近つ飛鳥博物館 ― 2025年05月24日 00:26
近つ飛鳥博物館(ちかつあすかはくぶつかん)は大阪府南河内郡河南町にある歴史系博物館である。正式名は「大阪府立近つ飛鳥博物館」である。
概要
古墳時代から飛鳥時代にかけての時代、古代国家の黎明期の歴史を主なテーマとして展示や講座・研究・教育などを行う公立博物館である。1994年に開館した。「近つ飛鳥」は『古事記』に記載された名称であり、難波から大和の石上神宮へ向かう途中に宿泊した場所で、河内、現大阪府羽曳野市、太子町の二上山西側の山麓付近を「近つ飛鳥」と呼んでいた。「遠つ飛鳥」は、大和(現奈良県)の飛鳥をいう。近つ飛鳥では渡来人が持ち込んだ文化が盛んであった。「河内飛鳥」ともいう。近つ飛鳥博物館は一須賀古墳群のある近つ飛鳥風土記の丘の付近に建設されている。
所蔵品
- 美園古墳 家形埴輪1【重要文化財】大阪府八尾市美園古墳出土(考古資料)
- 大修羅・小修羅 【重要文化財】 藤井寺市三ツ塚古墳出土。
- 大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の復元模型(直径10m、1/150)
- 長屋王邸跡から出土した木簡【複製品】
- 一須賀古墳群WA1号墳 金銅製沓(くつ)復原模造品
- 応神陵古墳外堤 笠形木製品
- 萱振1号墳 靫形(ゆぎがた)埴輪
- 鹿谷寺(ろくたんじ)石塔模型
- 前塚古墳出土「長持形石棺」
- 蕃上山古墳出土「男子人物形埴輪」
- 萱振1号墳出土品
- 塚廻(ツカマリ)古墳 漆塗籠棺・榛原石磚
- 小具足塚古墳 盾形埴輪
- 河内国分寺跡・衣縫廃寺 鬼瓦
- 大園古墳・土師の里遺跡 鶏形埴輪
- 美園古墳 壺形埴輪
- 青山2号墳 人物埴輪 足部・頭部
- 古室遺跡 冑形埴輪
- 御旅山古墳 底部穿孔壺形土器
- 伽山古墓 銀製銙帯 鉄製鈴付き刀子出土状況
- 一須賀O-6号墳組合せ式家形石棺
- 余部日置荘遺跡 木製叩き具・当て具
- 小島東遺跡 製塩土器
- 伝安閑天皇陵古墳 カットガラス碗 復原模造品
- 蕃上山古墳 甲冑形埴輪
- 南花田遺跡 墨書土器
- 土師の里遺跡 大刀形埴輪
- 蕃上山古墳 巫女形埴輪
- 青山5号墳 埴輪円筒棺
- 金山古墳 家形石棺復原模型
- 土師の里遺跡出土の紡錘車形石製品
- 土師の里遺跡 盾形埴輪
- 津堂城山古墳 翳(さしば)形埴輪
- 讃良郡条里遺跡の扉材
- 子持勾玉
- 馬の復元模型と古代の馬
- アリ山古墳副葬庫埋納時再現模型
- 津堂城山古墳 水鳥形埴輪(複製品)
- 一須賀O-5号墳出土状態再現
- 役人たちの墓誌3点(複製品)
- 一須賀古墳群出土 ミニチュア炊飯具形土器
- 安福寺石棺 複製品
- 下級役人の勤務評定木簡【複製品】
- 堂山1号墳 三角板革綴衝角付冑・錣三角板革綴短甲【大阪府指定文化財】
考察
交通はバス便しかなく、その本数も少ないから不便である。しかし館内は広く、埴輪が大量に並ぶところは壮観である。修羅は他では見ることができない貴重なモノである。同じ内容で交通の便利なところにあれば、いつも満員になったでありましょう。安藤忠雄の建築設計であるが、あまり良いできとは思えない。
アクセス等
- 名称:近つ飛鳥博物館
- 所在地:〒585-0001 大阪府南河内郡河南町大字東山299番地
- 入館時間 10:00-17:00
- 休館日:毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は火曜日が休館)年末年始(12/28~1/4)
- 料金:おとな310円/高校生・大学生・65歳以上の方210円
- 交通:近鉄長野線「喜志」駅下車、金剛バス阪南線に乗車「近つ飛鳥博物館前」停下車
