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高句麗2026年09月01日 00:21

高句麗(こうくり.고구려)は古代中国の東北部から朝鮮半島北部にかけて存在した国家である。その住民や周辺集団は、中国史料で濊貊などと関連付けられることがある。当時の『日本書紀』によれば当時の倭国は高句麗を「高麗」(コマ)と呼んでいた(日本書紀巻第廿二推古紀「高麗僧慧慈歸化、則皇太子師之」)。

概要

高句麗は古代の朝鮮の三国時代に、中国東北地方から朝鮮半島にかけて支配した強国であった。最盛期には中国東北地方南部から、ロシア沿海地方の一部、朝鮮半島の大部分に勢力を及ぼした。

最も古い記録は『漢書』「地理志」に玄菟郡の首県として高句驪県が言及されているもので、玄菟郡の設置は前漢の武帝の時代、紀元前107年であった。

『三国史記』の伝承では、紀元前37年に扶余出身の朱蒙(東明聖王)によって建国されたと伝わるが、史実であるかは疑わしいとの見解もある。第三代大武神王は『三国志』高句麗伝に記載があるので、実在性を想定可能であるが、単一資料のため実在が確実ではないとの意見もある。

紀元前1世紀頃、鴨緑江中流域の集団が地元の部族を統合し、連盟体(部族連合)を形成した。高句麗では消奴部・桂婁部・絶奴部・順奴部・灌奴部などからなる五部が政治的・社会的な基盤となったとされる(『三国志』魏書 巻30 東夷伝 高句麗条)。漢代(紀元前?紀元後)における高句麗五部の動向は『後漢書』東夷列伝に記録されている。

『三国史記』によれば、高句麗は、後漢末に遼東の太守公孫氏に追われ、209年に鴨緑江流域の国内城へ遷都し、丸都城を築くなど、部族連合的な性格から次第に王権が強化され、中央集権的な国家に移行したとされる。これを実質的な建国とする見解がある(『三国史記』「高句麗本紀」)。

三韓は古代の朝鮮半島南部に存在した「馬韓」「辰韓」「弁韓」の3つの部族連合をいう。馬韓地域では後に百済が成立し、辰韓地域には新羅が成立した。4世紀後半以降、高句麗・百済・新羅が朝鮮半島の主要な政治勢力として並立し、これを朝鮮史では一般に三国時代という。一方、半島南部には加耶諸国も存在した。

本来の国名は「高句麗」であるが、金石文と歴史記録をもとにして金石文や中国・朝鮮の史料には「高麗」の表記もみられ、長寿王の時代頃に「高麗」が広く用いられるようになったとする見解がある。

韓国の英文国号の「Korea」という名称は高麗(Goryeo)に由来する。 4世紀以降、仏教を受容し、太学を設置するなど、中国の制度や文化を取り入れながら国家体制を整備した。広開土王碑文などの記録では、高句麗の始祖である鄒牟王(チュモン)は北夫余の天帝の子(천제지자)であり、母は河伯(水の神)の娘であるとされている。高句麗の建国神話には、始祖王を天上世界や河川の神と結び付ける王権神話がみられる。このような始祖の神聖性と系統性を強調する観念は、日本の王権神話と比較されることがある。

初期の建国地とされる卒本川地域から、3世紀初頭には鴨緑江中流域の国内城・丸都山城を中心とする地域へ政治的中心を移し、5世紀の長寿王の時代には平壌へ遷都した。

歴代の代表的な王

瑠璃明王(第2代。在位前19年 - 後18年)

AD12年、新(漢)の皇帝である王莽は匈奴の侵略のため、高句麗に出兵を要求したが、高句麗は従わなかった。王莽は怒り、王莽は、高句麗王の称号を下句麗侯に改め、高句麗を「下句麗」と格下げした。新朝の皇帝である王莽には、中華王朝の冊封秩序のなかで高句麗侯の名称・封号を変更する権力があり、その措置は新朝の公的決定として正式なものであった。『三国史記』によれば、高句麗はその後、国名を元の「高句麗」に戻すよう求めたとされる。

大武神王(第3代、在位18年 - 44年)

