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諸磯式土器2024年12月01日 00:06

諸磯式土器/七社神社前遺跡/飛鳥山博物館

諸磯式土器(もろいそしきどき)は縄文時代の関東地方、中部地方に出現する土器である。

概要

神奈川県三浦市三崎町諸磯字新堀にある縄文時代の諸磯遺跡が標識遺跡である。榊原政職により「諸磯式」として扱われた。爪形文や平行線文、浮線文による波状文や鋸歯状文、弧文、渦巻文などを複雑に組み合わせた文様が見られる。浮線文と言われる、細かく連続的に刻みを加える形式で、渦巻きなどの幾何学的模様を組み合わせる。「竹管文系土器」として竹のようなものを半裁した施文具により、平行沈線や爪形文によって施文される。 諸磯式土器の口縁部に小孔が開けられている土器を「有孔土器」という。

諸磯式土器の段階

山内清男が黒浜式と区別してa・bの2類を指摘し、後にc式を加えた3つの細別型式となり、諸磯a・b・c式の3段階に変遷する。諸磯式の最終段階の諸磯c式は約 5,900 年前にあたり関東では気候が冷涼化する時期とされる。山梨・長野では諸磯c式においても環状集落が継続することから、人口減少は顕著ではなかったと言われる。

諸磯a式

黒浜式土器に続く形式。胎土に砂粒が多く、繊維を含まないものが多いが、繊維を含むものもある。 深鉢が主であり、有文4単位波状有括のもの、無文で甕状のもの、単純なバケツ形が代表である。厚さは7㎜前後が多い。

諸磯b式

胎土は砂粒に富む。地紋に縄紋を持つものが普通だが、横位竹管条線を施すものも有る。

諸磯c式

胎土は砂粒に富む。金雲母を含むものも目立つ。深鉢を主とする。古い段階では平縁が主体であり、波状口縁がわずかに残る。胴部下位の膨らみが内屈部となり、その上が緩く外反する。

出土例

  • 諸磯式土器 - 諸磯遺跡、神奈川県三浦市、縄文時代
  • 諸磯式土器 - 花鳥山遺跡、山梨県笛吹市、縄文時代前期後半
  • 諸磯a式土器 - 七社神社前遺跡、東京都北区、縄文時代、北区飛鳥山博物館
  • 諸磯式土器 - 秋山中山遺跡、埼玉県児玉町、縄文時代前期後半

考察

参考文献

屈葬2024年12月01日 21:40

屈葬(くっそう)は遺体の埋葬時に手足を折り曲げて埋葬する方法である。

概要

遺体の下肢を股あるいは膝で折り曲げ、膝を右または左に傾け、手足を胸の上まで曲げて体積を減らして埋葬する方法である。縄文時代では土壙墓や甕棺に埋葬していた。 これに対して遺体を折り曲げない方法を伸展葬という。 日本の縄文時代に多く見られるが、弥生時代でも見られる。縄文時代は住居の近くの場所に埋葬していたが、弥生時代には集落からは遠い場所に埋葬する様になった。弥生時代になると主流は伸展葬となった。

甕棺墓

口の狭い甕を二個使い口縁部を合して内に遺体を入れる方法である。鏡山猛(1939)によれば屈葬とするのは「死体を恐怖する観念」は原始民族に限らず、現代人に於てもある程度の通有性を有するとされる。

屈葬とする理由

屈葬とする理由は諸説が提案されている。

  1. 埋葬する穴を掘る労力の節約説
  2. 怨霊忌避説 - 死者の霊のよみがえりを避け生者への災いを防止する。
  3. 胎児の姿勢で再生を期待する説
  4. 安楽な休息姿勢で死者を楽にさせる説 - 平静時の座位と同じ

考察

屈葬とする理由は怨霊忌避説が有力とされている。弥生時代には少なくなったとされるものの、弥生時代でも吉野ヶ里遺跡の甕棺では屈葬が主流となっている。甕棺では格納スペースの問題から採用されたのではないか。怨霊忌避説では、古墳時代に見られなくなった理由を合理的に説明できない。 なぜ屈葬するかについては、縄文時代で甕棺を使わない場合は、穴を掘る労力を少なくする説も説得力がある。

出土例

  • 小竹貝塚 縄文時代、富山県富山市、縄文時代 国内最多の前期縄文人骨
  • 加曽利貝塚 縄文時代後期、千葉県千葉市

参考文献

  1. 長谷部言人(1927)「石器時代の蹲葬の起源について」『先史学研究』
  2. 大島直行(2017)『縄文人はなぜ死者を穴に埋めたのか : 墓と子宮の考古学』国書刊行会
  3. 鏡山猛(1939)「我が古代社会に於ける甕棺葬」史淵. 21,pp.83-123,

