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一支国2023年07月08日 17:15

一支国(いきこく)は、『魏志倭人伝』に記載された3世紀中頃の国のひとつである。

概要

『魏志倭人伝』には「一大国」と書かれるが、『梁書』(巻54、諸夷伝・倭)、『北史』、『魏略逸文』は「一支国」と書くため、一支国の誤りとみられる。 『古事記』の「伊伎国」、『国造本紀』の「伊吉島」である。対馬国から末廬国に至る道程に存在するため、壱岐島には間違いない。

王の存在

『魏志倭人伝』に王がいたという記述はないが、考古学の証拠から王はいたと見られている。原の辻遺跡は一支国の王都である。また環濠集落がある。壱岐島内には原の辻遺跡に匹敵する規模・内容を持つ遺跡は存在しない。 発掘調査により日本最古の船着き場の跡や当時の「一支国」が交易と交流によって栄えていたことを示す住居跡などが確認されている。また様々な地域の土器や中国の貨幣や三翼鏃(さんよくぞく)をはじめ、日本唯一の人面石やココヤシで作った笛が出土している。

「一大国」と「一支国」

「一支国」と「一大国」とは字画が似ているから誤植である可能性は高い。岩波本は「一支国」の誤植とするも、本文は「一大国」に作る。『梁書』(巻54、諸夷伝・倭)、『北史』、『魏略逸文』には「一支国」で一致して書かれていることは、オリジナル原本は「一支国」だったと考える方が合理的である。 誤植でなく「一大国」が正しいとする説もある。倭名抄や延喜式によれば、壱岐島は石田郡と壱伎郡に二分されており、石田郡に石田、物部、特通、箟原、治津の鄕があった。石田を一大と聞き取った可能性があるとする説がある。この説では『魏略逸文』や『梁書』の記載を説明できない。

一支国の成立

西谷正(2002)は弥生時代前期末から中期始めに成立したとする。根拠は原の辻遺跡の石田大原地区から細形銅剣、銅矛や多紐細文鏡が出土したことである。一支国の首長墓であるとみる。一支国は対馬国と異なり、沿岸部と内陸部とが共同体を形成していた。天ケ原遺跡では航海祭祀遺跡が出土しており、高地性集落が見られる。

比定場所

現在の長崎県壱岐市である。拠点集落(国邑)は「原の辻遺跡」であり、衛星集落がカラカミ遺跡、車出遺跡である。原の辻遺跡は三重の環濠で囲まれていた。また「原の辻遺跡」付近に古代の船着き場があった。中国の使者はこの船着き場を利用した可能性が考えられる。

魏志倭人伝

  • 大意
    • 対馬国から瀚海という海を渡って千餘里で一大国(一支国)に至る。官を(対馬国と同じ)卑狗といい、副官を卑奴母離という。四方は300里ばかりである。竹が多く、木は林のようになっている。家は3000ほどある、田はあるが、耕地が不足しているため、南北に渡り穀物を購入する。 対馬は「戸」であるが、一支国では「家」である。特に意味の違いはないようである。対馬とは異なり、田地が少しあると記載する。
  • 『倭人伝』原文
    • 又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴

遺跡

展示施設

参考文献

  1. 鳥越慶三郎(2020)『倭人倭国伝全釈』KADOKAWA
  2. 石原道博編訳(1951)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店
  3. 西谷正(2002)「首長墓から王墓へ」毎日新聞2002年8月2日、夕刊
  4. 西谷正(2009)『魏志倭人伝の考古学』学生社

中沢遺跡(草津)2023年07月09日 10:05

中沢遺跡(草津)(なかざわいせき)は滋賀県草津市西渋川から栗東市中沢にある縄文時代から中世までの複合遺跡である。

概要

琵琶湖の南東部の草津市から栗東市にかけて所在する。 葉山川が形成した扇状地先端部に立地する集落遺跡で、草津市と栗東町にまたがる東西約400m、南北約600mの範囲である。

発掘調査

平成23年度から平成24年度にかけて宅地造成工事に伴い実施した遺跡南側の発掘調査を行った。古墳時代前期から中期(4~5世紀)の河川跡を確認した。直線距離で約130mあり、 その動物の骨や植物の種、土器、木製品、石製品が多数が出土した。

