真田・北金目遺跡群 ― 2026年03月14日 00:45
真田・北金目遺跡群(さなだかなめいせきぐん)は神奈川県平塚市北金目地区の北金目台地上に所在する、縄文時代から近世に至る複合遺跡群である。弥生時代中期から後期にかけて形成された環濠集落を中心とする大規模集落遺跡として知られ、相模川流域西部における弥生社会の実態を示す重要な考古学資料となっている。
概要
遺跡群は9つの遺跡から構成され、総面積は約24.5ヘクタール(約245,270㎡)に及ぶ。発掘調査では竪穴住居跡、溝、土坑、井戸跡など10,644基の遺構が確認され、縄文時代から中世に至る長期的な土地利用の痕跡が明らかになった。
立地
遺跡群は平塚市北西部、JR平塚駅から約7kmの北金目台地上に位置する。 北金目台地は秦野方面から東に張り出す舌状台地で、北側を大根川、南側を金目川に挟まれている。これらの河川は相模川水系に属し、古代以来の交通路および農耕基盤として重要な役割を果たしてきた。
台地上は洪水の影響を受けにくく、水利にも恵まれることから、縄文時代以降継続的に人々が生活した場所であったと考えられている。
調査史
真田・北金目遺跡群は、北金目特定土地区画整理事業に伴い、1995年(平成7年)から2013年(平成25年)にかけて大規模な発掘調査が実施された。調査は複数の地点で段階的に行われ、王子ノ台遺跡、砂田台遺跡、南原B遺跡、大久保遺跡など複数の遺跡が一体的に把握されることとなった。
その結果、縄文時代から近世に至る集落跡や生産関連遺構が確認され、特に弥生時代の環濠集落の存在が明らかとなった。
縄文時代
縄文時代の遺構としては竪穴住居跡や土坑などが確認されている。出土遺物には縄文土器や石器があり、台地上に小規模な集落が形成されていたことがうかがえる。
縄文時代の遺構数は弥生時代に比べて少ないが、北金目台地が早い段階から生活の場として利用されていたことを示している。
弥生時代
弥生時代になると金目川流域に集落が形成されるようになり、真田・北金目遺跡群は地域の主要な拠点集落の一つとなる。
弥生時代中期中頃には、王子ノ台遺跡で9軒の竪穴住居が確認されている。また、近接する秦野市砂田台遺跡でも3軒の竪穴住居が確認され、金目川流域に弥生集落が広がっていたことが明らかとなっている。
弥生時代後期には久ヶ原式土器が出土しており、南関東の弥生文化圏との密接な関係が示されている。
弥生時代の環濠集落
真田・北金目遺跡群の特徴として、弥生時代中期から後期にかけて形成された環濠集落が挙げられる。
特に砂田台遺跡では、92軒の竪穴住居跡と新旧2条の環濠が確認されており、神奈川県西部でも最大級の弥生集落とされる。
環濠は弥生時代中期後葉、後期前半、後期後半の三段階に分けて整備されたと考えられている。溝の幅は最大約2m、深さは約1.6mに達し、断面形状はV字形や逆台形を呈する。
従来、環濠は外敵からの防御施設と考えられてきたが、真田・北金目遺跡群では、墓域や居住域の区画に加えて、生産域との境界を示す機能を持っていた可能性が指摘されている。また排水施設としての役割や、野生動物の侵入を防ぐための施設としての実用的側面も想定されている。
弥生時代後期?古墳時代前期
遺跡群では3-4世紀(弥生時代後期末から古墳時代前期)にかけての竪穴住居跡が特に多く、この時期に集落が拡大したことが確認されている。 このことは、弥生社会から古墳時代社会へと移行する過程において、金目川流域が重要な居住地域であったことを示している。
古代の真田・北金目遺跡群
大久保遺跡(北金目遺跡群18A区)3号竪穴住居跡からは、土師器、須恵器、灰釉陶器、石製品、鉄製品などが出土している。また銭貨として「長年大宝」が確認されており、この住居跡は9世紀後半から10世紀前半頃のものと考えられている。
これらの資料は、古代相模国における農村集落の存在を示すものとして重要である。
研究上の意義
真田・北金目遺跡群は、金目川流域における弥生時代集落の発展過程を示す大規模遺跡群であり、以下の点で重要な考古学資料となっている。
- 南関東における弥生時代環濠集落の構造
- 弥生時代中期から後期にかけての集落拡大過程
- 弥生社会から古墳時代社会への移行
- 古代相模国における農村集落の実態
これらの成果により、真田・北金目遺跡群は相模川流域西部における弥生社会の中心的集落の一つとして位置づけられている。 金目川流域弥生社会の形成
―相模川水系西部における弥生集落の成立と展開―
1 研究の背景
神奈川県中西部を流れる金目川は、丹沢山地南麓に源を発し、秦野盆地を経て平塚平野で相模湾へ注ぐ河川である。金目川流域は相模川水系西部に位置し、弥生時代には内陸盆地と海岸平野を結ぶ交通路として重要な地域であった。
近年の発掘調査、とくに北金目台地一帯で実施された真田・北金目遺跡群の調査により、金目川流域における弥生時代集落の形成過程が具体的に明らかになってきた。これらの成果から、金目川流域は弥生時代中期以降、相模川流域西部の重要な農耕社会の拠点地域として発展したことが理解される。
2 弥生時代前期:定住化以前の段階
金目川流域では、弥生時代前期の遺構は比較的少なく、縄文時代後期・晩期の集落が散在する状況から弥生文化が徐々に浸透したと考えられている。
