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深大寺城山遺跡2026年08月29日 00:25

深大寺城山遺跡(じんだいじしろやまいせき)は東京都調布市に所在する縄文時代から中世までの複合遺跡である。

概要

深大寺城山遺跡は国分寺崖線周辺に広がる。武蔵野台地の南縁(国分寺崖線)は、古くから豊富な湧き水が得られる場所であり、多摩川の氾濫から安全な高台(段丘縁辺部)には縄文時代の住居跡が確認されている。 神代植物公園の城山地区整備や宅地造成などに伴い、発掘調査や報告書作成が行われてきた。調査は神代植物公園城山地区や中央電気通信学園の敷地などで行われた。特に深大寺城山遺跡は中央電気通信学園(現在のNTT東日本「NTT中央研修センタ」の前身)や神代植物公園城山地区の敷地内に広がる遺跡である。

縄文時代

1952年(昭和26年)の発掘調査で2軒の竪穴住居がみつかり、縄文土器の破片や、狩猟・加工に使われた石器、炉穴が出土した。石器は石鏃、打製石斧、磨製石斧、凹石(くぼみいし)・石皿(いしざら)、スクレイパー(掻器・削器)、礫などである。当時は湧水が豊富で豊かな落葉広葉樹林が広がっており、これらの狩猟具や植物加工用の石器がまとまって出土することは、縄文人が安定して採集狩猟生活を送っていたと推察されている。

弥生時代

弥生時代には深大寺城山遺跡がある崖のすぐ下には豊かな湧き水と、湿地帯(低地)が広がり、住居は高台の深大寺城山遺跡に構え、農耕を目の前の低地で行った。多摩地域で最初に確認された弥生時代の竪穴住居跡とされる(調布市市史編纂委員会(1999))。

弥生時代の竪穴住居跡は、1辺約4mの隅丸方形を呈し、北壁際に炉を設けていた。住居跡からは甕形土器、壺形土器、台付甕などが出土した。甕は口径10.5cmで口縁部に鋸葉状の刻みがあり、胴部に刷毛目整形を施す。甕形土器と台付甕は弥生時代末期の前野町式土器の特徴をもつ。前野町式土器は弥生時代終末期から古墳時代初頭(3世紀頃)にかけて南関東を中心に分布する土器ケ形式である。台付甕は食物の煮炊きに使う甕の底に、「台(脚)」が付いているのが特徴である。火の熱効率を高める工夫とする見解があり、東海地方から伝わった土器形式とされる。台付甕は東海地方(愛知県の尾張・三河や静岡県など)の弥生文化で非常に発達した器種とされている。弥生時代中期後半から後期にかけて、東海地方からの集団の移動や、技術・物流の交流にともなって南関東(武蔵野台地や多摩川流域)へ流入、あるいは模倣された器種である。

古墳時代

深大寺城山遺跡から古墳時代の集落跡や土器などの遺物が出土する。壺形土器は古墳時代初頭の特徴を有する。

中世

16世紀前半の戦国時代には、中世には深大寺城が築かれた。深深大寺城は深大寺城山遺跡に隣接する都立神代植物公園の水生植物園内にあり、16世紀前半の戦国時代に築かれた平山城である。

調査

アクセス等

  • 名称:深大寺城山遺跡
  • 所在地:東京都調布市深大寺元町2-19
  • 交通:京王線「調布駅」北口から京王バス「深大寺」行きに乗車(約15?20分)、終点または「深大寺」バス停下車 徒歩約3分

