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茱萸ノ木遺跡2026年07月14日 00:05

茱萸ノ木遺跡(ぐみのきいせき)は秋田県能代市に所在する縄文時代中期を中心に営まれた大規模集落で、盛土遺構や列石・配石遺構、大量の土器・石器が発見されたことで知られる。

概要

茱萸ノ木遺跡は米代川とその支流である藤琴川の合流地点から北へ約3.8kmの場所に位置する。藤琴川の右岸に広がる河岸段丘上に立地し、周辺を山地に囲まれた河岸段丘上に形成された遺跡である。遺跡の立地する河岸段丘の東側を藤琴川が流れ、南へ下ると米代川と合流する。これらの川沿いに形成された河川や周辺の森林資源に恵まれた環境が、集落形成の背景となったと考えられる。

砂防工事に伴う発掘調査により、発掘調査では、盛土遺構や住居跡など数多くの遺構と、コンテナ約1,000箱分に及ぶ土器・石器などが出土した。

遺構としては盛土遺構、竪穴建物跡、掘立柱建物跡がある。盛土遺構は遺跡の中心にある、高さ約1.5メートルの土の小山である。盛土遺構は、土器・石器・焼土・炭化物などが長期間にわたり堆積して形成された高さ約1.5メートルの土の小山である。縄文時代中期を通じて、盛土遺構を中心にして集落域が展開しているが、中期初頭から中葉にかけて、中期後葉以降とでは遺構の配置に変化が見られる。

中期末葉~後期初頭になると、盛土遺構の形成が終了し、列石・配石遺構が構築されるようになる。配石(はいせき)遺構・列石遺構は石を円形や直線状に配置した、墓や祭祀に関連すると考えられる遺構が46基みつかった。周囲には掘立柱建物跡や、土坑墓の可能性があるフラスコ状土坑・土坑が形成された。土器埋設遺構は土器を地中に埋設した遺構で、祭祀や埋葬との関連が指摘されており、45基がある。フラスコ状土坑は、断面がフラスコ形を呈し、貯蔵施設や墓坑などと考えられている。

竪穴建物跡は30棟以上確認されている。尾根頂部に集中して分布する。狩猟・木材加工・植物質食料の加工に用いられた各種石器のほか、土偶・石棒・石冠など祭祀に関わる遺物も多数出土している。 茱萸ノ木遺跡は、盛土遺構を中心とする集落構造や列石・配石遺構の変遷を通じて、縄文時代中期から後期にかけての集落構造や祭祀空間の変化を知る上で重要な遺跡である。

アクセス

  • 名称:茱萸ノ木遺跡
  • 所在地:秋田県能代市二ツ井町荷上場字茱萸ノ木167ほか
  • 交通: JR二ツ井駅から北東に約3.7km/「二ツ井コミュニティバス」乗車「如来瀬(にょらいせ)」または「荷上場」等のバス停で下車後徒歩

参考文献

  1. 秋田県埋蔵文化財センター(2024)『秋田県文化財調査報告書533:茱萸ノ木遺跡』秋田県教育委員会

青塚古墳 (犬山市)2026年07月13日 00:13

青塚古墳/筆者撮影

青塚古墳 (犬山市)(あおつかこふん)は愛知県犬山市に所在する古墳時代前期(4世紀中頃)に築造された前方後円墳である。「茶臼山古墳」「青塚茶臼山古墳」「王塚古墳」とも呼ばれる。

概要

犬山市の南部、木曽川南岸の丘陵上に位置する。墳丘には葺石・壺形埴輪が良好に残り、東海地方の古墳時代前期を代表する前方後円墳として知られる。 墳丘長は約123mで、断夫山古墳に次ぐ愛知県内第2位の規模をもつ。周辺にはかつて十数基からなる古墳群が存在していたが、多くは消滅し、現在は南西部に数基の円墳が残る。 前方部2段、後円部3段の段築を有する。 埋葬施設は未調査のため内部構造は明らかではない。葺石は大量の河原石を並べる。敷地内には出土品(埴輪や鏃形石製品)などを展示するガイダンス施設「まほらの館」がある。出土した壺形埴輪や円筒埴輪、鏃形石製品を見学できる。青塚古墳は1983年(昭和58年)2月8日に国指定史跡となった。