注・参考文献
勅使塚古墳 ― 2025年05月24日 00:32
勅使塚古墳(ちょくしづかこふん)は富山県富山市に立地する古墳時代の前方後円墳である。
概要
県内最古の大型前方後方墳で、3世紀末の築造とされている。平野との比高約100mの丘陵尾根上にあり、標高130m、羽根丘陵の尾根上に立地する全長66mの前方後方墳である。
調査
富山大学人文学部考古学研究室による精緻な測量調査が行われ,全長70mの前方後方墳であ るとされた(富山大学1990)。墳丘後方部裾は周溝下端で、標高は128,02mである。墳丘は地山を削り出し,標高130.25m付近まで約53度の急勾配で立ち上がる。勅使塚古墳は前方部を北東に向ける前方後方墳である。盛土は前方部の先端のごく僅かな部分と後方部の大部分である。勅使塚古墳は、やや四隅が突出した糸巻き形に近い形態の後方部と、低く撥形に開く前方部をもつ、最古式であり定型化された墳丘形態である。
規模
- 形状 前方後方墳
- 築成 前方部:1段、後方部:2段
- 墳長 66m
- 後円部径 1辺35m 高8.84m
- 前方部 幅24m 長31m 高3.56m
遺構
遺物
- 縄文土器
- 土師器
- 須恵器
- 甕
- 壺
- 二重口縁壺
- 鉢
- 高杯
- 器台
- 蓋
築造時期
- 3世紀末
展示
- 弥生の丘展示館
指定
- 1965年(昭和40年) 富山県指定史跡
考察
定型化された前方後円墳が3世紀の富山まで及んでいることは、邪馬台国近畿説でなければ説明できない。九州説では前方後円墳を九州エリア内に限らなければならないことになり、邪馬台国九州説では古式の前方後円墳が3世紀に富山まで及ぶ現象を説明することができないと考える。3世紀末ということは遅くとも290年-299年頃が想定でき、箸墓が250年頃とすると、わずか40年くらいで遠くの富山まで古式の前方後円墳の築造スタイルが及んだことになる。
アクセス等
- 名称:勅使塚古墳
- 所在地:〒939-2603 富山県富山市婦中町羽根3-13-1
- 交通: JR高山本線 速星駅 タクシー 10分
参考文献
- 財団法人富山県文化振興財団(2003)「平成10年度婦負郡婦中町 勅使塚古墳」埋蔵文化財発掘調査報告第21集
北中島西原遺跡 ― 2025年05月24日 18:44
北中島西原遺跡(きたなかしまにしはらいせきき)は熊本県にある旧石器時代を中心とする遺跡である。
概要
北中島西は熊本県東部の山都町にある。九州横断自動車道延岡線建設工事に伴う発掘調査により旧石器時代の石器群が見つかった。平成22年から平成24年度にかけて、熊本県教育委員会が発掘調査を実施した。旧石器時代、縄文時代、弥生時代の遺物が重層的にみつかった。 遺跡の地層は12層からなるが、上から9層目のⅨa層から約3万年前の姶良カルデラ噴火に伴う火山灰が確認された。石器はその直下のⅨb層を中心に出土した。当時の生活面と考えられた。旧石器時代文化層は、Ⅸ- b 層から出土し、出土したナイフ形石器は型式学的に明確な時期差がなく、ほぼ単一と考えられた。 主な検出遺構は旧石器時代の15基の礫群、縄文時代早期の土坑、弥生時代後期から古墳時代初頭と推定される竪穴建物などである。 出土した石器はナイフ形石器、石核、剥片などである。石器は4000点以上出土し、石を集めて火をたいた礫群が検出された。本遺跡にいくつかの文化層が存在する可能性も指摘されている。縄文時代では落とし穴を用いた狩猟が行われていたと裏付ける成果があった。
放射性炭素年代