この段階では本格的な水田農耕の痕跡は少なく、台地縁辺部での小規模な居住活動が主体であったとみられる。弥生文化は、相模湾岸地域や相模川下流域を経由して徐々に内陸へ広がった可能性が高い。
3 弥生時代中期:集落の成立
弥生時代中期になると、金目川流域に本格的な農耕集落が形成される。 この段階の代表的な遺跡として
- 真田・北金目遺跡群(平塚市)
- 砂田台遺跡(秦野市)
- 王子ノ台遺跡(平塚市)
などが挙げられる。
これらの遺跡では竪穴住居跡が確認され、台地上に一定規模の定住集落が成立していたことが明らかとなっている。集落は洪水の影響を受けにくい台地上に立地し、周辺の低地を農耕地として利用していたと考えられる。
この時期は金目川流域における弥生社会の形成期にあたり、農耕社会の基盤が整えられた段階と位置づけられる。
4 弥生時代後期:大規模集落の出現
弥生時代後期になると、金目川流域では集落規模の拡大が顕著となる。 特に真田・北金目遺跡群の砂田台遺跡では
- 約90軒以上の竪穴住居
- 二重の環濠
- 多数の溝・土坑
が確認されており、神奈川県西部でも最大級の弥生集落の一つとされる。
環濠は集落を取り囲む溝状施設であり、防御機能のほかに
- 排水機能
- 集落区画
- 土地利用区分
などの役割を持っていた可能性が指摘されている。
このような環濠集落の出現は、弥生社会における人口増加や社会組織の発達を反映したものと考えられる。
5 南関東地域との文化交流
金目川流域の弥生遺跡からは、南関東に広く分布する久ヶ原式土器が出土している。久ヶ原式土器は弥生時代後期の代表的土器様式であり、東京湾岸地域を中心に広く分布する。
このことは、金目川流域が
- 相模湾岸地域
- 多摩川流域
- 武蔵野台地
などと文化的交流を持っていたことを示している。
また、相模川流域は内陸の甲斐・信濃方面へ通じる交通路でもあり、金目川流域は広域的な交流ネットワークの一端を担っていた可能性が高い。
6 古墳時代への移行
弥生時代後期末から古墳時代前期(3〜4世紀)にかけて、金目川流域では依然として集落活動が継続していたことが確認されている。真田・北金目遺跡群ではこの時期の竪穴住居跡が多く検出されており、弥生社会の集落がそのまま古墳時代社会へ移行したことがうかがえる。
やがて古墳時代になると、相模川流域各地に古墳が築造されるようになり、地域社会は首長層を中心とする政治的秩序へと再編されていったと考えられる。
7 まとめ
金目川流域における弥生社会の形成は、次のような過程で進行したと考えられる。
- 弥生時代前期:弥生文化の浸透段階
- 弥生時代中期:農耕集落の成立
- 弥生時代後期:環濠を伴う大規模集落の発展
- 弥生後期末〜古墳時代前期:集落の継続と社会変化
これらの動向は、相模川水系西部における農耕社会の発展を示すものであり、金目川流域は南関東弥生社会の地域拠点の一つであったと評価される。
真田・北金目遺跡群の調査成果は、こうした弥生社会の形成過程を具体的に示す重要な考古学資料となっている。
遺構
- 竪穴建物42
- 土坑3
- 遺物集中1
アクセス等
- 名称:真田・北金目遺跡群
- 所在地:神奈川県平塚市真田・北金目地内
- 交通:
参考文献
- 平塚市真田・北金目遺跡調査会編(1999)『平塚市真田・北金目遺跡群発掘調査報告書』
- 玉川文化財研究所編(2009)「真田・北金目遺跡群大久保遺跡第3地点発掘調査報告書」
- 平塚市博物館(2013)「真田・北金目遺跡群 : 平成25年度夏期特別展平塚市文化財展」
- 白川美冬(2025)「真田・北金目遺跡群の環濠」北金目からみつめる地域社会,pp.137-142
河原口坊中遺跡 ― 2026年03月07日 00:33
河原口坊中遺跡(かわらぐちぼうじゅういせき)は神奈川県海老名市河原口に所在する、弥生時代から近世におよぶ大規模な複合遺跡である。相模平野を南流する相模川左岸の自然堤防上に立地し、微高地という地形条件を活かして長期にわたり集落が営まれた。
1.立地と調査の経緯
遺跡はJR相模線・小田急小田原線厚木駅の北西約1kmに位置する。 2006年(平成18年)6月に発掘調査が開始され、2014年(平成26年)1月に第6次調査が終了した。
自然堤防上という洪水の影響を受けにくい立地条件は、弥生時代以降の継続的な居住を可能にした重要な要因である。
2.弥生時代の大規模集落
弥生時代中期後半から後期にかけて、本遺跡は相模川流域屈指の大規模集落として発展した。
- 集落規模:南北約410m、東西約100m以上
- 竪穴住居跡:第1・2・4次調査で計533軒確認
集落内部には小河川が蛇行して流れ、弥生中期から古墳時代前期にかけて徐々に埋没した。この水域環境が、有機質遺物の良好な保存をもたらした点が本遺跡の最大の特色である。
3.水辺環境と木製品の保存
水分を多く含む泥土層が酸素を遮断し、いわば「真空パック」のような状態を生み出した結果、木製品が原形をとどめたまま多数出土した。
主な出土遺物:
- 臼・杵
- 小型籠(精巧な編組技術を示す)
- 鋤
- 機織りの緯打具
- 腰掛け脚部
弥生時代の生活技術・農耕・織布・木工技術を具体的に復元できる点で、学術的価値が高い。
4.竹状しがらみ状遺構(漁労施設)
