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耳環2025年01月13日 00:40

耳環(じかん)は外径2~3cm程度の切れ目のある環状の金属製リングである。

概要

金属の細い棒を曲げて作る。遺体の耳の付近から出土することや、人物埴輪の耳に表現されていることから、耳飾り(イアリング)と考えられる。古墳時代後期から飛鳥時代にかけて造られ、男女関わらず耳につけていた。 金色をしたものを金環、銀色をしたものを銀環というが、純金や純銀のものはほとんどない。 金環は、金と水銀の合金を塗り、加熱して水銀を蒸発させる金アマルガム法と、金箔を表面に張り付ける方法とがある。

出土例

  • 耳環 - 奥原古墳群、群馬県、古墳時代後期
  • 耳環 - 宮中野古墳群大塚古墳、茨城県、古墳時代
  • 耳環 - 小洞古墳群、岐阜県関市広見、古墳時代
  • 耳環 - 中野遺跡、大阪府四條畷市中野本町、古墳時代

参考文献

平城宮跡資料館2025年01月14日 00:04

平城宮跡資料館(へいじょうきゅうあとしりょうかん)は奈良県奈良市にある平城宮とその平城宮京跡の事柄を分かりやすく解説展示する資料館である。

概要

奈良文化財研究所の約50年にわたる平城宮・京の調査をもとに1970年(昭和45年)に馬寮跡に建てられた。加えて、考古学や奈良時代に限らない奈良文化財研究所の最新の研究成果を展示公開する施設ともなる。ガイドが常駐しており、無料で詳しい解説をする。奈良時代の人の暮らしや、食事、寝床、木簡を展示する。

常設展示

ガイダンスコーナー

  • 「遷都」、「発掘」、「実測」、「整備」の一連の過程をジオラマで解説する。

官衙復原展示コーナー

  • 大極殿・大極殿院の模型展示や平城宮内にあった役所の内部を実物大模型で再現する。1996年(平成8年)時の研究成果をもとに復元する。

宮殿復原展示コーナー

  • 内裏における天皇の生活を寝室・書斎・居間・食卓の4つのコーナーに分けて展示する。

遺物展示コーナー

  • 平城宮・京で出土した多様な遺物を展示する。

研究室コーナー

  • 木簡、木器・金属器、土器、瓦など研究室の仕事内容を展示し研究室ごとに調査研究成果や新たな知見を公開する黒板を設置する。

考古科学コーナー

模型展示コーナー

その他

企画展

令和6年度平城宮跡資料館秋期特別展「聖武天皇が即位したとき。」

  • 令和6年(2024)10月22日(火)~12月8日(日)
  • 展示資料 大嘗祭関連木簡〔奈文研所蔵〕ほか

令和5年度平城宮跡資料館秋期特別展「女帝のいのり」

  • 令和5年(2023)10月28日(土)~令和6年(2024)2月12日(振替休日)
  • 展示資料:西大寺旧境内出土品、西隆寺跡出土品

指定

アクセス等

  • 名称:平城宮跡資料館
  • 所在地: 〒630-8003 奈良県奈良市佐紀町
  • 休館日: 月曜日(祝日の場合は翌平日)、年末年始
  • 開館時間:9:00~16:30(入場は16:00まで)
  • 入館料: 無料
  • 交通:近鉄大和西大寺駅北口を出て、道なりに東へ徒歩約10分

参考文献

松東遺跡2025年01月14日 00:20

松東遺跡(まつひがしいせき)は静岡県浜松市にある弥生時代の集落遺跡である。

概要

天竜川が形成する沖積地に位置し、遠州灘海岸まで8kmの位置にある。弥生時代後期の環濠集落の跡や近畿式銅鐸の飾耳の破片がみつかった。当時は微高地に住み、低湿地に水田を作り生活していた。当時は貴重品であった銅鐸が出土することから、松東遺跡の周辺は天竜川平野における拠点地域であったと考えられる。弥生人にとり、銅鐸は貴重な祭祀の道具であった。銅鐸を埋めた土坑は集落の中心域に位置しており、集落外に埋めることが多いので、