測定対象試料は、礫群や炭化物集中部等から出土した炭化物22点である。炭化物は、Ⅴb 層、Ⅶ層上面、Ⅸa 層上面、Ⅸb 層上面及び中位面より出土し、いずれも旧石器時代の遺構、遺物が検出された層である。結果は22点中の21点は、後期旧石器時代前半期から後半期に相当する年代値であった。出土層位の上下関係及びテフラとの前後関係に整合的な結果となる。
遺構
- 礫群
- 土坑
- 竪穴建物
遺物
- 旧石器
- 弥生土器
展示施設
指定
考察
アクセス等
- 名称: 北中島西原遺跡
- 所在地: 熊本県上益城郡山都町北中島字古皿木
- 交通:
参考文献
会津大塚山古墳 ― 2025年05月24日 18:57
会津大塚山古墳(あいづおおつかやまこふん)は福島県会津若松市にある4世紀の前方後円墳である。日本百名墳に選出されている。
概要
会津盆地の東南部、標高270mの独立丘陵の端に位置する。福島県内では雷神山古墳、亀ヶ森古墳につぐ3番目の規模の古墳である。前方部は北面し後円部は南面する。くびれ部東側に出張部を付設する。墳長は114m、後円部 直径70m、高さ6mである。会津地方で最古の古墳と考えられる。後円部で堀を造り、その土を盛り上げて墳丘を形成した。 葺き石、埴輪などの外表施設はない。四世紀前半説と後半説があるが、碧玉紡錘車、素環頭大刀など遺物から古墳時代前期と推定されている。三角縁神獣鏡や環頭太刀などヤマト王権との密接な関係を示す遺物が見られる。
発掘調査
1920年に鳥居龍蔵により前方後円墳と指摘されていたが、長い間忘れられていた。 1964年に東北大学の伊藤信雄により発掘調査が行われた。会津大塚山古墳は大規模な前方後円墳であることが確認された。1989年に新潟大学の甘粕健らにより墳丘の再調査が行われ、従来の確認していたより大規模な古墳であることが判明した。
内部主体
内部構造は主軸の南北方向と直交する木棺直葬で東西に2列がある。南側の木棺直葬は長さ9.3m、幅1.1mであり、北棺は長さ7m、幅1mであった。最初に南館が設置され、埋め戻された後に北棺が埋められたと推定されている。
副葬品
副葬品は重要文化財に指定され、福島県立博物館に所蔵される。 最初に埋葬された南館の被葬者に「倭製三角縁神獣鏡、変形四獣鏡、三葉環頭大刀、硬玉勾玉、碧玉管玉」が添えられ、枕元に多数の銅鏃がある。鉄鏃を入れた朱漆塗りの直弧文のある靭が安置されていた。その他、鉄製農耕具等を含め242点が副葬されていた。やや遅れて埋葬された北棺からは捩文鏡、鉄鏃と銅鏃を入れた靭・紡錘車製石製品・玉類・鉄製武器などが95点が検出された。東北地域でこれだけの副葬品を出土した古墳は見当たらない。副葬品の多くは畿内から移入されたモノか、または畿内文化の強い影響を受けたモノである。被葬者とヤマト王権の関係を検討しなければならない。長い割竹型木棺の中央に遺体を置き、その周囲に青銅鏡を中心として多数の武器、武具を配置して埋葬する方法は初期ヤマト王権の前期古墳の特徴と一致する。豊富な副葬品の中でも、南館の頭上に置かれた三角縁神獣鏡と、遺体の脇に置かれた三葉環頭大刀が特に注目される。
三角縁神獣鏡
三角縁神獣鏡は初期ヤマト王権と同盟を結んだ各地の豪族に配られたものとされている。したがって南館に改葬された人物は初期ヤマト王権と同盟を結び、その一翼を担った人物と考えられる。三角縁神獣鏡は東北で唯一の出土例である。この三角縁神獣鏡は岡山県の鶴山丸山古墳と同范であり、大阪府茨木市の紫金山古墳出土鏡と類縁がある。
三葉環頭大刀
三葉環頭大刀は遺体のすぐ近くに置かれていた。他の刀剣類は頭より上か足下に置かれており、被葬者にとって特別なものであったと見られる。全長120cm、刃の部分だけで90cmの大刀である。同時期の三葉環頭大刀は大和や九州に僅かに知られるのみであり、東日本では他に類例がない。