石製品

遺物の大半は石製品で、そのうち鍬形石は河川河道の底付近から鍬形石が見つかった。 緑色凝灰岩製で、表面に縞状の葉理が認められる特徴から、北陸産出の石材を使用している。 同じ石材の鍬形石は奈良県と岐阜県に集中する。鍬形石は上半部のみで、高さ8.9cm、幅8.7cm厚さ1.9cmで祭祀に使われたとみられる。鍬形石は首長の権威を表す石製品とされ、集落跡からの出土は奈良県天理市の岩室・平等坊遺跡に続き、全国で2例目である。 石製品に子持勾玉があり、滑石製で、弧状に湾曲した親勾玉の背部と脇部と腹部に子勾玉が付けられている。通常、上部には紐を通すための円形の孔が開けられているが、本例は開いていない。鍬形石などの腕輪型石製品は石川や福井で生産され、陸上または琵琶湖のルートを経て近江を通り、大和(奈良)に運ばれた。北條芳隆・東海大教授は「奈良と同じ石材の鍬形石の出土は、大和政権との結びつきの深さをうかがわせ、北陸、東海と畿内を結ぶルートに位置し、交通の要衝を押さえる近江の勢力の重要性を示している」と語る。

木製品

木製品の出土も多く腰掛や高坏が出土した。規模の大きな前方後円墳からは石や埴輪の腰掛や高坏が出土するので、祭祀に用いられるものとみられる。 腰掛は裾が大きく広がる台形状の脚と台部とが一木で削り出されている。この形態は出土例が少なく、古墳に副葬される石製品や埴輪の椅子に似ている。幅48cm、奥行き23.5cm、欅を用いた一木作り。古墳に副葬される椅子型石製品や埴輪の腰掛に似ている。この地域に有力者が存在していたとみられる。ひじ掛けの丸縁には補修した跡がある。

遺構

遺物

  • 鍬形石、
  • 子持勾玉、
  • 有孔円板、
  • 剣形石製品、
  • 管玉、
  • 臼玉、
  • ガラス小玉、
  • 二重口縁壺、
  • 小型壺、
  • 小型素文鏡、
  • 腰掛、
  • 木製高杯、
  • 円板形木製品、
  • 剣形木製品、
  • 刀形木製品、
  • 舟形木製品

指定

アクセス等

  • 名称:中沢遺跡
  • 所在地: 群馬県草津市渋川二丁目、栗太郡栗東町中沢
  • 交通:

参考文献

  1. 別所健二(1984)「弥生~古墳時代の農業用水路の検出 (草津市西渋川 中沢遺跡)」滋賀文化財だよりNo.83、滋賀県文化財保護協会
  2. 奥田尚(1989)「野洲川下流域の後期弥生土器の砂礫の観察」滋賀文化財だより No141号 大津、滋賀県文化財保護協会

投馬国2023年07月09日 11:45

投馬国

投馬国 (とうまこく、つまこく)は、『魏志倭人伝』に記載された倭国の国のひとつである。邪馬台国の九州説と近畿説とで、比定場所が異なる。

概要
魏志倭人伝では直前の行程である不彌國から投馬国まで「水行20日」を要すると書かれている。投馬国から邪馬台国までは「水行十日 陸行一月」とする。水行とは海岸を伝いに船で移動することをいい、陸行と対比されている。渡海とは海岸の見えない海を渡ることを意味する。

比定場所
投馬国の比定場所には複数あり、定まっていない。 大きく分けると邪馬台国九州説と近畿説とで、大きく異なる。 名前の類似を元にした比定もあるが、根拠が薄いと考えられる。

