淡海三船 ― 2023年07月03日 23:27
淡海三船(おうみのみふね、726年 - 785年7月17日)は奈良時代の官人・学者・文人である。大友皇子(弘文天皇)4世の孫である。淡三船、御船とも記す。
概要
祖父は葛野王、父は従五位上・池辺王である。幼くして出家し元開と称した。751年に勅により還俗した。751年(天平勝宝3年)以前は三船王を名乗る。751年1月に臣籍に降下し、淡海真人を賜わる。遣唐学生の一員になったが疾を得て渡唐できなかった。756年(同8年)、大伴古慈斐と共に藤原仲麻呂(恵美押勝)の讒にあい、朝廷を誹謗したかどにより禁錮刑にされたが、許されて758年(天平宝字2年 ) に尾張介,761年(同5年)に従五位下・駿河守に叙任。また三河守となり,762年(同6年)に美作守。764年、恵美押勝の乱のときにはため池を造成するために近江国勢多にいた三船は造池使判官・佐伯三野と共に仲麻呂の使者とその一味を捕縛するなど、孝謙上皇側に加勢する。三階級昇進して正五位上へ昇叙し、勲三等の叙勲とともに、近江介に任ぜられた。神護景雲1年(767 年)に東山道巡察使正五位上行兵部大輔兼侍従勲三等、大宰大弐,宝亀3 (772) 年大学頭,文章博士となる。その後,大学頭をつとめる。780年(宝亀11年)従四位下に叙せられる。 藤原仲麻呂 (恵美押勝) のもとでは不遇であった。文人・学者としては,当時第一級の見識で知られていた。785年(延暦4年)7月17日死去。64歳。最終官位は刑部卿従四位下兼因幡守。
業績
- 光仁天皇のときに石川名足とともに国史の編纂を手掛ける。僧籍の経験から仏典にも精通する。
- 770年(宝亀1年)には『唐大和上 (鑑真) 東征伝』 (1巻) を著述する。
- 762年(天平宝字6 年)から764年(天平宝字8年)頃に神武・綏靖・安寧などの歴代天皇の漢風諡号を撰進したことは知られる。
- 『経国集』に漢詩5首を載せる。
- 「大安寺碑文」を撰述する。
参考文献
- 『続日本紀』天平勝宝8歳5月10日条
- 『続日本紀』天平勝宝8歳5月13日条
- 藏中進(1976)『唐大和上東征伝の研究』桜楓社
難波宮 ― 2023年07月07日 00:21
難波宮(なにわのみや)は、大阪市中央区にある飛鳥時代から奈良時代時代にかけての宮殿跡である。
概要
飛鳥から奈良時代にかけて前後2期の難波宮跡が確認されている。2時期の宮殿遺構は前期難波宮、後期難波宮と区別する。『日本書紀』『続日本紀』などで存在は知られていたが実際の所在は不明であった宮殿の遺構が見つかった。
調査
前期難波宮の遺構に火災痕跡があり、686年(朱鳥元年)に焼失した天武天皇の難波宮にあたる。孝徳天皇により造営された難波長柄豊碕宮と考えられている。後期難波宮は聖武天皇によって再建された難波宮である。1954年(昭和29年)から開始された、山根徳太郎を中心とする発掘調査により、1961年、現在の史跡指定地に難波宮があることが明らかにされた。
遺構
- 前期難波宮
前期難波宮は、孝徳天皇の地代に造営された「難波長柄豊碕宮」であると考えられている。蘇我氏を滅ぼした乙巳の変(645年)のあと、645年(皇極4年)に孝徳天皇は中大兄皇子や中臣鎌足とともに飛鳥から難波宮に遷都した(『日本書紀』原文:大化元年冬十二月乙未朔癸卯、天皇遷都難波長柄豐碕。)。しかしすぐに宮殿ができるわけではなく、長柄豊碕宮以前の諸宮の多くは、既存の朝廷所管の施設を改築したものとされる。大化二年春には、「天皇、御子代離宮」「或本云、壞難波狹屋部邑子代屯倉而起行宮。」と書かれており、これを裏付ける。大化3年記事に記載のある小郡宮は
