和同開珎 ― 2024年09月08日 00:19

和同開珎(わどうかいちん)は日本最古の流通貨幣である。
概要
「皇朝十二銭」のうち、708年に催鋳銭司(鋳銭司を設置する準備のための宮司)が最初に作られ、鋳銭司長官に多治比真人三宅麻呂が任命された。翌、和銅2(709)年8月には、河内鋳銭司が設置された。いつ発行されたかは、分からないが和銅3年に都は藤原京から平城京に移るため、その前後に和同開珎が発行されたと考えられる。鋳銭司は神亀3年(726年)まで存続していた。 発行目的は第一に都城造営のための大量の物資や人員を調達すること、次に実物貢納では政府や貴族官僚のニーずと合っていなかったため、フレキシブルな収入が必要であったこと、第三に中国の貨幣制度を真似することであった。丸い貨幣の中央に四角い穴を開け、上下左右に4つの文字を配するというデザインは唐の様式をそのまま模倣したものであった。 政府の支払手段説があるが、『続日本紀』和銅二年条「交関の雑物・・価三文以下は皆銅銭を用いよ」と書かれ、流通を意図していたと見られる。 和同開珎は銀銭と洞銭とがあり、洞銭は字体の違いから「新和同」と「古和同」とがある。 全国から出土する和同開弥はそのほとんどが新和同で、その出土点数は6,300枚近く、規格性の高い均質な銭貨の大量生産ができていた。
最古の貨幣
奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から33枚の富本銭が見つかり、それが日本最古の貨幣と判明している。ただし流通貨幣とは見られていない。
考察
参考文献
石錐 ― 2024年09月08日 00:51
石錐(せきすい/いしきり、Borer/stone awl)は穴をあけるための道具である。 「ドリル」、「ツインケン」、「揉錐器」と呼ばれることもある。
概要
旧石器時代、縄文時代から弥生時代に見られる。長さ3cm前後の一端を針状にとがらせた打製石器である。 キリのように回転穿孔の道具として使われたと考えられている。錘状の突出部を刃として用いた。「いしきり」の名で、縄文時代に石器として用いられた。携帯用のドリルである。 頭部を平たくしたものと全体を棒状にしたものとがある。江戸時代には石鏃の一種とされていたが、1886年に羽柴雄輔が石錐であると指摘した。旧石器時代と弥生時代の石錐はすべてが打製石器である。北部九州では石錐はまれである。朝鮮半島に類例がある。
分類
石錐の形態は錐部の長短、調整加工の方法、横断面形、頭部の形状、錐部両側縁の角度などの形状によりA類、B類、C類に分類される。
- A類:基部に短い身部を作り出したもの。
- B類:膨らんだ基部から身部が細長く棒状に突出する。
- C類:基部がなく、全体が棒状である。
使い方
先が細く尖っており、獣の皮や木の皮などを縫い合わせるため、木器や皮革製品などの有機質に穴をあける道具と推察される 柄部にアスファルトによる固定痕が残るものがみられる。
出土例
- 石錐 - 南方遺跡、岡山市北区国体町、弥生時代
- 石錐 - 境A遺跡、富山県朝日町、縄文時代、重要文化財
- 石錐 - 御経塚遺跡、石川県野々市市御経塚、縄文時代後期から晩期
参考文献
- 西谷正(1981)「朝鮮の環状様穿孔具について)」朝鮮学報99,100
- 加藤晋平、小林達雄、藤本強(1983)『縄文文化の研究』雄山閣
- 大野左千夫(1981)「石錘についての覚書」『古代学研究』81
- 内田律雄(2016)「九州型石錘についての覚書」『海と山と里の考古学』山崎純男博士古稀記念論集編集委員会
- 渡辺仁(1969)「所謂石錐について-先史学における用途の問題-」『考古学雑誌』5512
漢委奴国王印 ― 2024年09月09日 00:00

漢委奴国王印(かんのわのなこくおういん)は江戸時代の1784年(天明四年)に筑前国那珂郡志賀島(現福岡県福岡市東区)で出土した「漢委奴国王」の印文が刻まれた弥生時代の金印である。
概要
