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狂心渠2024年06月25日 00:10

狂心渠(たぶれこころのみぞ)は斉明天皇が飛鳥時代に実施した壮大な運河工事である。

概要

宮殿の東山に石垣を築くため大量の石材を運ぶ必要があったため、運河を建設した。運河の大工事には延べ3万人余を要し、当時の民衆からは「狂心渠」と非難された。 奈良大学の相原嘉之准教授(日本考古学)は石材がとれた豊田山(奈良県天理市)と、石垣が出土した酒船石遺跡(同県明日香村)を結ぶ運河とした。

歴史的意義

後の灌漑用水路や防御のための濠にも使えるように造ったとされ、先を見通したとの評価もある。運河は後の藤原京(同県橿原市など)造営にも活用された可能性があり、相原准教授は「非難を受けたものの、その後の利用を考えると、狂心渠の意義は大きく、斉明天皇には先見の明があったといえる」と評価する。

石山丘跡

1992年に後飛鳥岡本宮の東の丘陵で砂岩切石を積み重ねた大規模な版築土塁が確認され、書紀の記載が裏付けられた。「酒船石」がある丘陵での中腹から裾にかけて 4段に築かれた大規模な石垣である。砂岩切石は天理市周辺の石上・豊田付近で切り出されたことが判明している。丘陵の西側から飛鳥寺の寺域東側にかけて人工の谷川を回収した大規模な流路が確認されている。尾根の全体を巡り総延長 700mに及ぶ。斉明・天智朝は、中国系の新技術や水利用技術導入の上でも画期的な時代であったとする。小澤毅(1994)は相原嘉之准教授の想定した流路には、地形や水系を無視した誤りがあると指摘した。

日本書紀 巻第廿六 齊明二年

  • 時好興事、廼使水工穿渠自香山西至石上山、以舟二百隻載石上山石順流控引、於宮東山累石爲垣。時人謗曰、狂心渠。損費功夫三萬餘矣、費損造垣功夫七萬餘矣。宮材爛矣、山椒埋矣。又謗曰、作石山丘、隨作自破。
  • (大意)斉明は時に土木工事を好み、水路技術者に命じて香具山の西から石上山まで水路を掘らせ、舟200隻に功夫(工夫=こうふ)を浪費すること三万人余、石垣を造る功夫を費やし損すること七万人余。宮材はくずれ、山頂は埋まった。『石の山丘をつくると、つくった端から壊れるだろう』と人々は謗った。

参考文献

  1. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  2. 相原嘉之(2021)『古代大和の舟運利用の実態 : 斉明朝の「狂心渠(たぶれこころのみぞ)」を中心に』
  3. 木下正史(2007)「古代都市の建設と土木工事」Civil engineering consultant : 建設コンサルタンツ協会会誌 / 会誌編集専門委員会 編 (237),pp.28-31
  4. 小澤毅(1994)「「狂心渠」 の経路と高市大寺の位置―相原嘉之説批判―」

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