北区飛鳥山博物館2024年12月02日 00:19

北区飛鳥山博物館

北区飛鳥山博物館(きたくあすかやまはくぶつかん)は東京都北区にある郷土博物館である。

概要

1998年(平成10年)3月27日 、北区飛鳥山公園内にオープンした区立博物館である。紙の博物館、渋沢史料館が隣接地にある。 常設展示として、古代から近現代に至るまでの北区の歴史をはじめ、自然や文化を幅広く紹介する。常設展示は地域の自然や歴史について、14のテーマで構成する。 2階部分が入口となり、2階は常設展示会場、受付と講堂、企画展示室がある1階は常設展示会場(有料)である。館内に弥生時代の飛鳥山にあった環濠集落遺跡の竪穴式住居を復元している。3階は飛鳥山アートギャラリー、資料の閲覧コーナー、体験学習室、軽食コーナーである。 2010年(平成22年)3月27日 にリニューアルオープンした。

常設展示

  • 大地のおいたち
    • 地形地質の変化、治初期に活躍したドイツ人のお雇い教師ブラウンスの事績
  • 最古の狩人
    • 石器の作り方・使い方
  • 縄文人の暮らし
    • 中里貝塚剥ぎ取り標本(厚さ日本一の貝塚の剥ぎ取り標本(積層厚4.5m))
    • 土偶を展示
    • 東谷戸遺跡出土土偶
    • 中里遺跡出土丸木舟
    • 中里遺跡出土縄文土器
    • 丸木舟
  • 弥生人のムラ 竪穴住居の一部を実物大で復元
    • 七社神社前遺跡出土鉄釧
    • 田端西台通遺跡出土鉄剣
    • ガラス小玉
  • 古墳時代の夜明け ガラス小玉の鋳型や木製品が展示
    • 豊島馬場遺跡出土ガラス小玉鋳型
    • 田端不動坂遺跡第17地点第8号土坑出土遺跡 青銅鏡、勾玉
  • 豪族と民の時代
    • 田端不動坂遺跡出土古墳時代祭祀遺物
  • 律令社会と豊島郡衙
    • 御殿前遺跡祭祀遺構出土土器 土師器

企画展

台所の考古学

  • 北区飛鳥山博物館特別展示室
  • 期間2024年10月26日(土曜日)~12月8日(日曜日)
  • 古代の台所と道具の変化、道具にこめられた人々の知恵と工夫を紹介する。
  • 関連講座「食と調理の考古学」2024年11月30日(土)

指定

  • 平成16年3月10日指定 東京都指定有形文化財(考古資料) 中里遺跡出土丸木舟

アクセス等

  • 名称:北区飛鳥山博物館
  • 所在地:114-0002  東京都北区王子1-1-3
  • 休館日: 月 (祝日・振替休日は開館)
  • 開館時間: 10:00~17:00 (常設展示室、観覧券の発行は閉館30分前まで)
  • 入館料: [一般]300円(団体240円) 3館共通券 [一般]800円
  • 交通:JR王子駅(南口)から徒歩5分/都電荒川線飛鳥山停留場から徒歩3分

参考文献

食と調理の考古学2024年12月03日 01:13

北区飛鳥山博物館 企画展講演会

食と調理の考古学(しょくとちょうりのこうこがく)は2024年11月30日に開催された古代史の講演会である。

概要

  • タイトル 「食と調理の考古学」
  • 会場    北区飛鳥山博物館 講堂
  • 講師    鈴木直人氏(博物館学芸員)
  • 日時    2024年11月30日(土曜日)14時00分から16時00分

要旨

旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代の食と調理を概説する。

旧石器時代

旧石器時代は非常に寒い頃で、列島は針葉樹林が広がり、ナウマン象、オオツノジカが跋扈していた。それゆえ食料は動物ではナウマン象、オオツノジカ、植物はナッツ、ベリーなどであった。調理は動物を解体してそのまま食べたり、蒸し焼きにして食べた。動物は大型動物を狩猟で捕獲していた。植物のチョウセンゴヨウ、ハシバミはアク抜きが不要で、そのまま食べられる。

縄文時代

縄文時代には温かくなって広葉樹林が広がって小型動物が増え、シカ、イノシシ、野ウサギ、鳥類のキジ、カモ、貝類のシジミ、ハマグリを捕っていた。植物は堅果類、豆類、根茎類、球根類、野草類、キノコ、核果類を食べていた。土器が発明されたので、煮ることが可能となった。焼く、蒸す調理も行う。