1784年(天明4年)の2月13日、志賀島で「漢委奴國王」の金印が見つかった。 出土地は志賀島(現・福岡県福岡市東区)の島内であった。発見直後に医者・儒学者で学問所・甘棠館の祭酒(学長)の亀井南冥は『後漢書』東夷伝「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀・・・光武賜以印綬」の印と指摘し、金印の由来を説明し、鑑定書として『金印弁』を著して金印についての研究を行った。亀井南冥の見解は現在も定説となっている。
発見の経緯
金印を掘り出したのは百姓甚兵衛説と甚兵衛の作人であった秀治,喜平の二人,秀治発見説の三説がある。甚兵衛の口上書には、私(甚兵衛)の所有地、叶の崎の、田の境の溝の水はけが悪かったので、先月23日、溝を修理しようと岸を切り落としていたところ、小さい石がだんだん出て来て、そのうち2人持ちほどの石にぶつかりました。この石をかなてこで取りのぞくと、石の間に光るものがあり、取り上げて水で洗うと金の印判のようなものでした。見たこともないようなものでした。甚兵衛の兄喜兵衛は元奉公先の主人福岡の米屋才蔵に見てもらった。甚兵衛は大切な物だと言われたので手元に置いていた。3月15日、庄屋武蔵から役所に提出するように言われ、甚兵衛は出土経緯を語った。3月16日、金印と村役の署名を添えた「口上書」を郡役所に提出したと書かれている。黒田藩の家老達は金印を甚兵衛より白銀5枚で買い取り、藩の宝物庫に保管した。
口上書
「天明四年 志賀島村百姓甚兵衛金印堀出候付口上書」 那珂郡志賀嶋村百姓甚兵衛申上る口上之覚 一、私抱田地叶の崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候に付、先月廿三日右之溝形を仕直し可申迚、岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、弐人持程之石有之、かな手子にて堀り除け申候処、石之間に光り候物有之に付、取上水にてすすぎ上げ、見申候処、金之印判之様成物にて御座候、私共見申たる儀も、無御座品に御座候間、私兄喜兵衛、以前奉公仕居申候福岡町家衆之方へ持ち参り、喜兵衛より見せ申候へば、大切成品之由被申候に付、其儘直し置候処、昨十五日、庄屋殿より右之品早速御役所江差出候様被申付候間、則差出申上候、何れ宜敷被仰付可被為下候、奉願上候、以上 志賀嶋村百生 甚兵衛(印) 天明四年三月十六日 津田源次郎様 御役所 右甚兵衛申上候通、少も相違無御座候、右体之品堀出候はば 不差置、速に可申出儀に御座候処うかと奉存、市中風説も御座候迄指出不申上候段、不念千万可申上様も無御座奉恐入候、何分共宜様被仰付可被為下候、奉願上候、以上
発見の経緯を述べた口上書から甚兵衛が発見者とされてきたが、その後の研究により、田地の所有者は甚兵衛であるが、金印の発見者は小作人の秀治と喜平の二人であるとの説が登場した。大谷光男氏によれば、博多聖福寺・仙厓和尚の『志賀島小幅』(鍋島家所蔵)に「志賀島農民秀治・喜平自叶崎掘出」と記され、金印の発見者は甚兵衛ではなく、農民の秀治と喜平が掘り出したとの一文が書かれていた。
さらに志賀島の阿曇家所蔵『万暦家内年鑑』(志賀神社)には「天明4年2月23日、志賀島小路町秀治田を墾(ひらき)し大石ノ下ヨリ金印を掘出 方七歩八厘 高三歩 漢委奴国王」とあり、金印の発見者は秀治とされている。
形状寸法
方形で一辺平均2.347cm、高さ0.887cm,総高は2.236cm、重さは108.729g、密度17.94、比重17.94である(岡崎敬(1968))。印文は「漢委奴国王」の五字を小篆の書体で三行にわけて薬研彫り形に陰刻されている。
所有者
福岡藩主黒田家に伝えられたものとして明治維新後に黒田家が東京へ移った際に東京国立博物館に寄託された。1974年(昭和49年)からは福岡市立歴史資料館で展示される。1978年(昭和53年)に黒田茂子(黒田長礼元侯爵夫人)から福岡市に寄贈され、1979年(昭和54年)からは福岡市美術館、1990年(平成2年)から福岡市博物館で保管・展示されている。
後漢書
『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に次の記載がある。