調査

昭和54年(1979年)ほ場整備事業に伴い青塚古墳の周濠と外堤の確認調査が実施された。 青塚古墳からの出土品は、壺形埴輪と円筒埴輪、鏃形石製品である。土師器片は青塚古墳の南段丘面沿いから採取されている。 墳丘形態や出土した鍬形石・壺形埴輪などから、築造時期は4世紀中頃と考えられている。壺形埴輪は約2メートル間隔で配置され、底部穿孔をもつ二重口縁壺である。 前方部墳頂には方形壇状遺構がある。方形壇状遺構は東西9m、南北7m、高さ推定0.5m 弱の低墳丘状で、遺構周囲では河原石・割石の配石、石敷き、円筒埴輪列が認められる。この遺構は古墳築造後に追加して造営された可能性が高いと考えられている。配石遺構は後円部北西側に複数確認されるほか、前方部墳頂にも確認されている。その一例は全長約3メートル、幅約1メートルである。

壺形埴輪

青塚古墳から出土した「壺形埴輪」には2形式がある。一つは、口部がラッパのように広 がり胴部が丸い形式である。2 つめは口部が二段になり、胴部が細長い形式である。同様な壺形埴輪は、近隣の古墳を始め関東の各地から出土している。青塚古墳では、古墳上に復元された赤い壺形埴輪が配置されている。透かし穴がなく、底に水抜き用の穴(底部穿孔)が開いた特殊な壺形埴輪である。

周濠

トレンチ調査から自然地形を利用した不整形の周濠であり、東側では陸橋(渡土堤)が確認されている。周濠の深さは、最深個所で1m 弱と浅く、墳丘裾部から外側に向かってほとんど水平に近い角度で緩やかに傾斜する。

戦乱時の砦

1584年(天正12年)の小牧長久手の戦いの際に、秀吉陣の砦として使用されたことから、「青塚砦」とも呼ばれる。古墳域は現在は大縣神社(犬山市宮山、尾張国二宮)の社有地である。 圃場整備事業に伴い古墳は消滅の危機となったが、地元住民の保護運動で残された。現在は青塚古墳史跡公園となっている。

発掘調査

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 築成 前方部:2段、後円部:3段
  • 墳長 123m
  • 後円部径 径78m 高12m
  • 前方部 幅62m 長45.5m 高7m

主体部

外表施設

  • 円筒埴輪 円筒Ⅱ式
  • 葺石 あり

遺物

  • 壺形埴輪
  • 円筒埴輪
  • 樽形埴輪
  • 鏃形石製品
  • 鰭付朝顔形埴輪

築造時期

  • 4世紀中葉(古墳時代前期)頃

被葬者

展示

  • 青塚古墳史跡公園
  • 青塚古墳ガイダンス施設「まほらの館」

考察

指定

  • 1983年(昭和58年)2月8日 国指定史跡「青塚古墳」

アクセス等 

  • 名称  :青塚古墳
  • 所在地 :〒484-0945  愛知県犬山市青塚22-3
  • 交 通 :名鉄楽田駅から徒歩 30分

参考文献

  1. 犬山市教育委員会(2001)「史跡 青塚古墳調査報告書」

北大谷古墳2026年07月12日 00:53

北大谷古墳(きたおおやこふん)は東京都八王子市に所在する7世紀前半の終末期古墳である。多摩地域最大級の円墳であり、胴張り形横穴式石室を有することで知られる。

概要

八王子市北部を東西に流れる谷地川右岸に立地する古墳である。直径約39mの円墳である。全長約10mの古墳の主体部は凝灰岩質砂岩を切り出した切石積み横穴式石室である。 周濠は西側から北側を経て東側へ巡る馬蹄形状で、墳丘全周には及ばない。埴輪や葺石は確認されておらず、終末期古墳にみられる簡素な外表施設を示している可能性がある。土師器の破片が出土している。発掘以前に盗掘を受けたため、これまでの調査では目立った副葬品はなかった。

直径約39メートル、高さ約2.1メートルを測り、7世紀前半に築造された多摩地域の円墳としては最大級の大きさである。遺体を安置する主体部は全長約10メートルにも及び、ブロック状に切り出した石材を積み上げる高度な石室構築技術が用いられている。7世紀前半の終末期古墳であり、多摩地域における終末期古墳研究の重要資料となっている。