『三国志』魏書東夷伝高句麗条によれば、漢の光武帝の建武8年(AD32年)に高句麗王が献使したと伝える。『三国史記』によれば、このときの高句麗王は第3代大武神王(在位18年から44年)である。光武帝から「高句麗王」の称号を回復された(前代の王莽の時代に高句麗との対立や称号の格下げがあった)。 『三国史記』にはAD37年に高句麗が楽浪郡を攻めて滅ぼしたとの記事がある。一方、『後漢書』東夷伝には7年後のAD44年に後漢の光武帝は海を渡って兵を派遣し、高句麗を討って楽浪郡を奪還し、再び漢の支配を回復したとされる。

山上王(第10代、在位:197年 - 227年)

第9代王・故国川王の弟とされる(『三国志魏書』は、第6代太祖王の曾孫とする)。第10代の山上王はAD197年、丸都城を築いた(井上秀雄(2004))。なお『三国史記』では198年とする。山腹に築かれた、巨大な山城である。城壁は切石積で、総長6950メートルを超える。『三国史記』によれば、209年に都を丸都城に移したとする。王后は故国川王の王后の于氏だったとされる。

東川王(第11代)

東川王は236年7月には呉の使者を斬りその首を魏に送ったとされる。237年(景初元年)に魏に使者を送り、年号の改正を祝賀した。244年(『三国史記』では246年)魏の魏の幽州刺史・毋丘倹は高句麗の国都である丸都城に来襲し、陥落させた。

美川王(第15代、在位300年 - 330年)

中国史料との対応関係から、4世紀以降の王については実在性を比較的確実に確認できるとする見解がある。具体的には第15代の「美川王)以後は実在性が確実との見解がある。これは中国の正史である『魏書』『梁書』などにおける同時代の記録や、歴史書『三国史記』などの記述を根拠とする。 第14代の烽上王の暴政により300年9月、国相の倉助利らは烽上王を廃位して、乙弗を王位に就け、高句麗王(美川王)とした。 美川王は遼東郡に出兵し、さらに313年に楽浪郡を滅ぼし、翌314年には帯方郡も攻略した。 342年に前燕の侵攻によって墓が暴かれたという記録(『三国史記』など)があり、安岳3号墳については、美川王の墓と関連付ける説がある一方、墓誌にみえる冬寿を被葬者とする説などもあり、被葬者をめぐる議論がある。

故国原王(第16代、在位331年から371年)

369年、2万の軍隊で百済を攻めたが敗北した。371年、故国原王は百済を攻めるため大同江を渡ったが百済の伏兵に破れた。百済の近肖古王は兵3万を率いて高句麗に攻め込み、故国原王は防戦したが流矢に当たって戦死した。

小獣林王(第17代。在位371~384年)

371年、前代の故国原王が百済との闘いで戦死したため、子の小獣林王が第17代の王位に就いた。文教政策を重視し、小獣林王は国力の充実を図った。372年、華北を統一支配していた前秦(五胡の一つ氐が建国した)の苻堅は高句麗に僧順道や仏像・経典を高句麗に送り、これが高句麗における仏教公伝の始まりとされる。

広開土王(第19代、在位394~412年)

4世紀の第19代広開土王のとき、高句麗は最盛期を迎えた。395年8月、百済と闘い、8000人を捕虜とした。396年に百済と闘って勝利し、王の弟を捕虜とした。 広開土王碑には、百済・新羅・倭などとの軍事関係を示す記事が記されている。倭の活動や高句麗との関係については、碑文の解釈をめぐって様々な議論がある。その他、周辺に盛んに遠征して領土を広げ、広開土王の事績を記した広開土王碑は、子の長寿王によって建立された。

宝蔵王(第28代、在位642年から668年)

高句麗の第28代・最後の宝蔵王は中国の唐の侵攻に強く抵抗したが、668年の第3次侵攻で平壌長安城を落とされ、高句麗は滅亡した。

高句麗が軍事的に強かった要因

いくつかの要因が考えられる。

  1. 山岳地帯や河川を利用した防衛に適した地理的条件がある。
  2. 騎馬軍団など強力な軍事力を保持していた。
  3. 周辺諸国との継続的な戦争経験(戦場の豊富な経験)
  4. 山城・都城の防御体系
  5. 高句麗に王の天孫思想があり、団結力が強化した(人的・物的資源の動員)。