参考文献

  1. 調布市市史編纂委員会(1999)「調布市史 上巻」調布市

深江石町遺跡2026年08月20日 00:05

深江石町遺跡(ふかえいしまちいせき)は、福岡県糸島市に所在する弥生時代の遺跡である。

概要

深江城崎遺跡に隣接し、その北側に位置する遺跡である(糸島市(2024))。 弥生時代のクニ「伊都国」の西の玄関口として対外交流を担った重要な拠点集落である。 発掘調査は第一次調査として2022年7月25日から2023年3月31日まで行われた(糸島市(2024)。 主な遺構として掘立柱建物8棟、土坑9基、溝状遺構4条を検出した。土器は弥生時代後期初頭~終末期まで含むが、主体は弥生時代後期前半とされる。谷部では大型壺、袋状口縁壺、短頸壺、甕、鉢、高坏、大型器台、手づくね土器、金海式甕棺の口縁部片、石包丁・石包丁未成品、紡錘車・紡錘車未成品、砥石、石錘が出土した(糸島市(2024)。 中国・漢代に由来する形式とされる木製櫛「箆(び)」が出土し、国内初出土として注目されている。

2022年の調査では弥生時代の武具「木製の鎧(木甲)」が出土した。出土土器から、弥生時代後期前半とみられる。木屑が出土していることから、木工を含めた木製品の生産に係わ る土坑と考えられる。 中国の史書『魏志倭人伝』に登場する「伊都国」の西の拠点集落と見られている。

木製の「箆(び)」の発見

2025年6月上旬に発見(出土)され、同年7月28日に糸島市から発表された弥生時代後期前半の漢式櫛も見つかっている。中国・漢に由来する木製のくし「箆(び)」とされる。箆は全国で初めて出土した例とされる。箆は長さ7.1センチ、幅5.5センチ、厚さ5~1ミリ。歯が70本ある精巧な作りである。箆は1号土坑(長さ2.2メートル、幅2.35メートル、深さ35センチ)から、建築材や船形木製品、船の仕切り板の一部など大量の木器とともに出土した。

歯の粗い櫛と、髪の汚れを取るための歯の密な箆が使い分けられていたと考えられる。大量の木器や大陸系文化との関係を示す木製櫛が出土しており、伊都国のものづくりや対外交流を考える上で重要な遺跡である。福岡市の今宿五郎江遺跡や佐賀県の吉野ケ里遺跡、長崎県の原の辻遺跡で歯の数が8~24本の梳の出土は計4例あるが、これまでに箆の出土はなかった。 中国の楽浪郡などを経由して伊都国にもたらされたとの指摘もある。

木製鎧(木甲)の発見

弥生時代の木製防御具である木甲の未成品が出土した。前胴2枚と後胴1枚の計3枚を組み合わせ、た構造が特徴であり、弥生時代の木甲は、古墳時代の甲冑の成立過程を考える上でも重要な資料である。後胴に羽根状の装飾がみられる。2022年度の宅地開発に伴う同遺跡の発掘調査で、3号土坑(最大径約4メートル、深さ46センチ)から出土した(糸島新聞(2024))。木甲の後胴(羽根を含む長さ39.8センチ、幅34.6センチ、厚さ1.8~5センチ)と右前胴(長さ46.5センチ、幅27.7センチ、厚さ5.5~10.5センチ)、左前胴(長さ47.5センチ、幅28センチ、厚さ最大6.6センチ)である。後胴・前胴はいずれもカキノキ属の木材が用いられている。

斧などを使って木を平らに整えた加工痕が残っており、当時の人々がよろいを作る際の工夫や制作段階が分かる。木甲を含む木製品の製作活動が行われていた可能性を示す遺跡である。 弥生時代の木甲は2024年時点で全国に17例あり、うちくりぬき式は8例である。橋本達也(2003)は弥生時代の木甲を組合式、加飾刳貫式、無飾刳貫式に分類し、型式ごとの出現・普及時期を示している。深江石町遺跡の木甲は、弥生時代後期前半の木甲製作技術を知る資料として重要である。羽根付刳貫式木甲の出土は、弥生時代後期前半の社会における武器・武具の生産や使用、さらに祭祀的側面を考える上でも重要な資料である(糸島市(2024))。