弥生時代後期の河道跡から、竹状素材を用いたしがらみ状遺構が2か所・計14例確認された。
- 素材:竹状材2~3本を1単位
- 構造:縦材・横材を組み合わせる
- 用途:魚を追い込み捕獲する漁労施設と推定
関東地方における弥生期漁撈技術を具体的に示す希少な事例である。
5.板状鉄斧と対外交流
板状鉄斧(長さ28.5cm、幅3.4cm、厚さ1.3cm、重さ604.6g)が出土した。 東日本では初の出土例として注目された。
弥生時代の日本列島では鉄原料からの製鉄技術は未成立であり、鉄器は朝鮮半島からの搬入品と考えられる。本資料は、相模川流域が弥生後期に広域交流圏に組み込まれていたことを示す重要証拠である。
6.小銅鐸の発見
高さ8.1cm、最大幅4.1cmの小銅鐸が完形で出土した(県内3例目)。
特徴:
- 鰭・文様を持たない
- 内部にグリーンタフ製とみられる舌状小石が付着
- 通常の小銅鐸にみられない内面突帯を有する
- 弥生後期に位置づけられる
銅鐸祭祀の地域的展開と変容を考える上で重要な資料である。
7.拠点集落としての性格
出土遺物には、
- 土器・石器・木器・骨角器
- 小銅鐸
- 銅鐸形土製品
- 板状鉄斧
など、外来性・祭祀性を帯びた資料が含まれる。 これらの内容から、河原口坊中遺跡は単なる農耕集落ではなく、相模川流域における弥生後期の地域拠点的集落と評価される。
相模川流域弥生集落の比較研究
相模川流域は、関東地方南西部における弥生文化受容の重要地域である。流域には自然堤防・段丘・低湿地が複雑に分布し、それぞれの地形条件に応じた集落展開がみられる。本稿では、**相模川流域弥生集落の立地・規模・生業・対外交流の視点から比較整理する。
1.立地類型の比較
- (1)自然堤防立地型
- 代表例:河原口坊中遺跡(海老名市)
- 河川沿いの微高地
- 洪水回避と水利確保の両立
- 大規模集落形成
- 水辺環境により木製品保存良好
→ 生産・流通・交通の拠点化傾向が強い。
- (2)段丘上立地型
- 代表例:勝坂遺跡(相模原市)
- 相模川支流域の段丘面
- 防御性・安定性を重視
- 環濠的要素を伴う例もある
→ 中小規模集落が分散的に立地。
- (3)低湿地近接型
- 寒川町・平塚市周辺の遺跡群
- 水田適地に近接
- 灌漑型水稲耕作への適応
- 河道変動の影響を受けやすい
→ 農耕特化型集落の可能性。
2.集落規模の比較
- 河原口坊中 500軒超(調査確認分,中期後半~後期中心
- 中流域段丘集落 数十~百軒規模,時期限定例多い
- 下流域低地集落 小~中規模,後期中心
相模川流域では、中流自然堤防型の大規模集落が地域中核を担った可能性が高い。
3.生業構造の比較
- 河原口坊中遺跡
- 農耕(鋤出土)
- 漁撈(しがらみ状遺構)
- 織布(緯打具)
- 木工(臼・杵) → 複合的生業構造
- 段丘集落
- 農耕中心
- 狩猟・採集併存 → 内陸型自給経済
- 下流域
- 水稲耕作特化傾向
- 河口交易との関係も想定
4.対外交流の比較
河原口坊中遺跡では、
- 板状鉄斧(東日本初例)
- 小銅鐸
- 銅鐸形土製品
が出土している。
これは、弥生後期において相模川が物資流通ルートとして機能していた可能性を示す。
段丘型集落では鉄器・青銅器は少量出土例が多く、広域交流の結節点は自然堤防型に集中する傾向がある。
5.流域構造モデル
相模川流域弥生社会は、次のような階層的空間構造をもっていた可能性がある。
- 上流:小規模分散集落(農耕・狩猟)
- 中流:拠点的大規模集落(流通・祭祀・統合)
- 下流:水田生産拠点・外海接続点
この構造は、北部九州型の首長制社会とは異なり、緩やかな地域連合型社会を形成していた可能性を示唆する。
6.研究史上の論点
- 相模川流域は東海系文化圏か南関東系文化圏か
- 銅鐸文化の東限問題
- 板状鉄斧流通ルート(朝鮮半島→北九州→東海→相模?)
- 河川交通の実態復元
特に河原口坊中遺跡の発見以降、相模川中流域を中心とする拠点集落論が再評価されつつある。
7.総括
相模川流域弥生集落の特徴は、
- 地形多様性に応じた立地分化
- 中流自然堤防型大規模集落の存在
- 農耕・漁撈・手工業の複合化
- 鉄器・青銅器を伴う広域交流
にある。 とくに河原口坊中遺跡の調査成果は、南関東弥生社会の中心地形成過程を具体的に示す画期的資料と評価できる。
指定
アクセス等
- 名称:河原口坊中遺跡
- 所在地:神奈川県海老名市河原口158-2
- 交通:厚木駅から徒歩15分。(1.2km)
参考文献
- 文化庁(2016)『発掘された日本列島 2016』共同通信
- 黒澤諒(2023)「再生される銅釧の展開」『駒澤考古』48,pp.41-55
- 加藤久美(2015)「弥生時代の河辺の生活」
矢野遺跡 (徳島) ― 2026年03月03日 01:10
矢野遺跡 (徳島)(やのいせき)は徳島県徳島市、吉野川支流の鮎喰川左岸に位置する縄文時代後期から弥生時代を中心とする大規模集落遺跡である。標高約10m前後の自然堤防状の微高地上に立地し、南北約2km・東西約1kmにおよぶ広範囲に遺構・遺物が分布する。
1.縄文時代の展開と評価
- (1)成立時期と存続期間