650年(白雉元年)から宮殿の造営が始まり、2年後の652年(白雉3年)9月に宮殿が完成したと『日本書紀』に記されている(『日本書紀』原文:秋九月、造宮已訖。其宮殿之狀、不可殫論。冬十二月晦、請天下僧尼於內裏、設齋・大捨・燃燈。)。僧侶を呼び斉会を行った。国内最初の本格的宮殿であり、内裏前殿の両側に八角形の楼閣風建物がそびえ、14棟以上の朝堂、宮城南門(朱雀門)などを有する。建物はすべて掘立柱建物で、瓦は使われていない。
654年(白雉5年)10月に孝徳が死去し、都が飛鳥に移るまで使用された。
朱鳥元年(686年)の火災によって焼失したと日本書紀に書かれる。
- 難波遷都の目的 天皇中心の中央集権 体制を作るためとされた。また激変する半島情勢に対応し、対外情報の入りやすい場所として選ばれた。
- 後期難波宮 (726~784年)の時期に属する建物の基壇跡が見つかった。基壇跡は東西約11m、南北5m以上の規模であった。基壇の周辺に凝灰岩の破片が見つかり、建物の外装に使用していたものが解体の際に壊され飛び散ったものと考えられる。また重圏文軒丸瓦をはじめとする後期難波宮の時期の瓦も基壇の周辺から見つかっている。こうした状況から、今回検出した建物は朝堂などと比べるとやや小型であるが、凝灰岩で覆われた基壇を持ち、重圏文の瓦で飾られていたことが分かる。神亀3年(726)に聖武天皇によって前期難波宮と同じ場所に造られた。中心部は大極殿や8棟の朝堂、内裏などで構成される。このうち政務や儀式が行われた大極殿・朝堂は礎石建物で瓦茸屋根が採用されたが、天皇の居住空間である内裏は従来からの掘立柱建物で瓦を使用していない。
遺物
- 重圏文軒丸瓦
- 重圏文軒平瓦
- 丸瓦
- 凝灰岩
- 天目茶碗
- 肥前陶器
- 焼塩壺
- 信楽焼
- 信楽焼(腰白茶壷)
- 一石五輪塔
- 羽口
- 難波宮「玉作五十戸俵」木簡 「玉作五十戸俵」の木簡は7世紀後半の記載様式とみられる。文字は片面のみである。両側に三角形の切込みがあったので「荷札木簡」と分かる。五十戸は「サト」と読む飛鳥時代の書き方である。律令制では五十戸が1里であった。意味は「玉作のサトから米俵を貢納した」。 庚午年籍以後と考えられていた地方支配の制度が、天智4年(665)以前に遡ることが示された。飛鳥時代の制度は「国―評―五十戸」と考えられる(四国新聞,2015年2月3日)。
- 難波宮跡出土万葉仮名文木簡 史跡難波宮跡の南西約100m、前期難波宮(長柄豊碕宮)の建設に伴うと考えられる整地層の直下の地層から出土した。地層の時期は、前期難波宮が完成する白雉3年(652)前後より古いと考えられている。簡の片面に「皮留久佐乃皮斯米之刀斯□」と11字が完全に残り、12字目をわずかに残して折れている。万葉仮名文の成立はこれまで7世紀末頃とされていたが、この木簡の出土により、その成立が7世紀中頃まで遡る可能性が出てきている。1字を1音に当てるのは万葉仮名の方式である。木簡は「春草のはじめのとし」と読む。“春草の”は万葉集では枕詞として使われており、全体は五音・七音を重ねた和歌と考えられる。日本語表記や和歌の重要な資料である(大阪市,2019年1月9日)。
史跡