調査

遺構

  • 掘立柱建物
  • 土坑

遺物

  • 弥生土器
  • 石器
  • 木器

指定

時期

アクセス

  • 名称:深江石町遺跡
  • 所在地:糸島市二丈深江字石町1809番地
  • 交 通:

参考文献

  1. 糸島市(2024)『糸島市文化財調査報告書30:深江石町遺跡』糸島市
  2. 「【糸島市】羽根飾りある弥生の木製鎧」糸島新聞、2024年8月5日
  3. 橋本達也(2003)「有機質甲冑・盾・靫・胡簶・弓」『考古資料大観』第7巻、小学館
  4. 「弥生時代の木製鎧を福岡県糸島市の博物館で公開」読売新聞、2024年9月30日

会下山遺跡2026年08月06日 00:40

会下山遺跡(えげのやまいせき)は兵庫県芦屋市にある弥生時代中期から後期の高地性集落遺跡である。日本を代表する高地性集落の一つであり、高地性集落の性格や弥生時代の社会・交流を考える上で重要な遺跡として知られる。

概要

六甲山系南部の標高201mの会下山の尾根部に位置する。1954年(昭和29)、弥生土器の発見を契機に遺跡の存在が知られた。土器は広範囲な地域集団との交流を示している。約2000年前の防御的性格を備えた高地性集落であり、1960年(昭和35年)には、兵庫県の史跡第1号に指定された。高地性集落の成立や弥生時代社会の実態を知るうえで学術的価値が高く評価され、2011年に国史跡となった。弥生時代の争乱や交易の様子を伝える貴重な遺跡として評価されている。 麓に「三条文化財事務所」が併設されており、出土品の見学ができる。 会下山遺跡は発掘調査によって山頂から山麓まで広がる大規模集落であることが明らかとなった。全国的に知られた代表的な高地性集落である。急峻な尾根地形に立地し、全山が国有地となっている。防御施設を備えた高地性集落であるだけでなく、広域交流を示す土器や中国系武器の出土によって、弥生時代の社会や交易、地域間交流を考える上で重要な遺跡となっている。

調査

発見経緯

1954年(昭和29年)、会下山遺跡の近くの芦屋市立山手中学校で、裏山(会下山)に植物実習園をつくるための道づくりが行われた。この時、作業に参加していた生徒たちが偶然、弥生土器の破片を発見した。この発見を受けて発掘調査が行われた。

発掘調査史

第1から10次調査調査

1956年(昭和31年)から1961年(昭和36 年)に芦屋市教育委員会などが第1次から第5次に渡る大規模な発掘調査を実施した。昭和48年(1973年)7月1日から7月6日、10月1日に会下山の西斜面について、第6次調査が行われ、多数の弥生土器が出土した。第7次調査は2002年(平成14年)に兵庫県教育委員会によって実施され、遺跡の範囲や内容が確認され、のちの国指定への重要なステップとなった。第8次調査は2008年(平成20年)3月3日から21日まで遺跡の正確な範囲と地下の埋蔵状況を把握するために行われた。 第9次調査は2009年(平成21年)2月9日から3月4日まで遺跡の正確な広がりや内容を確認するために行われた。第10次発掘調査は範囲確認調査(第8から10次)の最終年として2009年(平成21年)8月31日から12月16日に行われた。ここで特殊な構造を持つ「焼土坑」が発見された。

竪穴建物

祭祀関係遺物をともなう竪穴建物1棟、大型の竪穴建物1棟を含む合計9棟の竪穴住居跡が見つかった。竪穴建物は屋根を支える柱が4本から5本ある。最も大きな竪穴住居は直径が8mから10 mあり、他の竪穴住居より少し高い場所につくられていた。この建物には集落のリーダーが住んでいたか、または集落の人々たちが共同で使う施設と考えられている。また祭祀に用いられたと考えられる施設、火たき場跡、墓跡、柵跡、堀跡、ゴミ捨て場跡などがある。焼土遺構は穴の中で高温の火を使った跡が2ヶ所で見つかっている。野外の調理場やノロシの施設、土器を焼き上げるための施設などの説がある。