- 吉野川の支流、鮎喰川左岸の標高10m 前後の微高地に位置する。南北約2km、東西約1km の範囲に拡がり、縄文時代以降の非常に大規模な遺跡であり、特に徳島県内の弥生時代に中心的な役割を果たした集落である。集落形成の中心は縄文時代後期初頭~前葉にかけてであり、後期前葉まで約300年前後の継続が想定され、一定規模の集落が営まれた。弥生時代の遺構は、現在までに竪穴住居跡 約100棟が見つかっている。5~10軒で一つの群をなし、住居と住居は数m の間隔で存在していた。
- (2)洪水による廃絶
- 後期前葉に洪水砂層が確認されており、洪水を契機に集落構造が大きく変化、あるいは一時的中断が生じた可能性が高い。
2.縄文時代土製仮面の意義
1996年、矢野遺跡で土製仮面が出土した。供伴した土器が縄文時代後期初頭であることから、同時期と見られる。顔面全体に丸い道具で突き刺した模様がある仮面である。縄文時代で土製仮面が出現するのは中期から後期初頭である。矢野例は出現期に近い段階の資料と評価される。土製仮面は本遺跡の重要資料である。土製仮面は祭祀・通過儀礼・シャーマニズム的行為との関連が議論されている。集落域内での出土である点が重要であり、集落で使われていたことを示唆する。
- 時期:縄文時代後期初頭である。
- 特徴:顔面全面に丸棒状工具による刺突文がある。
- 分布:縄文中期末~後期初頭に瀬戸内・近畿・東北南部へ展開している。
3.弥生時代の大規模集落化
- (1)人口増加の時期
- 矢野遺跡は弥生時代の中期後半~後期初頭にかけて人口が急速に拡大した。
- (2)住居構造
- 竪穴住居約100棟以上
- 5~10棟単位の小群構成
- 数m間隔で配置
との特徴は計画的集落構造の萌芽を示す可能性があり、吉野川流域における中核的拠点の一つと評価できる。
4.鍛冶遺構と鉄器生産
鍛冶関連遺構の存在は、弥生後期段階における
- 地域内鉄器流通拠点
- 技術受容の先進地
としての性格を示唆する。集落内で鍛冶関連活動が行われた可能性が高い。
5.水銀朱の問題
1994~1998年の道路建設に伴う発掘では、
- 竪穴住居19棟
- 土器・石器に水銀朱の付着
が確認された。これは(1)朱の精製・加工痕の可能性、(2)葬送儀礼用途の可能性の2説がある。
6.銅鐸埋納の意義
矢野遺跡最大の特色は銅鐸出土状況である。
- (1)埋納状況
- 埋納坑:1.37×0.61m、深さ約0.5m
- 鰭を上下にした状態
- 周囲に柱穴列(切妻建物の可能性)
- (2)形式
- 突線鈕式
- 突線袈裟襷文銅鐸
- 弥生後期の新段階型式
- (3)学術的意義
- 従来、銅鐸は山間部など集落外出土例が多い中、集落域内、しかも竪穴住居から約10mの至近距離で出土したことは画期的である。また、同一層位から弥生土器が出土したことで、 銅鐸埋納の年代を具体的に比定できた稀少例となった。層位的に明確な年代資料を伴う例として重要である。
7.全体評価
矢野遺跡は次の複合的性格を持つ、吉野川流域研究の基準資料となる。
- 縄文後期の大規模集落
- 出現期に近い土製仮面出土例
- 弥生中後期の拠点的環濠性集落群の一角
- 鍛冶関連遺構を伴う技術拠点
- 集落内銅鐸埋納という特異事例
遺構
- 竪穴建物
- 土坑
- 溝
- ピット
- 貯蔵穴
- 土坑
- 銅鐸埋納土坑
- 井戸
- 溜池
- 河川
- 土壙墓
- 周溝墓
- 集石
- 土器溜
遺物
- 弥生土器
- 鉄製品
- 剥片(サヌカイト製)
- 銅鏃
- 石器
- 青銅器
- 突線鈕5式近畿IV式銅鐸1(国指定重文)
- 土器(深鉢+鉢+浅鉢+双耳+壺+壺)
- 土製品
- 石鏃
- 石匙
- 石錘
- 削器
- 楔形石器
- 石斧
- 石皿
- 石杵
- 敲石
- 台石
展示
- 徳島県立埋蔵文化財総合センター
- 徳島市立考古資料館
指定
- 1995年6月15日 - 重要文化財(考古資料)指定
アクセス等
- 名称:矢野遺跡
- 所在地:徳島県徳島市国府町矢野
- 交通:JR徳島駅から徳島バスが運行する「石井・鴨島線」(15番乗場、「石井」方面行き)などに乗車し約20-30分程度。バス停「矢野西」や「国府」で下車する。
参考文献
- 松永住美ほか(1983)『矢野遺跡国府養護学校地区現地説明会資料』
- 徳島県埋蔵文化財センター(1993)『矢野銅鐸』
- 氏家敏之(2018)『徳島の土製仮面と巨大銅鐸の村』新泉社
庄・蔵本遺跡 ― 2026年02月27日 00:43
庄・蔵本遺跡(しょうくらもといせき)は、、徳島市庄町・蔵本町一帯、鮎喰川下流右岸の三角州性扇状地東縁、眉山北麓に広がる、縄文時代晩期から近代に至る複合遺跡である。とくに弥生時代前期の初期農耕集落の実像を復元できる遺跡として、西日本でも重要視されている。
1.立地と環境的特質(補足)
鮎喰川は吉野川水系最大級の支流で、下流域に氾濫原・旧河道・微高地が発達する。
遺跡は微高地(自然堤防状地形)上に居住域を置き、北側低地に水田を展開する立地選択の合理性が明確である。
洪水堆積砂層が弥生前期末~中期初頭に確認され、自然災害と集落変動の関係を検討できる点も重要である。
2.弥生前期集落の構造(修正・整理)
弥生前期前葉~中葉段階では、以下の三領域構造が確認されている。
① 居住域
- 竪穴住居群が複数棟検出
- 居住域を囲む二重の大溝(環濠的性格)
