大泉中里遺跡 ― 2026年03月27日 00:33
大泉中里遺跡(おおいずみなかざといせき)は、東京都練馬区に所在する旧石器時代と縄文時代の遺跡である。
概要
「大泉井頭公園」を源流とする一級河川の白子川中流域の標高39mの台地縁辺に立地する。 2025年までに第一次調査から第五次調査までが行われ、旧石器時代と縄文時代の遺跡と遺物が確認された。練馬区内で縄文時代後期初頭の集落跡は珍しいと言われる。
第一次調査
第一次調査は1985年(昭和60年)に実施され、縄文時代の竪穴状遺構や土坑が検出された。遺物は、旧石器時代の石器、縄文土器、石器が出土した(練馬区遺跡調査会(1989))。
第二次調査
第二次調査は2003年(平成15年)に実施され、縄文時代早期後半の竪穴建物跡が検出された。遺物は、縄文土器と石器が出土した(練馬区教育委員会(2004))。
第三次調査
第三次調査は2018年(平成30年)に実施され、縄文時代の炉穴・ピット、縄文時代以降のピットが検出された。遺物は、旧石器時代の石器・礫、縄文土器、古墳時代後期から奈良時代の土師器が出土した。(株式会社イビソク(2018))。
第四次調査
第四次調査は2019年(平成31年(令和元年))に実施され、旧石器時代の遺物集中部、縄文時代の集石、炉穴、土器埋設遺構、奈良・平安時代から中世の土坑、近世以降のピットが検出された。遺物は、旧石器時代の石器・礫、縄文時代早期から中期の土器等が出土した(東京都埋蔵文化財センター(2020))。旧石器時代(約25000年前)の「Ⅴ層・Ⅳ層下部段階」と見られる石器は天城柏峠産の黒曜石及び荒川で採取される黒色頁岩を主体とする石器群である。 縄文時代においては、約8000年前の早期後半の炉穴12 基と同時期の土器・石器、及び約4500 年前の中期後半の集石1基、土器埋設遺構1基と同時期の土器・石器が検出された。中期後半の集石と土器埋設遺構は、中期末様の加曽利E4式期である。集石は、掘り込みを持つものではなく蒸し焼き料理用の調理施設とは異なった性格のもので、礫敷遺構ともいえる。大規模集落が解体し、敷石住居跡が出現し、盛行する時期である。
第五次調査
第五次調査は2024年6月2日から10月まで実施され、2025年9月に報告書が刊行された(東京都教育支援機構東京都埋蔵文化財センター(2025))。旧石器時代では3個所の遺物集中が出土した。遺物集中は多量の自然礫で構成されるが、うち2個所からは信州産黒曜石の角錐状石器、硬質細粒凝灰岩のナイフ型石器、黒色ガラス質安山岩の剥片が出土した。縄文時代早期後半では土坑、炉穴、ピット、竪穴状遺構が出土した。条痕文系土器が出土した。 縄文時代中期後半では土坑、ピット、竪穴状遺構が出土し、加曽利式E3、E4土器が出土した。
縄文時代の広域ネットワーク
大泉中里遺跡(東京都練馬区)から出土した信州(長野県)や天城(静岡県)、あるいは東北地方など、数百キロ離れた土地がら採取される材料を使った石器群は後期旧石器時代の人々が広いネットワークを持っていたことを示している。これらの石器の入手モデルとして3通りが提案されている。
遊動・移動モデル(モデル1)
食料の大型哺乳類の移動に合わせて、季節ごとに移動していたと考えるモデルである。夏は涼しい信州の高原で過ごし黒曜石を拾う。冬は温暖な南関東で貝などを採取して生活する。石材採取だけを目的として移動したのではなかったと考える説である。
交換・ネットワークモデル(モデル2)
異なるグループが互いの境界付近で出会い、自分たちの地域の特産品を交換するモデルである。物の売り買いはでなく、集団間の友好関係を維持するための贈答または中継地を使用したリレー方式が提案されている。
混在説(モデル3)
単一のモデルではなく「自分たちで取りに行ったもの」と「他部族から譲り受けたもの」が混在していると考えるモデルである。信州産の黒曜石は質が良いため、縄文時代の人気アイテムであった。
遺構
旧石器
- 礫群
- 遺物集中部6
縄文時代(早期+前期+中期+後期)
- 住居