環壕

集落の最も北側で、二重の環壕跡がみつかっている。幅は約3~5.5 m、深さは約1.2 mある。敵や動物の侵入を防いだり、集落の境界を区切るためのものであったと考えられる。 外側の環壕が幅約5.5 m、深さ1m以上、内側の環壕が幅約3〜4m、深さは約1.2 mである。

出土品

  • ①鉄製品 鉄鏃、鋳造鉄斧などの鉄製品が出土した。
  • ②石器 石器は矢尻(石鏃)をはじめ、錐・石剣・ 石斧・叩石・ 石鎚・ 磨石・ 石錘、砥石・投石弾・軽石などがある。
  • ③特殊遺構 穴の中で高温の火を使った跡が2ヶ所で見つかった。野外の調理場やノロシの施設、土器を焼き上げるための施設など、さまざまな説がある。焼土坑、土坑墓、柵列なども確認されている。
  • ④漢式三翼鏃 日本列島では珍しい漢式三翼鏃も出土した。出土した青銅製漢式三翼鏃(芦屋市指定文化財)は中国で作られたものである。漢式三翼鏃は中国系武器の流入を示す資料として注目されている。

土器

出土土器全体の器種構成は、壺・甕・鉢・高杯・器台などで、畿内でよく出土するものとされている。河内や讃岐など他地域の土器も含まれ、広域交流が行われていたことを示している。

森岡説

森岡秀人は会下山遺跡を、一時的な小集団の高地性集落ではなく、長期間にわたり営まれた大規模な高地性集落として再評価している(芦屋市教育委員会2010)。 すなわち森岡秀人は「制約を受ける狭い尾根上に数棟営まれた小集団の居住の場ではなく、規模の大きい集団が日常生活を長期間にわたって営んだ高地性集落」(芦屋市教育委員会(2010))と再定義している。

遺構

  • 竪穴住居 9棟 平面円形
  • 祭祀場 2か所
  • 墓跡  4基
  • 焼土坑 - 長径4メートル
  • ピット
  • 段状遺構
  • 溝状遺構 2条
  • 柵跡

遺物

  • 土器(壺+甕+鉢+高杯+無頸壺)
  • 有茎式銅鏃 1
  • 漢式三翼銅鏃1
  • 石鏃
  • 高坏
  • 無頸壺
  • ガラス小玉
  • 鉄器(鉄片+釘)
  • 石鏃(サヌカイト製)
  • 剥片(サヌカイト製)
  • 弥生土器
  • サヌカイト製石鏃
  • サヌカイト剥片
  • 掻器
  • 石錐

指定

  • 1960年 - 兵庫県史跡指定
  • 2011年(平成23年)2月7日 - 国の史跡指定

アクセス等

  • 名称:会下山遺跡
  • 所在地:〒659-0087 兵庫県芦屋市三条町258番地
  • 交通:阪急電鉄神戸本線芦屋川駅から徒歩約15分

参考文献

  1. 芦屋市教育委員会(2017)会下山遺跡パンフレット
  2. 芦屋市教育委員会(2010)『芦屋市文化財調査報告85:兵庫県芦屋市 会下山遺跡確認調査報告書』芦屋市教育委員会 社会教育部生涯学習課

深江城崎遺跡2026年08月03日 00:05

深江城崎遺跡(ふかえじょうざきいせき)は、福岡県糸島市に所在する弥生時代の遺跡である。

概要

深江城崎遺跡は弥生時代に栄え、伊都国の西部における対外交流を考えるうえで重要な拠点集落の一つである。2020年(令和2年)の試掘調査で遺構や遺物が出土し、本格的な調査が必要と判断された。