- 防御・区画・排水の複合機能をもつ可能性
② 墓域
- 方形周溝墓群(中期)
- 居住域に近接しつつも明確に区分される
③ 生産域
- 水田遺構(用水路・畦畔痕跡)
- 旧河道利用の灌漑システム
2006年度西病棟地点調査で「畑作痕跡(畝状遺構)」を確認
「水田+畑作の複合農耕」が実証された点は、初期弥生社会像を考えるうえで極めて重要である。
3.出土遺物の意義
- 弥生前期土器群
- 中期方形周溝墓副葬品
- 後期の中国鏡片
- 銅鐸片
これらは、
- 瀬戸内~畿内との交流
- 威信財流通
- 儀礼的要素の存在
を示唆しており、単なる農耕村ではなく、広域ネットワークに接続された拠点的集落であった可能性を示している。
4.洪水と集落変動(重要な視点)
洪水による砂層堆積は、低地水田の埋没や用水機能の断絶を招き、集落構造の再編を促した可能性がある。
5.調査史の整理
調査史は次の段階で進展した。
- 1982年以降、30次以上の発掘調査
- 徳島大学蔵本団地造成・再開発に伴う継続的調査
- 2006年度西病棟地点調査で畑作遺構確認
まとめ
庄・蔵本遺跡は、徳島市庄町・蔵本町に所在する縄文晩期から近代に至る複合遺跡であり、とくに弥生時代前期の初期農耕集落の全体像を復元できる点で重要である。鮎喰川下流の自然堤防上に居住域を置き、二重の大溝で区画された集落の周囲に墓域・水田・畑作地が展開する構造が確認されている。旧河道を利用した灌漑施設や洪水堆積層の検出は、環境と農耕社会形成の関係を具体的に示す。中期の方形周溝墓群、後期の中国鏡片・銅鐸片の出土は広域交流を示唆し、吉野川下流域における弥生社会形成の中核的遺跡として位置づけられる。
吉野川流域弥生社会の形成
1.弥生文化受容の前提(前段階)
縄文晩期段階、吉野川下流域ではすでに
- 河川沿いの定住的集落
- 低湿地利用の知識
- 漁撈・採集と水辺環境への適応
が蓄積されていた。
この環境適応の基盤が、弥生前期における水田農耕の導入を円滑にしたと考えられる。
2.弥生前期:初期農耕集落の成立
弥生前期前葉には、吉野川下流の自然堤防・微高地上に初期農耕集落が成立する。 その代表例が庄・蔵本遺跡(徳島市)である。
この段階の特徴は:
- 居住域・墓域・生産域の明確な空間分化
- 旧河道を利用した灌漑水路
- 水田耕作と畑作の併存
- 環濠(大溝)による区画
ここで重要な点は、単なる農耕技術の導入ではなく、「集落構造そのもの」が農耕社会型へ転換している点である。 つまり、吉野川流域では計画的農耕集落が比較的早い段階で成立したことを意味する。
3.中期:集落の拡大と階層化
弥生中期になると、
- 方形周溝墓の増加
- 集落規模の拡大
- 墓制の差異化
が見られ、社会的階層化の萌芽がうかがえる。
特に方形周溝墓の分布は、
- 家族単位
- 小規模首長層
の存在を示唆する。
吉野川は四国山地から瀬戸内海へと通じる交通路でもあり、物資流通の幹線であった可能性が高い。
4.後期:広域交流と首長層の形成
弥生後期には、
- 中国鏡片
- 銅鐸片
- 威信財の流入
が確認される。
これは吉野川流域が、
- 瀬戸内海沿岸
- 畿内
- 北部九州
とつながる広域交流圏の一端に組み込まれたことを示す。
吉野川は四国山地を横断する自然回廊であり、内陸と沿岸を結ぶ交通軸として機能したと考えられる。
5.環境変動と社会再編
吉野川は氾濫を繰り返す暴れ川である。
弥生前期末~中期初頭に確認される洪水砂層は、
- 水田の破壊
- 集落移動
- 土地利用の再編
を引き起こした可能性がある。
この点は、吉野川流域の弥生社会が「自然環境との相互作用の中で形成された社会」であることを示す。
6.形成過程の総合像
吉野川流域の弥生社会形成は、次の三段階で整理できる。
- ① 受容段階(前期前葉)
- 水稲農耕導入と計画的集落成立
- ② 定着段階(前期後葉~中期)
- 灌漑体系整備・墓制分化・階層萌芽
- ③ 統合段階(後期)
- 広域交易参加・威信財流入・首長層形成
7.歴史的意義
吉野川流域は、
- 四国東部最大の農耕適地
- 瀬戸内海と内陸を結ぶ交通軸
- 初期農耕社会の実験場
という三つの要素を兼ね備えていた。 そのため、
- 四国における弥生社会の中心形成地域
と評価できる。
遺構
- 溝2
- 土坑2
- 土器溜
- 河川1
- 土器棺墓4
遺物
- 弥生土器
- 剣形木製品
- 木製品
- 輸入鏡片
- 斜縁二神二獣鏡か(銘文なし、破片10.4cm、1983年発掘)
- 弥生土器
- 石器
- 炭化米
展示
考察
指定
アクセス等
- 名称 :庄・蔵本遺跡
- 所在地 :徳島県徳島市庄町1丁目77/蔵本町2-50-1
- 交 通 :
参考文献
- 滋賀県百科事典刊行会編(1984)『滋賀県百科事典』大和書房
- 滋賀県史蹟名勝天然紀念物調査會編(1939)『滋賀県史蹟調査報告 第8冊 小野神社と唐臼山古墳』滋賀県県
- 中村豊・定森定夫(2007)「徳島・庄・蔵本遺跡」,『木簡研究』29
- 一山典・滝山雄一(1985)「徳島市庄遺跡出土の弥生時代木製品」『考古学ジャーナル』252
六野瀬遺跡 ― 2026年02月23日 00:55
