鮮半島では環濠集落も作られた(参考文献5)。 島根県板谷Ⅲ遺跡では紀元前11世紀の突帯文土器の表面に稲籾のスタンプがついていたが、水田跡はみつかっていない。稲は紀元前11世紀でも入っているが、朝鮮半島との交流が伺える。

弥生時代

朝鮮半島で稲作が始まった後、朝鮮半島南部の人々、洛東江下流域の人々が当時の倭国(日本)に渡り、水田稲作文化を伝えたと考えられている(参考文献5,p.40)(参考文献6)。 弥生時代の社会は作物として米を作るだけでなく、稲作を効率的に行う労働組織、物資交換の仕組みがあり、豊作を願う祭祀を行うなど米中心の社会組織をもつ人々である。 日本で最も古い水田耕作を行っていた村の一つは有田七田前遺跡である。ここには水田跡こそみつかっていないが、米を作っていたのは間違いないとされている(参考文献5,p.48)。 最古の水田は菜畑遺跡、福岡板付遺跡、野多目遺跡である。森林を切り開き、水路を切削し、杭、横木、矢板を使っていた。菜畑遺跡では紀元前9世紀の最古の水田跡が見つかっている。 日本の水稲農耕の起源は北部九州であり、そこで最初に水稲農耕が始まったとされる。1951年から1954年にわたる日本考古学協会と福岡県教育委員会との合同調査により出土した炭化米によって、弥生時代のはじめから、すでに稲作が行われていたことが確認されたとする(参考文献4)。

水田稲作の開始年代

藤尾慎一郎(2015)によれば、2007年に福岡市橋本一丁田遺跡の方形浅鉢の外面に付着していた「すす」の放射性炭素14年代測定を行い、「2760±40炭素年」の結果を得た。水田稲作の開始年代は紀元前10世紀までさかのぼるとした(参考文献6,p.55)。

弥生土器の発見

1884年に東京都の弥生二丁目遺跡で見つかった壷の発見は縄文土器と異なる「弥生式土器」として認識されていた。1951年から1954年に行われた福岡市板付遺跡の発掘調査で縄文時代晩期の「夜臼式土器」に伴って発見された弥生土器は「板付Ⅰ式土器」と呼ばれ、最古の弥生土器として認定されている(参考文献1,2)。その後、弥生時代は土器より、水稲農耕の存在で始まりとする考え方が主流となっている(参考文献3)。

時代区分

先行する時代は縄文時代であり、後の時代は古墳時代である。

弥生時代の開始年代

判定基準

弥生時代の開始を何により判定するかは3説がある。

  1. 水田稲作の開始 - 藤尾慎一郎
  2. 農耕社会の成立 - 石川日出志
  3. 弥生土器の登場 -

実年代

また、弥生時代の開始実年代については3説がある。

  1. 従来説 紀元前5世紀から4世紀
  2. 歴博説 紀元前10世紀
  3. 九大説 紀元前9世紀から8世紀
  • 現在では従来説は否定され、(2)と(3)を合わせた紀元前9世紀が教科書に記載されている(山川日本史)。ただし帝国書院は教科書の本文では、通説に従った紀元前300年と記述し、注釈で紀元前10世紀としている。 弥生時代の最古型式土器は、北部九州の福岡県板付遺跡や佐賀県菜畑遺跡などの灌漑水田址に伴う突帯文土器「山の寺・夜臼Ⅰ式土器」とされているので、水田稲作の開始が紀元前10世紀になれば、同じ年代となる。

弥生時代の戦乱

弥生時代に戦乱が起きていたとされる。倭国乱(倭国大乱ともいう)と言われる。国立歴史民俗博物館の副館長の佐原眞教授は弥生時代の石鏃は縄紋時代のものと比べて格段に大きくなり、弓矢が狩猟の道具から人を殺傷する武器に転用されたと指摘した。「縄文時代には(殺傷)専門の武器はなかった。弥生時代は人を殺すための武器が生まれた時代である」(参考文献4)。また高地性集や環濠集落が現れた。これらは弥生時代の戦乱と関連していると見る説がある。

弥生時代の建物

弥生時代の代表的な建築は地面を掘り竪穴式住居と地面に柱を建てて地上に建物をつくる掘立柱建物である。竪穴式住居は主に住居として使われた。掘立柱建物は床をつくる高床式建物と平地式建物とがあるが、主に倉庫として使われたとみられる。祭祀の性格を備えた大規模な建物も作られた。 竪穴式住居は少ない材料で住み易い環境を作るための工夫と考えられる。半地下式にすることにより風を妨いだものと想定される。

