九流谷古墳 ― 2026年05月05日 00:29
九流谷古墳(くりゅうだにこふん)は、大阪府南河内郡太子町に所在する古墳時代前期後半(4世紀後半)に築造された前方後方墳であり、磯長古墳群の北端に位置する古墳である。
概要
本古墳は標高約50mの丘陵上に立地し、尾根状の自然地形を利用して築造されている点に特徴がある。墳丘規模は、墳長約65m、後方部一辺約39m・高さ約6m、前方部幅約19m・長さ約26m・高さ約4mを測る。くびれ部の幅は約8mで、前方部は後方部より約2m低く構築されている。
墳丘には葺石および埴輪が認められ、古墳時代前期の典型的な外表施設を備える。築造時期については、表面採集された円筒埴輪の形態的特徴(器壁が薄く、突帯が高く発達する点)などから、古墳時代前期後半に位置づけられている。
埋葬施設は未調査のため詳細は不明であるが、墳丘上および周辺からは多様な遺物が確認されている。主な出土遺物には、埴輪類として鶏形埴輪・家形埴輪・円筒埴輪、鉄製品として袋状鉄斧・鉄鎌がある。なお、鶏形埴輪は耕作中に出土したと伝えられている。
現在、墳丘は果樹園(ブドウ畑)として利用されているが、磯長古墳群北端に位置する前方後方墳として、同古墳群の成立過程や地域首長層の動向を考える上で重要な遺跡である。
磯長古墳群における前方後方墳の意義 -九流谷古墳を中心として-
1.問題の所在
大阪府南河内郡太子町に所在する磯長古墳群は、古墳時代前期から中期にかけて形成された有力首長層の墓域として知られる。この古墳群の中で、九流谷古墳のような前方後方墳の存在は、後続する前方後円墳の展開を考えるうえで重要な位置を占める。本稿では、九流谷古墳を手がかりに、磯長古墳群における前方後方墳の意義について検討する。
2.前方後方墳の位置づけ
前方後方墳は、古墳時代前期に比較的多く見られる墳形であり、前方後円墳の成立・普及過程と密接に関係するとされる。墳丘の構成は前方部と後方部からなり、幾何学的で直線的な形態を特徴とする。この形態は、円形を基調とする前方後円墳とは異なり、墳丘設計思想の多様性を示すものといえる。 九流谷古墳は古墳時代前期後半(4世紀後半)に位置づけられ、墳丘には葺石や埴輪が備わるなど、前期古墳としての基本的要素を備えている。この点から、前方後方墳でありながらも、ヤマト王権的な墳墓様式との接点を持つ段階にあると評価できる。
3.磯長古墳群における意味
磯長古墳群は、後世には敏達陵・用明陵と比定される大型前方後円墳を含むことで知られるが、その形成初期段階においては、九流谷古墳のような前方後方墳が含まれる点が注目される。
これは以下の二点を示唆する。
- 第一に、首長墓制の過渡的様相である。
- すなわち、前方後方墳は在地的な墳墓形態を色濃く残しつつ、前方後円墳へと収斂していく過程に位置づけられる。九流谷古墳の存在は、磯長地域の首長層が当初から一様に前方後円墳を採用していたのではなく、複数の墳形を試行していたことを示す。
- 第二に、地域勢力とヤマト王権との関係性である。
- 前方後方墳は、畿内においても一定数確認されるが、やがて前方後円墳が卓越する。この変化は単なる形態変化ではなく、政治的秩序の再編と関係すると考えられる。すなわち、前方後円墳の採用はヤマト王権との結びつきを象徴する可能性が高く、九流谷古墳の段階は、そうした政治的統合以前、あるいはその過渡期を反映するものといえる。
4.立地と構築技術からみた特徴
九流谷古墳は丘陵尾根上に築造され、自然地形を巧みに利用している。この点は、後の大規模前方後円墳に見られるような大規模造成とは異なり、比較的在地的・実用的な築造技術段階を示す。 また、出土した円筒埴輪は器壁が薄く突帯が高い特徴を有し、畿内的な埴輪様式との関連が認められる。これは、地域的伝統と広域的文化要素の融合段階を示すものであり、前方後方墳が単なる「古い形式」ではなく、文化的接触の結節点としての性格を持つことを示唆する。
5.結論