規模
- 形状 前方後円墳
- 築成 前方部:2段、後円部:2段
- 墳長 114m
- 後円部 直径70m 高13m
- 前方部 幅50m 長55m 高6m
主体部
- ①割竹形木棺、②割竹形木棺
外表施設
- 葺石 なし
遺物
- ①三角縁唐草文帯三神二獣鏡・変形四獣鏡 仿製鏡
- ②捩文鏡
- ①堅櫛2
- ①硬玉勾玉
- 碧玉管玉・
- ガラス小玉・
- 琥珀算盤玉 ②
- 碧玉管玉
- 碧玉製紡錘車
- 三葉環頭大刀・
- 直刀・
- 小刀・
- 鉄鏃・
- 銅鏃
- 靭
- 靭残片
- 斧・
- 鋤(または鍬先)・
- 鉇・
- 刀子
- 棒状鉄器
- 砥石・
- 石杵・
- 台石
築造時期
- 4世紀第2四半期または第2四半期と推測されている。
被葬者
展示
- 福島県立博物館
考察
副葬品は4世紀段階でヤマト王権の影響が東北南部まで及んでいた証拠となる。会津大塚山古墳の近くの堂ケ作古墳(84m)、飯盛山古墳(60m)が確認された。築造年代順は堂ケ作古墳⇒会津大塚山古墳⇒飯盛山古墳となる。これらの古墳群は「一箕古墳群」と呼ばれる。三代に渡る王墓と考えられる。4世紀世紀段階に歴代に渡り会津地方を治めた豪族が想定される。
指定
- 1977年06月11日 重要文化財(美術品) 出土品337点
アクセス等
- 名称 :会津大塚山古墳
- 所在地 :福島県会津若松市一箕町八幡
- 交 通 :JR会津若松駅からバス15分
参考文献
- 大塚初重(1982)『古墳辞典』東京堂
- 後藤 守一(1931)『埴輪家の研究』人類學雜誌,46 巻9 号
- 竹谷陽二郎,藤沢敦,川村浩司,甘粕健(1989)『会津大塚山古墳測量調査報告書』会津大塚山古墳測量調査団
- 会津若松史出版委員会(1975)『会津大塚山古墳』學生社
- 辻秀人(2006)『東北古墳研究の原点・会津大塚山古墳』新泉社
飛鳥板蓋宮 ― 2025年05月24日 20:32
飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきみや)は奈良県高市郡明日香村岡にある7世紀半ばの皇極天皇の宮殿である。
概要
中大兄皇子(天智天皇)らのクーデターにより蘇我入鹿が暗殺された乙巳の変の舞台となった宮殿である。 642年、春正月、舒明天皇が逝去した翌年に天豐財重日重日足姫は即位して皇極天皇となった。642年9月、皇極は9月から12月にかけて宮殿を作りたい、国々から木材を集めたい。東は遠江、西は安芸から宮を作る丁を挑発するとの詔を発した(『日本書紀』)。飛鳥宮Ⅱ期遺構が飛鳥板蓋宮である。
遺構
飛鳥宮Ⅱ期遺構はⅢ期遺構の下にあるため、詳細は明らかではない。正方位をとる二重の方形区画が検出されている。 飛鳥宮跡は、調査により飛鳥板蓋宮(皇極天皇)だけでなく、飛鳥岡本宮(舒明天皇)や、飛鳥浄御原宮(天武・持統両天皇)など、複数の宮が断続的に置かれたことが判明している。平成28年に、名称は伝飛鳥板蓋宮跡から「飛鳥宮跡」に改められた。
飛鳥板蓋宮
当時は宮殿と言えども板蓋の屋根は珍しかったと推定されている。それ以前の宮は草葺であったと考えられる。豪華な厚い板で宮殿の屋根を葺いたと見られる。643年(皇極二年)4月に權宮(かりみや)から移り、新築された飛鳥板葺宮に移った(「自權宮移幸飛鳥板蓋新宮」)。『日本書紀』に書かれる「大極殿」「十二通門」は実際にはなかった。 655年冬に飛鳥板蓋宮が焼失したため、斉明天皇は一時的に飛鳥川原宮に遷った。その後、新たな宮(飛鳥岡本宮)を造営した(「是冬、災飛鳥板蓋宮、故遷居飛鳥川原宮。」)。 飛鳥板蓋宮に比定されるのは、飛鳥宮のⅡ期遺構である。大規模の土地造成を行うことにより、広さのある平坦地を作り出した。