六野瀬遺跡(ろくのせいせき)は、福島県阿賀野川右岸の河岸段丘縁辺部(標高約25m)に立地する弥生時代前期末~中期初頭の再葬関連遺跡である。 1938年、明治大学を中心に杉原荘介・乙益重隆らによって発掘調査が実施された。
概要
調査では、8組の土器群とともに伸展葬1例が確認され、骨を土器に再収容した再葬墓の存在が明らかとなった。壺形土器の口縁部を打ち欠き、その内部に遺骨を納め、鉢形土器を倒置して蓋状にかぶせる構造が特徴的である。
本遺跡は、東日本における再葬墓の成立と展開を示す初期事例の一つであり、岩櫃山遺跡と並んで北関東~南東北における弥生前期文化の様相を示す重要資料とされる。
再葬墓は、一次葬後に遺体を一定期間風化させ、洗骨・選骨を経て土器に収め再埋葬する葬制であり、縄文時代後期から弥生時代にかけて各地で確認される。現在、全国で約150遺跡前後が報告されている。
再葬墓の社会構造的意味 ― 階層性はあったのか
再葬墓は、縄文後期から弥生時代にかけて広く見られる葬制であり、一次葬後に洗骨・選骨を行い、土器などに再収容して埋納する形式をとる。その社会的意味、とくに階層性の有無については、研究史上大きく三つの立場がある。
1 階層未分化説(共同体的平等性)
この立場では、再葬墓は血縁・地縁共同体の象徴的結束儀礼とみなされる。
- 副葬品が乏しい
- 土器の規格差が小さい
- 墳丘規模の差異が限定的
- 男女差・年齢差が明瞭でない
といった点が根拠とされる。
とくに東日本の事例では、土器再葬が一定の形式で繰り返されることから、特定の支配層ではなく共同体構成員全体を対象とした儀礼とする見解が有力である。
福島県の六野瀬遺跡のように、複数の再葬土器群がまとまって検出される場合も、階層差よりも集団墓地的性格が強調される傾向にある。
2 緩やかな階層化認識説
一方で、近年は「完全な平等」とする見方にも再検討が加えられている。
注目点は以下である:
- 土器の製作精度や型式差
- 骨の選択性(頭骨中心など)
- 再葬回数の差
- 再葬土器の配置位置
一部の遺跡では、大型土器や丁寧な加工例が限定されることがあり、これは「社会的評価の差」を反映している可能性が指摘される。
ただしそれは、のちの古墳時代のような明確な首長階層ではなく、
- 年長者・祭祀主宰者・家系長などの緩やかな権威差 とみるのが一般的である。
3 儀礼的権威集中説
一部研究では、再葬は単なる埋葬ではなく
- 洗骨
- 再収容
- 再埋納
という複雑な過程を伴うため、儀礼を統括する特定層の存在を想定する。
この場合、再葬墓は
- 祖先祭祀の場
- 共同体の記憶装置
- 土地所有の正統化装置
と解釈される。
とくに弥生中期以降、環濠集落や地域中心集落の成立と重なる場合、再葬は社会統合の象徴儀礼とみなされることもある。
地域差という視点
西日本(北部九州など)では甕棺墓の発達とともに階層化が比較的明瞭になるが、東日本では再葬土器墓が比較的長く続き、階層性は弱い。
したがって、
- 再葬=未階層社会
と単純化することはできないが、
東日本の再葬墓は、強い階層分化を示す証拠に乏しい
というのが現状の到達点である。
遺構
- 墳墓
- ピット
- 土坑
遺物
- 縄文土器
- 弥生土器
- 石器
指定
考察
アクセス
- 名称:六野瀬遺跡
- 所在地:新潟県阿賀野市渡場六野瀬
- 交通:
参考文献
- 安田町教育委員会(1992)『新潟県安田町文化財調査報告12:六野瀬遺跡1990年調査報告書』
茄子作遺跡 ― 2026年02月22日 00:26
茄子作遺跡(なすづくりいせき)は枚方市(大阪府北東部・北河内地域)に所在する弥生時代後期から古墳時代中期にかけての複合遺跡である。遺跡は枚方丘陵および交野台地(交野ヶ原)の中位段丘面に立地し、周辺には小規模谷地形が発達する
1. 立地と周辺環境
遺跡の東方に位置する神宮寺遺跡では縄文時代早期の押型文土器を伴う石組遺構・炉跡が確認されており、本地域が長期にわたり断続的に利用されてきたことがうかがえる。茄子作遺跡は丘陵斜面と谷地形を利用した立地であり、後述する須恵器窯の設置条件とも整合的である。
2. 弥生時代後期~古墳時代初頭の集落
昭和49年(1974年)の調査では、以下の遺構が検出された。
- 竪穴住居跡 4棟
- 方形周溝墓 1基
- 土坑群
- 大溝
- 井戸状遺構
これらは弥生時代後期から古墳時代初頭に比定され、居住域と墓域が近接して展開する小規模集落の存在を示す。とくに方形周溝墓の検出は、首長層の成立や地域的階層化の進展を考える上で重要である。
3. 初期須恵器の出土と生産遺跡の可能性
2004~2006年度調査では、谷の旧流路から初期須恵器が出土した。これらには以下の特徴が認められる。
- 器体の溶着
- 焼成時の歪み
- 焼台の伴出
これらは製品ではなく焼成過程に関連する資料である可能性が高く、当該地域一帯に須恵器生産集団が存在したことを示唆していた。
4. 2025年度調査:初期須恵器窯跡群の確認
2025年度の調査では、丘陵斜面において3基の地下式窯からなる「初期須恵器窯跡群」が確認された。
とくに西側の3号窯は、
- 両側に排水・補助機能をもつ溝を備える地下式構造
- 5世紀前半に比定
とされる。
斜面を利用した地下式窯の構造は、朝鮮半島系技術を背景とする初期須恵器生産技術の展開を具体的に示すものであり、本遺跡は北河内地域における須恵器生産の実態を示す重要事例となった。
