秋葉山古墳群 ― 2026年09月06日 00:05
秋葉山古墳群(あきばやまこふんぐん)は神奈川県海老名市に所在する6基(6号墳は未調査)の古墳群である。
概要
神奈川県のほぼ中央に位置する座間丘陵の尾根に沿って継続的に築造された古墳群である。相模川から約2km東の標高75mから80mの丘陵頂部に立地する。 前方後円墳の形状から古い時代の様相を呈する古墳群であろうと推定されていた。 発掘調査により、3世紀後半から4世紀中頃にかけて継続的に築造された、古墳時代出現期の古墳群であることが明らかになった。 墳形は前方後円墳、前方後方墳、方墳の3種類がある。 土器は庄内式期では在地色が強かったが、布留式期には畿内色が強くなるという変遷がたどれる。押方みはる(2026)によれば「3号墳では墓坑上で土器、朱を使った祭祀、2号墳では朱、円筒形土製品、火を使った祭祀」が行われていたとする。 出土品は海老名市温故館で保管、展示される。
調査歴
1969年(昭和44年)に神奈川県教育委員会による測量調査が行われた。 第1次調査は1987年(昭和62年)神奈川県教育委員会により3号墳から5号墳の調査が行われた。 第2次調査では秋葉山古墳群遺跡調査団が結成され、1988年(昭和63年)4月20日から7月18日までの期間で第1から第4号墳の発掘調査を実施した。海老名市史編纂委員会による測量調査が1992年(平成4年)に行われた。その後は2003年(平成15年)の第12次調査まで断続的に調査が行われた。
各古墳の築造順と特徴
出土した土器から築造順は「3・4号墳 → 2号墳 → 1・5号墳」と判断されている。
第1号墳
第1号墳は前方後円墳で墳長は59m、後円部径は33m、後円部の高さは4.8m、前方部長さは26m、幅は14m、前方部の高さは2mである(海老名市教育委員会(2005)。周溝は存在していないが、前方部前面/南側に溝が確認されている。墳丘は地山を削って成形している。遺物は極めて少ないくびれ部から布留式期の完形小型丸底坩と鉄鏃、前方部から壺口縁部片が出土したのみである。2号墳に比べると前方部が長くなり、定型化した前方後円墳である。4世紀前半の築造とみられている(海老名市教育委員会(2005)。
第2号墳
3世紀末から4世紀初頭の前方後円墳である。墳長50.5m、後円部径33m、後円部高さ5m、前方部幅15m、前方部長18.9m、前方部高さ3mである。後円部の大きさに比べて前方部が短い。 周濠は見られないが、前方部の正面にのみ溝が掘られる。くびれ部を中心に、埴輪状の円筒形土製品や、水銀朱の付いた片口の鉢などの土器が出土した。
第3号墳
秋葉山古墳群では最も古いとみられており、3世紀後半の築造とみられている。前方後円形であるが、前方部は削平されて残っていない。現状では径40m程度の円墳状を呈するが、大正年間の中山毎吉の記録や古写真等によれば、前方部の存在が確認でき、かつては全長50m程度の前方後円形の墳丘と見られる。周溝内の各所から大型の壺が5個体以上出土した。胴部の球形化が進み、頸部が明確に屈曲する在来系の壺である。墳頂部から出土した高坏は元屋敷系であるが、脚部透かし孔を省略し、ハケ調整をそのまま残すなど在地化が進んでいるとされる。そのほか台付鉢が出土している。出土土器は、東海系の高杯が見られるものの全体としては在地色が強く、時期は弥生時代から古墳時代の移行期にあたる庄内式期に併行する時期とみられている。後円部側には、幅7.8mの周溝が確認されている。
第4号墳