2021年度(令和3年度)の第1次調査では、弥生時代中期後半~終末期にかけての2つの遺構面が確認され、第1面(弥生時代後期後半から終末期)からは掘立柱建物1棟、溝1条、土坑28基、ピット442基を検出した。第2面(弥生時代中期後半から末期)からは掘立柱建物4棟、土坑27基、ピット100基を検出した。溝からは甕、大型甕が出土した。L字形石杵は食料加工などに用いられたと考えられる特徴的な形の石器である。

2025年度に行われた第2次調査では、弥生時代の木製台「案」の出土や港湾集落の発見があった。 谷部から大型器台など外来系土器や木製品がまとまって出土しており、護岸を備えた人工流路も見つかっており、大陸や朝鮮半島との交流・交易に関わる拠点としての性格が想定される。遺跡は港湾的機能が想定されている。地域間交流や水辺での活動を考えるうえで重要である。

大陸・朝鮮半島系土器

朝鮮半島南部や楽浪郡に関係する外来系土器が出土しており、深江城崎遺跡における大陸・朝鮮半島との交流を示す資料となっている。深江城崎遺跡が大陸・朝鮮半島との物流や交流に関わった可能性を示す資料である。

クジラが描かれた「絵画土器」

2023年4月、糸島市が公表した絵画土器には、高さ60cmの壺の表面に、上から見下ろした(俯瞰した)視点で全長約8cmのクジラが線刻されている。クジラの体の両側に計6本の線が伸びており、これはクジラに刺さった「もり」を表している可能性がある。クジラを描いた絵画土器としては、長崎県壱岐市の原の辻遺跡に続く国内2例目とされる。伊都国と一支国の海上ネットワークや交流を考えるうえで注目される。

木製台「案」と中国・漢代の案との類似

深江城崎遺跡出土の「案」は、中国・漢代の木製案と形態や構造に類似すると指摘されている。長方形の天板に脚を取り付ける構造をもち、脚を押さえ板や鼻栓で固定する点も共通する。こうした組み合わせ式の構造は、弥生時代の北部九州でも雀居遺跡などから確認されており、大陸との交流を背景とした木工技術の受容を考えるうえで注目される。なお、食器や供え物を載せる台との説もあるが、天板には多数の刃物傷が残されており、実際の用途については今後の検討が必要である。

調査

弥生時代前期

楽浪系土器や東九州系、瀬戸内系の土器が出土する。

弥生時代後期前半

漁労具(タモ、アカトリ)、農具(竪杵、横槌など)、運搬具(舟、背負梯子)など多くの木 製品が出土した。長さ 1.96m、幅 55cmの刳り抜き式丸木舟と舟内やその周辺でも完形の土器が出土した。砂丘に沿って人工流路が造られ、杭や矢板を用いて護岸している。

弥生時代中期末~後期初頭

完形の土器に丹塗磨研土器が含まれる。

遺構

  • 掘立柱建物
  • 人工流路
  • 土坑

遺物

  • 絵画土器

指定

時期

アクセス

  • 名称:深江城崎遺跡
  • 所在地:福岡県糸島市二丈深江
  • 交 通:JR筑肥線 筑前深江駅から 850m

参考文献

  1. 糸島市(2023)『糸島市文化財調査報告書29:深江城崎遺跡』
  2. 西日本新聞(2026)「福岡・糸島市、弥生時代の木製台が完全な形で出土 国内唯一の発見」2026/7/5

上御殿遺跡2026年08月02日 00:05

上御殿遺跡(かみごてんいせき)は、滋賀県高島市に所在する弥生時代から平安時代にかけての複合遺跡である。弥生時代中期~後期の双環柄頭短剣に似た鋳型が国内で初めて出土したことで知られ、古墳時代前期の石釧、大規模な集落跡、2026年に確認された鍛冶工房とみられる円形竪穴建物など、多様な遺構・遺物が確認されている。丹後・若狭など日本海側地域の特徴をもつ土器も出土しており、琵琶湖西岸と日本海側を結ぶ地域間交流を考えるうえでも重要な遺跡である。