宮殿の中心部とされる範囲が国の史跡に指定され、史跡公園として整備されている。史跡は2種類の方法で示されており、地表面より一段高くし、石造りで基壇を示すものが726年(神亀3年)から造営された後期難波宮、一段低くして赤いタイルを敷き、赤い御影石で柱位置を示し、サザンカの生け垣をめぐらせているものが「大化改新」による難波遷都の後、白雉元年(650)から造営が始められた「難波長柄豊碕宮」である。昭和37年(1962)に後期難波宮大極殿一帯の17.500m2が国指定史跡になり、以後数度の追加指定を経て、現在の史跡指定範囲は大阪歴史博物館南側の広場を含め、約13万m2に及ぶ。
- 昭和39年5月2日(第1次) 国指定史跡
史跡難波宮跡
難波宮の跡地の一部は難波宮跡公園として整備されている。
アクセス等
- 名称:難波宮
- 所在地:〒540-0006 大阪府大阪市中央区法円坂1丁目6
- 見学:営業:入園自由 但し、難波宮跡資料展示室は10:00~17:00※展示室の見学は要事前連絡
- 交通: 地下鉄谷町線「谷町四丁目」駅すぐ、JR大阪環状線「森ノ宮」駅より徒歩5分
参考文献
- 近つ飛鳥博物館(2015)「歴史発掘おおさか2015」近つ飛鳥博物館
- 難波宮跡出土万葉仮名文木簡,大阪市,2019年1月9日
- 大阪・難波宮跡に「五十戸」木簡,四国新聞,2015年2月3日
- 現地公開資料,大阪市文化財協会,2009年3月14日
- 植木久(2009)『難波宮跡』同成社
福井天神山古墳 ― 2023年07月07日 23:00
福井天神山古墳群(ふくいてんじんやまこふんぐん)は福井県鯖江市北部から福井市南部にまたがる山塊に分布する古墳群である。
概要
天神山古墳群は弥生時代後期から古墳時代後期にかけて造営された墳墓・古墳89基が確認されている。分布域は大きく三つに分けられ、天神山支群、山頂支群、三ツ禿支群がある。 三ツ禿支群13号墳は入町、西番町、吉江町にまたがっている。福井天神山7号墳は福井市篠尾町に所在した円墳。足羽川が福井平野に流れる北岸の山塊上に分布する酒生古墳のひとつ。 1971年(昭和46年)の発掘調査で市教委が1973年に出した発掘調査報告書では、やりの刃部分と逆側の先端に取り付けられる石突と報告しながらも、刃部分が出土していないことから、石突とは異なるものではないかとの記載がされていた。
調査
鯖江市は五日、福井市との市境にある天神山古墳群の三ツ禿支群13号墳から50年ほど前に出土し、保管されていた遺物二点が、古墳時代後期のものとされる鉄鐸と分かったと発表 した。九州や近畿で多く見つかっているが、北陸地方での出土は初めてであった。鉄鐸は、祭祀に用いられた道具の一種である。鉄鐸は、円すい状に折り曲げた鉄板と舌と呼ばれる鐘を鳴らす部分を組み合わせたもの。祭祀の道具とされる。見つかった鉄鐸は全長7cm、開口部の直径は3cmほどで、鉄鐸の特徴の舌部が確認できた。
規模
遺構
遺物
昭和46年に実施された三ッ禿支群の発掘調査で出土した資料
- 須恵器
- 土師器
- 鉄剣
- 鉄刀
- 鉄鏃
- 管玉
- 勾玉
- 金環
- 銅環
- 轡
築造時期
指定
アクセス等
- 名称:天神山古墳群
- 所在地:福井県鯖江市入町
- 交通:三十八社駅 徒歩36分。
参考文献
- 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
- 大塚初重(1982)『古墳辞典』東京堂
新羅 ― 2023年07月08日 01:09
新羅(しらぎ)は古代の朝鮮半島南部の国である。
概要