比定場所の各説                                                                                                                                                      
分類 比定地 主な提唱者 文献
九州説 肥後国託麻郡玉名 新井白石 外国之事調書
九州説 日向国児湯郡妻「都万」 本居宣長 馭戎慨言
九州説 肥後当麻郷」 藤井甚太郎 邪馬台国の所在について
九州説 筑後国 白鳥庫吉 卑弥呼問題の解決
九州説 薩摩国薩摩郡 吉田東吾, 久米邦武 日韓古史談, 日本古代史
九州説 大分県日田郡五馬 富来隆魏志「邪馬台」の新考察史
九州説 豊の国(豊前・豊後) 村上義雄邪馬台国と金印
九州説 五島列島 角田彰男邪馬台国五文字の謎
近畿説 備後国沼隈郡鞆 新井白石古史通或問
近畿説 周防国佐婆郡玉祖郷 内藤虎次郎卑弥呼考
近畿説 備前国「玉の浦」 青木慶一邪馬台の美姫
近畿説 出雲 笠井新也邪馬台国は大和である
近畿説 但馬 山田孝雄狗奴国考
近畿説 備中吉備 西谷正魏志倭人伝の考古学

投馬国(近畿説)の備中吉備比定説
比定場所表に挙げたように、九州説と近畿説とでは、投馬国の比定場所が大きく異なる。 前提として、投馬国に至る水行20日とその後の水行10日合わせると水行30日で、不彌國から邪馬台国までの3分の2の距離にあると考えられる。さらに人口は5万と奴国の2万よりおおく、邪馬台国の7万より少ない。そこで投馬国としては大規模な遺跡が残っている場所が想定できる。考古学者の西谷正氏はそこから投馬国は備中吉備を想定する(西谷正(2009))。中でも弥生時代の遺跡として、上東遺跡:が浮上する。上東遺跡には古代の船着き場の遺構が出土している。出土物から遺構からして3世紀の拠点集落であったと考えられる。上東遺跡からは卜骨、瓦質土器が見つかっており、投馬国であったとしても不思議ではない。

投馬国所在地の前提条件
木下(2023)は投馬国所在地の前提条件として次の4つを挙げる。
1.拠点集落として大集落が存在すること
2.王墓クラスの墳墓が存在すること
3. 王墓にふさわしい特色ある遺物、副葬品が出土すること
4.拠点として引き続き繁栄していること
4番目は伊都国や奴国のような弥生時代から古墳時代まで続く拠点でなければ、魏志倭人伝に書かれないと考えられる。また船が立ち寄れる場所(船着き場)があることが望ましい。 4条件からすると、九州説では近畿説では備中、出雲が有力である。 九州説では筑後川の筑紫平野が主流となっているが、条件2,3を満たすことが難しい。

地名との関連
地名は必ずしも前提条件ではないが、考慮要素にはなる。 備中に「玉嶋」という地名がある。TamaとTumaとは、発音が似る。現在でも岡山県に「玉島」がある。3世紀にも「玉嶋」の地名があったのか、という問題は残る。 備中に「多麻浦」という港があり、これは奈良時代になるが遣唐使の経路になっている。 Tama → Tuma と発音は似る。 また備前には「嶋」、備中に「志麻」の地名があり、古代からある名称である。TumaとSimaとでは発音が異なる。
鳥越説では、吉備国の建国の祖である「御友別」(日本書紀応神天皇廿二年春三月、秋九月辛巳)が登場する。「御」は尊称、「別」は姓なので、友(Tomo)を名前とする。TumaとTomoは発音が似る(参考文献1,pp.99-103)。ただし人名と地名という違いがある。

投馬国(近畿説)の出雲比定説
田中義明は投馬国を出雲に比定する。神庭 、加茂岩倉遺跡など弥生責銅器が 大量に発見されていること、銅剣358本,銅矛 16本,銅鐸 6個が荒神谷遺跡から見つかっている。出雲市西谷丘陵遺跡は弥生後期に出雲平野の村落群を統合した大首長の 墳墓とみられる遺跡であった。距離的にも不彌國から邪馬台国までの間にある。

参考文献
1.鳥越慶三郎(2020)『倭人倭国伝全釈』KADOKAWAM
2.石原道博編訳(1951)『新訂魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝』岩波書店
3.西谷正(2009)『魏志倭人伝の考古学』学生社
4.田中義昭(2000)「古代出雲は投馬国」日本音響学会誌/56 巻2号,pp.129-130