概要

上御殿遺跡は、滋賀県高島市南部、琵琶湖の西岸に広がる高島平野の南部を流れる鴨川の左岸に所在する。JR湖西線安曇川駅から南西方向に約800mの距離である。オルドス式銅剣や古墳時代の石釧、古墳時代前期の鍛冶工房跡などが出土したことで知られる。

調査

2013年調査(短剣鋳型)

古代中国北部に分布したオルドス式銅剣に特徴が似た双環柄頭短剣の石製鋳型(金属を流し込んで形を作る型)が国内で初めて出土した。鋳型は2枚ある。2点一対で、長さ約30cm、幅約8.8cmである。弥生時代中期から後期のものとされる。オルドス式銅剣は、中国北方から内モンゴル地域などを中心に分布する青銅製短剣である。柄の先が2つのリング(双環)になっているのが特徴である。復元される短剣は、双環柄頭をもつ点で中国北方の短剣と共通する一方、鍔をもたず、刃部に幾何学的な文様が施されるなど、既知のオルドス式銅剣とは異なる特徴もみられる。

鋳型の石材は泥が固まったシルト岩で産地は不明である。鋳型の彫り込みが浅く、復元すると刃部が約3mmと薄いことから、実用品ではなく、特殊な目的のために製作された可能性が指摘されている。 短剣鋳型の出土は、上御殿遺跡周辺で青銅器生産に関わる技術活動が行われていた可能性を示す。一方、2026年には古墳時代前期の鍛冶関連遺構とみられる建物も確認され、金属加工技術の実態を考えるうえで重要な遺跡となっている。滋賀県指定有形文化財となっている。朝鮮半島に同型の出土例がそれまで知られていなかったことから、その伝来経路について、日本海側を含めた複数の可能性を検討する必要がある資料となった。

2013年調査(石釧)

古墳時代の川跡から腕輪形石製品の「石釧」が出土したと発表した。直径8 ㎝(外側:内側は直径6.6 ㎝)・高さ2.4 ㎝を測り、破片の大きさは全体の約1/4 程度である。石材は緑色凝灰岩とみられ、淡い緑色腕輪形である。石釧は東北南部~九州北部に広く分布しており、有力者の墓に副葬されることが多い。古墳時代前期の後葉(4世紀後半)ごろのものと見られている。土器の他、紡錘車や鉄鎌が出土している。湖西地域では初めて確認された石釧であり、琵琶湖を挟んだ湖南地域との交流や、腕輪形石製品の流通を考えるうえでも重要である。

2014年調査(古墳)

2014年2月27日、古墳1基が発見された。直径約12.8mの円墳で、主体部は木棺直葬であった。周溝から出土した須恵器などから、古墳時代後期の古墳と考えられている。底の土に赤い顔料が見られた。

2024年度~2025年調査(集落)

2024年度からの調査では、弥生時代後期から古墳時代前期の竪穴建物が多数確認され、2026年までに方形建物32棟などが確認されている。丹後・若狭地域の影響を受けた北近畿系の土器や湖南地域の特徴を持つ土器が含まれており、他地域との交流が推測される。弥生時代後期から古墳時代前期にかけて約200年間続いた地域の拠点集落と見られる。

2026年調査(鍛冶工房跡)

古墳時代前期の鍛冶工房とみられる2棟の円形竪穴建物跡がみつかった。建物内部で6基の炉の跡を発見している。炉周辺の被熱状況から、700~1000度弱の高温になったと推定されている。出土状況は、直径約7.2メートルの建物跡から4基、直径約6.0メートルの建物跡から2基の炉が確認されている。炉は床面から数センチ高く粘土等でかさ上げされており、湿気対策が施されていたと考えられる。炉周辺の被熱状況から、ふいごによって送風していた可能性も指摘されている。北方からもたらされた鉄製品などを再加工していた可能性が考えられている。丹後・若狭など日本海側地域の特徴をもつ土器がされ、遠隔地との交流を示すものと評価されている。