技術的特徴

北大谷古墳の胴張り石室の主な技術的特徴は以下の通り。 玄室(棺を納める部屋)、前室、羨道(通路)からなる「複室構造」を採用しており、壁面には加工された切石が用いられている。石室は胴張り形横穴式石室であり、多摩地域では高度な築造技術を示す石室の一例とされる。石室構築前には地盤を掘り込んで基礎を固める「掘り込み地業」が行われており、計画的な施工がうかがえる。 石室の形状は当時の古墳建築において技術を要する構造であった。全長は約10メートルに及び、同時期に築造された周辺古墳の中でも最大級である。石室の平面形が中央部に向かって膨らむ「三味線胴張り(胴張り形)」と呼ばれる構造は畿内系古墳との共通性が強く、中央政権と密接な関係をもつ有力首長層が採用した石室形式と考えられている。

発掘歴

これまでに発掘調査や測量調査、地下レーダー探査などが実施されている。

1899年調査

1899年(明治32年)2月11日、木下止(しずか)をはじめとする地元有志により発掘され、北大谷古墳は円墳であり、南側に向けて開口した横穴式石室があると報告された。

1933年調査

1933年(昭和8年)の後藤守一(帝室博物館)では直径29メートルの円墳で、墳丘は大きく崩れて南側に伸びていると報告された。

1992~1993年調査

平成4・5年には東京都教育委員会の調査では古墳全体におよぶ調査、周濠の確認と他の古墳の存在の有無を調査することを目的として地下レーダー探査が行われた。地下レーダー探査によって周濠の状況や墳丘周辺の構造が確認され、保存状況の把握が進められた。

指定

  • 1936年(昭和11年)3月 東京都旧跡

アクセス

  • 名称:北大谷古墳
  • 所在地:東京都八王子市大谷町725
  • 交通: JR中央線「八王子駅」北口から西東京バス「警察署前・バイパス経由宇津木台」行き、バス停「団地入口」または「バイパス大谷」下車徒歩約15分。

参考文献

上郷深田遺跡2026年07月11日 00:40

上郷深田遺跡(かみごうふかだいせき)は横浜市栄区に所在する飛鳥時代末から奈良時代にかけて操業した製鉄遺跡である。神奈川県内で唯一確認されている古代製鉄遺跡である。

概要

横浜市栄区の南端、円海山の麓に位置する遺跡である。武蔵国と相模国の国境となる分水嶺付近に位置する。標高は29mから30mである。 発掘調査は1986年9月から翌年6月にかけて行われた。 横浜市教育委員会(2025)は神奈川県内で唯一の古代製鉄遺跡としている。さらに古代の製鉄遺跡が百年以上継続して営まれた遺跡は神奈川県内では初めてとされる(横浜市教育委員会(2025))。遺跡の操業・利用状況は3時期に区分されている。

  1. (1)Ⅰ期 640年から680年頃
  2. (2)Ⅱ期 680年から720年頃
  3. (3)Ⅲ期 720年から760年頃 

Ⅰ期では製鉄開始以前の居住段階と考えられており、竪穴住居跡4棟が検出された。北武蔵系の土器が特徴である。

Ⅱ期は下段中位で3基の箱形炉による製鉄が始められた。谷地形にトレンチを入れたところ、下層から多量の焼土や鉄滓が検出された。また畿内系暗文土師器杯・盤が出土した。

Ⅲ期では上段において6基の竪型炉が操業された。この遺跡では鉄だけでなく青銅鋳造も行われた。17号炉と19号炉でフイゴ(送風装置)の痕跡が認められた。銅を溶解した炉と確認されたものは1~3号炉である。2号炉の青銅粒、緑青が付着したガラス質滓と炉壁から鋳銅を行っていたことが判明した。ガラス質滓は金属の精錬や鍛冶の作業において、炉内の高温によって溶け出した鉱物や炉壁(粘土)の成分が、ガラス状に固まった副産物(スラグ)である。

古代の製鉄炉は、大きく分けて「箱形炉」と「竪形炉(たてがたろ)」とがある。箱形炉は粘土で長方形の箱状の炉を作り、底部に送風管(鞴)を繋ぎ、木炭の火力で砂鉄を還元して鉄塊(鉄滓)を生成する。竪形炉は炉の下部を地下に埋めて、地上部分に縦長の円筒状(筒状)の炉体を作る。半地下式の円筒状の炉である。古代の製鉄炉における「炉壁(ろへき)」とは、砂鉄と木炭を燃焼させて鉄を作るための炉の壁面をいう。1200℃ 以上の高温に耐えるために熱に強い粘土などで壁を厚く塗り固める。