- (原文)建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
- (読み下し)「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武帝は印綬を賜った。」
真贋論争
弥生時代の遺跡はない田の中から、農作業中の農夫がこの金印を見つけたので、来歴に不審をいだかれ、偽物説が浮上した。 江戸時代の国学者松浦道輔は「漢倭奴国王金印偽作辨」を表し、贋作説を唱えた。論点は
- 1.印文の最後に印・爾・章などがない、
- 2.印の多くは鋳物であるが金印は鋳物ではない、
- 3.漢が下賜するのにわざわざ「漢」の文字を入れるのは通例に反する、
- 4.神武紀元にあてはめると垂仁86年になり仲哀紀にみえる伊都県主はまだいないはずである]。
松浦道輔の贋作説には次の反論がなされている。
- 1.三宅米吉は、蛮夷印には爾・章は不要であるとした。漢代の封泥に用いられた印は「蛮夷里長」「漢夷邑長」など印・爾がないものがある。
- 2.鉄製の印は鋳物であるが、金印は鋳物では作られないのが通例である。
- 3.漢がつく印には多数の実例がある。薬研彫は「広陵王爾」(58年)の実例がある。
- 4.神武紀元にあてはめて論じるのは『記紀』の記載をそのまま歴史的事実として判断することになるため、問題にならない反論である。 1966年に金印の精密測定がなされ、印面一辺が平均2.347cmであることが確認された。これは、後漢時代の墓で見つかった物差しの一寸と同サイズであり、当時の印は一寸四方で作られることから、この金印は後漢時代のものであると、認められるようになった。
鈴木勉
NPO工芸文化研究所の鈴木勉理事長は、金印に残る彫り痕の特徴は古代中国で作られたとされる印と大きく異なっていると指摘している。金印は、文字の中心線を彫ったあと、別の角度から「たがね」を打ち込んで輪郭を整える「さらい彫り」という技法で作られている。「広陵王璽」印は、たがねで文字を一気に彫り進める「線彫り」と呼ばれる高度な技法で製作されている。前漢から後漢の印の多くは1つの線がほぼ均一の太さで彫られているが、志賀島の金印は中央から端に向かって太くなる特徴があり、印面に対する文字の部分の面積が他の印と比べて突出して大きいから、江戸時代の印ではないかとする。
三浦佑之説
- 奴国に関する遺構のない所で発見された
- 発見時の記録にあいまいな点が多い
- 江戸時代の技術と知識で岩作は作れる
- 滇王之印に比べて稚拙である。 ことから、三浦佑之(2006)は亀井南冥が商人と結託して偽作したとする。
高倉洋彰説
高倉洋彰(2007)は次の主張をした。
- 江戸時代以前に漢代の一寸の実長を知ることは困難である。
- 漢代の一寸の実長は『漢旧儀』で知られようが、そこに蛇鈕は載っていない。
- 偽作するなら『後漢書』の記述に従って「委」を「倭」にする方が自然である。 江戸時代及びそれ以前では知識の水準と量が不足しており、偽作は不可能であるとした。
形状の疑問説
印のつまみ部分は蛇鈕であるが、実際には、蛇とはわかりにくい。、胴体をらせん状に巻き、頭を後ろに向けて振り返っている蛇の姿は相当に観察しないと分からない。そこで膝を折って座っている駱駝の胴体部分との指摘が生まれた。駱駝がデザインされた鈕であったものを、なんらかの理由で、上の部分だけ蛇の形に再加工したというのである。蛇の頭が後ろを振り返る図像は日本人にはまったく馴染みがないものの、前漢から後漢時代では、龍や虎などが振り返った表現は多い。 江戸時代に鈕を蛇形につくることは可能ではなかった。顧従徳『集古印譜』(1575) には参考となる蛇形鈕の見本は掲載されていない。
字体の問題
「漢」のさんずいは縦線の一番上が緩く弧を描き、左上の線は逆L字形である。 前漢時代は、S字を三つ並べたような形であったが、時代が下ると、徐々に伸びてきて、前漢と後漢の間の王莽の時代になると、全体の曲りは非常に緩やかになり、左上の縦線の下端が小さく飛び出す形状となる。後漢時代には曲がりのない縦の直線になる。他の4文字も同様で、「漢委奴國王」の文字はすべて、王莽から後漢初期の時代の特徴が表れている。石川(2017)は鈕と文字の2点だけで、後漢時代に作られた金印を江戸時代に再現することは、まず、不可能と断言する。