高句麗の地形条件

高句麗は周囲が山に囲まれた険しい地形であり、山岳地帯を利用した優れた防衛力を持っていた。

騎馬軍団

鉄の鎧を着た兵士や馬に乗る騎馬軍団は強力であった。戦車も活用した。高句麗は戦争経験が豊富で、兵士の訓練が行き届いていた。高句麗古墳群の壁画には、完全武装した騎馬や兵士の姿が描かれている。4世紀から5世紀頃の東アジアでは最強クラスの精鋭部隊とされている。4世紀末から5世紀初頭に朝鮮半島へ進出した倭軍(大和政権)は、この高句麗の騎馬軍団と遭遇して大敗を喫した。これを契機として日本列島でも馬の生産や騎馬文化、河内の牧のような国内拠点を整備した。

高句麗の継続的な戦争経験

隋の対高句麗の遠征回数は第一次遠征(598年)、第二次遠征(612年)、三次遠征(613年)、第四次遠征(614年)と続く。

第一次遠征

高句麗の嬰陽王は598年に万余の騎兵を率いて隋の遼西へと先制攻撃し、激怒した隋の文帝は水陸30万の大軍を動員して高句麗へ侵攻したが、悪天候(大雨や台風)や疫病、補給の失敗により隋軍は大きな損害を出して敗退した。

第二次遠征

612年正月、隋の煬帝は高句麗討伐の詔書を下した。総勢113万3800人の遠征軍である。迎え撃つ高句麗軍の将軍乙支文徳は、後退しながら、投降すると偽り隋軍の気が緩んだところを攻撃して大勝した。隋軍は疲労と補給不足に陥っていたと言われる。

第三次遠征

613年4月の第三次遠征は皇帝の煬帝が自ら軍を率いて遼東城を包囲したが、高句麗の抵抗に遭い、楊玄感の反乱もあって撤退することとなった。 高句麗側は食糧などを残さないように農民に伝達して、後方に避難させたとされる(『三国史記』(高句麗本紀))。食糧などの物資を残さないよう住民に徹底させ、城に立てこもらせた戦術を「清野作戦」という。中国側正史『隋書』にも同様の記述がある。

第四次遠征

614年の第四次遠征では随の煬帝は再び親征を行い、平壌城の近郊まで軍を進めた。高句麗の嬰陽王は使者を送って形式的な降伏を申し出たため、これを受け入れた。

高句麗の防御体系

高句麗の都城と山城は強固な防御体系を築いた。その最大の特徴は、「平地城(政治・生活の場)」と「山城(戦時の籠城・防御の場)」を組み合わせて運用する「一対構造」として一体化する「羅城(らじょう)体系」へ進化させた。「平地城」と「山城」を互いに近くに配置し、連動させて国内を防衛した。普段は利便性の高い平地の国内城で暮らしていたが、敵が攻めてくると頑丈な城壁と広い収容力を持つ丸都山城へ王宮ごと避難して徹底抗戦した。

高句麗の天孫思想と団結力

高句麗の天孫思想が最も端的に現れるのが、『三国史記』に記される朱蒙(東明聖王)の誕生・建国神話である。高句麗王家が「天(天帝)」と直接つながる血統であることを示し、支配の正統性を神格した。5世紀(414年)に建立された広開土王碑の冒頭部分に、高句麗の天孫思想が公式な国家記録として「朱蒙が国基を創りたもうた。北夫余より出づ。天帝の子にして、母は河伯の女郎なり)」と記される。中国皇帝の権威を借りず、高句麗王が「天の子(天孫)」として独自の天下を治める権利を持つと主張した。広開土王が中国の元号を使わずに「永楽」という独自の元号を使用したことは、「中国皇帝(天子)とは独立した独自の天の世界(天下)を持つこと」を意味していた。高句麗では、この天孫思想を物語にとどめず、毎年秋に「東盟(とうめい)」と呼ばれる大規模な国家祭祀(収穫祭)を行った。国家的儀礼は、支配階級と民衆の心理的距離を近づけ「同じ天の軍勢である」という連帯感を醸成した。

倭国との関係

4世紀頃に倭国は百済や加耶諸国と結びついており、百済・新羅・加耶諸国を含む朝鮮半島の政治情勢のなかで、高句麗と倭が軍事的に対立する局面があった。5世紀には「倭の五王」は、中国の南朝(宋)に対して高句麗との競合を背景の一つとして、宋に遣使し官爵を求めたと考えられている(『宋書』倭国伝)。6世紀・7世紀になると、この関係が変化し、高句麗僧を通じた仏教や文化の伝来がなされた。