九流谷古墳に代表される磯長古墳群の前方後方墳は、以下の点において重要な意義を有する。
- 前方後円墳成立以前の墳墓形態の多様性を示す
- 地域首長層における墓制選択の試行段階を反映する
- ヤマト王権的秩序への統合過程における過渡的政治状況を示す
- 在地技術と広域文化の接触を示す文化的結節点である
したがって、前方後方墳は単なる先行形式ではなく、古墳時代初頭の社会構造や政治統合の動態を読み解く上で不可欠な資料である。磯長古墳群におけるその存在は、後の巨大前方後円墳の成立を準備する基盤として、重要な歴史的意味を持つと評価できる。
遺物
- 鶏形埴輪
- 袋状鉄斧
- 鉄鎌
- 円筒埴輪
- 家形埴輪
指定
展示
- 竹内街道歴史資料館
アクセス等
- 名称 :九流谷古墳
- 所在地 :大阪府南河内郡太子町太子2342-2
- 交 通 :
参考文献
薄葬令 ― 2026年05月05日 13:43
薄葬令(はくそうれい)は646年(大化2年)3月に発布された葬制に関する法令であり、『日本書紀』大化2年条にその内容が記されている。一般に大化改新の一環として位置づけられ、従来の豪族的葬送慣習を規制し、埋葬の簡素化と国家による統制を目的とした。
概要
この法令では、被葬者の身分に応じて墳墓の規模や造営に従事できる人数、工期などが細かく定められた。例えば、王(大王)クラスの墓については、内側の埋葬施設の規模や外郭の寸法に制限が設けられ、造営に動員できる人夫は延べ1000人以内、工期は7日以内とされた。上臣・下臣についても、それぞれの身分に応じて造営規模や動員人数が制限され、一定以下の位階の者には墳丘の築造自体が認められなかった。
また、葬送儀礼についても規制が加えられ、殯(もがり)や殉死、過度な副葬品の埋納などが禁止された。葬具や葬送の形式についても簡素化が求められ、華美な儀礼の抑制が図られた。
薄葬令の背景には、有力豪族が競って巨大古墳を築造し、多数の労働力や資源を消費していた状況がある。このため、墳墓の規模や葬送儀礼を制限することで、豪族の経済力・動員力の過度な集中を抑え、人的・物的資源を国家のもとに再編成する意図があったと考えられている。
この法令は、古墳時代以来の葬送文化に大きな転換を促し、後の律令国家における身分秩序と葬制の基礎を形成する契機となったと評価されている。ただし、規制が直ちに全国で完全に実施されたわけではなく、地域や階層によっては従来の葬送慣習が一定程度継続したとみられる。
1.古墳と豪族権力
古墳時代において、巨大古墳の築造は単なる墓ではなく、
- 首長の権威の象徴
- 労働力動員力の誇示
- 地域支配の可視化
という意味を持っていた。
特に前方後円墳の築造には多数の人員と資源が必要であり、これは豪族が独自に持つ「動員力」=政治的実力を示していました。
2. 薄葬令の本質:動員力の制限
薄葬令は、
- 墳墓の規模制限
- 動員できる人夫数の制限
- 工期の制限
- 副葬品の制限 を定めている。
これは単なる倹約令ではなく、
- 豪族が自由に人と資源を動員することを制限する政策
と理解できる。つまり、
「大きな墓を作れる=強い豪族」という構図を崩し、権力の源泉を国家側に移すという意味を持ちる。つまり中央集権への過程のひとつとみることが出来る。
3. 国家形成との関係
薄葬令は、いわゆる「大化改新」政策の一つとして、
- 公地公民制
- 班田収授
- 租庸調制
などと並び、「人・土地・資源を国家が把握・統制する流れ」の中に位置づけられる。
特に重要なことは「労働力の再編」すなわち、それまで「豪族が私的に動員していた労働力」を「国家による公共事業・徴税へ振り向ける」という転換が起こる。
4. 葬制の変化=権力構造の変化
薄葬令によって
- 巨大前方後円墳 → 終焉
- 小規模墳墓・火葬・寺院墓地 → 移行
という変化が進む。これは単なる文化変容ではなく、「見せる権力(古墳)」から「制度としての権力(律令)」への転換を意味する。