2号竪穴の床面からチタンを含む砂鉄が大量に検出された。これにより製鉄の原料が砂鉄であることが明らかになった。近隣の上郷猿田遺跡の古代集落は製鉄業を営んだ工人の集落と推定されている。 原料となる砂鉄の採取地は三浦半島基部付近と推定されているが、現在も確定していない。相模湾側では鎌倉市街地の西側で、極楽寺川河口付近にはかつて砂鉄が多く分布していたと伝えられる。

遺跡保存のため、市民団体「上郷深田製鉄遺跡の保存を求める会」が歴史公園としての整備を求める活動を行っている。

アクセス

  • 名称:上郷深田遺跡
  • 所在地:神奈川県横浜市栄区上郷町488
  • 交通: JR根岸線 洋光台駅から徒歩38分

参考文献

  1. 横浜市教育委員会(2025)「上郷深田遺跡発掘調査報告書」

有田七田前遺跡2026年07月10日 00:05

有田七田前遺跡(ありた ななたまえ いせき)は福岡県福岡市早良区の有田遺跡群を構成する遺跡である。夜臼式土器・朝鮮無文土器・刻目突帯文土器・炭化米が共伴して出土したことで知られ、縄文時代晩期から弥生時代早期への文化的移行、弥生時代早期から前期における水稲農耕が伝播し定着する過程を考える上で重要な遺跡である。

概要

福岡県を流れ、室見川が形成した早良平野のほぼ中央部に位置する標高7.5mの遺跡である。更新世に形成された洪積台地の東南部に位置する。 有田七田前遺跡は、有田・小田部地区に広がる複合遺跡群「有田遺跡群」を構成する遺跡の一つである。 周囲の沖積低地より一段高い微高地に位置する。周辺には牟多田遺跡、鶴町遺跡など夜臼式土器を出土する遺跡が多い。沖積低地では刻目突帯文期の遺物が大量に出土している。旧河道が埋没して停滞水域となり、その中へ土器などの遺物が廃棄されたと考えられている。遺跡は主に福岡市教育委員会によって調査され、1970年から1980年代にかけて実施された発掘調査では、1985年調査を含め、旧河道や溝状遺構などが確認された。 有田七田前遺跡は、夜臼式土器・朝鮮無文土器・刻目突帯文土器が同一遺跡から確認され、さらに炭化米も出土したことから、、北部九州における縄文時代晩期から弥生時代早期への文化変容を検討する上で重要な遺跡と評価されている。

調査

縄文時代晩期を中心とする土器・石器・土製品が出土した。土器の大半は夜臼式土器である。甕形土器I類、甕形土器Ⅱ類、甕形土器Ⅲ類、甕形土器Ⅳ類が出土した。土製品には紡錘車と土錘がある。石器には石鏃・石斧・石包丁・打製石鎌・石槍・磨製石剣・石錘・磨石・砥石などがある。 縄文晩期の夜臼式土器の中から朝鮮半島系の無文土器(朝鮮無文土器)が検出された。夜臼式土器は北部九州の縄文時代晩期末から弥生時代早期を代表する土器型式である。縄文時代晩期から弥生時代への文化的移行や朝鮮半島との交流を考える上で重要な資料とされている。1985年の調査では遺構として河川・包含層・溝状遺構が検出され、刻目突帯文土器の時期の土器が出土した。磨製石包丁や炭化米なども出土しており、玄界灘沿岸地域における初期稲作文化の展開や弥生文化の成立過程を考える上で重要な資料を提供している。

有田七田前遺跡の重要性

多量の夜臼(ゆうす)式土器とともに、大陸系の石器(磨製石器や石庖丁など)が出土した。この組み合わせは、この地域で日本列島における本格的な水稲耕作が早い段階から開始されていた可能性を示す。弥生時代の環濠集落や日本最古級の絹が出土した甕棺墓などが発見された拠点でもある。さらに石器の中に未製品が多く含まれており、大陸系石器の「伝播」だけでなく、当時の人々が大陸系の石器製作の技術や文化を受け入れていたという複雑な様相を示している。多量の夜臼式土器と大陸系の磨製石器石器は初期稲作農耕文化の到来を物語っている。

遺構

  • 川状遺構
  • 溝状遺構
  • 包含層

遺物

  • 突帯文土器 - 夜臼式土器
  • 甕形土器1類
  • 甕形土器2類
  • 甕形土器3類
  • 甕形土器4類
  • 鉢形土器2類
  • 土製品
  • 石鏃
  • 石槍
  • 石錐
  • 石匙
  • 石剣
  • 石斧
  • 柱状片刃石斧
  • 蛤刃石斧
  • 石包丁
  • 屈曲甕