三韓の一つの辰韓の地を統一した斯盧国がルーツである。4世紀ごろから金氏が王位を独占し、356年に統一して新羅が成立した。都は現在の慶州であろ、新羅では金城と称した。 三国時代の新羅は高句麗・百済と抗争となった。668年まで唐と連合して百済、高句麗を滅ぼし、さらに朝鮮半島支配を狙った唐軍を676年に撃退し、半島の大同江以南を統一した。 新羅は三韓の中でじゃ最も劣勢であったが、6世紀に入ると急速に台頭した。法興王(在位514~540)は517年、律令を公布、軍事制度・十七等官位制の整備、仏教の公認、年号の制定などの改革を一気に断行し、南朝の梁に遣使し、さらに金官国(南加羅)を併合した。 武烈王(在位654~661)・文武王(在位661~681)の二代の王は唐と連合して高句麗・百済を滅ぼし、新羅の統一を推進した。武烈王は即位前に高句麗・倭・唐を直接見て回り動乱の東アジア情勢を把握した上で、唐と結ぶ決意をした。 9世紀には唐の衰退とともに新羅も衰え。宮廷の仏教保護による寺院造営が続いて財政を圧迫し、骨品制で上位を占める世襲貴族が退廃的な生活と共に政争に明け暮れるようになったためとされる。935年10月、新羅の敬順王は高麗に帰順することを決意した。太子は「戦わずして千年の国家を手放すことは出来ない」と強く反対したが「新羅には戦う力は既に無い、負け戦と知りながら民百姓の血を流すわけにはいかない」と語り、高麗への降伏を決め、新羅は滅亡した。
参考文献
- 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
- 大塚初重(1982)『古墳辞典』東京堂
新羅琴 ― 2023年07月08日 01:12
新羅琴(しらぎこと、しらきこと)は、新羅楽で用いられる12弦の琴である。
概要
長さ約5尺(約1.5m)で、各弦に琴柱を立てる。正倉院に奈良時代の新羅琴の実物3面が残るが、ほぼ完全な形は2つだけで、南倉に1個の残欠がある。朝鮮では伽耶琴と呼ばれる楽器である。『国家珍宝帳』によると、「金鏤新羅琴」が2面あったが、一時貸し出したあと、別の新羅琴、「金泥絵形(金泥絵木形)」と「金薄輪草形鳳形」の2面が代納された(823年・弘仁14年)。
伽耶琴
大加耶末期の王の嘉実王(嘉悉王、嘉室王)のもとで楽師の于勒により開発・演奏され、後に伽耶国が新羅に統合されたことに伴い、于勒とその弟子たちによって改良・完成され受け継がれたとされる。伽倻琴は宮廷音楽に採用され,新羅楽のなかで発達した。素材は桐で、伽椰琴の丸い上板は空を、平たい下板は地を象徴し、下から見ると中が空いている。これは天と地の間の空間を意味する。
正倉院
- 新羅琴金泥絵木形
- 新羅琴金薄輪草形鳳形
- 新羅琴金薄輪草形鳳形琴柱
参考文献
- 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
- 大塚初重(1982)『古墳辞典』東京堂
東奈良遺跡 ― 2023年07月08日 12:10
東奈良遺跡(ひがしならいせき)は大阪府茨木市にある弥生時代の遺跡である。
概要
大阪府北部の千里丘陵から舌状に伸びる微高地に位置する。 北は奈良町、南は沢良宜西、東は元茨木川、西は大正川と南北約1.4㎞、東西約1㎞の規模を持つ弥生時代前期から鎌倉時代までに大きな集落遺跡である。
調査
1971年(昭和46年)4月、茨木市東奈良2丁目の小川水路改修工事中に多量の土器・石器・銅鏃などが採集されたことから発見された。遺構の南東部では弥生時代中期後葉の鋳造関係遺物が大量に見つかっている。銅鐸を中心とした青銅器やガラス製品を作っていた。 奈良県の唐古・鍵遺跡と並ぶ当時における日本最大級の銅鐸や銅製品の工房遺跡である。 出土品の再調査では銅鐸を描いた絵画土器を確認した。それが出土した土坑からは大型の壺や器台が見つかった。
小銅鐸