7世紀後半、高句麗は唐の軍事的圧力を受け666年や668年などに倭国に使者を送り、友好関係を求めた(『日本書紀』巻第27・天智紀)。『日本書紀』には666年の献使について「冬十月に、高麗、臣乙相奄鄒(おっしょうあんすう)等を遣わして調進る」と書かれる。高句麗の最高官位層である「乙相」の奄鄒らが来日したことは重要な意味がある。高句麗が唐・新羅によって滅亡させられる直前(668年9月滅亡)の、最後の遣使は唐軍に包囲され、通常の黄海ルートを塞がれて高句麗使は、日本海を渡る「越の路(北陸・東北ルート)」を命がけで航行した。激しい大荒れの海により多くの貢納船が沈没し、大使である南部久の船だけが命からがら倭国にたどり着いた(『日本書紀』巻27天智7年条)。

推古天皇の時代に、『日本書紀』に登場する高麗僧の慧慈は聖徳太子の師となり、仏教思想の受容に大きな役割を果たしたとされる。『日本書紀』によれば、610年に来日した高句麗僧曇徴は、紙・墨の製法や彩色、研磨などの技術を伝えたとされる。

高句麗の滅亡後は、高句麗からの亡命者(渡来人)が倭国に受け入れられ、のちに武蔵国に「高麗郡」が置かれるなど、歴史的つながりが深まった。高句麗系渡来人を率いた高麗王若光は、高麗郡の成立と深く関わった人物として知られ、埼玉県日高市の高麗神社の祭神となる。埼玉県飯能市の堂ノ根遺跡から、高麗郡への移住者との関連が指摘される須恵器が出土しており、考古学的な裏付けもなされている。

参考文献

  1. 石原道博(1985)『新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝: 中国正史日本伝 1』岩波書店
  2. 一然、金思火華(1997)『完訳 三国遺事』明石書店
  3. 井上秀雄(2004)『古代朝鮮』講談社
  4. 金富軾(撰)、鄭早苗(訳注)、井上秀雄(1988)『三国史記』平凡社
  5. 坂本太郎,井上光貞,家永三郎,大野晋(1994)『日本書紀』岩波書店
  6. 藤堂明保・竹田晃(2010)『倭国伝』講談社

五斗米道2026年01月16日 00:20

五斗米道(ごとべいどう)は中国後漢時代の順帝末から桓帝初年頃(2世紀中頃)に成立した新興宗教で、後の道教成立に大きな影響を与えた教団である。天師道とも呼ばれる。

概要

教団は現在の四川省から陝西省南部にかけての地域で広まり、創始者は張陵(ちょうりょう、または張道陵)とされる。張陵は自らを「天師」と称し、人々が天・地・水の三神に対して罪を悔い改め、正しい道を守ることで、病や災いから救われると説いた。教えを受ける際に信者が五斗の米を納めたことから、「五斗米道」と呼ばれるようになった。この米は布施であると同時に、教団共同体を維持するための重要な財源でもあった。

張陵の死後、教団は子の張衡、孫の張魯へと三代にわたり継承された。とくに張魯の時代(2世紀末から3世紀初頭)には、漢中地方を拠点として、宗教的規範にもとづく自治的な政権が形成された。215年(建安20年)、魏の曹操が漢中に進出すると、張魯はこれに降伏し、五斗米道による政治的支配は終焉を迎えたが、宗教としての教団は魏の支配下で存続を許され、その後も発展を続けた。後世、宋代から元代にかけて教団制度が整えられ、「正一道(正一教)」として再編される。

教え

五斗米道の教えは、当時のさまざまな道教的思想を取り入れつつ、信者の倫理と生活を重視する点に特徴がある。『三国志』巻八「張魯伝」や『典略』によれば、病は人の過ちによって生じると考えられ、病者は静かな部屋(静室)にこもり、自らの罪を省みて悔い改めることが求められた。教団の役職者は符を用いた祈祷を行い、符水を飲ませることで治癒を祈った。こうした儀礼の一つに「三官手書」があり、病人の姓名と懺悔文を書いた三通の文書を、天・地・水の三神にそれぞれ奉納した。