金属組成
「漢委奴國王」金印の金属組成は,蛍光X 線分析で金95.0%・銀4.5%・銅0.5%と測定されている(本田ほか(1990))。中国では前漢代・後漢代とも95~99%であるから、金印の値に矛盾はない。,金品位95%の製品を江戸時代に作れるのかという問題がある。江戸時代では後漢代の金製品が95%以上の高品位であることは知ることができない。さらに江戸時代では金座で金製品は厳重に管理されていた。江戸時代に流通する小判等は江戸時代前半で85%内外,後半56%であるから、小判を潰して作ったとしても95%以上の高品位の金を作ることはできない。
石川教授の結論
明治大学文学部の石川日出志教授は志賀島の金印は、「漢」の字の「偏」の上半分が僅かに曲がっており、「王」の真ん中の横線がやや上に寄っている点など、中国の後漢初期の文字の特徴があるとする。蛇形をした「つまみ」は、中国や周辺の各地で発見された同様の形の印と比較すると、後漢はじめごろに製作されたものが最も特徴が近いとする。金印に含まれる金の純度は90%以上であることは、古代中国の印とほぼ同じであると指摘する。「江戸時代に金の純度をまねて作ることはできない」と判断している。
指定
- 重文指定年月日:1931年12月14日
- 国宝指定年月日:1954年3月20日
参考文献
- 直木考次郎(2008)『邪馬台国と卑弥呼』吉川弘文館
- 石川日出志(2015)「金印と弥生時代研究-問題提起にかえて-」古代学研究所紀要 (23), pp.99-110
- 石川日出志(2017)「「漢委奴國王」金印の複眼的研究」第5回 西泠印社印学峰会“弧山証印”
- 石川日出志(2022)『国宝「漢委奴國王」金印の考古学』令和4年度 福島県文化財センター白河館 第3回館長講演会
- 本田光子・井上充・坂田浩(1990)「金印その他の蛍光X線分析」『研究報告』No14,福岡市立歴史資料館
- 呉朴(1959)「我村"滇王之印"的看法」『文物』1959-7
- 岡崎敬(1968)「「漢委奴國王」 金印の測定」史淵 100,pp.265-280
- 高倉洋彰(2007)「「漢の印制からみた「漢委奴國王」蛇鈕金印」」、『国華』112巻12号(通巻1341)、国華社
- 三浦佑之(2006)『金印偽造事件』幻冬舎
銅矛 ― 2024年09月10日 00:05

銅矛(どうぼこ)は弥生時代の青銅製の鉾である。「銅鉾」ともかく。
概要
銅鉾はもとは刺突すための武器であった。木の棒の先に取り付けて使う。もとは中国で生まれ、殷、西周、春秋、戦国、前漢、後漢で使用された。殷式銅矛は大多数が河南省殷虚から出土する。銎の部分が背となり、鋒まで通る。西周式銅矛は身部が銎の2倍の長さとなる。 春秋式銅矛は身部が狭く全長が長いものと、幅が広く短いものとがある。耳がなく、目釘穴を銎部にもつ。戦国式銅矛は地域差が大きくなる。朝鮮の銅矛は狭鋒銅矛が主体である。 南朝鮮では銅矛に儀器化のきざしがみえる。弥生前期末近くに始まる日本の青銅利器は、慶州を中心とする朝鮮南部のものがもたらされ、それ以後は南朝鮮の工人の手により、日本の青銅利器の鋳造が開始された。日本の銅矛は1例を除いて耳をもつ。朝鮮出土の狭戈b形式と同じ形状である。狭鋒銅矛c形式は朝鮮出土の狭戈c形式と同じ形状である。狭鋒銅矛d形式では長大化する。狭鋒銅矛e形式は日本独自の形式となり、銎部基部の両側に耳がある。中鋒銅矛A形式は耳と銎部基部の節帯の位置関係が乱れるようになる。広鋒銅矛A形式では全体に退化し、鋳造後の研磨がなくなり、背に鎬がない。 北部九州では墓に副葬された。日本で作られるようになると、多くは実用から離れた祭器となった。 九州から中国・四国地方にかけて出土する。銅矛は、銅鐸、銅剣、銅戈(どうか)とともに、弥生時代を代表する青銅器である。朝鮮半島からの伝来当初は細身で小さく、本来の武器の機能を備えていたが、日本列島では時期が降るとともに薄く扁平となり大型化するなど、武器としての形状は失われ、独自の変化を遂げる。
