鰭 ― 2024年05月16日 00:20
鰭(ひれ)は銅鐸の身の両側に取り付けられた平板な突起である。
概要
魚のヒレに似ているのでこのように命名されたと思われる。 もともとは鋳型の合わせ目にしみ出た部分(甲張)であったが、それを装飾にまで発展させたものである。 梅原末治(1985)は「目につく部分に身の左右に突起して鈕に続く縁がある。これは普通に鰭と呼ばれているもの」であるとする。 鰭に半円状のものが、2個がペアになって左右で6個くっついており、その形から飾耳(かざりみみ)とよばれる。 鰭の装飾には、「鋸歯紋」つまり三角形が連なった中に斜めの線のある紋が描かれる。 吉野ヶ里遺跡出土銅鐸では鰭や鈕の外縁に「複合鋸歯文」が巡る。鰭の複合鋸歯文の一部に補刻や鋳掛用の足掛りが認められている。「複合鋸歯文」は平行斜線のある三角形の文様が鋸の歯の様に並ぶ二つの文様帯を、向かい合わせになるよう組合せた複雑な文様である。 梅ケ畑遺跡出土銅鐸では板状の装飾部の「鰭」は、三角形を斜線で充填した「鋸歯文」や、渦巻を連ねる「連続渦文」、「Ⅴ」字状の線を連続させる「綾杉文」で飾られる。
銅鐸の埋納
高塚遺跡(岡山市)では、長径73cm、短径43cm、深さ40cmの穴の中に、鰭を垂直に立てて横に寝かせて銅鐸が埋められていた。 「鰭垂直」は鰭水平に比べて安定性が悪いのであるが、あえて土坑に銅鐸を水平に寝かせ鰭を垂直に立てた状態での発掘事例が多い。
考察
朝鮮の小銅鐸には鰭がないが、倭国では最も古いものから鰭が付いている。弥生時代の美意識が倭国オリジナルの装飾を作り出したのであろう。鰭は紋様でうめられ、鰭に絵を描くことはほとんどないのは、鰭の位置が中心ではなく、幅が狭いからであろう。
参考文献
- 梅原末治(1985)『銅鐸の研究』木耳社
- 三木文夫(1983)『銅鐸』柏書房
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://ancient-history.asablo.jp/blog/2024/05/16/9684609/tb
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。