五斗米道は、後に体系化される道教に先行する段階の宗教であることから、原始道教、あるいは初期道教と位置づけられている。

考察

懺悔しただけで病気が治るという考え方は、現代の感覚では理解しにくいが、当時は病気の原因を個人の罪科や過失の結果と捉える世界観があり、懺悔は精神的ならびに社会的な回復・救済を意味していたのであろう。 五斗の米は現在では約9リットル前後の量とされるが、それをすべての人が一律に寄進できたのかは疑問であり、実際には象徴的な入信料であった可能性も考えられる。五斗米道が広まった四川・漢中地域ではすでに稲作が定着しており、米を基準とする制度が成り立ちやすかったのだろう。北方よりも米食比重が高い中国南方では「米を納める宗教」が成立する地域的な条件があったと考えられる。五斗米道は貧しい人々には住居や生活の場を提供した(住居の提供や食料の配給など)とされ、宗教であると同時に、国家の統治が弱体化した時代を背景として、社会不安に満ちた時代において意義のある救貧・互助組織(古代的な福祉制度)としても重要な役割を果たしていたように思われる。このような機能は、後漢末の国家統治の限界を補完する役割を宗教が担っていたことを示しているとも言えよう。

参考文献

  1. 都築晶子(1978)「後漢末の社会秩序形成について」『名古屋大学東洋史研究報告』
  2. 澤章敏(2007)「五斗米道研究の現状と課題」三國志研究

高仙寺誓憧和上塔碑2025年06月07日 23:50

高仙寺誓憧和上塔碑(こうせんじせいとうわじょうとうひ)は、韓国慶州市暗谷洞の高仙寺址にある石塔の碑文である。

概要

元暁(大師)の孫仲業は779年に新羅使の一員として来日した。日本の文人淡海三船は元暁の孫に会えたことを喜び、仲業を歓待した。誓憧は元暁の幼名である。『三国史記』巻四元暁不覇の条に「師姓小名誓憧」と書かれる。 哀莊王の時代に新羅は日本との通交を求めるようになった。元暁の顕彰は元暁仏教が日本で重んじられていたことを示す。779年頃の新羅は内乱状態で御調を携えた使者を派遣した。新羅からの難民が多数到来した(『続日本紀』宝亀10年7月10日条)。碑は800年~808年に作られた。碑は下端と上端が別々に発見された。下端部は1915年5月9日に朝鮮総督府参事官室で韓国金石門の収集と整理を行っていたときに発見された。上端部は、1968年9月初めに慶州市の石庸祭の家で見つかった。

原文

  • (大意) 大歴の春 大師の孫の翰林、字は仲業■は遠い滄暝(万里の)■■日本に使いした。その国の上宰因(石上朝臣宅嗣(石上宅嗣)か)は語って・・・(以下欠)
  • (原文)大歴之春 大師之孫 翰林字仲業■使滄暝■■日本彼国上宰囙■語

アクセス

  • 名称:高仙寺誓憧和上塔碑
  • 所在地:(上端部)韓国慶尚北道慶州市石長洞707東国大学慶州キャンパス博物館
    • (下端部)韓国ソウル特別市龍山区龍山洞6街168-6国立中央博物館
  • 交 通:

参考文献

  1. 佐伯有清訳(1988)『三国史記倭人伝 他六篇: 朝鮮正史日本伝 1』岩波書店

迎日冷水碑2024年07月09日 10:12

迎日冷水碑/出典:韓国金石文総合画像情報システム

迎日冷水碑(ヨンイルネスピ、영일냉수비l)は503年に建立された新羅で最古の古碑である。

概要

1989年に大韓民国慶尚北道迎日郡(現在は浦項市と合併)神光面冷水里で発見された石碑である。「道路工事現場で昔の碑石が出てきたという申告を受け、国立慶州文化財研究所に移し分析した結果、新羅古碑石であることを確認した」とされる。高さ67cm、幅72cm、厚さ25~30cmの台形状である。大韓民国の国宝第264号(迎日冷水里新羅碑)に指定されている。 花崗岩を一部加工して前面・裏面・上面に文字を刻んだ特殊な形の古碑であり、前面12列152文字、裏面7列59文字、上面5列20文字などともに231文字が陰刻でほぼ鮮明に残っている。新羅王が葛文王をはじめとする中央の貴族の合議により、冷水という土地の近くにあある財産に関する紛争を王が丸く収めたという内容である。慶尙北道浦項市北区神光面土城里にある神光面のミョンサムソ(村役場)の庭にある。