2002年~2003年の発掘調査結果により、秋葉山古墳群では唯一の前方後方墳と判明した海老名市教育委員会(2004)。弥生時代の墳丘墓的要素が見られる。第3号墳築造の前後の時期と見られる。墳長は37.5m、全長は40m、後方部長24.8m、前方部長12.7mである(海老名市教育委員会(2004))。周溝は墳丘西側で幅4m、深さ0.4mが確認されているが、全周はしていないとみられている。出土遺物はほとんどないが、壺の破片が得られている。
第5号墳
5号墳は一辺訳20m、周溝含め約26mの方墳で、1号墳と同じ特徴をもった土器の小型丸底壺、小型器台がわずかに確認されている。4世紀前半頃の築造である。
評価
弥生時代の墳丘墓的要素を残す前方後方墳(第4号墳)や不整形な前方後円墳(第3号墳)から、整った形の前方後円墳(第2号墳・第1号墳)へと移り変わる様子を見ることができる。土器では庄内式期において在地色が強かったが、布留式期には畿内色が強くなるといった変遷がたどれるため、前方後円墳の出現期に集団間の交流の在り方に変化のあったことが示唆されると指摘されている。 葬送儀礼に使われたとみられる水銀朱(赤い顔料)や、全国的に類例のない円筒形土製品などが発見されている。南関東における出現期古墳のあり方や当時の社会を考える上で極めて重要な古墳群と評価されている。
築造時期
- 古墳時代初頭(3世紀後半)から4世紀中頃
被葬者
展示
- 海老名市温故館
指定
- 2005年(平成17年)7月14日 国指定史跡
アクセス等
- 名称 :秋葉山古墳群
- 所在地 :神奈川県海老名市上今泉4・5丁目にまたがる
- 交 通 :相模鉄道相鉄本線 かしわ台駅 徒歩20分
参考文献
- 押方みはる(2026)「秋葉山古墳群と相模川流域の古墳時代を考える」
- 海老名市教育委員会(2002)『秋葉山古墳群第1・2・3号墳発掘調査報告書』海老名市教育委員会生涯学習部文化財課
- 海老名市教育委員会(2004)『秋葉山古墳群第3・4号墳発掘調査報告書』海老名市教育委員会生涯学習部文化財課
- 海老名市教育委員会(2005)「海老名市温故館特別展 1700年の時を経て、今ここに」
- 海老名市教育委員会(2006)『史跡秋葉山古墳群』改訂新版、海老名市教育委員会生涯学習部文化財課
浅間古墳 ― 2026年09月05日 00:05
浅間古墳(せんげんこふん)は静岡県富士市に所在する古墳時代前期後半(4世紀中頃)築造の前方後方墳である。後方部の墳頂に浅間神社の社殿が鎮座することから「浅間神社古墳」とも呼ばれる(大塚初重、小林三郎(1996))。
概要
4世紀前半ごろにつくられた、全長約90.8m(約91m)の東海地方で最大規模の前方後方墳である。1957年の国史跡指定以後、本格的な発掘調査は行われていなかったが、保存管理や活用に向けた本格的な発掘調査が2026年度から開始されている。
富士市は史跡の適切な保存管理と未来への活用のための基礎資料とするため、発掘調査を、令和8年度から令和12年度までの5か年をかけて行い、令和13年度には総括報告書を作成する予定とされた。1957年(昭和32年)に国の史跡に指定されている。
2020・2021年のレーザー測量によって、南側(海側)と北側(山側)で墳丘の高さが大きく異なり、海側から見た際に大きく見えるように築造されたことが確認されている。 被葬者には諸説があるが、被葬者には諸説があるが、富士市教育委員会(2025)は被葬者を『水上・陸上交通を掌握したスルガの王墓』とする。
調査歴
- 1921年(大正10年)、『静岡県史蹟名勝誌』に前方後円墳で、埴輪が出土したと記載される。
- 1930年(昭和5年)『静岡縣史』第1巻に全長97mの前方後円墳と記載された、