高さが14.4cm、最大幅9.9cmという小サイズの銅鐸が見つかっている。朝鮮式小銅鐸に近く、銅鐸の源流とみられる。銅鐸に描かれた文様は、縄文時代晩期の文様であった。
遺構
弥生中期
- 方形周溝墓 2
- 土壙墓1
- 環濠
遺物
- 小銅鐸
- 弥生土器
- 土師器
- 高坏状土製品
- 須恵器
- 黒色土器
- 瓦器
- ガラス玉
指定
展示
- 名称:茨木市立文化財資料館
- 所在地:茨木市東奈良3丁目12-18
- 開館時間:午前9時~午後5時
アクセス等
- 名称:東奈良遺跡
- 所在地:大阪府茨木市東奈良/奈良町/小川町/若草町/天王1丁目17-13ほか
- 交通:南茨木駅 徒歩6分
参考文献
- 文化庁(2015)『発掘された日本列島 2015』共同通信
史料批判 ― 2023年07月08日 16:58
史料批判(しりょうひはん、(独)Quellenkritik)は、歴史的史料を用いるときに様々な面からその正当性、妥当性を検討することをいう。過去の史料を「批判的に読む」ことは歴史学の基本である。
概要
近代的な歴史学の方法論を提唱した19世紀ドイツの歴史家レオポルト・フォン・ランケが提唱した歴史学研究法である。ランケは厳密な史料批判に基づく客観的な歴史記述の方法を確立した。
史料批判が必要となる理由
史料批判が必要となる理由はいくつかある。 第一に利害関係の絡む事項の史料は虚偽が混じることがある。第二に手書きで書写された場合は、写し間違いが脱落が起こり得る。第三に一次史料に相当するか、二次史料であるかを吟味する必要がある。
史料批判の方法
史料批判は、一般に文献史料について外的批判と内的批判とがある。
外的批判
- ①真正な史料かを調べる、
- 偽書はありえる。偽書を使用した論証はあり得ない。
- ②資料作成の時期
- いつ作られたかは重要な要素である。出来事と時間が離れていれば、記憶違いなどが起こり得る。同時代史料の方が優先される。
- ③資料作成の場所
- どこで作られたか(場所)、作成した日時や場所を明らかにすることは、事の経過や状況を明らかにするために重要である。
- ④オリジナルな形式で作られたか(一貫性)
- 他の史料の引用または孫引きか、著作者本人の見聞したことか、誰かからの伝聞かにより評価が異なる。
- ⑤史料間の異動
- 史料と先行する史料とで異動や食い違いがあるかどうか。食い違いがある場合は、どちらがより正しいかを吟味する。同じ事柄について書かれた複数の史料を読み比べ、さまざまな手法で史料を分析する。ある史料に書かれていることが、他の史料では書かれていないことがある。
内的批判
- ⑥誰が作ったか(著者の情報)
- その史料の作者の立場、地位・性格・職業・系統等が明らかにされれば、それがその史料の信頼性等を判断する要素となる。史料は執筆者による故意の歪曲(曲筆)が加えられ、悪意や恣意的な推測がある場合もある。 史料の記録性をその執筆者・伝承者によって判断する。
- ⑦既存資料から作られていないか(本源性)
- 史料製作者は、一般常識となっている歴史的知識を無視できない。歴史的知識や事実を無視した記述であれば作り話という評価を受け、歴史的事実としては認められない公算が大きくなる。
- ⑧信頼性
- 内容が信頼できるものか、断片的な記述しかない記事でないか。特定の文書・記録は執筆者の学識や精神状態によって左右される。
参考文献
- 佐藤真一(2022)『ランケと近代歴史学の成立』知泉書館
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