高三潴遺跡2023年07月10日 23:49

高三潴遺跡(たかみずまいせき)は福岡県久留米市にある弥生時代の遺跡である。

概要

福岡県久留米市の西部にあり、筑後川が形成した沖積平野の標高6mの低台地に位置する。 弥生時代には、南北約750m、東西約950mの大規模な集落が営まれていた。 九州北部における弥生時代後期の代表的な土器、高三潴式土器が発見されたことで有名である。高三潴式土器は屈曲した口縁部と平たい底が特徴である。

発掘調査

幕末頃に著された『筑後将士軍談』に銅剣二口の記述があった。 1970年代には、平川敬治による発掘が行われ、『九州考古学54号』に「筑後高三潴遺跡の検討」が掲載された。 平成26年の発掘調査では約70m2の狭い区域から、弥生時代の溝の一部が検出され、この溝からほぼ完形の小銅鐸が出土した。溝の深さは約1mであった。小銅鐸は福岡県内で11例が出土しているが、筑後での出土は始めてであった。小銅鐸の高さは66cm、正面中央部の下部に半円形の孔が開いている。同時に出土したときの特徴から弥生時代後期に埋没したことが判明した。 溝からは用途不明の木製品と高三潴式土器を含む土器が大量に発見された。

連玉出土

2017年2月16日、久留米市は高三潴遺跡で弥生時代後期(1~2世紀)のガラス装飾品「連玉」が出土したと発表した。糸島市の平原遺跡などで見つかった2例に続く出土であり、国内最古級とされる。商業施設の建設に伴う発掘調査により、弥生時代の後期の甕棺墓から約200連のガラス玉とともに連玉22点が見つかった。直径4mm、厚さ1~2mmの輪状の小玉が重なり、最大7個が連なっていた。 直径1~2㎜の穴に糸を通して首輪や腕輪などとして使われていたとみられる。本来は緑色であるが、風化して乳白色であった。

遺構

  • 甕棺墓3
  • 石蓋土壙墓1
  • 井戸 1基
  • 土坑 1基
  • 甕棺墓 25基
  • 土壙墓 5基
  • 石蓋土壙墓 4基
  • 石棺墓 8基
  • ピット 多数
  • 不明遺構 1基

遺物

  • 甕棺
  • 小銅鐸
  • 高三潴式土器
  • 銅剣
  • 鉄製品
  • ガラス製品
  • 木製品
  • 赤色顔料

指定

アクセス等

  • 名称:高三潴遺跡
  • 所在地: 福岡県久留米市三潴町高三潴534-1
  • 交通:

参考文献

  1. 久留米市市民文化部文化財保護課(2017)『高三潴遺跡 第5次発掘調査概要報告』久留米市文化財調査報告書378
  2. 文化庁(2015)『発掘された日本列島 2015』共同通信社
  3. 2017年2月17日 読売新聞

翰苑2023年07月12日 23:10

翰苑(かんえん)は、中国唐代の顕慶5年(660年)に張楚金が撰して、雍公叡が注をつけた類書である。

概要

中国では早く散逸しており、中国では既に原文・写本共に失われている。現在残っているのは太宰府天満宮に巻卅蕃夷部1巻の抄本だけである。書体から平安初期に作られた写本である。匈奴・烏桓・鮮卑・倭国・西域などの15の項が立てられる。平安時代の写本であるが、引用した書物には現在伝わらないものが多い。現存最古の類書である隋の『北堂書鈔』と並んで、六朝の古い類書のスタイルを残している。 大正6年に黒板勝美博士により発見された。

評価

昭和29年3月20日、国宝に指定されている。「蕃夷部」には、高句麗の官等と政治状況、綿織物などの生産基盤、鴨緑江の起源、三韓の位置、百済の年代呼称など、現存する他の史書には見られない記録が多く書かれている。

刊行

1922年に京都大学から影印が出版された。1977年に菅原道真の1075年忌事業として釈文・訓読文を付して刊行した。 韓国の学界が日本に伝わる『翰苑』の漢文テキストを考証し、内容を韓国語で解説した訳注本が出版された。韓国研究者20人余が、約3年をかけて講読と比較研究を行ったものである。