- 1957年(昭和32年)内藤晃による初めての本格的な測量調査が行われ、全長103mの「前方後方墳」であると指摘し、葺石は存在し、埴輪は伴わないとされた、年代は古墳時代中期の初め頃と推定された。
- 1997年(平成9年)、静岡大学人文学部考古学研究室による測量調査が実施され、墳長約90m 、後方部長約60m・後方部高約10m の前方後方墳( 後方部二段・前方部一段築成)とされた。平面形態は非対称形で、南側が大きく、前方部が比較的短く、古い形態を残したものとされ、古墳時代前期後半(4 世紀中頃)の築造と推定された。
- 2019年、富士市教育委員会による、埋葬施設の有無・形状把握を目的とした地中レーダー探査を実施し、後方部に建てられた社殿の西側で地表から2.0 ~ 2.5mほどの深さに、内法長辺約7.4m、短辺約2.2m、幅1~3m程度の構造物に囲まれた竪穴系埋葬施設(もしくは粘土槨)が残存している可能性が示された(富士市市民部(2022))。
- 2020~2021年、富士市教育委員会による空中レーザー測量が行われ、全長90.8mに復元し、後方部側面に平坦部(テラス部)の存在を指摘した。後方部二段、前方部一段築成の前方後方墳とした(富士市市民部(2022))。
- 2026年(令和8年)7月20日からの発掘調査の目的の一つは、史跡指定地外に存在する可能性が高まった墳丘盛土・周溝などを確認し、古墳の範囲を確定することである。 またトレンチ調査で埋葬施設が存在すると推定される後方部墳頂付近から過去に採集されていた赤彩高坏について製作年代を分析し、古墳の築造年代は、4世紀中ごろ(古墳時代前期後葉)の可能性が高くなったと報道された(朝日新聞(2026))。
- 4世紀後半~7世紀の富士山噴火による火山噴出物に覆われた葺石が確認されたと報道された(朝日新聞、2026年8月30日)。
築造時期
- 古墳時代前期後半(4 世紀中頃)
被葬者
- 駿河湾の水上・陸上交通を掌握したスルガの王墓
展示
指定
- 1957年(昭和32年)7月1日 国指定史跡
アクセス等
- 名称 :浅間古墳
- 所在地 :静岡県富士市増川624-1
- 交 通 :JR東海道本線 吉原駅 バス 25分/岳南電車「神谷駅」1.4km(徒歩25分)
参考文献
- 大塚初重、小林三郎(1996)『古墳事典』東京堂出版
- 富士市教育委員会(2025)『国指定史跡 浅間古墳保存活用計画 概要版』富士市教育委員会
- 富士市市民部(2020)「空中レーザー測量実施」埋蔵文化財ニュース
- 富士市市民部(2022)「空中レーザー測量実施」埋蔵文化財ニュース
- 「4世紀古墳から富士山噴火噴出物」朝日新聞、2026年8月18日
- 富士市(2026)「国指定史跡浅間古墳の発掘調査を始めます」2026年8月17日
- 「4世紀の古墳の葺石が当時のまま発見」朝日新聞、2026年8月30日
松岳山古墳 ― 2026年09月03日 00:05
松岳山古墳(まつおかやまこふん)は松岳山古墳は大阪府柏原市に所在する古墳時代前期(4世紀前半頃)の前方後円墳である。わが国最古の墓誌として国宝に指定されている『銅製船氏王後墓誌』が松岳山古墳群から出土したと伝えられることで知られている。
概要
大和川左岸の断崖上に築かれた前方後円墳である。 墳丘や石室には約500m東の芝山で産出するカンラン石玄武岩の板石が用いられている。石棺には香川県産と推定される柘榴石角閃石安山岩などが使用されている。 墳長は130m、後円部径は72m、後円部高さ16m、前方部幅は32m、前方部長さ56m、 前方部高さ5mである。岸本直文(2013)は、墳丘裾をもう少し大きく考え、墳丘長を約150mと復元している。前方部は2段築成以上、後円部は4段築成以上である。