指定

アクセス等

  • 名称:有田七田前遺跡
  • 所在地:福岡県福岡市早良区有田字七田前
  • 交通:福岡市地下鉄室見駅から徒歩32分

参考文献

  1. 福岡市教育委員会(1983)『福岡市埋蔵文化財調査報告書95:有田七田前遺跡』福岡市教育委員会
  2. 福岡市教育委員会(1996)『有田・小田部』福岡市埋蔵文化財調査報告書第471集,福岡市教育委員会
  3. 藤尾慎一郎(1987)「福岡市早良区有田七田前遺跡一九八五年度発掘調査」九州文化史研究所紀要 32,pp.73-126

武蔵国造の乱2026年07月09日 00:05

武蔵国造の乱(むさしこくぞうのらん)は『日本書紀』に記される安閑元年(『日本書紀』では534年)の武蔵国造の地位をめぐる豪族間の争いである。

概要

武蔵国造の地位を巡って笠原直使主(かさはらのあたいおみ)と同族の小杵(おき)が安閑元年(『日本書紀』では534年)に争いとなったとされる。小杵は劣勢になったため、関東の有力豪族の上毛野氏の支援を求めて使主に対抗しようとした。それを察知した使主はヤマト朝廷に訴え出た。朝廷は使主を支持し、武蔵国造として認め、小杵は討たれたとされる。『日本書紀』では、使主は朝廷への感謝として四か所の屯倉を献上したと記されている。

屯倉の比定地

横渟

横渟は武蔵国の横見郡に対応しているとみるのが通説である。横見郡は現在の比企郡川島町を中心とし、坂戸市や川越市の一部を含み、さらに東松山市・熊谷市・鴻巣市・北本市の一部にまで広がっていたとする説がある(鈴木正信(2020))。古代では「渟」は「沼」と通じるため、坂戸市の「横沼」地名とも関連する。

橘花

橘花屯倉は、のちの武蔵国橘樹郡に所在したと見るのが通説となる。音が通じること、宅郷が含まれることが理由である。橘花屯倉の比定地域には第六天古墳が所在する。複式構造の三味線胴張横穴式石室内の組合式石棺に11体分の人骨が納められていた。

多氷

多氷の比定には複数説がある。(1)「多氷」を「おほい」と読み、同国久良郡大井郷や大井駅に関連づける説、(2)「多氷」を「多米」あるいは「多末」の誤りとして「たま」と読み、のちの武蔵国多摩郡とする説、(3)氷は日本書紀に多い水の誤写として「多水」とし、多摩川とする説である。他の屯倉はいずれも郡規模に比定されるため、多氷も多摩郡と解釈すれば他と同じ規模となる。多摩郡説を採る場合、その地域には後世の有力首長墓と考えられる終末期古墳・百草稲荷塚古墳が所在する。三味線胴張横穴式石室をもつ。

倉樔

倉樔は倉樹の誤りとして、武蔵国久良郡(後の久良岐郡)に比定するのが通説である。

本拠地

笠原直使主

甘粕健(1970)は北武蔵野埼玉古墳群であるとし、二子山古墳が本拠地の首長墓候補としてふさわしいとした。鈴木正信(2026)は武蔵国埼玉郡に笠原鄕があることから、埼玉古墳群に近く、甘粕説を支持した。

小杵

甘粕健(1970)は「ヤマト政権に反抗して滅ぼされ、広大な領域を屯倉として収公された多摩川・鶴見川領域」と小杵の本拠地を提示した。鈴木正信(2026)は北武蔵内での争いとみるのが主流であり、(1)比企郡説(金井塚良一(1979))、(2)埼玉古墳群の傍流説がある。屯倉は敗者の本拠地に置かれるとは限らず、王権にとって有益と判断した場所が選ばれると指摘した。磐井の乱の後の屯倉の位置から立証した。

武蔵国造の乱の位置付け

甘粕健(1970)は北武蔵と南武蔵の勢力交代が反映されたものと指摘した。これに対して、金井塚良一(1979)は北武蔵内部での争いであり南武蔵の範囲ではないとした。具体的には行田地域と比企地域の対立と指摘している。坂本和俊(1996)は使主と小杵はどちらも埼玉古墳群に葬られているとの説を提示した。鈴木正信(2026)は初代の武蔵国造の選定時の当主選定の争いと指摘した。