調査

平成24年の第三次調査では集落の存在を裏付ける大量の土坑や柱の跡とみられる小さな穴を多数確認した。集落内で検出した土坑内から近畿式銅鐸が発見された。弥生時代後期(約千九百年前)の銅鐸の破片で高さ20cm、幅25cm、重量1.18kgであった。鈕に刻まれた模様の特徴から判断して、突線鈕 2 式と呼ばれる型式であった。復元すると高さは80cmと、弥生時代後期に製作された突線紐2式の銅鐸中では全国でも最大級である。 破片は紐すなわち銅鐸の吊り手の部分であった。飾り耳といわれる装飾部はすべて欠損していた。

遺構

銅鐸

この時期の銅鐸は三遠式と近畿式の2つの型がある。完形銅鐸はどちらも見つかっているが、破片銅鐸の出土例は近畿式だけである。この理由は解明されていない。

指定

アクセス等

  • 名称:松東遺跡
  • 所在地:静岡県浜松市東区天龍川町538-1
  • 交通:JR 天竜川駅北側

参考文献

  1. 文化庁(2016)『発掘された日本列島 2016』共同通信
  2. 浜松市文化財課(2012)「松東遺跡発掘調査現地説明会」資料

東北歴史博物館2025年01月15日 00:06

東北歴史博物館(とうほくれきしはくぶつかん)は宮城県多賀城市にある宮城県立の歴史系博物館である。

概要

旧石器時代から近現代まで、地域は東北地方全体を視野に入れる博物館である。1階に総合展示室、テーマ展示室、特別展示室がある。総合展示室は旧石器時代から近現代までの東北地方全体の歴史を、時代別の9つのコーナーに分けて展示する。テーマ展示室は期間を定め、特定のテーマの資料を展示する。敷地内に「今野家住宅」(江戸時代中期の民家を移築復元)がある。

総合展示室

旧石器時代

  • 最古の人類を求めて

縄文時代

  • ナラ林と水辺のくらし
  • 仙台湾と東北各地の貝塚

弥生時代

  • 米作りのはじまり

古墳時代

  • 巨大な古墳が造られた時代

古代

  • 城柵とエミシ
  • 多賀城とその周辺

テーマ展示室

第1室「宮城の食-米どころの舞台裏ー」

  • 2024年9月3日(火)から2025年2月2日(日)

第2室「仙台湾の貝塚-縄文人のよそおい・くらし・いのりー」

  • 2024年9月3日(火)から2025年2月2日(日)

第3室「仙台の近世絵画 塩竈生まれのご長寿絵師 小池曲江」

  • 2024年12月3日(火)~2025年2月2日(日)

飲食店

  • 古代米屋レストラン「グリーンゲイブル」
    • 自家製古代米(黒米)、さくら米粥、おもわく麺

指定

アクセス等

  • 名称:東北歴史博物館
  • 所在地: 〒985-0862 宮城県多賀城市高崎1丁目22-1
  • 休館日: 毎週月曜日 (祝・休日の場合はその翌平日)、年末年始
  • 開館時間:午前9時30分から午後5時まで (※観覧券発行16:30まで))
  • 入館料:個人460円
  • 交通:JR仙台駅からJR国府多賀城駅まで14分。国府多賀城駅から徒歩1分。