年代

碑文記載の癸未年は503年または563年であるが、碑石の官職名が561年に建てられた昌寧真興王拓境碑に出てくる官職名よりさらに古いので、503年(智證王4年)が妥当とされる。智証王の在位は500年から514年である。

新羅王

新羅王は「智証麻立干」であるが、『三国遺事』では智哲老王・智訂麻立干と記載される。新羅の第22代の王(在位:500年 - 514年)であり、姓は金、諱は智大路、または智度路、智哲老。碑文では、「至都盧葛文王」と記載される。智証王は500年に王として即位したが3年後の503年に葛文王を称している点が注目される。斯羅は当時の新羅の国名であるが、503年に「新羅」を正式な国号としたので切り替わりの時期である。至都蘆は智証の異表記である。

原文

(表面)

  • 斯羅喙斯夫智王乃智王此二王教用珍而
  • 麻村節居利爲證尓令其得財教耳
  • 癸未年九月廿五日沙喙至都盧葛文
  • 王□徳智阿干支子宿智居伐干支
  • 喙尓夫智壹干支只心智居伐干支
  • 本波頭腹智干支斯彼暮斯智干
  • 支此七王等共論教用前世二王教
  • 爲證尓取財物盡令節居利
  • 得之教耳別教節居利若先
  • 死後令其第兒斯奴得此財
  • 教耳別教末鄒斯申支
  • 此二人後莫更道此財

(裏面)

  • 若更道者教其重罪耳
  • 典事人沙喙壹夫
  • 智奈麻到盧弗須仇
  • □喙耽須道使心公
  • 喙沙夫那斯利沙喙
  • 蘇那支此七人□所白了
  • 事殺牛抜誥故記

上面

  • 村主臾支干
  • 支須支壹
  • 今智此二人世中
  • 了事
  • 故記

大意

斯羅の斯夫智王と乃智王が麻村節居利という人物の財産所有を認めた。 503年9月25日、至都盧葛文王(智証麻立干)以下中央の六部出身の高位官僚の7人(徳智阿干支、本波頭腹智干支、宿智居伐干支、喙尓夫智壹干支、只心智居伐干支、支斯彼暮斯智干支)が以前になされた二王の決定事項を再確認しながら麻村節居利が死んだ後、弟兒斯奴が財産を相続することと、末鄒・斯申支はこの財産には関与しないことを決定した。中央から派遣された官僚7人が上級官僚7人の決定事項を執行しながら牛を殺して天に報告する儀式を行い、宣告した事実を記録した。

問題点

国王だけでなく会議に出席する全メンバー7人全員を王と呼んでいることが挙げられる。当時の新羅は豪族の連合政権であった。集団のメンバーは「七王」と呼ばれており、全員が王であった。王が1名に集約される過程で何が起きたのであろうか。6世紀初めでも豪族の連合政権であったということは、倭国でも同じような状況であったことも考えられる。

参考文献

  1. 李成市(2000)『東アジア文化圏の形成』、山川出版社
  2. 武田幸男編(2000)『朝鮮史』、山川出版社
  3. 鈴木秀夫(1989)「動向と展望-最近発見の韓国の古代四碑について」『国史学』139
  4. 木村誠(1992)「朝鮮における古代国家の形成」『新版古代の日本 アジアから見た古代日本』角川書店
  5. 迎日冷水碑釈文一覧、立教大学

扶余豊璋2024年06月06日 21:01

扶余豊璋(ふよほうしょう、풍장、生没年不詳、在位660年9月から663年8月)は百済の最後の王子である。 日本書紀では「余豊璋」、「余豊」、「豊璋」、「豊章」などとする。『三国史記』では扶余豊、『旧唐書』は扶余豊/余豊とする。「余」は姓で「扶余」の略である。「豊王」ともいう。