5. 思想的側面
薄葬令には思想的背景がある。
- 儒教的:礼制・節度・身分秩序
- 仏教的:死生観の変化・過度な葬送の否定
これにより、「統一的な価値観による国家統治」が進んだ。
6. 薄葬令にみえる国家形成
薄葬令=国家形成論の核心は以下のとおりである。
- 古墳は豪族権力の象徴であった
- 薄葬令はその基盤(動員力)を制限した
- 労働力・資源を国家に集中させた
- 葬送の変化は権力構造の転換を示す
したがって薄葬令は豪族連合国家から律令国家への移行を示す政策のひとつと評価できる
7. まとめ
薄葬令は、葬制の簡素化を目的とする法令として理解されることが多いが、その本質は古代国家形成過程における権力再編政策にあった。古墳時代において巨大墳墓の築造は豪族の動員力と権威を象徴していたが、薄葬令は豪族の墳墓規模や労働力動員を制限することにより、豪族の私的権力基盤を抑制した。この結果、人的・物的資源は国家の統制下に再編され、律令国家的支配の基盤が形成されていく。すなわち薄葬令は、古墳という可視的権力から制度的権力への転換を促した政策として、国家形成史上重要な意義を有する。
参考文献
- 安村俊史(2006)「終末期古墳の展開」市大日本史.9巻,pp.7-17
- 奥村郁三(1977)「大化薄葬令について」関西大学考古学研究紀要 3,pp.12-35,
- 所功(1973)「書評 大化薄葬令の再検討」法学論叢第八十五卷第五號
打下古墳 ― 2026年05月06日 00:15
打下古墳(うちおろしこふん)は、滋賀県高島市に所在する古墳時代の古墳である。 2001年(平成13年)11月7日、滋賀県高島市勝野の日吉神社裏山において、上水道配水施設の新築工事中に箱式石棺内から人骨が発見され、これを契機として緊急の埋蔵文化財発掘調査が実施された。調査の結果、本遺構が古墳であることが確認された。
概要
明神崎の北麓の日吉神社背後の山腹に築造された古墳である。墳丘は工事による削平のため現状では不明であるが、内部主体として箱式石棺1基が確認されている。 石室はなく箱型石棺が直接埋葬されるタイプであり、丹後地方に多く見受けられる埋葬法である。 石棺は内法長約205cm、最大幅約42cm、深さ約30cmを測る。石材には板石が用いられており、側壁は東側2枚、西側3枚、小口部は両端に各1枚を配して構築されている。蓋石は下段4枚・上段3枚の計7枚で構成され、各石材の隙間には防水のため良質の粘土が充填されている。石棺内部の底面には砂が敷かれ、棺内および蓋石内面には赤色顔料が塗布されていたことが確認されている。
副葬品としては、棺内東側に鉄剣(全長約80cm)、西側に鉄刀(全長約60cm)が納められたほか、鹿角製の装身具が出土した。また、棺外の西側蓋石下からは鉄鏃群が検出されている。
人骨は頭蓋骨の一部を中心に比較的良好な保存状態で出土した。調査後、配水施設の設置位置は変更され、古墳は保存措置が講じられている。
2004年(平成16年)2月26日には、出土した頭蓋骨をもとに、京都大学の片山一道の指導のもと復顔(顔貌復元)が行われた。その結果、被葬者は面長で目が大きく、上顎がやや前方に突出し、鼻幅が広く顔の彫りが比較的浅い特徴を有する男性像として復元された。年齢は25歳から50歳程度、身長は約155cmと推定されている。
以上の出土遺物や埋葬施設の内容から、内下古墳は地域の有力者層の墓と考えられ、琵琶湖西岸地域における古墳時代の社会構造を考える上で重要な遺跡である。
遺構
- 箱形石棺
遺物
- 鉄剣
- 鉄刀
- 鹿角製の装身具
指定
展示
アクセス等
- 名称 :打下古墳
- 所在地 :滋賀県高島市勝野地先
- 交 通 :湖西線 近江高島駅から徒歩14分(南東に1km)
参考文献
- 白井忠夫(2002)「打下古墳-古墳時代中期一」『滋賀文化財だより』No281
丁瓢塚古墳 ― 2026年05月07日 00:09