遺構

  • 鍛冶工房跡
  • 古墳

遺物

  • 紡錘車
  • 鉄鎌
  • 石釧
  • 双環柄頭短剣の石製鋳型

指定

時期

アクセス

  • 名称:上御殿遺跡
  • 所在地:滋賀県高島市鴨2742-3
  • 交 通:JR湖西線 安曇川駅 徒歩18分(1.3km)

参考文献

  1. 「滋賀・高島の遺跡で邪馬台国時代の鍛冶工房跡」産経新聞、2026年7月17日
  2. 「弥生―古墳期の鍛冶工房か」共同通信、2026年07月16日
  3. 滋賀県文化財保護協会(2013a)「平成24年度 高島市上御殿遺跡出土の石釧について」
  4. 滋賀県文化財保護協会(2013b)「御殿遺跡発掘調査現地説明会資料」

野多目遺跡2026年07月31日 00:06

野多目遺跡(のためいせき)は福岡県福岡市にある旧石器時代から近世に及ぶ複合遺跡である。

概要

野多目遺跡は福岡市西部を北に流れる那珂川左岸の標高15mから20mほどの段丘上にある。 那珂川河口から南に8kmの地点で、弥生時代開始期を代表する板付遺跡の北東3.5kmにある。 野多目遺跡では板付遺跡と同様に縄文時代晩期終末の水田遺構が検出された。水系の異なる両遺跡の比較は、福岡平野における弥生時代開始期の実態を解明する上で重要視されている。 野多目遺跡はA・B・C・Dなどの地区から構成され、これらを総称して野多目遺跡群という。

調査

遺跡は戦前から知られていたが、昭和54年から発掘調査が始まり、旧石器時代の包含層、縄文時代の貯蔵穴・落とし穴、同終末の水田関係遺構、弥生時代の住居・貯蔵穴や墓地、古墳時代の住居・墳墓、古代から中世の集落、近世の集落跡などが確認された。 昭和54年以降、調査は段階的に進められた。1987年の調査では水田跡が認められ、弥生時代の開始期、突帯文土器から板付Ⅰ式の段階が認められた。水路祭祀に関係すると考えられる遺物や水路が検出された。

野多目A遺跡では第二次調査で弥生時代開始期(突帯文土器単純期)の水田(水路、井堰、水口、土坑等)が検出された。A遺跡の第4次調査では縄文時代後期の土器の精製土器片が出土した。鉢形土器の口縁部片である。 野多目B遺跡第一次調査では縄文時代後期前半の旧河川・溝状遺構、弥生時代前期の水田水路を検出した。野多目C遺跡群では旧石器時代の三稜尖頭器・台形石器、縄文時代中期後半~後期初頭の貯蔵穴などが出土した。第三次調査では縄文時代晩期の貯蔵穴.溝状遺構を確認した。

縄文時代

縄文時代後期から晩期(約4,000~2,400年前)のドングリなど堅果類の貯蔵穴が多数検出され、採集活動の様子が明らかとなった。縄文時代の採集経済から弥生時代の稲作農耕を基盤とする生産経済への移行過程を示す遺跡として重要である。

遺構

旧石器時代

  • 集石
  • 包含層

弥生時代

  • 畦畔
  • 水路5
  • 井堰3
  • 水口8
  • 土坑5
  • 掘立柱建物1
  • 溝2

遺物

旧石器時代

  • ナイフ形石器
  • 台形石器
  • 細石刃
  • 細石核
  • 角錐状石器

縄文時代

  • 石器類
  • 堅果類

弥生時代

  • 弥生土器
  • 石器
  • 夜臼式土器
  • 磨製石斧
  • スクレイパー
  • 石包丁
  • 石鏃
  • 須恵器
  • 打製石鏃
  • 打製石斧
  • 石包丁