しかしⅡ期遺構の検出例は少ない。Ⅱ期遺構はⅢ期遺構と重なり、発掘調査でⅡ期遺構を調べようとすると、Ⅲ期遺構が破壊されるからである(参考文献2)。現在復元されている石敷広場や大井戸跡は上層の飛鳥浄御原宮のものである。 645年に難波に遷都した際でも、飛鳥板蓋宮は維持されたようである。653年に中大兄皇子が皇祖母尊(皇極)、間人皇后らとともに飛鳥に戻り、孝徳天皇の崩御後は皇極は飛鳥板蓋宮で即位(重祚)し、斉明天皇となった。その年に飛鳥板蓋宮は火災に遭い、飛鳥川原宮に移転する。 656年、新宮殿が完成すると斉明天皇は飛鳥川原宮から後飛鳥岡本宮に移った。後飛鳥岡本宮は飛鳥板蓋宮と同じ場所に建てられた。
斉明天皇
654年(斉明天皇元年)に「元年春正月壬申朔甲戌、皇?母尊、?天皇位於飛鳥板蓋宮」(日本書記)、すなわち斉明天皇(皇極天皇の重祚)は飛鳥板蓋宮で即位した。645年に都が難波に移転したが、飛鳥板蓋宮はそのまま維持されたとされる。*重層的遺構 現在では岡本宮、板蓋宮、後岡本宮、浄御原宮の4つの宮殿はほぼ同じ場所で断続的に営まれたとみられている(参考文献3)。建物はすべて掘立柱建物で、瓦葺きの建物ではない。
調査
1959年(昭和34年)に発掘調査が始まり、奈良県立橿原考古学研究所が主体となって2016年度(平成28年度)までに約180次におよぶ調査が実施されている。 「川原寺(高市郡明日香村大字川原)の南を東に進み、飛鳥川を渡って明日香村大字岡の飛鳥川東岸地域にはいる。この東岸地域は、東西と南を飛鳥川の曲流と丘陵で限られ、北に一段低く飛鳥寺を望む平坦な台地である」と飛鳥板蓋宮の推定値を記載する(参考文献1)。 昭和34年4月13日から5月31日にかけて発掘調査が行われた。「約5.5mの間隔をお いて東西に走る玉石積の2条の溝で南北両側を限られ、その中央に1列の掘立柱が並んだ建物」を検出した。南方遺構の溝中から発見された土器類は、現在の土器の編年的研究からすると、板蓋宮のものとするにはやや新しく、7世紀後とされた(参考文献2)。
出土
宮殿中枢部を囲むと推定される柱列穴が検出された。南側は1本柱列と石組み溝で東は二本の柱列で、西を三本の柱列で、東西193メートル、南北198メートルの範囲で囲んでいる。塀の柱抜き取り穴には炭や焼土が混ざっていることから、火災にあったと判明している。Ⅱ期遺構は、造営方位が南北を向くもので、Ⅰ期遺構を覆う形で土地造成を行った上で造営されている。全体像は不明だが、中枢部を囲むと想定されている区画塀などが検出されている。登り窯で焼いた灰色の須恵器が出土した。橙色の土器は素焼きである。
指定
- 2003年(平成15年)に国の史跡・名勝に指定。複数の宮殿遺構が重なっており、現在復元されている石敷広場や大井戸跡は上層の飛鳥浄御原宮である。
日本書紀
- (原文)辛未、天皇詔大臣曰、起是月限十二月以來、欲營宮室。可於國國取殿屋材。然東限遠江、西限安藝、發造宮丁。
所在地等
- 名称: 飛鳥宮跡(伝 飛鳥板蓋宮跡)
- 所在地:〒634-0111 高市郡明日香村岡
- 交通:近鉄「橿原神宮前」駅東口または近鉄吉野線「飛鳥駅」より奈良交通明日香周遊バス乗車。「岡橋本」下車徒歩3分。
参考文献
- 奈良国立文化財研究所(1961)『奈良国立文化財研究所年報』,pp.14-18
- 鶴見泰寿(2015)『古代国家形成の舞台 飛鳥宮』新泉社
- 竹内義治「宮殿遺跡 45年目の改称」日本経済新聞, 2016年12月2日
- 佐藤信編(2020)『古代史講義 宮都編』筑摩書房
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