丁瓢塚古墳(よろひさごづかこふん)は、兵庫県姫路市勝原区丁に所在する前方後円墳である。「瓢塚古墳」とも呼ばれる。揖保川流域の平野部に立地し、丁古墳群に属する古墳の一つである。
概要
本古墳は平坦地に築かれているが、東側には丘陵が迫っており、その延長上にある微高地を取り込んで築造された可能性が指摘されている。立地は低地と丘陵の接点にあたり、古墳立地の初期的様相を示すものと考えられる。
墳丘は前方部を南に向ける前方後円墳で、全長104mを測る。後円部径は53m、高さ7.5m、前方部は長さ51m、幅45m、高さ4.25mである。後円部は3段、前方部は2段に築かれており、後円部が高く発達する点は初期前方後円墳に特徴的な形態とされる。後円部墳頂は25m×20mの楕円形で平坦面を有する。1978年(昭和53年)に国の史跡に指定されている。
墳丘形態は、奈良県の初期大型古墳である箸墓古墳と比較されることが多い。丁瓢塚古墳は、前方部が鉢形に開く点などで箸墓古墳と類似するとされ、その縮小形(約3分の1規模)とする見解もある。ただし、段築構造には明確な差異が認められる。箸墓古墳では前方部が多段(3~4段)、後円部も実質的に5段築成とされるのに対し、本古墳では前方部2段・後円部3段にとどまる。
また、墳丘の比率にも違いがみられる。全長に対する後円部径の比は、箸墓古墳が約1.77であるのに対し、丁瓢塚古墳は約1.96とやや細長い形態を示す。このため、岸本直文(1988)は本古墳を単純な「箸墓類型」とみなすことには慎重な立場をとり、類似性と相違性の双方を指摘している。なお全長対後円部径の数値が箸墓に近いのは、前期古墳では五塚原古墳がある。
埋葬施設としては、後円部に竪穴式石室の一部が露出しているが、その位置は墳丘中心からやや南に偏っている。この点について岸本は、露出している石室が主体ではなく、他に中心的な埋葬施設が存在する可能性を指摘している。これは初期古墳における複数主体の埋葬構造を考える上でも重要な問題である。 1987年(昭和62年)には測量調査が実施されており、墳丘規模や形態の詳細が明らかとなった。出土した土器の中には、竹管文を押捺した壺形土器が含まれており、類例が少ない特殊な資料として注目されている。同様の土器は神戸市の乙女塚古墳や伊和中山4号墳などでも確認されており、山陰地方との文化的交流を示唆する可能性がある。
丁瓢塚古墳は、姫路地域における最古級の前方後円墳の一つと考えられている。墳丘構造や土器の特徴から、古墳時代前期初頭に位置づけられる重要な遺跡であり、播磨地域における前方後円墳成立過程や広域交流を考える上で重要な資料である。
遺構
- 箱形石棺
遺物
- 竹管文壺形土器
指定
- 1978年(昭和53年)3月24日 国指定史跡
展示
- 姫路市埋蔵文化財センター
アクセス等
- 名称 :丁瓢塚古墳
- 所在地 :兵庫県姫路市勝原区丁字家久田
- 交 通 :山陽本線 はりま勝原駅から徒歩28分(2.0km)
参考文献
- 岸本直文(1988)「丁瓢塚古墳測量調査報告」史林 71 (6),pp.982-1003
白峠山古墳 ― 2026年05月08日 00:37
白峠山古墳(しらとうげやまこふん)は、大阪府泉南郡岬町淡輪の独立丘陵上に位置する円墳である。
概要
真鍋山古墳の西約200mの小丘陵上に位置する古墳時代後期(6世紀頃)の円墳である。1967年、帝塚山大学の堅田直により調査された。 丘陵頂部にあった国民宿舎の給水塔工事に伴い発見された。 直径20から30m程度の円墳と推定される。内部主体は和泉砂岩の割石を用いた両袖式の横穴式石室である。玄門に閾石を備える点は、紀ノ川流域の横穴式石室との共通性が指摘されている。石室は調査後に復元保存された。
石室全長は約6mで、玄室は長さ2.72m・幅2.07m、羨道は長さ3.30m・幅0.9〜0.95mを測る。 副葬品は耳環、緑泥片岩製の勾玉、メノウ製勾玉、丸玉、ガラス小玉、琥珀製棗玉、水晶製切子玉、須恵器、鋺状鉄塊(製鉄原料あるいは鍛冶関連遺物)が出土した。出土須恵器や副葬品の特徴から、6世紀中葉から後葉の築造と考えられている。