5. 陶邑窯跡群との関係と意義
従来、5世紀以降の須恵器生産は大阪府南部の陶邑窯跡群が中核的役割を担ったと理解されてきた。しかし、茄子作遺跡の窯跡群は、
- 北河内地域における早期生産拠点の存在
- 生産の地域的分散可能性
- 陶邑成立以前または同時並行的な技術展開
を示唆するものであり、須恵器生産体制の成立過程を再検討する契機となる。
遺構
- 竪穴住居
- 溝
- 流路
- 土坑
- ピット
- 落込み
遺物
縄文時代
- 縄文土器
- 弥生土器
- 石製品
- サヌカイト剥片
古墳時代
- 土師器
- 須恵器(初期須恵器含む)
- 木製品
- ミニチュア土製品
- 焼台
- 鉄製品
指定
考察
アクセス
- 名称:茄子作遺跡
- 所在地:大阪府枚方市茄子作南町地先
- 交通:
参考文献
- 大阪府文化財センター(2008)「茄子作遺跡」
東小田峯遺跡 ― 2026年02月10日 00:14
東小田峯遺跡(ひがしおだみねいせき)は、福岡県朝倉郡筑前町に所在する、弥生時代前期から中期にかけて営まれた集落遺跡および墓域からなる複合遺跡である。筑紫平野北端部、曽根田川西岸の河岸段丘上に立地し、低湿地と段丘という異なる自然環境を近接して利用できる点に特徴がある。この立地条件は、水田耕作に適した土地と安定した居住域を同時に確保するうえで有利であり、弥生時代初頭における農耕集落の成立を支えたと考えられる。
概要
本遺跡では、日本列島に稲作が伝来して間もない段階から本格的な水稲農耕が行われていたことが確認されており、北部九州における弥生時代集落の展開を考えるうえで中核的な位置を占める遺跡と評価されている。集落規模や墓域の形成状況、社会的分化を示す考古資料の存在から、同時期の北部九州に成立した政治的・社会的単位、すなわち『魏志倭人伝』に記される「国」に類似した社会構造と比較しうる規模と性格を備えていた可能性が指摘されている。ただし、文献史料と直接対応させることは慎重であるべきであり、あくまで社会構造の類似性という観点からの比較にとどめられる。
東小田峯遺跡の特徴
東小田峯遺跡の大きな特徴の一つは、青銅器製造に関わる遺構・遺物が確認されている点である。坩堝、青銅器の土製鋳型、炉壁片などが出土しており、遺跡が単なる農耕集落ではなく、青銅器の鋳造を行う技術集団を内包していたことが明らかとなっている。内陸部に立地しながらも、沿岸部の須玖岡本遺跡や三雲南小路遺跡と共通する高度な金属加工技術を有していた点は注目され、技術や原材料が広域的なネットワークを通じて流通していた可能性を示している。
発掘史
1926年(大正15年)には、甕棺に収められた前漢鏡と鉄戈が偶然発見され、副葬品を伴う甕棺墓の存在が知られるようになった。戦後の昭和20年代以降には、地元の朝倉高等学校史学部による継続的な調査が行われ、弥生時代前期に成立した居住域と墓域が明確に区分された遺跡であることが確認された。さらに、昭和60年から62年にかけて県営圃場整備事業に伴う大規模発掘調査が実施され、甕棺墓427基が確認されている。これは北部九州の弥生時代前期墓地としても有数の規模であり、集団が長期間にわたり安定して存続していたことを示す。
遺跡の構造
遺跡は大きく三つの区画に分かれ、北側および南側に甕棺墓が集中する墓域が形成されている。一方、調査区中央部ではL字状の溝によって区画された範囲に居住域が確認されており、生活空間と埋葬空間を明確に分離する集落構造が認められる。この墓域の中で特に注目されるのが、南側墓域に位置する10号甕棺墓である。
10号甕棺墓
10号甕棺墓は、約20メートル四方の平面規模をもつ隅丸方形の墳丘墓(2号墳丘墓)のほぼ中央部から検出された。甕棺内からは、重要文化財に指定されている前漢鏡2面(内行花文清白鏡・内行花文日光鏡)をはじめ、鉄戈1本、鉄剣1本、鉄製鑷子1点、円形のガラス製璧2点、布片などが出土した。鉄戈は柄を装着した状態で、甕棺の接合部直上に置かれており、被葬者の武的・象徴的性格を強く示す配置と考えられる。
これらの副葬品の内容と質から、10号甕棺墓の被葬者は東小田峯遺跡における最高位の人物、すなわち当該集団を統率した首長的存在であったと評価できる。一方で、須玖岡本遺跡や三雲南小路遺跡の首長墓と比較すると、副葬品の点数や構成には差異が認められ、より広域的な政治秩序の中では下位に位置づけられる首長であった可能性が高い。このように、東小田峯遺跡の首長像は、「遺跡内部では最高位でありながら、北部九州全体では中位ないし下位の首長」という二重の評価によって理解される。
ガラス製璧が示すもの
ガラス製璧は、三雲南小路遺跡、須玖岡本遺跡、東小田峯遺跡の三遺跡から共通して出土しており、科学分析の結果、バリウムを含む鉛ガラス製であることが明らかとなっている。これらは威信財として首長層に限定的に配布された可能性が高く、三遺跡が同一または密接に連関した社会圏に属していたことを示唆する資料といえる。
その他の遺構