参考文献

聖武天皇2025年01月16日 00:24

聖武天皇(しょうむてんのう、701年-756年,Emperor Shomu)は奈良時代(在位724年~749年)の第45代天皇である。

概要

701年(大宝1年)、奈良で生まれる。父は文武天皇、母は藤原不比等の娘の藤原宮子。諱は首(おびと)王子。7歳で父と死別する。父方の祖母である元明天皇が即位する。714年(和銅7年)、14歳で皇太子となる。716年(霊亀2年)、光明子は皇太子・首王子の妃となる。後宮には藤原不比等の女の安宿媛(光明皇后)、県犬養広刀自、藤原武智麻呂の女(名前不明)、同じく房前の女など4夫人が知られている。 719年、皇太子は始めて朝政を聴く。724年(神亀1年)2月首王子は24歳で即位する。長屋王が左大臣となる。3月、吉野に行幸する。8月、献新羅使を任命する。11月、大嘗祭。 727年7月、光明子が皇子を産む。11月。皇子を皇太子とする。728年9月、皇太子没。 729年2月10日、藤原不比等の4兄弟は陰謀によって長屋王を殺害し(長屋王の変)、729年8月に光明の立后を強行した。県犬養広刀自を夫人とし、728年皇子に安積親王が生まれる。井上内親王・不破内親王を得た。光明子との間に皇子として基王、内親王として阿倍皇女を得た。基王は皇太子になったが早世し、安積親王も744年(天平16年)に没したため、皇位継承に問題が残った。737年(天平9年)に天然痘の大流行により、藤原四兄弟を始め、政府高官の大多数が死去する。天皇の母の藤原宮子は長く病に伏していたが、唐より帰国した僧玄昉が看病してこれを回復させ,天皇は初めて母に対面することができた。それ以来,天皇は玄昉や吉備真備を重用するようになる。

政治的変動

玄昉が重んじられることへの不満をきっかけとして740年(天平12年)9月,藤原広嗣は九州において大規模な反乱をおこした(藤原広嗣の乱)。反乱を機に恭仁京(京都府)、紫香楽宮(滋賀県)、難波京(大阪市)と3度にわたる遷都を繰り返し、膨大な費用を要して国家財政は苦境に陥る。最終的に都は平城宮に戻ったが、政治的混乱の時期であった。740年(天平12年)12月からわずか 4年半の間である。 741年(天平13年)には国分寺建立の詔を発し、諸国に国分寺、国分尼寺を建てた。743年には盧遮那大仏の造立を発願した。

財政破綻

結果的に民衆の全負担が増大し、墾田永年私財法の制定とともに律令体制の崩壊を促進した。749年4月陸奥国産金の報を受けて東大寺へ行幸し、大仏に自らを三宝の奴であると述べて、749年(天平勝宝元年)7月2日(西暦の8月19日)、娘の阿倍内親王に譲位し(孝謙天皇、出家した。752年(;天平勝宝4年)4月9日(752年5月30日)、東大寺の大仏の開眼法要を行った。754年(天平勝宝6年)唐僧・鑑真から菩薩戒を受けた。756年(;天平勝宝8年)に天武天皇の2世王・道祖王を皇太子にする違勅を残し崩御した。御陵は奈良市法蓮町の佐保山南陵(奈良市法蓮町)。

正倉院宝物

遺品は正倉院御物として伝わる。仏教芸術は高度の技術と鑑賞眼による華麗な工芸品を中心とする、いわゆる天平文化とよばれるもので、聖武の遺品は光明皇后によって東大寺に献納され、正倉院宝物の母体となる。この時代の仏教芸術は高度の技術と高い鑑賞眼による華麗な工芸品を中心として、いわゆる天平文化を作り上げた。聖武天皇の唯一の書跡は正倉院に「雑集」が伝えられる。これは東大寺献物帳のうち国家珍宝帳に「雑集一巻(注略)右平城宮御宇 後太上天皇御書」とあるもので、巻末に天平3年(731)9月8日写了とある。天皇31歳の書である。

繰り返された遷都

先行研究では大宰府での藤原広嗣の乱の平城京への波及を恐れたこと、先代の天皇である元正上皇からの独立を求めたこと、737年(天平9年)に流行した天然痘,またその原因とみなされた長屋王の怨霊を忌避したいとの願望,などが指摘されている。737年の疫病流行で不比等の4子が没してから貴族間の抗争が激しくなったことも理由に挙げられている。

恭仁京への遷都の理由

 松浦茂樹は遷都の理由を天平 6年(734年)4月,畿内は大地震に見舞われたが,その時に地すべり地帯である大和川亀ノ瀬峡谷部で舟運に影響を与える変動が生じたと推測する(参考文献1)。すなわち平城京の物資輸送に大きな役割を果たしていた大和川舟運に支障があったためと推測する。

