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台渡里遺跡2025年02月07日 00:50

台渡里遺跡(だいわたりいせき)は、茨城県水戸市渡里町にある飛鳥時代、奈良時代から平安時代に渡る遺跡である。「台渡里官衙遺跡」ともいう、

概要

台渡里遺跡は国指定史跡「台渡里廃寺跡」の観音堂山地区,南方地区の東西に広がる遺跡であり、那珂川右岸の標高31mから34mの台地縁から中央平坦面にかけて広がる遺跡である。 7世紀後半以前に営まれた豪族居館もしくは評段階に遡る初期官衙が検出された。7世紀末から8世紀初頭頃に位置付けられる竪穴建物跡1棟が確認された。長方形のプランの可能性が高い。台渡里の台地上ではこれまでに7世紀末頃の竪穴建物跡が多数確認されているが、平面プランが長方形を呈するものはアラヤ遺跡(第1地点)の工房に続き、2例目となる。床面および床面直上より出土した砥石3点は、金属器等の刃部の仕上げや維持・補修に係るものと見られる。鍛冶工房かどうかはは定かではないが、砥石が出土したことから金属器の等の刃部の仕上げや維持・補修が行われていた可能性が高い。本遺跡が立地する台地上に7世紀第4四半期から8世紀前葉にかけて那賀郡周辺寺院や那賀郡衙正倉院が造営されており、郡衙周辺寺院や郡衙正倉院の造営に必要な金属器の生産・維持・補修を行っていた造営集落が郡衙周辺寺院や郡衙正倉院の近隣に展開していた。「厨口」銘の墨書土器が出土した。

調査

1939年の第一次調査では7 世紀後半から8 世紀初頭の竪穴住居跡4 軒,溝6 条,建物跡2 棟が検出された。1943年の第三次調査では「之十二」銘文字瓦、瓦塔片 「徳輪寺」銘文字瓦 文字瓦が多数出土した。1971年の第五次調査では「往生料」銘の墨書土器が出土した。第24次調査では「備所」銘墨書土器が出土した。「備所」は租税を備蓄しておくための施設名が想定されている。64次調査では工房として機能していたとみられる長方形の竪穴建物跡が1 棟確認され,金属器の研磨に用いられたとみられる砥石などが出土した。第1号竪穴建物跡は大半が調査区外に延びており、全容は解明できなかった。廃絶年代は8世紀第 2四半期から第3半期の間とみられる。砥石は鉄製品の維持・補修のために使用していたとみられる。

遺構

  • 溝1
  • 竪穴建物7
  • 掘立柱建物3
  • 礎石建物1
  • 土坑

遺物

  • 土師器
  • 須恵器
  • 炭化米
  • 砥石

アクセス等

  • 名称:台渡里遺跡
  • 所在地:茨城県水戸市渡里町2909-1、2973-1
  • 交通:

参考文献

  1. 水戸市教育委員会(2008)「台渡里遺跡」水戸市埋蔵文化財調査報告第15集

東奈良遺跡2025年02月07日 23:58

東奈良遺跡(ひがしならいせき)は大阪府茨木市にある弥生時代から鎌倉時代までの複合遺跡である。

概要

大阪府北部の千里丘陵から舌状に伸びる微高地に位置する。南北1500m、東西800mの規模で、弥生時代前期から鎌倉時代までの大きな集落遺跡である。

調査

弥生時代の方形周溝墓が見つかっている。 1971年(昭和46年)4月、茨木市東奈良2丁目の小川水路改修工事中に多量の土器・石器・銅鏃などが採集されたことから発見された。遺構の南東部では弥生時代中期後葉の鋳造関係遺物が大量に見つかっている。銅鐸を中心とした青銅器やガラス製品を作っていた。 奈良県の唐古・鍵遺跡と並ぶ当時における日本最大級の銅鐸や銅製品の工房遺跡である。 出土品の再調査では銅鐸を描いた絵画土器を確認した。それが出土した土坑からは大型の壺や器台が見つかった。

小銅鐸

高さが14.4cm、最大幅9.9cmの小の銅鐸が見つかっている。朝鮮式小銅鐸に形状が近く、銅鐸の源流とみられる。銅鐸に描かれた文様は、縄文時代晩期の文様であった。

遺構

弥生中期

  • 方形周溝墓2
  • 土壙墓1
  • 環濠

遺物

  • 小銅鐸
  • 弥生土器
  • 土師器
  • 高坏状土製品
  • 須恵器
  • 黒色土器
  • 瓦器
  • ガラス玉

指定

展示

  • 名称:茨木市立文化財資料館
  • 所在地:茨木市東奈良3丁目12-18
  • 開館時間:午前9時~午後5時

アクセス等

  • 名称:東奈良遺跡
  • 所在地:大阪府茨木市東奈良/奈良町/小川町/若草町/天王1丁目17-13ほか
  • 交通:南茨木駅 徒歩6分

参考文献

文化庁(2015)『発掘された日本列島 2015』共同通信