弥生時代

弥生時代では壺が登場する。稲作が始まるが、田の生産力はまだ大きくなかったので、米だけに頼る生活ではなかった。米、あわ、ひえ、きび、大麦、小麦などの穀物の他、どんぐり・くるみ・かや・とち・くりなどの木の実、いのしし、鹿、熊、うさぎ、たぬき、きつねなどの野生動物、すずき、くろだい、はも、きす、にしん、あじ、ふぐ、あゆ、ふ な、うぐい、うなぎ、たこ、さめ、すっぽん、さんしょう魚などの魚・水産動物を取っていた。はいがい、おおたにし、かわにな、まがき、うみにな、しおふき、さるぼう、 やまとしじみなどの貝類も利用する。弥生人は、土器に海水・海藻などを入れ、熱を加え水分を蒸発させ、塩をつくっていた。

古墳時代

朝鮮半島からカマドが伝わった。竈は炉に比べると熱効率が良く、少ない燃料で強い火力が得られた。古墳時代には、かまどの強い火で「こしき」と下に水をいれた甕をつかい、米を蒸して食べていた。お粥や雑炊だけではなく、米を蒸した「強飯」とよばれる赤飯が炊かれた。水田技術や農具も発展し、米の収穫が増えた。これにより米が美味しくなった。古墳時代には大規模な水田が作られるようになったので、収量が増えた。弥生時代後期に朝鮮半島から鉄器が伝来し、鉄製の農具を使う効率的な農作業ができるようになった。古墳時代には食生活がより安定している。 古墳時代の食材は弥生時代と似ている。主食はアワ・ヒエや豆、米を栽培し、ソバなどの穀類を採っていた。ハマグリやウニ、魚類などの海産物が食卓に加わる。動物はシカやイノシシなど、木の実はドングリ、シイの実、クリなどで、果物は果物は、モモやスモモなど野イチゴ、ブドウ、アケビなどがある。穀物や魚介類を発酵させた味噌や醤油、塩辛などの原型も加わる。日本酒の原形といえる麹カビも採用する。 海がない地域では、川のマスやフナ、 コイ、ウナギ、 サケを食べていた。

参考文献

  1. 鈴木直人(2024)「食と調理の考古学」配付資料
  2. 名久井文明(2019)『食べ物の民俗考古学』吉川弘文館

富雄丸山古墳の蛇行剣と保存科学2024年12月04日 00:13

富雄丸山古墳の蛇行剣と保存科学(しょくとちょうりのこうこがく)は2014年11月23日に開催された古代史と保存科学に関する講演会のタイトルである。

概要

  • イベント名 第14回奈良県立橿原考古学研究所 東京講演会
  • タイトル 「富雄丸山古墳の蛇行剣と保存科学」
  • 主催 奈良県立橿原考古学研究所、由良大和古代文化研究協会、朝日新聞社
  • 会場    有楽町朝日ホール
  • 日時    2024年11月23日(土曜日)13時00分から15時55分

要旨

保存科学の歴史と富雄丸山古墳の蛇行剣に適用された保存科学を解説する。

講演1「富雄丸山古墳と保存科学」

奥山誠義氏 橿原考古学研究所 総括研究員

保存科学は文化財の医者である。保存科学の役割は、今の文化財の姿を後世に残すことである。1989年に橿原考古学研究所保存科学研究室ができた。1992年に保存科学棟ができた。 研究員は現在4名である。2022年に国内最大の蛇行剣が発掘された。下にある銅板(当時の認識、距離も不明であった)や遺構を傷つけないように取り上げる必要があった。アクリル樹脂を塗布し土と剣を補強し、ガーゼを当てて竹串で周囲の土を掘り下げ、10人かかりで取り上げた。研究所に搬入後は透過X線撮影を行い、三次元形状計測を行った。当初は剣が1本か2本か分からなかったが、最終的に1本と確認した。木材の痕跡が見つかり、鞘はホオノキ製と判明した。中央部に織物の痕跡があった。慎重に剣のクリーニングを行って公開にこぎ着けた。

講演2「蛇行剣-富雄丸山古墳出土品の理解に寄せて-」

北山峰生氏  橿原考古学研究所 調査第1係長

蛇行剣は全国で約80本出土しており、茶すり山古墳(兵庫県)、宇陀北原古墳、花の木古墳群、豊中大塚古墳(大阪府)、フネ古墳(長野)、七観古墳(大阪府)などがある。韓国でも金城里古墳など数例がある。蛇行剣の年代はまだ確定しない。鉄生産は5世紀に大型利ができ、長い剣の国産化が出きている。蛇行剣は5世紀に登場し、Aタイプ、Bタイプ、Cタイプに分かれる。蛇行剣以外の剣は何度も折り返して鍛錬するが、蛇行剣はブロック状の素材がついているだけで鍛えられていない。武器としては実用では無く、儀礼用の剣ではないか。