出土例
- 銅矛 - 荒神谷遺跡、島根県出雲市、銅矛16本が出土した、弥生時代
- 銅矛 -検見谷遺跡、佐賀県三養基郡北茂安町、佐賀県佐賀市城内
参考文献
- 近藤喬一(1969)「朝鮮・日本における初期金属器文化の系譜と展開: 銅矛を中心として」史林 52 (1),pp.75-115
さいたまA-59号遺跡 ― 2024年09月10日 00:09
さいたまA-59号遺跡(さいたまえーごじゅうきゅういせき))は埼玉県さいたま市に所在する縄文時代から弥生時代にかけての遺跡である。
概要
さいたま市大宮駅の東2.5kmにある。昔はゴボウ畑であった。大宮台地は関東平野の中央部で、埼玉県川口市・さいたま市から鴻巣市にかけての細長い洪積台地である。その大宮台地南東部の見沼低地を見下ろす台地の縁辺部にさいたまA-59号遺跡がある。周辺には中川貝塚や南中野西浦遺跡、中川稲荷山遺跡がある。
調査
分譲住宅建設のため先だって遺跡調査が行われた。調査期間は2023年10月10日から2024年1月30日であった。第一次調査では縄文時代中期竪穴住居跡2軒、土坑3基、弥生時代後期住居跡1軒であった。第4号住居跡は縄文時代後期で5m径の円形もしくは5m長軸径の楕円形であり、石囲い炉をもつ。第5号住居跡は隅丸方形で、東西6.2m、南北5.2mである。南側に埋め甕がある。住居内に1.5m×1m、深さ65cmの袋状土坑2基を検出した。 弥生時代後期の第3号住居跡は4.2m×3.8mの隅丸長方形であった。 第二次調査1区では縄文時代中期住居跡2軒、土坑5基、3区では縄文時代中期頃の土坑15基、平安時代の土坑2基を検出した。 南側の土坑群を囲む環状集落であった可能性がある。中央広場が想定される。
遺構
- 竪穴住居跡
- 土坑
遺物
- 土器
- 浅鉢
- 埋甕
指定
考察
アクセス等
- 名称:さいたまA-59号遺跡
- 所在地:さいたま市見沼区中川
- 交通:
参考文献
白鍬宮腰遺跡 ― 2024年09月11日 08:44
白鍬宮腰遺跡(しらくわみやこしいせき))は埼玉県さいたま市に所在する縄文時代、古墳時代から平安時代、近世にかけての複合遺跡である。
概要
さいたま市与野本町の西約2.0kmにある遺跡である。大宮台地は関東平野の中央部にあり、埼玉県川口市・さいたま市から鴻巣市にかけての細長い洪積台地であるが、その南西縁辺部 と旧河川により形成された自然堤防上に位置する。現在知られている範囲は、南北約 650m、東西約200mの小判形となる。遺跡のすぐ西側を鴨川が流れる。遺跡の標高は約8mから 9.5mで、西側の低地との差は約1mから2mがある。周辺には市指定史跡の「かね山古墳」・「権現塚古墳」など、古墳時代の遺跡が多く点在する。 以下では縄文時代、古墳時代に焦点を絞って記述する。
調査
昭和59年以来これまで20次の調査が行われている。
第18次調査
第18次調査では古墳時代後期の周溝 1 条のみ検出され、遺物は18平ケースで3箱分が出土した。周溝からは円筒埴輪の破片が7カ所で出土した。調査区中央より東側で見つかっており、底面より約 45 ㎝~70cm 上の土層から見つかった。周溝内からは縄文時代中期とみられる縄文土器の大型破片も多く出土した。調査区の西側付近では、周溝の底面より約 20 ㎝~45cm の土層から台付甕の底部が出土した。
第19次調査
縄文時代前期初頭から前期中葉の住居跡、ピット100基以上を検出した。遺跡の南側にも貝塚を検出した。遺跡の北側はこれまでに検出されていた。また古墳時代中期の住居跡2軒、古代の土坑1基を検出した。遺物は平箱8箱ある。古墳時代中期の1号住居は隅丸方形で、1辺5.4m、炉跡は中央北西にあり、住居跡床面から古墳時代中期の和泉式土器が出土した。 第4号住居跡は長辺6.9m、短辺6.3mを測る。第2号住居は長軸3.2m、短軸6.2mの方形である。
第20次調査
古墳時代前期の住居跡3軒、古墳跡周堀、遺物は30L平箱5箱であった。古墳時代前期の土器、管玉が出土した。第4号住居跡は東西6.11m、南北5.6mで約34m2である。床は貼床である。貯蔵穴は2基検出し、炉跡は中央北寄りにある。床面がところどころで焼けているので、消失住居とみられる。第2号、第4号住居跡では、器台、坩、高坏(小型)が出土しており、祭祀に関わる遺構とみられる。