歴史的意義

近年の研究では、武蔵国造の乱の歴史的意義は(1)大和政権が関東の政治へ本格的に介入する契機となった出来事と評価する説がある(鈴木正信(2026))。それまで関東は自律的に運営されていたが、笠原直使主が大和政権に救援を求めたことにより、政権が東国の政治に介入する決定的な契機となったとする説である。(2)屯倉の設置と経済的基盤の確立により、ヤマト政権は関東における物資の集積所や軍事拠点を得たとする説である。ヤマト政権地方支配の体制(国造制・屯倉制)を拡大していく過程の重要な事件と評価する意見がある。

参考文献

  1. 甘粕健(1970)「武蔵国造の反乱」『古代の日本7』角川書店
  2. 金井塚良一(1979)「野本将軍塚古墳の謎」『歴史読本5月号』新人物往来社
  3. 坂本和俊(1996)「埼玉古墳群と武蔵国造」『群馬考古学手帳6』群馬土器観会
  4. 利根川章彦(2003)「武蔵国造の乱はあったか」埼玉県立さきたま資料館 調査研究報告第16号,pp,39-54
  5. 坂本和俊(1996)「埼玉古墳群と旡邪志国造」『群馬考古学手帳6』群馬土器観会
  6. 城倉正祥(2011)「武蔵国造争乱--研究の現状と課題」『史観』pp.107-146,早稲田大学史学会
  7. 鈴木正信(2020)「武蔵国造の乱と横渟屯倉」早稲田大学高等研究所紀要 第 12 号
  8. 鈴木正信(2026)「武蔵国造の乱をめぐる豪族と屯倉」講演資料
  9. 仁藤敦史(2008)「古代東国と譜代意識」古代日本の支配と文化,pp.46-77

松山市考古館2026年07月08日 00:08

松山市考古館(まつやましこうこかん)は愛媛県松山市が設置・運営する考古資料館であり、松山市内の遺跡から出土した埋蔵文化財を収集・保存・展示・公開する施設である。

概要

埋蔵文化財の保護や調査、研究などによる地域文化発展のため、1989年(平成元)に松山総合公園内に開館した施設である。松山市内の遺跡から出土した約8,200点の考古資料をテーマ別に展示している。館内には実物大の葉佐池古墳の石室、竪穴住居や大型建物跡、土器や埴輪の復元展示がある。葉佐池古墳の石室は、5基確認された石室のうち最大の第2号石室(長さ5.1m、幅2.3m)を実物大で復元している。竪穴住居の復元展示では、古墳時代開始期頃の大型建物跡の柱穴をもとに建物を復元し、弥生時代の稲作に用いられた結晶片岩製の石包丁(穂摘み具)が展示される。

展示

  • 古照遺跡 - 古墳時代前期の農業用灌漑施設である堰(せき)を復元展示している。
  • 葉佐池古墳から出土した遺物 - 全長55.8mの楕円形墳から出土した横穴式石室の副葬品や組み合わせ式木棺材などを展示している。
  • 久米官衙遺跡群から出土した遺物 - 久米高畑遺跡第7次調査地出土の「久米評」と刻まれた須恵器、来住廃寺跡出土の軒丸瓦、軒平瓦、硯などを展示する。
  • 道後城北地域から出土した資料 - 石包丁、青銅鏡、分銅形土製品など。
  • 大渕遺跡出土遺物 - 大渕遺跡で出土した彩文土器は縄文時代晩期の壺形土器で、朝鮮半島南部の影響を受けた貴重な遺物とされる。
  • 二禽二獣鏡 - 朝日谷2号墳の被葬者頭部付近から出土した青銅鏡を展示する。直径18.7cm、重さ666gで、「尚方作鏡」で始まる29字の銘文と、白虎・青龍・鳳凰などの文様が鋳出されている。
  • 祝谷六丁場遺跡出土の弥生土器を展示する。

アクセス等

  • 名称:松山市考古館
  • 所在地:〒791-8032  愛媛県松山市南斎院町乙67-6
  • 休館日: 月/月曜日が祝日・振替休日の場合は除く 祝日・振替休日の翌日休館
  • 開館時間: 9:00~17:00 入館は16:30まで
  • 交通: 松山市駅からバス15分(伊予鉄バス10番線・津田団地行き)丸山から徒歩10分

参考文献