概要

百済の最後の王である義慈王(의자왕)の5男とされる。 日本書紀によれば、631年(舒明3年)に子の余豊璋を人質として日本に送り、両国の関係の強化を図ろうとしたとされる。倭国にいる間に養蜂を試みたという。『三国史記』には人質と書かれていないので、人質ではなかったという説もある。 百済の義慈王が敗戦した後も、百済の地方軍と領土は大部分が健在であった。百済復興運動の指導者・鬼室福信は、百済復興のために豊璋の送還を求めた。661年(天智1)年、倭国は5000人をつけて豊璋を衛送したとされる。663年6月、百済王豊璋と福信とは不和となり、豊璋は福信を斬殺してしまった。 663年、百済は唐・新羅の連合軍と戦って敗北し、完全に滅亡した。豊璋は数人と舟で高句麗に逃げたとされる。668年、高句麗の滅亡後は唐に捕虜として送られ、流刑になったとされる。 『日本書紀』は豊璋が即位下と記すが、「三国史記」「三国遺事」は豊璋を正式の王と認めていない。

業績

日本書紀

日本書紀卷第廿三 舒明

  • (三年春)二月辛卯朔庚子、掖玖人歸化。三月庚申朔、百濟王義慈、入王子豐章爲質。
  • (大意)舒明3年2月掖玖の人が帰化した、3月百濟の義慈王は豊璋を人質とした。

日本書紀巻第廿五 孝德

  • (白雉元年)以粟田臣飯蟲等四人使執雉輿而在前去。左右大臣乃率百官及百濟君豐璋・其弟塞城・忠勝・高麗侍醫毛治・新羅侍學士等而至中庭。
  • (大意)白雉が現れたため改元した。左右大臣らは宮門外に並び、粟田飯虫ら4人は雉を乗せた輿を持ちそれを先頭とし、左右大臣、百官、百済の豊璋、その弟の塞城・忠勝、高句麗出身の醫毛治、新羅出身の侍學士を従えて進んだ。

日本書紀巻第廿六 齊明

  • (二年冬十月)又乞師請救、幷乞王子余豐璋曰或本云、佐平貴智・達率正珍也「唐人率我蝥賊、來蕩搖我疆埸、覆我社稷、俘我君臣。
  • (大意)
  • (六年)冬十月、百濟佐平鬼室福信、遣佐平貴智等、來獻唐俘一百餘人、今美濃國不破・片縣二郡唐人等也。又乞師請救、幷乞王子余豐璋曰或本云、佐平貴智・達率正珍也「唐人率我蝥賊、來蕩搖我疆埸、覆我社稷、俘我君臣。百濟王義慈・其妻恩古・其子隆等・其臣佐平千福・國辨成・孫登等凡五十餘、秋於七月十三日、爲蘇將軍所捉而送去於唐國。蓋是、無故持兵之徵乎。而百濟國遙頼天皇護念、更鳩集以成邦。方今謹願、迎百濟國遣侍天朝王子豐璋、將爲國主。」云々。詔曰「乞師請救聞之古昔、扶危繼絶著自恆典。百濟國窮來歸我、以本邦喪亂靡依靡告。枕戈嘗膽、必存拯救。遠來表啓、志有難奪。可分命將軍百道倶前、雲會雷動倶集沙㖨、翦其鯨鯢紓彼倒懸。宜有司具爲與之、以禮發遣。」云々。送王子豐璋及妻子與其叔父忠勝等、其正發遣之時見于七年。或本云、天皇、立豐璋爲王・立塞上爲輔、而以禮發遣焉。
  • (大意)百済の佐平・鬼室福信は佐平・貴智を遣わし、「唐と新羅は王とその妻、子の隆、佐平千福らを唐に捕虜として連行した。しかし百済は人々を呼び集めて再興しようとする。そこで皇子の豊璋を迎えて国王としたい」と述べた。斉明は百済を助けたいと述べた。皇子豊璋と叔父の忠勝を送った。ある本には(斉明は)豐璋を王とし、弟の塞上を助けとし、送り出したとする。