史料の価値

巻第三十蕃夷部の残巻が太宰府天満宮西高辻家に残存しており,《三国志》東夷伝研究の重要史料となっている。誤字、脱字が多いが、後漢書、魏志等からある程度は修復可能である。魏志や後漢書に比べると史料としては劣るが、今は存在せず名前だけが残っている歴史書の『魏略』『高麗記』が引用されているところに価値がある。

体裁

幅27.6cm、 長さ1585.2cm、 全長28紙、 1紙22~23行、 1行16~17字詰め(割注は1行22~23字詰め)

注・参考文献

  1. 張楚金・雍公叡:注、竹内理三:釈文・訓読文(1977)『翰苑』太宰府天満宮文化研究所
  2. 張楚金・雍公叡・湯浅幸孫:校釈(1983)、『翰苑校釈』国書刊行会
  3. 張楚金・雍公叡(2019)『訳注 翰苑』東北亜歴史財団
  4. 张中澍・张建宇(2015)『翰苑·蕃夷部』校译 ,吉林文史出版社

旧唐書2023年07月13日 00:00

旧唐書(くとうじょ)は唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)を記述した歴史書である。

概要

成立時は『唐書』の名称であった。その後、『新唐書』の編纂後に『旧唐書』と呼ばれるようになった。 巻数は200巻である。本紀20巻、志30巻、列伝150巻、 列伝第149巻上に「高麗 百濟 新羅 倭國 日本」(東夷)が記載される。 五代後晋の劉昫(887-946)による奉勅撰とされる。

編纂者

『旧唐書』は五代後晋の劉恂撰と言われていますが、実質的には張昭遠と賈緯による編纂である。正史の編纂では、前の王朝が自前で編纂した実録や国史等の歴史書を素材に用いていた。ところが唐末五代の戦乱により、歴史書の多くが失われるか、編纂すらされなかった。『旧唐書』編纂時点で材料が足りなかった。そこで当時現存していた行政文書等の各種記録が用いられたが、編集を加えることなく孫引きされた箇所がみられる。この点は現代の研究者からすれば史料としての価値が高いとみられる。

新唐書との比較

『旧唐書』は原史料をそのまま引用して取入れているのに対し,『新唐書』では史料の採集範囲は広いものの、書き改められているので、史料的価値は『旧唐書』が優れる。

倭国と日本国

倭国と日本とを分けて書いて2つの記事となっている。日本が倭国を併合したという記事と倭国の名前が日本国になったという記事が並列に書かれている。 これは倭国と日本とを別の国と思い違いしたのであろうか、それとも倭国の時代と日本と改称した時代を かき分けたのであろうか。「倭国伝」の末尾は 648年の記事で終わる。日本伝の最初の記事は703年である。この間に倭国が日本国に名称変更し、 その承認を求めに703年の遣唐使を派遣したとも考えられる。 森公章(2008)は702年の遣唐使の際には、日本側でも日本への国号変更理由が分からなくなっていたと指摘する。 古田武彦説では「九州王朝を併合した大和政権が九州王朝から「日本」という国号を受けついだ」としているが、 これはあり得ないことである。「九州王朝を併合した」なら、その頃に大規模な戦乱がなければ説明がつかない。 古田説は、史書の都合のよい所だけを切り取って解釈しているようにみえる。 なお『新唐書』では、2つの国を一本化して記述している。