円筒埴輪は円筒Ⅱ式とされる。円筒形の胴部にタタキ目や刷毛目が残り、2条から4条の突帯がめぐらされている。 墳丘の調査は1985年に前方部前面、1986年には墳丘南側の後円部・くびれ部・前方部が行われた。
松岳山古墳の後円部の石室は1878年に当時の堺県令の税所篤によって発掘され,その際に石棺内から管玉と石製品、棺外から鏡2、勾玉、管玉、刀剣片などが出土している。さらに1955年の大阪府教育委員会の調査の際に管玉や石製品などのほか、鏡破片、鍬形石片1点,石釧片27点以上、多数の刀剣,鉄鏃片,銅鏃のほか鉄鎌・鉄鍬などの農工具片などが採取された(白石太一郎(2003))。石室の主軸は北西向きで、内法は長さ約1.6m、幅約0.35m、床面は北西部に高く南東部に低くなっている。石棺の側石には、香川県産と推定される柘榴石角閃石安山岩や凝灰岩が使われた。
後円部墳頂には、板石を積み上げた竪穴式石室が築かれ、その内部に組合式の石棺が置かれていた。石棺は底石・側石・蓋石を組み合わせたもので、内面には朱が塗られている。組合式の石棺が置かれており、後の長持形石棺につながる形式と評価されている。 白石太一郎(2003)は、茶臼塚古墳は松岳山古墳の前方部前面の第1段(前方部の茶臼塚古墳に面する墳裾)に、約20mの間隔で築かれ、墳丘端を板石を垂直に積み上げる共通の手法が見られるとした。
松岳山古墳の意義
大和川と龍田道が交わる交通上の要地に位置することから、水運や陸上交通と関係する首長の墓と推定する見解がある。
交通と物流の要衝
大阪府柏原市にある古墳時代前期(4世紀前半頃)の全長130mの前方後円墳ある。大和と河内を結ぶ水路(大和川)と陸路(龍田道)の双方が交わる要地に立地する。
水運の監視
大和川水運を統括した首長の墓と推定する見解がある。
特異な構造
近隣の山で採れる板石を積み上げて墳丘や石室を造る。 大型の楕円筒埴輪が出土しており、長径70cm・短径40cm・高さ143cmの個体や、高さ158cmの個体がある。柏原市指定文化財の楕円筒埴輪は、楕円筒埴輪として日本最大とされる。
見どころ
①板石を積み上げた特異な墳丘構造、②後円部墳頂に残る石棺、③石棺の前後に立つ円孔をもつ巨大な立石、④大型楕円筒埴輪、が見どころである。
築造時期
- 古墳時代前期
被葬者
- 被葬者は不明
展示
- 柏原市立歴史資料館で楕円筒埴輪や壺形土器、家形埴輪を所蔵(展示される場合もある)
- 船氏王後墓誌は三井記念美術館所蔵
指定
- 1922年(大正11年)3月8日 国の史跡指定
アクセス等
- 名称 :松岳山古墳
- 所在地 :大阪府柏原市国分市場1-6-21
- 交 通 :近鉄大阪線 河内国分駅から1.4km(徒歩21分)
参考文献
- 柏原市教育委員会(1987)『柏原市文化財概報1986-2:松岳山古墳墳丘範囲確認調査概報:1986年度』柏原市教育委員会
- 岸本直文(2013)「玉手山古墳群・松岳山古墳と河内政権論」百舌鳥・古市古墳群出現前夜(大阪府立近つ飛鳥博物館図録 60)
- 白石太一郎(2003)「考古学から見た聖俗二重首長制」国立歴史民俗博物館研究報告 第108集
上野毛稲荷塚古墳 ― 2026年09月02日 00:05
上野毛稲荷塚古墳(かみのげいなりづかこふん)は東京都世田谷区上野毛に所在する古墳時代中期初頭の前方後円墳である。
概要