平城京還都の理由

松浦茂樹は平城京還都の理由を745年(天平17年)4 月に美濃国を震源とした大規模な内陸直下型群発性に襲われたことを最大の理由とした。

考察

長屋王の変

皇子の誕生で、聖武が有頂天になった様子は、727年10月5日の「大赦、官人に賜物を配布」、翌6日の「王臣以下への賜物」に見られる。そして聖武は生後わずか1ヵ月の皇子を皇太子にした。それ以前の例では若くとも15歳で皇太子になっている。寺崎保広(2020)は長屋王が皇太子の指名に異を唱えた可能性を指摘する。根拠として、11月14日のお祝いに不比等邸を訪れた官人に長屋王の名がないことを挙げる。律令の規定を厳格に守ろうとする法治主義の長屋王であるから、当然あり得たことであろう。 しかし、翌年728年の9月に皇太子は2歳(数え)で没する。聖武は相当に落胆したと思われる。そして藤原氏は聖武の皇子が生後まもなく亡くなったのは、長屋王の呪詛が原因であると耳元でささやいた可能性も想定できる。単純で神経質な聖武はそれを信じたかもしれない。そして愛する我が子の殺害を許せないという感情にかられ、無実の長屋王の殺害に聖武の事前了解を与えたのではなかろうか。長屋王の殺害は聖武天皇の意向があったとみてよいのではないか。「処刑に値する密告」は時の天皇である聖武天皇にも報告されていたであろう。その前の伏線として、聖武が母宮子に『大夫人』という尊称を勅命で与えたときに,長屋王は律令違反を理由に反対し,聖武の出した勅を撤回させた事件があった。聖武はこのことを恨みに思っていたであろう。長屋王の弁明を一切何も聞かず、天皇直属の親衛隊である六衛府軍を派遣する決定は、天皇の許可や指示がなければできなかったであろう。聖武の頻繁な遷都の気の弱さは、ある種の暗さや性格の歪みが見られる。とすれば長屋王の殺害で冷酷なストーリーを描くことも可能である。

光明子の立后

藤原氏からすれば皇族出身でない光明子を皇后に立てることができれば、将来男子が生まれたときに他の皇子より優位な地位を得ることができる。これは藤原氏の権力維持に必要な舞台であった。皇族を皇后とする従来の慣例を破り。藤原不比等の娘の安宿媛を皇后(光明皇后)にするには、長屋王の存在が邪魔になる。律令の規定を何よりも重視する長屋王の存在は、聖武にとっても、藤原氏にとっても邪魔な存在であった。聖武が愛する光明子を皇后にするために障害となった長屋王を無実の罪を着せてでも殺害したとしても不思議ではない。藤原氏としては、聖武を味方に付けなければ、リスクが大きく実施できなかったであろう。その意味で、長屋王殺害の黒幕説には光明子もあるが、やはり聖武であろう。

参考文献

  1. 松浦茂樹(2017):「聖武天皇と国土経営」53『水利科学』 No.358
  2. 寺崎保広(2020)『聖武天皇』山川出版社

白滝遺跡群2025年01月17日 00:14

白滝遺跡群(しらたきいせきぐん)は、北海道紋別郡遠軽町にある旧石器時代の遺跡群である。

概要

北海道大雪山系の北東山麓にある遠軽町白滝に位置する。赤石山の南側に湧別川の河岸段丘上を中心として100か所ほどの旧石器時代の遺跡が分布する。日本有数の黒曜石の原産地である。黒曜石の埋蔵量が2億トンから5億トンと言われる。湧別川の流域は、数段の河岸段丘が発達し、90か所近くの旧石器時代の遺跡があり、「白滝遺跡群」と総称されている。上白滝8遺跡は、全体で約135万点、3,460kgの遺物が出土している。遺物は全て石器類で、ほとんどが旧石器時代のものである。内訳は小型不定形剥片、広郷型ナイフ形石器、蘭越型・峠下型・美利河型・札滑型・幌加型・白滝型・紅葉山型・忍路子型・射的山型(広郷型)などの細石刃核、ホロカ型彫器、有舌尖頭器、小型舟底形石器などを含む北海道内のほぼ全ての石器群が出土している。

調査

旧石器時代の遺跡出土遺物の中でも内容・質量ともに群を抜くものであり、世界的に貴重な出土品である。舟底形石器を含む石器群は白滝遺跡群で主体を占める。ナイフ形石器は「広郷型」が主体を占める。広郷型ナイフ形石器は北海道特有のナイフ形石器であり、素材の鋭い縁辺を一部に残し、他をやや平坦な二次加工が覆う。ホロカ型彫器は大型の石刃を素材とし、その端部を表面側に斜めに打ち欠いて鋭い刃を作り出した石器である。