遺構
- 竪穴住居跡
- 土坑
遺物
白鍬塚山古墳周堀出土埴輪類、土製模造品、石製模造品及び土器類
- 朝顔形円筒埴輪 1箇
- 朝顔形円筒埴輪残欠 6点
- 円筒埴輪残欠 12点
- 朝顔形円筒埴輪及び円筒埴輪破片 一括
- 形象埴輪破片(盾形、推定家形、同人物その他) 31点
- 土製甑形模造品 1箇
- 石製剣形模造品 1箇
- 土師器破片及び須恵器破片 一括
1.第1号円形周溝墓出土土器類
- 土師器高坏破片 1点
- 須恵器破片 一括
第2号円形周溝墓出土土器類、銅製品、鉄製品、石製品、土製品及びガラス製品類
- 土師器(坏、坩、壺)3箇
- 土師器破片及び須恵器破片 一括
- 乳文鏡 1面
- 鉄鏃 3点
- 鉄鏃(推定六本分癒着)一括
- 直刀及び短刀残欠癒着鉄塊 一括
- 紡錘車 2箇
- 硬玉製勾玉 1箇
- 碧玉製勾玉 1箇
- ガラス丸玉 1箇
第一号土壙出土鉄製品類
- 刀子残欠 1点
溝内出土土器類及び鉄製品類
- 土師器破片 一括
- 陶磁器破片 一括
- 鉄釘及び刀子残欠 2点
指定
- 平成4年3月25日指定 市指定 有形文化財(考古資料)
考察
竪穴住居は1棟で約30m2から40m2である。現代でいうと1DKの広さである。子供の数が多いとかなり狭い住居である。竪穴住居に5人から6人ほどが居住していたと言われるので、夫婦+子供3名、あるいは夫婦+子供2名+親世代2名であろうか。集落の人口は 弥生時代では100名から125人程度なので、約20軒で1つの村を形成していたことになる。 縄文時代と古墳時代の土器出土は見られるが、弥生時代の土器出土がないのはなぜであろうか。その間は一時放棄されていた土地であろうか。
アクセス等
- 名称:白鍬宮腰遺跡
- 所在地:さいたま市桜区白鍬
- 交通:北与野駅から直線距離で約2.0km
参考文献
- さいたま市教育委員会(2024)『さいたま市遺跡発掘調査成果発表会』資料
指扇向遺跡 ― 2024年09月12日 00:05
指扇向遺跡(さしおうぎむかいいせき))はさいたま市西区指扇に所在する縄文時代の遺跡である。
概要
JR川越線西大宮駅の南に約1㎞の場所で、大宮台地の西側の指扇支台の標高15.7mに所在する。近くには指扇下戸遺跡、大木戸遺跡、C-75号遺跡がある。縄文時代前期の竪穴住居跡1軒、縄文時代のピット72基のほか、縄文時代の土器や石器、装飾品とみられる玉類を検出した。
調査
今回の調査で確認できた前期の住居跡は、範囲にして全体の4分の1程度で、長軸方向の長さは7mから8mと考えられている。縄文時代の竪穴住居跡は約30cmの掘り込みがある。 30cmの掘り込みのピットが多数あり、何度も建て直されている事が分かる。第1次調査では縄文時代の竪穴住居跡が9軒検出された。ファイアーピットから土器が多数検出された。 第2次調査では黒曜石、縄文前期後葉の諸磯a式、b式の土器が検出された。
遺構
- 竪穴住居跡
遺物
- 縄文土器
指定
考察
諸磯遺跡出土土器は榊原政職により「諸磯式」(1921年)として扱われるようになったとされる。深鉢形土器、浅鉢形、まれに壺形や皿形などが見られる。関東地方では、神奈川・東京・埼玉・群馬・栃木の一部と、さらに中部地方の大半で広がる。a式は沈線による米字文や、木葉助骨文が特徴で、諸磯貝塚が標識遺跡である実年代は約6000年前(紀元前4000年)とされる。埼玉県で諸磯a式、b式土器が出土するのは不思議ではない。黒曜石はどこの産地か分析すれば分かるのであるが、調べていないとのこと。埼玉付近では産出しないので、関東では箱根、神津島、伊豆・天城などが考えられる。
アクセス等
- 名称:指扇向遺跡
- 所在地:埼玉県さいたま市西区指扇
- 交通:西大宮駅から徒歩15分。
参考文献
- さいたま市教育委員会(2024)『さいたま市遺跡発掘調査成果発表会』資料
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