指定

アクセス等

  • 名称:野多目遺跡
  • 所在地:福岡県福岡市南区野多目字古古賀522
  • 交通:天神大牟田線 大橋駅 徒歩33分

参考文献

  1. 福岡市教育委員会(1987)『野多目遺跡群- 稲作開始期の水田遺跡の調査』福岡市埋蔵文化財調査報告書 第159集
  2. 福岡市教育委員会(1997)「野多目A遺跡 4」福岡市埋蔵文化財調査報告書第527集

府中遺跡 (大阪府)2026年07月30日 00:22

府中遺跡 (大阪府)(ふちゅういせき)は、大阪府和泉市(主に府中町・黒鳥町周辺)に所在する弥生時代から中世にかけての複合集落遺跡である。

概要

府中遺跡は槇尾川右岸、信太山丘陵西側の低位段丘に立地する。東西約1km、南北約1.2kmに及ぶ広範囲の遺跡である。縄文時代の遺物や弥生時代の大規模集落跡が確認され、方形周溝墓や土器だまり、渡来系要素をもつ古墳時代の建物跡などが発見されている。泉州地域における集落の変遷や地域間交流を考える上で重要な遺跡である。

縄文時代の遺物や、弥生時代の大規模な集落跡が確認されている。弥生時代終末期(2世紀前半)には一時的に集落活動が停滞し、人々が丘陵上へ移動したと考えられている。 出土品は和泉市いずみの国歴史館で展示される。

縄文時代

発掘調査では、縄文時代中期末の土器である北白川C式の土器が出土した。口縁部に波状口縁をもつものが多く、また土器の表面に縄文を施した上から沈線文などで装飾する。

弥生時代中期

弥生時代中期では壷口縁部、弥生土器甕の底部、方形周溝墓が確認された。

弥生時代後期~古墳時代

弥生時代後期~古墳時代初頭では自然流路の肩から大量の土器が集中して出土する「土器だまり」が検出され、その中に淡路型器台5点が含まれていた。土器を意図的に廃棄・集積した可能性が指摘されている。淡路型器台は淡路島とその周辺地域を中心に分布する特徴的な器台で、口縁部が段状に広がり、円錐形の脚部をもつ。府中遺跡での出土は地域間交流を示す資料として注目される。 また装飾品(臼玉や有孔円板、紡錘車)、韓式系軟質土器の甕、土師器甕が検出された 縄文時代から弥生時代にかけての人骨約90体が確認されている。 遺跡の中央に位置する南北方向の谷から多量のサヌカイト片が出土した。これらのサヌカイト片は、石器製作時の石屑である。府中遺跡はサヌカイトの流通や石器生産を考える上で重要な資料を提供している。

古墳時代

古墳時代の遺構として竪穴建物や自然流路が検出されている。弥生時代後期末から古墳時代前期の竪穴建物1基は、カマドの位置や柱穴を持たない構造、韓式系土器の出土などから、渡来系の要素をもつ建物と考えられている。 遺物は古墳時代中期の鉄鐸が出土している。鉄鐸は銅鐸を鉄製で模倣した祭祀具と考えられており、出土例が少ない。

奈良時代以降

奈良時代~平安時代にかけての遺物は瓦や土師器・須恵器などが検出されている。

遺構

遺物

指定

時期

アクセス

  • 名称:府中遺跡
  • 所在地:大阪府和泉市黒鳥町一丁目
  • 交 通:JR阪和線 和泉府中駅下車 徒歩で約10?15分

参考文献

  1. 大阪府教育委員会(2018)「府中遺跡」
  2. 大阪府教育委員会(2019)『大阪府埋蔵文化財調査報告2018-2:府中遺跡Ⅱ』大阪府教育委員会