- 集石
- 土坑
遺物
旧石器時代
- 石器
- 礫
縄文時代(早期+前期+中期+後期)
- 縄文土器
- 石器
- 集石1
- 炉穴12
- 埋設土器1
築造年代
展示
指定
- なし
アクセス等
- 名称 :大泉中里遺跡
- 所在地 :東京都練馬区大泉町2-59-15
- 交 通 :大泉学園駅からコミュニティバス「みどりバス」保谷ルート(保谷駅北口行き)で別荘橋で下車。
参考文献
- 公益財団法人東京都スポーツ文化事業団東京都埋蔵文化財センター(2020)『東京都埋蔵文化財センター調査報告355:大泉中里遺跡第四次調査』公益財団法人東京都スポーツ文化事業団東京都埋蔵文化財センター
- 東京都教育支援機構東京都埋蔵文化財センター(2025)『大泉中里遺跡第五次調査 練馬区 (東京都埋蔵文化財センター調査報告 第392集)』東京都教育支援機構東京都埋蔵文化財センター
- 永峯光一ほか(1972)「豊島・板橋・練馬3区における考古学的調査」『北西区部文化財総合調査報告 1』
石錘 ― 2026年03月27日 18:22
石錘(せきすい)は主に縄文時代から弥生時代にかけて用いられた石製品で、網や縄に取り付けて重りとする用途が有力とされる遺物である。平たい自然石や河原石に、打ち欠き・切り込み・溝などの加工を施して製作される。
形態分類
石錘は加工方法の違いにより、一般に以下のように分類される。
- 打欠石錘(うちかけせきすい)
- 石の一部を打ち欠いて凹部を作り、そこに紐や網を掛ける構造をもつ。
- 切目石錘(きりめせきすい)
- 石の両端などに切れ目(ノッチ)を入れ、紐を固定しやすくしたもの。
- 有溝石錘(ゆうこうせきすい)
- 石の周囲に連続的な溝を巡らせ、紐を巻き付けて使用するもの。
石錘の用途に関する主な説
石錘の用途については複数の説があり、以下が代表的な説である。
1. 漁撈用具(主流説)
最も有力な説は、漁網の重り(漁網錘)とする見解である。 網に取り付けることにより沈降性を高め、魚を捕獲しやすくする役割を担ったと考えられている。 なお、網や縄は有機質のため腐朽しやすく、考古学的には残存しない。
2. 編物石説(補助的見解)
一部には、編物や織物に関係する道具(重り)とする説もある。 しかし、遺跡から大量に出土する例の説明が困難であることが指摘されており(山本直人(2011)など)、主流の説とはなっていない。
技術的特徴
- 自然石を利用した簡便な加工が多い
- 地域・時期により形態や加工精度に差がある
- 沿岸部・河川沿いの遺跡で多く出土する傾向がある
土錘との関係
弥生時代以降になると、素焼きの土製錘(=土錘)が普及する。 これにより石錘の使用は相対的に減少すると考えられるが、完全に置き換えられたかどうかは地域差がある。
石錘の出土分布
日本海側の特徴
分布傾向
- 北陸・山陰を中心に沿岸遺跡で比較的多く出土する。
- 特に砂丘遺跡・潟湖周辺遺跡で顕著である。
背景要因
- 冬季の季節風による強い波浪がある。
- 沿岸流の影響が大きく、網の安定化が必要となる。
- 岩礁海岸と砂浜が混在し、多様な漁法が発達する。
技術的特徴
- 重量のある石錘が多い傾向がある。
- 有溝石錘など、固定性を重視した形態が目立つ。
太平洋側の特徴
分布傾向
- 関東・東北太平洋側では貝塚や内湾遺跡で出土する。
- ただし日本海側ほどの集中性はみられない場合もある。
背景要因
- 三陸などのリアス式海岸や内湾環境がみられる。
- 比較的波が穏やかな漁場(内湾・入江)が存在する。
- 沿岸漁撈に加えて、採集(貝類)との複合生業。
技術的特徴
- 小型・軽量の石錘も一定数存在する。
- 切目石錘など、簡易加工品の比率が高い傾向がある。
まとめ
石錘の分布差は単なる地域差ではなく、「海況(波・流れ)+地形(内湾・外洋)+生業構造」の組み合わせによって規定される。つまり石錘は、縄文・弥生人の漁撈技術と環境適応を示す指標として重要な資料である。
出土例
- 石錘 - 生田遺跡、兵庫県神戸市、縄文時代、