大阪府岬町にある白峠山(しらとうげやま)古墳は、6世紀後半の築造とされる円墳であり、以下の理由から、当時の海上交通や地域交通(紀伊から堺への航路)と深く関連している可能性が高いと考えられている。
1. 海上交通の要衝に立地「海路の中間地点」
白峠山古墳は、紀伊国(和歌山)から大和政権の中枢である堺・百舌鳥エリアへつながる海上交通路に近接する丘陵上に立地している。岬町淡輪の地域は古代の海上交通の要衝とされる。
2. 埋葬施設と出土品に見る外部との交流紀ノ川流域の影響
埋葬施設(横穴式石室)の構造には、紀ノ川流域の古墳の影響が見られる。1967年の調査では、須恵器や勾玉(瑪瑙・緑泥石)、金銅環、鉄塊などが出土しており、これらの副葬品は、当時の高度な交易能力や、朝鮮半島からの渡来文化との関連を示唆する。
3. 海人・水軍的な性格「海人」との関連
近隣の淡輪別所遺跡などを含め、この地域は海人(あま)系の豪族が支配していた可能性が指摘されており、海上交易や漁業、水軍的な役割を担っていた一族の長が被葬者である可能性が高い
遺物
- 須恵器
- 勾玉(瑪瑙・緑泥石)
- 金銅環
- 鉄塊
指定
- 1972年3月31日 大阪府指定史跡
展示
アクセス等
- 名称 :白峠山古墳
- 所在地 : 大阪府泉南郡岬町淡輪5750
- 交 通 :南海本線 みさき公園駅から徒歩5分
参考文献
- 堅田直(1968)『大阪府岬町白峠山古墳調査概要』帝塚山大学考古学教室
城2号墳 ― 2026年05月09日 01:07
城2号墳(じょうにごうふん)は、熊本県宇土市に所在する5世紀前半の円墳である。 旧称は「城の本古墳」であるが、2010年の整備に伴って名称変更された。
概要
網田平野の北縁、南西方向に延びる帯状の標高20mの丘陵に立地する。中世の田平城の築城、国鉄三角線・国道57 号線の開削、ミカン園造成などに起因して墳丘の改変が著しい。調査は昭和53年12月28日から、翌昭和54年12月16日までの1年間のうちの12日間であった。周溝・埴輪は確認できなかった。
直径約20~25m、高さ推定3mの円墳と考えられているが、墳丘の改変が著しいため、明確にはわかっていない。墳形の確定には至っていないが、残存状況から円墳と推定されている。頂部はかなり平坦化され、天井石の一部が地表に露出していた。石室は盗掘や自然崩落による変形を受けていた。
埋葬施設は主軸方位を南西にとり、南西方向に開口する竪穴系横口式石室である。玄室の規模は主軸の長さ261cm、右壁長258cm、左壁長247cm、奥壁幅161 cm、前壁幅155cmを計る。玄室左壁に沿って、大小2枚の板石による石障(石室内部を区画する板石)を設けている。九州地方に特徴的な竪穴系横口式石室を採用しており、九州における横穴式石室導入期の最古級の事例とされている。
出土品は滑石製小玉10、滑石製管玉10、石製模造品として滑石製琴柱形石製品2、鉄剣1、鉄鏃4、鉄斧1、土師器片3、鉄釘4が出土した。左屍床から鉄剣1・刀子1、鎌とみられる鉄製品1、鉄斧1が出土した。鉄斧は小形の有袋式無肩揆形鉄斧で内部に木質が残る。滑石製琴柱形石製品は恵解山型である。恵解山型滑石製琴柱形石製品は、古墳時代前期から中期(4~5世紀)にかけて、主に近畿地方を中心に製作された石製模造品をいう。素材は素材に滑石を使用し、形状は楽器の「琴柱」に似た形をしている。名称の由来は恵解山古墳(京都府長岡京市)などの調査で特徴的な型式として見つかったことに由来している。主に近畿地方の古墳から多く出土しているが、九州地方では出土例が少ない(福岡県七夕池古墳などでは確認されている)。
琴柱形石製品や、刀子、斧、紡錘車などを模した石製品は、女性的性格をもつ被葬者が想定される古墳や畿内政権とつながりのある有力豪族の墓から出土することが多い。ヤマト王権や畿内勢力との政治的・祭祀的ネットワークの存在を示唆している。武器類(鉄剣・鉄鏃)、農工具(鉄斧)と石製模造品が共存している点は地域首長層の性格や祭祀性を示している。