このほか、調査区南側の357号甕棺墓では、長辺約3.7メートル、最大幅約3.3メートルの大型土坑内から細形銅剣が出土している。この銅剣は背幅が細く、鋒部の研磨が丁寧であることから、実用武器というよりも象徴的・威信的性格を帯びた青銅器であった可能性が指摘されている。また、114号竪穴建物跡から出土した銅矛の土製鋳型は朝鮮半島系青銅器の系譜を引くものであるが、その製作技術は前漢鏡の鋳型と共通しており、複数の技術系統が在地で融合・継承されていたことを示している。
土器の特徴
土器類についても多量の丹塗土器や黒塗土器が出土している。丹塗り注口土器には、ベンガラなどの顔料を用いて赤色に彩色し、ヘラ状工具で表面を丁寧に磨き上げたものが含まれ、儀礼や饗宴など特定の場面で使用された可能性が高い。一方、塗装や仕上げが簡略な土器も認められ、用途や使用場面の違いに応じた土器製作が行われていたことがうかがえる。
東小田峯遺跡にみる弥生時代前期の階層分化
弥生時代前期の社会構造をめぐっては、階層分化の進展度をどのように評価するかが長く議論されてきた。近藤義郎(1983)は、「弥生時代前期の埋葬においては、副葬品の有無や多少にかかわらず、多くの場合、一般埋葬との間に明瞭で際立った差異を示さない」ことを指摘し、この時期の社会がまだ固定的な身分制度を形成していない段階にあったと論じている。この見解は、弥生前期社会を基本的に平準的な集団として捉える立場を代表するものといえる。
一方で、近年の発掘調査の進展により、弥生時代前期においても、集団内部における地位差や役割差が、限定的ながら物質文化として表出し始めている事例が各地で報告されている。とりわけ北部九州では、甕棺墓の一部に漢鏡や鉄製武器、ガラス製装身具などの威信財が集中する例が知られ、階層分化の萌芽を示す資料として注目されている。
東小田峯遺跡は、このような研究動向の中で、弥生時代前期における階層分化の具体像を検討するうえで重要な事例を提供する遺跡である。同遺跡では、427基に及ぶ甕棺墓が確認されており、その大多数は副葬品に乏しく、埋葬施設の規模や構造にも大きな差異は認められない。この点において、東小田峯遺跡全体の墓制は、近藤が指摘した「差異の乏しい弥生前期墓制」の一般的傾向と整合的である。
しかしながら、その中にあって南側墓域に位置する10号甕棺墓は、明確に異なる性格を示す。10号甕棺墓は、約20メートル四方の平面規模をもつ隅丸方形の墳丘墓の中心部に位置し、前漢鏡2面、鉄戈、鉄剣、ガラス製璧など複数の威信財を組み合わせて副葬している点で、一般の甕棺墓とは画然と区別される。この差異は、副葬品の数量的増加にとどまらず、漢鏡や鉄製武器といった象徴性の高い物資が集中している点に特徴がある。
このような状況は、東小田峯遺跡において、集団内部における社会的地位の差異が、まだ全面的・制度的な階層構造として確立する以前の段階で、特定の個人に集中的に表現され始めたことを示していると考えられる。すなわち、社会全体としては依然として平準的な性格を保ちつつも、その中から首長的役割を担う個人が析出し、対外関係の統括や儀礼の主宰といった機能を象徴的に体現する存在が現れた段階と位置づけることができる。
また、10号甕棺墓に副葬されたガラス製璧が、須玖岡本遺跡や三雲南小路遺跡と共通する素材・製作技術を有することは、東小田峯遺跡の首長的個人が、広域的な交流圏の中で威信財の分配や技術・物資の媒介に関与していた可能性を示唆する。この点からみると、東小田峯遺跡の階層分化は、単なる経済的格差の反映ではなく、象徴資源や対外関係の掌握を通じて形成された「権威の差異」として理解することが妥当である。
以上のように、東小田峯遺跡は、弥生時代前期における階層分化が、集団全体の均質性を基盤としながらも、首長的個人の突出という形で徐々に可視化されていく過程を具体的に示す遺跡である。その様相は、弥生社会における階層形成が、急激な身分制度の成立ではなく、象徴的・機能的差異の蓄積を通じて段階的に進行したことを示す重要な考古学的証拠として位置づけられる。
東小田峯遺跡の位置付け
以上のように、東小田峯遺跡は、初期水稲農耕の展開、青銅器鋳造技術の存在、大規模墓域と首長墓の形成といった要素を併せ持つ、北部九州弥生社会の構造を理解するうえで極めて重要な遺跡である。その社会的性格は、『魏志倭人伝』に描かれる倭国世界と比較可能な側面を持ちつつも、在地的首長権のあり方を具体的に示す点に、本遺跡の大きな意義が認められる。
遺物
- 内行花文清白鏡 - 重要文化財
- 内行花文日光鏡 - 重要文化財
- 鉄戈 1本
- 鉄剣 1本
- ガラス璧 2点
- 鉄鑷子 1点
- 黒塗土器
- 丹塗土器
- 坩堝
- 青銅器鋳型
- 炉壁
- 細形銅剣
- 銅矛土製鋳型
指定
- 昭和63年6月6日 国指定重要文化財(考古資料)、九州国立博物館に一括保管
アクセス
- 名称:東小田峯遺跡
- 所在地:〒838-0214 福岡県朝倉郡筑前町東小田
- 交 通:九州旅客鉄道 原田駅から徒歩52分。
参考文献
- 文化庁(2022)『発掘された日本列島2022』共同通信社
- 「発掘された日本列島 東小田峯遺跡」東京新聞,2022年6月8日
- 伊都国歴史博物館(2022)『伊都国王誕生』伊都国歴史博物館
- 近藤義郎(1983)「集団墓地から弥生墳丘墓へ」『前方後円墳の時代』岩波書店
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