- 有溝石錘 - 上原遺跡、岐阜県揖斐郡揖斐川町、縄文時代
- 石錘 - 天間沢遺跡、静岡県富士市、縄文時代
- 打欠石錘 - 油免遺跡、広島県双三郡三良坂町、縄文時代
参考文献
- 山本直人(2011)『縄文時代の打欠石錘の用途に関する一考察』名古屋大学文学部研究論集. 史学 57.pp.19-46
- 福井淳一(2026)『オホーツク文化に特徴的な釣針と石錘はどのように使われたのか? : 漁具の漁法推定と出土魚類遺存体による魚類資源利用の検討』北海道大学考古学研究室研究紀要, 5,pp.70-83
石船戸遺跡 ― 2026年03月27日 18:45
石船戸遺跡(いしふなといせき)は、新潟県阿賀野市に所在する縄文時代晩期の集落遺跡である。阿賀野川右岸の自然堤防上に立地し、東に五頭山、西に阿賀野川を望む低地に広がる。
概要
本遺跡は、縄文時代晩期初頭から中葉にかけて営まれた集落であり、日本海側における晩期文化の実態を示す重要な遺跡である。出土遺物824点は阿賀野市が所有し、東北地方を中心に分布する亀ヶ岡式土器文化圏の南限域の様相を示す資料として高く評価されている。
遺構は、竪穴建物・掘立柱建物・土坑・埋設土器などから構成される。集落の南北斜面には土器廃棄場が形成され、北側には集石遺構が確認されている。集落は南東から北西方向に延びる幅約80mの微高地上に展開する。
遺物には、亀ヶ岡式土器の特徴を備えた精製土器と粗製土器があり、晩期前半の大洞B式土器を主体として、B-C式土器も出土している。器種には甕・鉢・壺・注口土器などが含まれ、羊歯状文・K字状文・三叉文などの文様が施される。
特筆すべきはアスファルト利用である。塊状アスファルトが64点出土し、加熱用土器や塗布具も伴うことから、産地から搬入したアスファルトを加熱して加工・利用していたと考えられる。アスファルトは粘着性を活かして土器の補修や石鏃の接着に用いられ、付着した土器は1300点以上にのぼる。このことは、縄文晩期における資源流通と技術体系を示す重要な証拠である。
また、土製錘の出土は網漁の存在を示しており、河川環境を活用した生業が行われていたことを裏付ける。さらに、遮光器土偶(新潟県内最大級)や動物形土製品、岩版などが出土し、東北地方との文化的関係が強く認められる。遮光器土偶にはアスファルトによる補修痕があり、繰り返し修復して使用されたことが確認されている。
調査は1966年(昭和41年)から1967年(昭和42年)の排水路工事に伴う発見を契機に開始され、緊急調査で大量の遺物が出土した。その後、2012年(平成24年)から2014年(平成26年)にかけて本格的な発掘調査が実施された。
近年の調査では、遺跡南側に縄文晩期に形成された大規模河道の存在が確認された。下層から出土したクリ果皮の放射性炭素年代測定(AMS法)では、紀元前1260~1119年(2σ)の年代が得られており、遺構の年代と整合する。この結果から、石船戸遺跡は河道沿いに形成された集落であり、周辺の境塚遺跡などとともに、同一河川環境に沿った集落群を構成していた可能性が指摘される。河道の堆積・環境変化に伴い、集落は最終的に消滅したと考えられる。
遺構
- 掘立柱建物
- 竪穴建物
- 円形土坑
遺物
- 土偶
- 遮光器土偶
- 縄文土器
- 岩版
- 石棒
- 動物型土製品
- 石斧
- 石槍
- 石鏃
- 遮光器土偶
指定
- 2023年3月 - 新潟県有形文化財(考古資料)
時期
縄文時代晩期初頭から前葉
アクセス
- 名称:石船戸遺跡
- 所在地:新潟県阿賀野市堀越字石船戸
- 交 通:JR水原駅から10km
参考文献
- 文化庁(2020)『発掘された日本列島 2020』共同通信社
- 新潟県教育委員会(2019)「石船戸東遺跡」
- 荒川隆史(2020)「阿賀野市における縄文時代晩期の大規模な河道について」「研究紀要 11号」公益財団法人新潟県埋蔵文化財調査事業団
将軍山古墳 ― 2026年03月27日 18:52