講演3「保存科学と考古学」

今津節生氏 奈良大学学長

1989年に橿原考古学研究所入所した。藤ノ木古墳では玄室内の泥のように見えた塊が、持ち帰って分析すると実は布の塊であることが分かった。1996年の下池山古墳では地下2mの空洞から鏡と織物を発見した。繊維を剥ぎ取り、毛織物を顕微鏡で調べると兎の毛であることが分かった。鏡袋の存在を明らかにできた。目に見えない有機物の残片から様々なことが分かるようになった。出土繊維の調査が全国で行われることを期待する。

考察

考古学の発掘現場には保存科学が必須であることがよく分かった。見逃しがちなゴミに見える塊が実は、貴重な研究素材を提供する。今回はだ龍鏡の分析は未完了のため蛇行剣に焦点が当たった。

参考文献

  1. 第14回奈良県立橿原考古学研究所 東京講演会 資料

柳本天神山古墳2024年12月05日 00:25

柳本天神山古墳(やなぎもとてんじんやまこふん)は奈良県天理市にある4世紀後半の前方後円墳である。別名は「大和天神山古墳」「奈良天神山古」である。

概要

行燈山古墳の西側である。東側の半分は国道169号線の建設時に破壊され、西側のみが残存する。周濠の有無は判明していない。埴輪は出土しない。葺石はない。段築や周濠は不明瞭である。 山麓に立地し、前方部が南向きである。人物の埋葬は無く、遺物のみを葬った古墳としては最大規模である。大和盆地東辺に立地する柳本古墳群の中の1つ。天神山古墳は遺体を埋納した形跡がなく、すぐ東に行燈山古墳(崇神天皇陵)があり、同陵の遺物のみを埋納した陪塚とも考えられている。天神山古墳の築造年代は4世紀後半頃とされる。

調査

1960年に国道の敷設に伴い、奈良県立橿原考古学研究所により竪穴式石室の調査が行われた。竪穴式石室は全長6.1mで、石室内部には合掌式石室である。棺台は粘土を用いており、棺はコウヤマキ製の「木櫃」(木製の上蓋つきの棺)が安置されている。銅鏡23面や鉄製品の副葬品が多量に出土した。木棺中央に41kgに及ぶ朱が置かれており、周囲に銅鏡が置かれていた。銅鏡は、後円部中央の竪穴式石室の中の木櫃の内から20面がみつかり、棺外から3面が発見された。鏡は木櫃の周縁に沿って北から右廻りに20面を一周させ、櫃外の北側に2面、南側に1面が配されていた。剣は木製の柄装具に直弧文が描かれる。遺体を埋葬した形跡がないため、「木櫃」には遺体がなかった可能性が指摘されている。銅鏡には典型的な三角縁神獣鏡が含まれず、方格規矩鏡や内行花文鏡など中国・後漢時代の鏡(三角縁神獣鏡よりもやや古い)が主体であった。

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 築成 前方部:なし、後円部:なし
  • 墳長 113m
  • 後円部 径55m 高7m
  • 前方部 幅50m 長43m 高さ4m
  • 主体部
    • 室・槨 竪穴式石槨

遺構

後円部のほぼ中央に長さ6.1mの竪穴式石室を検出。

出土遺物

  • 内行花文鏡4
  • 方格規矩鏡6
  • ボウ製:人物鳥獣文鏡1
  • 変形神獣鏡2、
  • 画文帯神獣鏡4
  • 獣形鏡3
  • 画像鏡2・
  • 獣帯鏡1
  • 鉄剣:4
  • 鉄刀:1
  • 鉄鏃
  • 刀子。
  • 板状鉄斧。
  • 水銀朱(41kg)。