石室は床面から天井まで安山岩の割石を小口積みして構築されており、九州中部にみられる石室構築技術を示している。九州中部にみられる石室構築技術を示している。築造は5世紀前半とみられる。
遺物
指定
- 昭和42年5月30日 熊本県宇土市指定史跡
展示
アクセス等
- 名称 :城2号墳
- 所在地 : 熊本県宇土市上網田町
- 交 通 :九州旅客鉄道(JR九州)三角線網田駅から徒歩18分
参考文献
- 城2号墳発掘調査団(1981)『宇土市埋蔵文化財調査報告書3:城2号墳』宇土市教育委員会
獅子塚古墳 (福井県) ― 2026年05月09日 20:10
獅子塚古墳 (福井県)(ししづかこふん)は福井県三方郡美浜町に所在する古墳時代後期(6世紀頃)の前方後円墳である。三方郡では唯一の前方後円墳として知られる。
概要
赤坂山を水源として美浜町中央部を流れる耳川左岸の河岸段丘上に立地する。墳丘は後世の改変を受けており、特に前方部は明治時代に削平されたため、本来の形状の一部が失われている。6世紀前葉の築造と考えられている。
1897年(明治30年)、開墾中に遺物が発見されたことにより古墳の存在が知られるようになった。その後、帝室博物館、若林勝邦、美浜町教育委員会、若狭考古学研究会などによって複数回の発掘調査が実施された。出土した副葬品の多くは現在、ほとんどが東京国立博物館に所蔵されている。その後、昭和53年に調査されている。
出土遺物には、石室内から須恵器、馬具、鉄製の武器・武具、農工具(鎌・斧・トングなど)や、勾玉や管玉、ガラス玉などがあり、装飾付脚付壺、筒形器台(口径15.8cm、器高79.5cm)、高坏、はそう(𤭯)、杯、角杯形土器などの土器類のほか、鉄斧、鉄鏃、長刀、鹿角製柄頭をもつナイフ、銅製三鈴、鍛冶関連工具が含まれる。これらは当時の武器体系、生産活動、祭祀、馬利用を知る上で重要な資料である。装飾付脚付壺は壺の肩部に横向きに3頭、縦向きに3頭の動物が取り付けられている。
埋葬施設は後円部中央に築かれた九州北部系の横穴式石室であり、南に開口する。石室全長は約6mを測る。特徴として、石を内側へ張り出す「持ち送り」構造が顕著であること、玄室全面が赤色顔料で塗られていること、羨道部が短く墳丘内に収まること、大小不同の石材の間に小石を充填する構築法が用いられていることが挙げられる。これらは北部九州地域の横穴式石室との強い関連性を示している。被葬者は耳川流域を治めた豪族の古墳と考えられている。
また、獅子塚古墳に供給された土器を焼成したと考えられる窯跡が近隣山腹で確認されており、古墳造営と地域生産体制との関係を示す資料として注目されている。
規模
- 形状 前方後円墳
- 墳長 推定32.5m
- 後円部径 推定径17m 高3.5m
- 前方部 幅推定15m 長推定15.5m 高現存1.6m
- 円筒埴輪 円筒Ⅴ式
- 葺石 あり
遺構
- 室・槨
- 横穴式石室(北部九州系)
遺物
- 碧玉管玉4
- メノウ勾玉2
- ガラス小玉25
- 水晶勾玉2
- 水晶管玉7
- 鉄剣 1(鹿角装
- 鉄鏃 細身 若干
- 刀子(鹿角装) 若干
- 曲刃鎌残片
- 鉄斧残片
- 金鉗残片
- 轡残片2
- 須恵器
- 筒型器台1
- 装飾付長頸壺2・
- 角杯形土器2・
- 無蓋高坏2
- はそう1
- その他短頸壺杯身
- 杯蓋数個、
- 長頸壺1(MT15)
築造
- 6世紀前葉
指定
- 2020年(令和2年)3月27日 美浜町指定史跡
展示
- 東京国立博物館
アクセス
- 名称:獅子塚古墳
- 所在地: 福井県三方郡美浜町郷市13号横田14番1
- 交通: JR小浜線 美浜駅から徒歩5分
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