将軍山古墳(しょうぐんやまこふん)は埼玉県行田市に所在する古墳時代後期の前方後円墳であり、埼玉古墳群を構成する古墳の一つである。
概要
墳丘の全長は約90mで、埼玉県内では8番目、埼玉古墳群では4番目の規模の前方後円墳に位置づけられる。墳丘は二段築成で、後円部径約39m、前方部幅約68mを測る。 埋葬施設は、後円部に横穴式石室、前方部に木棺直葬施設が設けられていた。横穴式石室は右片袖式と推定され、玄室は幅約2.0m・長さ約3.2m、羨道幅は約1.0mである。石材には千葉県富津市周辺で採石される凝灰岩である房州石が使用されており、約80km離れた地域から運搬されたことになる。
墳丘外部には周濠が巡り、平面形はほぼ長方形を呈する二重周濠と考えられている。墳丘西側の中堤には造出し状の突出部が確認されているが、発掘調査の結果、この部分は後世の改変による可能性が高いとされている。 なお、戦前までは「将軍塚」とも呼ばれていた。
墳丘形態
埼玉古墳群の多くの古墳では後円部径が墳丘全長の約2分の1程度であるのに対し、将軍山古墳では後円部が比較的小さく、前方部が長く発達する点に特徴がある。 墳丘形態は、千葉県富津市の「内裏塚古墳群に属する稲荷山古墳」と類似することが指摘されており、房総半島との文化的関係を考えるうえでも重要な古墳である。
遺物の特徴
出土遺物には鉄鏃・馬具・装身具などがあり、特に「馬冑(ばちゅう)」が出土したことで知られる。馬冑の出土例は日本国内でも3例(大谷古墳(和歌山県)、船原古墳(福岡)、将軍山古墳(埼玉県))と極めて少なく、将軍山古墳はその代表的事例の一つである。韓国では8例(玉田(オクチョン)古墳群出土品、釜山市福泉洞(ポクチョンドン)ー〇号墳出土品など)が出土している。また、蛇行状鉄器などの特殊な鉄器も出土しており、古墳時代後期における朝鮮半島との交流を示唆する資料とされる。蛇行状鉄器は、主に古墳時代中期?後期の古墳から出土する、蛇のように屈曲した鉄製の祭祀具・副葬品である。富雄丸山古墳で発見された約2.3mの「蛇行剣」が国内最大であるが、蛇行剣は全国で約80-85例が出土している。朝鮮半島では、馬の後部に旗指物として装着する事例が知られる。
築造年代
築造年代は、石室内から出土した須恵器の型式などから6世紀後半と推定されている。
将軍山古墳は、房総半島との石材交流や馬具文化の受容を示す資料として、古墳時代後期の東国首長層の政治・軍事ネットワークを考えるうえで重要な古墳である。
将軍山古墳研究史(戦前?最新研究)
1 発見と戦前研究(19世紀末?1945)
「将軍山古墳」の存在が知られるようになったのは明治時代である。 1894年、旧下忍村(現行田市下忍)の増田五左衛門が庭の石材として利用するために墳丘を掘削した際、横穴式石室が発見された。これにより古墳の存在が初めて確認された。
この時期はまだ体系的な発掘調査は行われず、古墳は「将軍塚」と呼ばれる伝承的存在として認識されるにとどまった。 戦前の研究は主に地域史家による記録や古墳分布調査の段階であり、古墳群としての評価はまだ十分ではなかった。
2 戦後の古墳群研究(1950?1970年代)
戦後になると、周辺古墳の調査が進み、将軍山古墳は**埼玉古墳群**を構成する主要古墳の一つとして位置付けられるようになった。
この時期の研究では主に以下の点が明らかにされた。
- 墳丘規模が約90mの前方後円墳であること
- 古墳群内で中規模クラスの首長墓であること
- 後円部に横穴式石室が存在すること
また、古墳の平面形が埼玉古墳群の他の古墳と異なり前方部が長く後円部が小さい形態を持つことも注目された。
3 本格的発掘調査と資料の再評価(1980?1990年代)
1980年代以降、土地改良や水路改修に伴い発掘調査が実施され、将軍山古墳研究は大きく進展した。
主な調査は次の通りである。
- 1975年 前方部南東隅の調査(埼玉県)
- 1984年 外堀西側の発掘調査
- 1991-1992年 墳丘確認調査、石室の精査と遺物調査
この調査により
- 墳丘が二段築成であること