意義

鈴木宏行(2004)は白滝遺跡群の意義を2つ示した。第一は原産地遺跡で行われた石器製作活動の復元が可能であること。第二は道路建設に伴う長大なトレンチ調査ゆえにほぼ同一の石材環境と見なされる範囲内での通時的・共時的な遺跡間変異の検討が可能であることとする。

課題

石器群の編年や他の地域の遺跡との比較検討という大きな課題があるとされている。

遺構

  • 焼土
  • 炭化木片ブロック

遺物

  • 有舌尖頭器
  • 彫器
  • 石刃
  • 剥片
  • 細石刃
  • 細石刃核
  • 両面調整石器
  • 舟底形石器
  • 尖頭器
  • ナイフ形石器
  • 彫器
  • 錐形石器
  • 削器
  • 台形石器

放射性炭素年代測定

炭化木片について放射性炭素年代測定(AMS 法)を行ったところ年代は14C年代測定値で27,000年前から10,000年前の年代値が得られている。 服部台2・奥白滝1・上白滝8・上白滝2・上白滝5・白滝3・一部の旧白滝5遺跡の試料では、最も新しいもので9,940±40yBP(Beta-150438)、最も古いものは28,120±180yBP(Beta-186199)という数値が得られ、それらは、10,000~10,500yBP、11,500~11,900yBP、13,400~14,300yBP、15,000~16,200yBP、17,500~19,000yBP に数値の集中がみられる。

指定

  • 令和5年6月27日 - 国宝「黒曜石石器」
  • 1989年1月9日 史跡指定「白滝遺跡」
  • 1997年9月2日 史跡追加指定「白滝遺跡群」

展示

  • 遠軽町埋蔵文化財センター

アクセス

  • 名称:白滝遺跡群
  • 所在地:〒099-0127 北海道紋別郡遠軽町奥白滝
  • 交 通:北海道旅客鉄道石北本線白滝駅から徒歩59分/4.2km

参考文献

  1. 北海道埋蔵文化財センター(2007)「白滝遺跡群Ⅲ」
  2. 北海道埋蔵文化財センター(2007)「白滝遺跡群VIII」北海道埋蔵文化財センター調査報告書第250集
  3. 日本旧石器学会(2010)『日本列島の旧石器時代遺跡』
  4. 鈴木宏行(2004)「原産地遺跡における細石刃石器群の技術構造」『日本の細石刃文化』八ケ岳旧石器研究グループ

昼飯大塚古墳2025年01月18日 00:41

昼飯大塚古墳(ひるいおおつかこふん)は古墳時代前期の前方後円墳である。 日本百名墳に選出されている。

概要

昼飯大塚古墳は金生山から舌状に南へ緩やかにのびる更新世段丘上に立地する。東海地方の中で最大級の前方後円墳で、墳丘の構造や埴輪の特徴、副葬品などは畿内の大王墓に匹敵する規模である。

調査

明治10年代に後円部の石室が盗掘され、鏡や銅鏃・巴形銅器,多数の玉類などが出土したと伝えられるが,ほとんどが所在不明となっている。 昭和55年、名古屋大学により初めての発掘調査の後,平成6から平成11年度に大垣市教育委員会が範囲確認調査を継続実施し,古墳の概要が判明した。盗掘坑から滑石製・碧玉製の石釧,坩形・刀子形・斧形・合子形の滑石製模造品,臼玉・勾玉・算盤玉・棗玉など2000点を超える滑石製玉類,鉄器残欠などが採集されている。北棺の石室内は未調査である。盗掘坑埋土および石室内流土から、盗掘時に攪乱された遺物の一部が出土した。3段目斜面基底石付近で土層が変化している。2段目平坦面までを成形して後円部全体を水平にならしたのちに3段目斜面を成形したと考えられる。土の違いから想定される木棺の大きさは長さ5.2m以上、幅55~60 ㎝と推定される。埴輪は1500本が並べられていた。