国分寺崖線上の高台、上野毛から尾山台にかけて広がる野毛古墳群のなかの1基である。 4世紀末頃に造られたと考えられている。野毛古墳群では最初に出現した古墳と推定されている。 前方部は削平されている一方、後円部は比較的良好に残存している。全長約33メートル、後円部の高さは3メートルと推定されている。西岡秀雄による荏原台古墳群の分布調査では「西岡5号墳」の名称とされていた(西岡秀雄(1936))。 1995年(平成7年)と2009年(平成21年)の2回の発掘調査によって、周溝や粘土槨による埋葬施設と割竹形木棺が確認され、鉄刀や管玉などが出土している(世田谷区教育委員会(2009))。1995年(平成7年)に上野毛稲荷塚古墳と名称が変更された。
1997年(平成9年)9月10日に世田谷区指定史跡に指定された。現在は上野毛2丁目緑地内に保存されているが、古墳への立ち入りはできず、緑地の外から見学することになる。墳丘上にあったとされる「稲荷祠」は墳丘の裾付近に移されている。 古墳の土地は、吉良家家臣の末裔とされる世襲名主の家などから世田谷区へ寄付され、現在は区有地として保存されている。 これらの副葬品などから、野毛古墳群で最初に出現した古墳と考えられており、多摩川流域における古墳群の形成過程を知る上でも重要な古墳とされる。
主体部
遺物
- 鉄刀
- 管玉
築造時期
- 4世紀末頃
指定
アクセス等
- 名称:上野毛稲荷塚古墳
- 所在地:東京都世田谷区上野毛2丁目12番
- 交通:大井町線上野毛駅下車 徒歩5分
参考文献
- 西岡秀雄(1936)「荏原台地に於ける先史及び原始時代の遺跡遺物」『考古学雑誌 第26巻 第5号』,pp.301-325
- 世田谷区教育委員会(2009)『2008年度 世田谷区埋蔵文化財調査年報』世田谷区教育委員会
八幡塚古墳 (世田谷区) ― 2026年08月31日 00:05
八幡塚古墳 (世田谷区)(はちまんづかこふん)は東京都世田谷区尾山台に所在する古墳時代中期末の造出付円墳である。
概要
国分寺崖線上の高台に所在する野毛古墳群のなかの1基である。墳丘長約33m、円丘部径約30m、高さ約4mで、小さな造出がついた造出付円墳である。
調査
調査史
1935年(昭和10年)、西岡秀夫が「(西岡)14号墳」として名付けた。1936年(昭和11年)、考古学者の後藤守一が古墳の測量図と写真を報告した。1951年(昭和26年)、大谷勀は付近の農家に保管されていた出土品の石製模造品と銙帯金具破片を紹介した。1971年、早稲田大学により墳丘測量調査が行われた。1975年の墳頂部の立会調査では、世田谷区郷土資料館が参加し、泥質凝灰岩製の箱形石棺とみられる遺構が確認された。1995年2月、現地踏査の際に墳丘上に鉄刀が露出していることが確認された。これを受け、同年4月21日から5月10日にかけて埋葬施設の精査と墳丘測量が行われた。八幡塚古墳整理調査会を立ち上げ、2012年9月18日から2013年3月18日の期間で調査報告書を作成した。
1992年(平成4年)発掘調査
1992年(平成4年)の発掘調査で3基の埋葬施設が確認された。そのうち最も北側に位置する北主体部は長さ約3.85m、幅1.25mの箱形木棺である。
八幡塚古墳整理調査会(2013)によれば、棺内からガラス小玉924点(世田谷区公式では899点)、「乳文鏡」が鏡面を上にして出土した。棺外から鉄刀1本、鉄槍1本、鉄鏃1束(約30本)とが出土している。八幡塚古墳整理調査会(2013)では、ガラス小玉は頚部、銅鏡は胸部に置かれていたと判断された。