展示

  • 奈良国立博物館
    • 流雲文縁方格規矩鏡(奈良県天神山古墳出土)727-1
    • 画文帯神獣鏡(奈良県天神山古墳出土)
    • 内行花文鏡(奈良県天神山古墳出土)
    • 内行花文鏡(奈良県天神山古墳出土)
    • 三角縁変形神獣鏡(奈良県天神山古墳出土)
    • 画文帯神獣鏡(奈良県天神山古墳出土)
    • 獣形鏡(奈良県天神山古墳出土)
    • 流雲文縁方格規矩鏡(奈良県天神山古墳出土)727-8
    • 流雲文縁方格規矩鏡(奈良県天神山古墳出土)727-9
    • 画像鏡(奈良県天神山古墳出土)727-10
    • 画像鏡(奈良県天神山古墳出土)727-11
    • 画文帯神獣鏡(奈良県天神山古墳出土) 727-12
    • 獣形鏡(奈良県天神山古墳出土) 727-13
    • 画文帯神獣鏡(奈良県天神山古墳出土)727-14
    • 三角縁変形神獣鏡(奈良県天神山古墳出土) 727-15
    • 波文縁方格規矩鏡(奈良県天神山古墳出土)727-16
    • 内行花文鏡(奈良県天神山古墳出土) 727-17
    • 獣形鏡(奈良県天神山古墳出土) 727-18
    • 波文縁方格規矩鏡(奈良県天神山古墳出土) 727-19
    • 内行花文鏡(奈良県天神山古墳出土) 727-20
    • 流雲文縁方格規矩鏡(奈良県天神山古墳出土)727-21
    • 半三角縁人物鳥獣文鏡(奈良県天神山古墳出土)727-22
    • 獣帯鏡(奈良県天神山古墳出土) 727-23
    • 朱(天神山古墳出土) 727-29

指定

  • 2002年(平成14年)6月26日 重要文化財(考古資料)出土品 一括(考古資料)
  • 2008年(平成20年) 木棺は県の有形文化財に指定
  • 2009年(平成21年)奈良県指定史跡

アクセス

  • 名称:柳本天神山古墳
  • 所在地: 〒632-0052 奈良県天理市柳本町
  • 交通:JR柳本駅徒歩14分/940m

参考文献

  1. 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版
  2. 伊達宗泰・森浩一(1963)『大和天神山古墳』奈良県教育委員会

水子貝塚2024年12月06日 00:17

水子貝塚(みずこかいづか)は埼玉県富士見市にある縄文時代の貝塚および環状集落遺跡である。

概要

水子貝塚は武蔵野台地の端、荒川低地に面している。1894年(明治27年)10月25日にこの地を訪れた遺跡探索を趣味としていた元棚倉藩主の阿部正功によって発見された。『東京人類学会雑誌』第10巻、第106号に紹介された。酒詰仲男は安部立郎の報告した地名表から水子貝塚を認識し、1938年(昭和13年)12月、和島誠一等とともに2カ所の貝層を伴う竪穴住居を発掘した(第1次調査)。1939年(昭和14年)10月、最大の貝塚の竪穴住居を中心に発掘した(第2次調査)。 1967年(昭和42年)1月に行われた第3次調査で貝層を伴う前期黒浜式の竪穴住居1軒、諸磯b式の竪穴住居1軒などを発見した。1967年までの3回の調査により縄文時代前期の小貝塚が環状に分布するを発見した。遺跡から約60ヵ所の小さな貝塚が直径160mの円形(ドーナツ状)で見つかった。小貝塚は竪穴住居跡に貝殻が捨てられた跡であった。貝の種類はヤマトシジミが大部分であった。ほかにハマグリ、サルボウ、カキなどがある。クルミ、クリなどの炭化殻がみつかった。煮炊きに使われた煤けた土器が見つかった。1つの住居跡から、屈葬された30代女性の人骨と、若い雄犬の骨がみつかった。 縄文時代前期の縄文海進期に、内陸部に形成された代表的な貝塚である。前期末には次第に海退が進み、海岸線は後退した。小貝塚の分布状況から貝塚形成当時の集落の規模形態を推測できる遺跡として学術上価値が高いとされた。 史跡指定地39,346.85 ㎡のうち、98.4%を公有地化し、1994年(平成6年)6月に「縄文ふれあい広場 水子貝塚公園」が開園した。隣接地に水子貝塚資料館があり、資料館と史跡、自然が一体となった野外博物館である。

遺構

  • 土坑2
  • 竪穴住居
  • 集石
  • 住居5
  • 貝層

遺物

  • 縄文土器
  • 石器
  • ケツ状耳飾
  • 軽石製品
  • 鮫歯製垂飾
  • 犬牙製垂飾
  • 平安布目瓦
  • 埋葬人

展示

  • 水子貝塚資料館

指定

  • 1969年9月9日 国指定史跡、「水子貝塚」

考察

アクセス

  • 名称:水子貝塚
  • 所在地:埼玉県富士見市大字水子2003 番地1
  • 交通: 東武東上線 みずほ台駅東口から約1.2km。徒歩約15~20分

参考文献

  1. 富士見市教育委員会「史跡水子貝塚整備基本計画」