同一古墳に3つの埋葬形態

後円部の頂上に竪穴式石室、粘土槨、木棺直葬という3つの埋葬形態が存在する。異なる埋葬方法が同じ墓壙内に混在している特徴的な埋葬施設が確認された。同一墓壙内に三棺を埋葬する事例は、三重県石山古墳、兵庫県行者塚古墳、大阪府心合寺山古墳、滋賀県熊野本19 号墳の4例がこれまでに確認されている。昼飯大塚古墳は5例目である。

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 築成 前方部:3段、後円部:3段
  • 墳長 150m
  • 後円部 径径96m 高13m
  • 前方部 幅82m 長54m 高8m
  • 円筒埴輪 円筒Ⅱ~Ⅲ式・朝顔形
  • 葺石 あり

埴輪

後円部頂

  • 円筒埴輪
  • 朝顔形埴輪
  • 楕円筒埴輪
  • 鰭付円筒埴輪73
  • 形象埴輪:家形埴輪7以上
  • 蓋形埴輪6以上
  • 盾形埴輪5以上
  • 靫形埴輪片15 甲冑形埴輪片1
  • 不明形象埴輪片9

後円部

  • 円筒埴輪3(原位置を保つもの)
  • 円筒埴輪片4個体以上
  • 朝顔形埴輪片1
  • 家形埴輪片9以上
  • 蓋形埴輪片2
  • 不明形象埴輪片1

遺構

室・槨

  • 竪穴式石室、粘土槨、木棺直葬

遺物

  • 土器(土師器)
    • 二重口縁壺片3
    • 小型丸底壺片78(うち円筒埴輪内部から3個体分)
    • 直口壺片1
    • 柳ヶ坪型壺片1
    • 壺片1
    • 高坏片670(うち円筒埴輪内部から3個体分)
  • 〔土 製 品〕
    • 食物形土製品16以上
    • 笊形土器片約80(10個体分以上)
  • 〔玉 類〕
    • 管玉12
    • ガラス玉14
    • 算盤玉6
    • 勾玉47
    • 棗玉2
    • 臼玉101
    • 丸玉1
  • 〔石 製 品〕
    • 刀子形石製品片2
  • 〔鉄 製 品〕
    • 刀子片3
    • 不明鉄製品片1

副葬品

  • 玉 類:
    • 管玉43
    • ガラス玉324
    • 勾玉187
    • 算盤玉70 水晶製
    • 棗玉153
    • 臼玉3453
  • 石製品:
    • 緑色凝灰岩製石釧片1
    • 滑石製石釧片3
    • 刀子形石製品片11
    • 斧形石製品片5以上
    • 坩形石製品片1
    • 不明石製品片3以上
  • 鉄製品
    • 鉄柄付刀子片1
    • 鉇片2
    • 針状鉄製品片37
    • 剣片1
    • 不明鉄製品片4
  • 〔西棺〕「墓壙内西部出土鉄製品群」とされていた遺物群は、第8次調査の際に西棺にともなう副葬品と判明した。
  • 石製品
    • 鎌形石製品1
  • 鉄製品:
    • 刀15
    • 剣5
    • 柄付横斧1
    • 柄付縦斧1
    • 有袋斧4
    • 刀子12
    • 蕨手刀子5
    • 鎌1
  • 【農工具等】
    • ①針
    • ④直刃鎌・刀子・蕨手刀子・有袋鉄斧・鉄柄付手斧
  • 【その他】
    • ③笊形土器・土製品

築造時期

  • 古墳時代前期末頃 4世紀末

被葬者

展示

  • 大垣市歴史民俗資料館

指定

  • 2000年9月6日 国史跡指定
  • 2014年3月18日 追加指定

アクセス等

  • 名称:昼飯大塚古墳
  • 所在地:〒503-2216  岐阜県大垣市昼飯町
  • 交通:美濃赤坂駅 徒歩 10分

参考文献

  1. 岐阜県大垣市教育委員会(2005)「史跡 昼飯大塚古墳 第9次調査 現地説明会資料」
  2. 岐阜県大垣市教育委員会(2004)「史跡 昼飯大塚古墳 第8次調査 現地説明会資料」