銅鏡は世田谷区ホームページでは「獣形鏡」となっているが、報告書(八幡塚古墳整理調査会(2013))では「乳文鏡」となっている。写真から判断すると、明らかに同じ鏡と判断される。 出土品は世田谷区宇奈根考古資料室に収蔵されている。
調査史のまとめ
- 1935年 西岡秀夫による命名
- 1936年 後藤守一による測量・写真報告
- 1951年 大谷勀による出土品紹介
- 1971年 早稲田大学による測量
- 1975年 墳頂部立会調査
- 1992年 発掘調査、3基の埋葬施設を確認
- 1995年 鉄刀露出を契機とした埋葬施設の精査・墳丘測量
- 2012~2013年 整理調査
- 2013年 報告書刊行
八幡塚古墳の位置付け
八幡塚古墳整理調査会(2013)では、野毛古墳群の築造順序を「上野毛稲荷塚→野毛大塚→天慶塚→八幡塚→御岳山→狐塚→尾山北原塚」としている。。
遺構
- 古墳(周溝墳丘主体部)
遺物
- 獣形鏡、
- 鉄刀、
- 鉄槍
- 鉄鏃
- 石製模造品
- 小玉(ガラス製)
- 埴輪
- 須恵器
- カ帯金具
指定
築造年代
展示
アクセス
- 名称:八幡塚古墳 (世田谷区)
- 所在地:東京都世田谷区尾山台2丁目11
- 交 通: 京王線「飛田給」駅下車 300m。
参考文献
- 後藤守一(1936)「東京府下の古墳」『東京都史蹟名勝天然記念物調査報告書』第13冊
- 西岡秀夫(1936)「荏原台地に於ける先史および原始時代の遺物と遺跡」『考古学雑誌』26巻5号
- 八幡塚古墳整理調査会(2013)『八幡塚古墳』世田谷区教育委員会
飛田給古墳群 ― 2026年08月27日 00:10
飛田給古墳群(とびたぎゅうふんぐん)は東京都調布市に所在する多摩川左岸の武蔵野台地南縁に形成された府中崖線周辺の段丘面に位置する古墳時代後期を中心に築造された古墳群である。
概要
調査・記録の時期や古墳の認定方法によって数え方に差があり、十数基から20基程度の古墳や地下式壙などが確認・推定されている。宅地化や道路整備によりその多くが消滅した。 飛田給古墳群は、飛田給地区の府中崖線周辺に分布する古墳群の総称である。調査・記録の経緯から、飛田給1号墳から5号墳のほか、桜塚古墳群として番号付けされた古墳が知られている。桜塚古墳群の一部には飛田給古墳群としての番号も対応しており、桜塚1号墳は飛田給6号墳、桜塚10号墳は飛田給12号墳にあたる。 飛田給1号から5号墳や桜塚古墳群などのうち、現在墳丘や基底部を確認できるのは「桜塚1号墳」と「桜塚10号墳(飛田給12号墳)」の2基だけである。多摩川左岸の段丘上にあり、河原石積みの横穴式石室などが発掘調査で確認されている。周辺には下石原古墳群や白糸台古墳群(府中市)がある。
調査
飛田給1号墳
1981年(昭和56年)に行われた調布市遺跡調査会による調査において周溝の約3分の1が検出され、未調査部分を含めて復元すると、北西部に陸橋部を持つ推定外径約21mの円墳である。
飛田給2号墳
1981年(昭和56年)に行われた調布市遺跡調査会による調査において周溝の一部が検出されており、その後の1995年(平成7年)の調査により未調査部分の周溝が検出され、直径18mの円墳とされた。
飛田給3号墳
周辺を通る古道「品川道」(府中から調布、狛江方面へ抜ける歴史的な古道で別名「いかだ道」「品川街道」ともいう)の敷地や近隣の建物の建設時に消滅した。1981年(昭和56年)に行われた調布市遺跡調査会による調査において周溝が検出され、北西部に周溝の一部が途切れた陸橋部が存在する外径19mの円墳であることが確認されている。
飛田給4号墳