- 周濠が二重構造であること
- 横穴式石室が右片袖式であること
などが確認された。
さらに石室床面から
- 馬具
- 鉄鏃
- 鉄地銀張飾金具
- 鞍橋金具
- ガラス玉
など多量の副葬品が出土した。
また須恵器型式の分析から築造年代は6世紀後半と推定された。
4 馬具研究と東国騎馬文化(1990年代?2000年代)
出土資料の中で特に注目されたのが「馬冑(ばちゅう)」である。 馬冑は古墳時代の日本では出土例が極めて少なく、将軍山古墳は重要な事例とされた。
この発見により研究の焦点は次第に
- 東国の騎馬文化
- 武装首長の存在
- 朝鮮半島系武具文化
へと広がった。
また蛇行状鉄器などの特殊鉄器も出土したことから、古墳時代後期の武装集団と対外交流の問題が議論されるようになった。
5 石室研究と房総地域との関係(2000年代以降)
石室に使用された石材が房州石であることは、研究上大きな意味を持つ。
房州石は現在の千葉県富津市周辺で採石される凝灰岩であり、約80km離れた武蔵国まで運搬されたことになる。
このことから研究者は
- 東京湾の海上交通
- 房総半島と武蔵の政治関係
- 石室文化の伝播
を議論するようになった。
墳丘形態が富津市の稲荷山古墳(内裏塚古墳群)と類似することも、この地域間交流を示す証拠とされている。
6 最新研究(2010年代以降)
近年の研究では、将軍山古墳は単独の古墳ではなく、
- 東国首長ネットワークの一拠点
として評価されている。
研究の主なテーマは次の通りである。
- ① 埼玉古墳群の政治構造 将軍山古墳は
- 稲荷山古墳
- 丸墓山古墳
に続く有力首長墓とみられ、古墳群内部の首長層の階層構造を示す古墳と考えられている。
- ② 東国騎馬首長論 馬冑や馬具の存在は、東国における騎馬武装首長の存在を示す資料として重視されている。
- ③ 海上交通ネットワーク 房州石の使用は
- 房総半島
- 武蔵国
- 上毛野
を結ぶ交通・政治ネットワークを示す可能性がある。
研究史のまとめ
将軍山古墳研究は
- 1 発見と伝承段階
- 2 古墳群研究
- 3 発掘調査による資料解明
- 4 馬具研究
- 5 石室文化研究
- 6 東国政治史研究
という段階を経て発展してきた。
現在では将軍山古墳は、埼玉古墳群の首長層構造と東国騎馬文化、さらに房総半島との政治・交通関係を考える上で重要な古墳として位置付けられている。
遺構
- 槨 ①片袖型横穴式石室
- 棺 ②木棺直葬
外構
- 円筒埴輪 円筒Ⅴ式
- 形象埴輪 靫、楯、大刀、鞆、あり、馬、男子、女子、楯持人、
規模
- 墳長 90m
- 後円部 径復元39m 高5m
- 前方部 幅68m 長55m 高8.2m
築造時期
6世紀後半。
出土品
- 乳文鏡
- ガラス小玉
- ガラス玉847以上
- 耳環 1
- 金銅環頭大刀片・
- 銀装大刀片2
- 大刀片、
- 鉄鉾
- 鉄鏃残片。
- 衝角付冑:横矧板鋲留衝角付冑残片、
- 挂甲小札。
- 斧
- 素環鏡板付轡・
- 金銅鏡板付轡
- 金銅半球型辻金具
- 金銅棘葉形杏葉
- 金銅鈴片
- 金銅舌鈴3
- 八角稜ナス形銅鈴4
- 鉄地金銅磯金具片・
- 鉄製輪鐙
- 蛇行状鉄器
- 馬冑片
- 金銅鉸具・鉄製鉸具
- 金銅袋状飾金具3・
- 金銅鞍金具片
- 須恵器無蓋高杯
- 石製盤・銅鋺2
- 高台付有蓋銅鋺
被葬者
展示
- 将軍山古墳展示館
アクセス等
- 名称:将軍山古墳
- 所在地:埼玉県行田市大字埼玉4834
- 交通: JR吹上駅から朝日バス佐間経由行田車庫行きで15分/ JR高崎線行田駅から15分( 観光拠点循環コース(左回り)15分・(右回り)37分「埼玉古墳公園前」下車 徒歩約2分)
参考文献
- 肥後和男・竹石健二(1973)「日本古墳100選」秋田書店
- 大塚初重(1996)『古墳辞典』東京堂出版
- 埼玉県教育委員会(1997)『将軍山古墳』
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