倭伝

  • (大意)倭国は古の倭奴國である。京師からは1万4000里の距離で新羅の東南大海中にある。山島によりて居し、東西は五月の行程,南北は三月の行程である。世々中国と通じる。城郭はなく、木で柵を作り草で家を作る。四面に小島があり五十餘國が服属する。王の名は阿每(あめ)、一大率を置き,諸国を檢察する,皆これを畏れる。官位に十二等がある。訴訟では,匍匐して前にでる。その地には女が多く、男は少ない。頗の文字を書き,佛法を敬う。みなはだしである。布で前後を蔽う。貴人は錦帽をかぶる。百姓は椎髻で,冠や帶を付けない。女性は淡色の衣で、腰に襦を垂らす。髪を後ろ束ね,銀花の八寸の長さを左右に数枝つけ、それにより貴賤や等級を表す。衣服のきまりは,新羅によく似る。
  • (原文)倭國者,古倭奴國也。去京師一萬四千里,在新羅東南大海中。依山島而居,東西五月行,南北三月行,世與中國通。其國,居無城郭,以木為柵,以草為屋。四面小島五十餘國,皆附屬焉。其王姓阿每氏,置一大率,檢察諸國,皆畏附之。設官有十二等。其訴訟者,匍匐而前。地多女少男。頗有文字,俗敬佛法。並皆跣足,以幅布蔽其前後。貴人戴錦帽,百姓皆椎髻,無冠帶。婦人衣純色裙,長腰襦,束發於後,佩銀花,長八寸,左右各數枝,以明貴賤等級。衣服之制,頗類新羅。
  • (大意) 631年、法物を献上し、検視した。太宗は道が遠いことを憐れみ、毎年の入貢を中止させた。新州の刺史・高表仁を持節とし安撫させた。表仁は綏遠之才がないため,王子と爭いを起こした。朝命を述べずに帰国した。
  • 貞觀五年,遣使獻方物。太宗矜其道遠,敕所司無令歲貢,又遣新州刺史高表仁持節往撫之。表仁無綏遠之才,與王子爭禮,不宣朝命而還。至二十二年,又附新羅奉表,以通起居。

日本伝

  • (大意)日本は倭国の別種である。その国は火の出る方に違いので、日本と名を付ける。あるいは、倭国の名が雅でないため、日本としたという。あるいは日本は小国で、倭国を併合したという。入朝するものは,多いに矜るところ大で、誠実に答えない。故に中國は疑いを持った。また、其國の界じゃ東西南北それぞれ數千里で,西界と南界は大海に至る。東界、と北界大きな山で区切られる。山の外側は毛人の国である。
  • (原文) 日本國者,倭國之別種也。以其國在日邊,故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅,改為日本。或云:日本舊小國,並倭國之地。其人入朝者,多自矜大,不以實對,故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里,西界、南界咸至大海,東界、北界有大山為限,山外即毛人之國。
  • (大意)703年、大臣朝臣真人(粟田真人)が来て方物を献上した。真人は中國の戶部尚書に似る。進德冠をカムリ、その頂に花を作り,分れて四散させる。身は紫の袍をまとう。腰帶は絹(帛)である・真人は經史を好み、屬文を理解する。たたずまいは溫雅である。則天は宴麟德殿で宴会を催し,司膳卿を除した。その後、本國に帰った。
  • (原文) 長安三年,其大臣朝臣真人來貢方物。朝臣真人者,猶中國戶部尚書,冠進德冠,其頂為花,分而四散,身服紫袍,以帛為腰帶。真人好讀經史,解屬文,容止溫雅。則天宴之於麟德殿,授司膳卿,放還本國。
  • (大意)713年、遣使が来朝した。儒士に教を授けるよう要請があった。四門助教の趙玄默に勅して、鴻臚寺ので教えを授けた。また玄默に闊幅布をもって束修の礼(授業料)とした。題して「白龜元年の調布」という。人々は偽物と疑った。得た錫賚で支柱の文籍をことごとく買い、海に浮かんで還った。副使の朝臣仲滿(阿部仲麻呂)は、中國を慕いとどまった。姓名を朝衡と改め、左補闕や儀王友を歴任した。衡は京師(長安)に留まること五十年書籍を好み、帰郷させようとしたが去らずに逗留した。753年、ふたたび遣使した。上元年間に衡を抜擢して左散騎鎮南都護とした。802年、遣使して留學生の橘免勢、學問僧の空海が來朝した。806年,日本国の使判官高階真人(遠成)は上して言い「前件の学生は藝業が達成され本國に帰ることを希望している。臣と同行して帰国するように要請する」というのでこれに従った。839年、又遣唐使が朝貢した。
  • (原文) 開元初,又遣使來朝,因請儒士授經。詔四門助教趙玄默就鴻臚寺教之。乃遺玄默闊幅布以為束修之禮。題云「白龜元年調布」。人亦疑其偽。所得錫賚,盡市文籍,泛海而還。其偏使朝臣仲滿,慕中國之風,因留不去,改姓名為朝衡,仕歷左補闕、儀王友。衡留京師五十年,好書籍,放歸鄉,逗留不去。天寶十二年,又遣使貢。上元中,擢衡為左散騎常侍、鎮南都護。貞元二十年,遣使來朝,留學生橘免勢、學問僧空海。元和元年,日本國使判官高階真人上言:「前件學生,藝業稍成,願歸本國,便請與臣同歸。」從之。開成四年,又遣使朝貢。