参考文献

  1. 弥生式土器の時代/福岡市博物館
  2. 板付遺跡/九州大学
  3. 福岡市博物館「 No.294 弥生時代はいかに始まったか」
  4. 佐々木高明編(1983)『日本農耕文化の源流―日本文化の原像を求めて』日本放送出版協会
  5. 石野博信編(2015)『倭国乱とは何か』新泉社
  6. 藤尾慎一郎(2015)『弥生時代の歴史』講談社
  7. 安在晧(2009)「松菊里文化成立期の嶺南社会と弥生文化」『弥生文化誕生 弥生時代の考古学2』 同成社
  8. 藤尾慎一郎(2024)『弥生人はどこから来たのか』吉川弘文館
  9. 石川日出志(2010)『濃耕社会の成立』岩波書店

紫檀木画双六局2024年12月17日 23:56

七支刀

紫檀木画双六局 (したんもくがのすごろくきょく,Sugoroku Gaming Board)は正倉院に収蔵されている木製の双六盤である。

概要

明治時代に双六盤として名付けられた4具のうちの一つとされる。 天板の長辺に木画の三日月形をはさみ各辺に6個の花形を飾る。

由来
中国にシルクロード経由で双六が伝わり、その後、日本には奈良時代に伝わった。国家珍宝帳記載の木画紫檀双六局(北倉37)と、形状、大きさ等が似ている。

概要
紫檀地に木画による装飾を作出する。長側面に2つ、短側面に1つの格狭間を配置する。天板の周囲には双六のサイコロを止めるための立ち上がりを設置する。側面には立ち上がりや脚に花唐草文、鳥、雲、鳥にまたがる人物を描く。木画素材に象牙、黄楊木、緑染鹿角・水牛角・鉄刀木・竹を用いる。
類例
正倉院に下記双六局の類例がある。

      
No 名称 保管備考
1 木画紫檀双六局 北倉 37 [[国家珍宝帳]]記載
2 木画螺鈿双六局第1号 中倉 172 弾棊盤の可能性
3 沈香木画双六局第2号 中倉 172 立ち上がりがない
4 紫檀木画双六局 第3号 中倉 172 本品
5 榧双六局 第4号 中倉 172 立ち上がりがない

日本で現存する最古の双六道具は、朝鮮から渡来した「木画紫檀双六局」である。『鳥獣人物戯画』丙巻に2匹の猿が「盤双六」と小道具を抱えて走る姿が描かれている。

海外における古代のボードゲーム
紀元前にイラク、エジプト等の遺跡から出土された「遊戯盤双六」がある。
増川宏一(1995)によれば、「古代メソポタミア文明時代のウル王朝のボードゲームは、イラク南部のウル第三王朝の王墓から発掘されたものとし、紀元前2600年頃のウルの繁栄と富裕を象徴し、古代世界で最も優美で精巧な細工の遊戯盤として知られている。ロイヤルゲーム・オブ・ウル(Royal Game of Ur)と呼ばれている」とする(参考文献3,pp.16-26)。新彊ウィグル自治区吐魯番のアスターナ墓地206号墓から出土した「螺銅木双陸棋盤」は、長さ28.0cm、高さ7.8cmで〔参考文献2〕、その形状・盤面の装飾が正倉院の「木画紫檀双六局」と似るとしている(参考文献1,p.32)。

表記
すごろくは「双六」のほか「雙六」、「寿語六」、「須語陸」、「須具侶久」、「雙陸」とも書かれる。

展示歴
+1946年 - 第1回
+1949年 - 東京国立博物館、御物特別展
+1955年 - 第9回
+1964年 - 第17回
+1979年 - 第32回
+1991年 - 第43回
+1995年 - 第47回
+2008年 - 第60回

管理
-名称 :紫檀木画双六局 第3号
-倉番 :中倉 172
-用途 :遊戯具
-技法 :木竹工
-寸法 :縦30.6cm,横54.4cm,高17.8cm
-材質:紫檀 木画(黄楊木・紫檀・象牙・緑染鹿角・水牛角・鉄刀木・竹) 稜角は象牙

参考文献
1.山本忠尚(2012)「古代の盤上遊戯 数の呪力と考古学(その3)」中国文化研究 (28), pp.21-43
2.新彊維吾爾自治区博物館(1975)『新彊出土文物』文物出版社
3.増川宏一(1995) 『すごろく 1』法政大学出版局
4.game-board of Ul 大英博物館HP