日本書紀巻第廿七 天智

  • 九月、皇太子、御長津宮、以織冠授於百濟王子豐璋、復以多臣蔣敷之妹妻之焉。乃遣大山下狹井連檳榔・小山下秦造田來津、率軍五千餘衞送於本鄕。於是、豐璋入國之時、福信迎來稽首奉國朝政、皆悉委焉。
  • (大意)皇太子は長津宮で百濟王子の豐璋に織冠を授け、蔣敷之の妹を妻とした。大山下狹井連檳榔と小山下秦造田來津とに5000の兵を付けて送り出した。豐璋が国に入ると福信は朝政をすべて任せた。
  • 五月、大將軍大錦中阿曇比邏夫連等率船師一百七十艘、送豐璋等於百濟國。宣勅、以豐璋等使繼其位、又予金策於福信而撫其背、褒賜爵祿。于時、豐璋等與福信稽首受勅、衆爲流涕。六月己未朔丙戌、百濟遣達率萬智等進調獻物。
  • (大意)大將軍大錦中阿曇比邏夫連らは舟170隻を率い、豐璋を百済国に送り届け、豐璋を百済国王に付けた。

考察

631年(舒明3年)の来日は、義慈王の即位は641年であり、それより前の時点での人質は疑問がある。豊璋は百済に戻った後は、即位したのではないだろうか。滅亡した国では資料が残らないので、立証が難しい。 国が滅びるときは、内部の混乱が原因となることが多い。百済もその例にもれない。豊璋が鬼室福信を殺害したのは、百済の滅亡に拍車をかけたのではなかろうか。豊璋は政治力や大局的な判断がなかったと思える。

参考文献

  1. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  2. 金富軾 (1983)『三国史記』平凡社
  3. 高寛敏(1995)「百済王子豊璋と倭国」東アジア研究 (10),pp.53-71

武烈王陵2024年06月05日 09:40

武烈王陵(ぶれつおうりょう、경주 무열왕릉, 태종무열왕릉비)は大韓民国の慶州市にある新羅の第29代王太宗武烈王の王陵である。「慶州武烈王陵」ともいう。

概要

統一新羅時代の661年に没した。在位は654~661年。 日本では飛鳥時代で、中大兄皇子称制が招請した年である。白村江の戦いの2年前であった。 直径36.31m、周囲112m、高さ13mの円墳である。東方には陵碑があったとされる。陵碑は失われ、亀跌(きふ)と螭頸(ちしゅ)だけが残る。亀跌の四方に礎石が遺存する。 復元されている。螭頸に武烈王の二男の金仁問が書いた「太宗武烈大王之碑」の8文字を陽刻する。陵碑は唐も影響を受けた形式である。発掘調査はされていない。

業績

本名は金春秋である。諡号は武烈である。唐と連合して百済を併合し、統一のための基盤を整えた。

日本書紀

日本書紀巻第廿五 孝德

  • (三年 )新羅、遣上臣大阿飡金春秋等、送博士小德高向黑麻呂・小山中中臣連押熊、來獻孔雀一隻・鸚鵡一隻。

日本書紀卷第卅 持統

  • (二年)若言前事者、在昔難波宮治天下天皇崩時、遣巨勢稻持等、告喪之日、翳飡金春秋奉勅。

考察

金春秋は日本書紀に登場する。

アクセス等

  • 名称:武烈王陵
  • 所在地:大韓民国慶尚北道 慶州市 西岳洞 842
  • 開館時間:3月~10月9:00~18:00、11月~2月9:00~17:00
  • 展示:年中無休
  • 交通:

参考文献

  1. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  2. 三池 賢一(1968)「金春秋の王位継承」法政史学20、pp.113-124

三韓2023年10月27日 21:22

三韓(さんかん)は古代において朝鮮半島の3つの地域「馬韓」「弁韓」「辰韓」をいう。 日本書紀では高句麗、百済、新羅を三韓とする。

概要

日本書紀は朝鮮古代の三つの国を三韓とする。『三国志』には「三種あり。位置に馬韓といい、二に辰韓といい、三に弁韓という」とする。馬韓には五十カ国があり、大国で1万余戸、小国は数千個、合計して十余万戸とする。後に百済となる伯済国が含まれる。辰韓は十二国からなる。弁韓も十二国からなる。4世紀には百済が馬韓を統一し、新羅が辰韓を統一した。

日本書紀 巻第九 神功皇后

  • (原文 九年冬十月)於是、高麗・百濟二國王、聞新羅收圖籍降於日本國、密令伺其軍勢、則知不可勝、自來于營外、叩頭而款曰「從今以後、永稱西蕃、不絶朝貢。」故因以、定内官家屯倉。是所謂之三韓也。皇后從新羅還之。

参考文献