参考文献

  1. 石原道博編(1986)『新訂 旧唐書倭国日本伝・ 宋史日本伝・元史日本伝』岩波書店
  2. 藤堂明保, 竹田晃,影山輝國 (2010)『倭国伝 全訳注 中国正史に描かれた日本』講談社
  3. 森公章(2008)『遣唐使と古代日本の対外政策』吉川弘文館

宇治橋断碑2023年07月13日 00:02

宇治橋断碑(うじばしだんぴ)は京都府宇治市にある古代の架橋碑である。

概要

1791年(寛政3年)、江戸時代に橘寺の石垣から発見された。大化二年の「大化」年号を記載する現存唯一の金石文である。『帝王編年記』(14世紀後半成立)に碑の全文が収録されている、 碑は道登が橋をかけたとするが、『続日本紀』は道昭とする。『日本霊異記』、『扶桑略記』[3]、『今昔物語集』は道登が架けたとする。しかし、道昭は大化二年には18歳頃であるから、僧侶になっているか分からない頃である。その後に遣唐使の学僧として唐に留学しているから、大化二年の時期の架橋は考えにくい。『続日本紀』によれば、道昭は入唐求法し、帰国後は元興寺に住んでいた。帰国後は社会事業をしたとされており、その事跡と宇治橋架橋とは混同されたと思われる。

原文

  • 浼浼横流 其疾如箭 修々征人 停騎成市 欲赴重深 人馬亡命 従古至今 莫知航竿
  • 世有釈子 名曰道登 出自山尻 慧満之家 大化二年 丙午之歳 搆立此橋 済度人畜
  • 即因微善 爰発大願 結因此橋 成果彼岸 法界衆生 普同此願 夢裏空中 導其昔縁

読み下し

  • 浼浼(べんべん)たる横流、その疾きこと箭(や)のごとし。修々たる征人、騎を停めて市をなす。重深にいかんと欲し、人馬は命が助かる。古より今に至るまで航竿を知ることなし。
  • 世に釈子あり。名を道登という。山尻(やましろ)慧満の家に生まれる。大化二年、丙午の年、この橋を搆立し、人畜を済度す。
  • 即わち微善により、ここに大願を発し、因を此橋に結び、果を彼岸になす。法界衆生、あまねく願いを同じくする。夢裏空中、その昔縁を導かん。

意味

浼浼(べんべん)は水量が豊かであることを意味する。横流は孟子に「洪水横流」となり、水が多量に流れていることを示す。「騎を停めて市をなす」は、馬出来た人があまりに流れが速いので、滞留する人が多いことを意味するが、そこに市場があったかもしれない。2行目は橋が掛かって人畜が救われたと語る。「亡」は逃れるという意味であり、亡くなる人も助かる人もいたと解釈する。

地名

「山尻」をやましろと読むのは古い書法である。聖徳太子伝のなかに山尻が登場する。奈良時代や『日本書紀』では「山代」表記で、『続日本紀』では「山背」である。

アクセス等

  • 名称:宇治橋断碑
  • 所在地:〒611-0021 京都府宇治市宇治東内11(橋寺内)
  • 交通:JR奈良線宇治駅から徒歩で10分

参考文献

  1. 堀池春峰(1991)「宇治橋断碑」『古代日本 金石文の謎』学生社
  2. 蕨由美(1996)「「宇治橋断碑」を訪ねて」さわらび通信,pp.62-68