1981年(昭和56年)に行われた調布市遺跡調査会による調査において周溝の一部が検出されている。土師器の壺形土器や高杯、用途不明の青銅製品は墳丘の主体部である河原石積横穴式石室の内部から出土した。共同住宅などの建設工事に伴う発掘調査で確認されたものであり、跡地は建物の敷地内となっており、地上にその原形や遺構は現在は確認できない。
飛田給5号墳
東京都調布市飛田給二丁目にあったが、現在は消滅して跡形もない古墳である。周溝の存在が確認されているが、墳丘規模や埋葬施設の詳細は明らかでない。
桜塚1号墳
桜塚1号墳は径13m、高2mである。墳丘上には祠(お堂)が祀られているものの、周辺は住宅地に囲まれている。飛田給古墳群で墳丘が現存する数少ない古墳の一つである。 所在地は東京都調布市飛田給2丁目8-11。京王線飛田給駅から南西に400m。(飛田給6号墳)。多摩地区所在古墳確認調査団(1995)によると「円墳。裾が大きく削平されている。墳丘に祠が祀られている。東西13m、南北12m。高さ2m。」と書かれる。
桜塚2号墳
飛田給古墳群を構成する消滅した円墳である。発掘調査により、直径約6メートル、高さ約1.5メートルの円墳と確認されている。河原石を積んだ横穴式石室が確認されている。
桜塚3号墳
飛田給古墳群(桜塚古墳群)を構成する墳丘径約24m、周溝を含む外径約30mの円墳である。刀子、金環、銀環、棗玉、ガラス小玉などの副葬品と人骨が出土した。
桜塚4号墳
東京都調布市飛田給2丁目にかつて存在した飛田給古墳群を構成する古墳である。1996年(平成8年)の共同住宅(社宅)建設に伴う発掘調査で河原石積横穴式石室などが検出されたが、現在は共同住宅などの建設により地表上の痕跡を失っている。
桜塚5号墳
桜塚5号墳は、東京都調布市飛田給2丁目にあった、現在は宅地化により消滅している飛田給古墳群(桜塚古墳群)の1つである。過去の調査で横穴式石室などが確認されている。桜塚古墳群の周辺には飛田給遺跡が所在し、縄文時代から古墳時代にかけての土器などが出土している。
その他の桜塚古墳
桜塚6号墳から9号墳についても古墳の存在が記録されているが、宅地化などによって消滅し、詳細が明らかでないものも多い。河原石積みの横穴式石室と推定されており、鉄鏃6点が出土した。
桜塚10号墳
1995年(平成7年)に行われた共同住宅建設のための調査により確認されている。かろうじて墳丘が残る貴重な2基のうちの1基である。7世紀中頃の円墳で、調査により河原石積みの横穴式石室基底部などが確認調査当時に残されていた。古墳墳丘の残存部分とされる高まりから、埋葬施設である河原石積横穴式石室が検出されており、石室から金環、玉類、鉄鏃等が出土した。
遺構
- 古墳
- 横穴式石室
遺物
- 金環、
- 玉類、
- 鉄鏃
指定
築造年代
- 7世紀頃(古墳時代後期)
展示
アクセス
- 名称:飛田給古墳
- 所在地:東京都調布市飛田給2丁目 付近
- 交 通: 京王線「飛田給」駅下車 300m。
参考文献
- 多摩地区所在古墳確認調査団(1995)『多摩地区所在古墳 確認調査報告書』
- 調布市教育委員会・調布市遺跡調査会(1983)『調布市飛田給遺跡』
- 調布市史編集委員会(1990)『調布市史 上』(1990)
下布田古墳群 ― 2026年08月26日 00:05
下布田古墳群(しもふだこふんぐん)は東京都調布市にある古墳時代の古墳群である。
概要
東京都調布市布田六丁目の区画整理事業に伴う発掘調査で発見された。現在、原形をとどめる墳丘はない。下布田6号墳(狐塚古墳)では、2000年の調査時点で墳丘中央部に高さ約80cmの高まりが残されていた。下布田古墳群一帯は、かつて「布田九塚」と呼ばれ、戦前まで複数の墳丘が見られたとされる。 付近に「下布田遺跡」がある。府中市の白糸台古墳群から調布市の飛田給古墳群、下石原古墳群、上布田古墳群、下布田古墳群にかけて、古墳群が多摩川中流域左岸の段丘縁辺に連続して分布している。 なお下布田6号墳(狐塚古墳)は別項で説明するため、ここでは説明を行わない。
下布田古墳群の位置付け
下布田古墳群は、多摩川中流域左岸の立川段丘崖線付近に分布する古墳群である。現在までに約20基の円墳が確認されており、調査された古墳からは5世紀前半頃から7世紀前半頃に及ぶ資料が確認されている。
周辺には、白糸台古墳群、飛田給古墳群、下石原古墳群、上布田古墳群などが分布しており、多摩川中流域左岸の段丘縁辺には古墳が集中している。下布田古墳群は、こうした多摩川中流域の古墳分布を考えるうえで重要な古墳群の一つである。
下布田古墳群では、比較的小規模な円墳に加え、墳丘径約44mの大型円墳である下布田6号墳が確認されている。このことは、古墳時代を通じた当地域の古墳築造の展開や、被葬者集団の変化を考えるうえでも重要である。
調査
1999年から2001年にかけて行われた発掘調査などにより、これまでに約20基の円墳が確認されている。このうち1999年から2001年の調査では、4号墳および6~13号墳の計9基が検出された。
下布田4号墳
下布田遺跡の東側にあり、周溝の西側から北側が調査された。推定される直径は26mである。築造年代を直接示す資料は出土しなかった。かつて「庚塚古墳」と呼ばれていた。
下布田7号墳
東側の周溝を確認した。墳丘径は約17mである。
下布田8号墳
周溝の一部を確認した。墳丘径は約25mである。周溝から土師器杯3点、須恵器1点、須恵器甕2点、石製紡錘車1点が出土した。出土した須恵器は5世紀中頃から後半に比定される。
下布田9号墳
墳丘径は約22mである。周溝内から土師器の坩(つぼ状の器)1点、壺1点が出土した。周溝の底部では、大型の土師器壺を埋設し、その上部を脚部のない高坏で覆った埋設土器が確認された。
下布田10号墳
河原石で構築された横穴式石室と周溝の一部を確認した。石室は大きく破壊され、原形をとどめていなかった。墳丘径は約23mである。石室の構造から7世紀前半の築造とみられる。
下布田11号墳
墳丘径は約22mである。下布田遺跡から道路を挟んだ北側である。周溝内から5世紀前半の土師器坩1点が出土した。
下布田12号墳
墳丘径は約22mである。周溝の中から5世紀末から6世紀前半に比定される須恵器甕が出土した。
下布田13号墳
墳丘径は約13mである。周溝の上部から6世紀に比定される土師器杯が出土した。周溝の北西部にブリッジがある。
遺構
- 古墳
- 横穴式石室
遺物
- 鉄製大刀3本
- 鍔1点、
- 小刀1点、
- 刀子1本、鉄
- 鏃1本、
- 須恵器
- 土師器
- 土師器坩
- 鉄製大刀
- 鍔
- 小刀
- 刀子
- 鉄鏃
- 須恵器甕
- 石製紡錘車
指定
- 2014年(平成30年)3月15日 東京都指定史跡 (下布田6号墳)
築造年代
- 5世紀中頃から6世紀前半
展示
- 調布市郷土博物館
アクセス
- 名称:下布田古墳群
- 所在地:東京都調布市布田六丁目53番1
- 交 通: 京王線「布田」駅下車徒歩10分
参考文献
- 石森直吉『たづくりを巡りて』
- 調布市市史編集委員会(1990)『調布市史 上巻(原始から中世)』
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