Bing
PVアクセスランキング にほんブログ村

縄文海進2025年03月23日 00:50

縄文海進(じょうもんかいしん)は約1万年前から6000年前に海水面が大幅に上昇して陸地が縮小したことをいう。

概要

最盛期の大阪では現在より2mから3m程度海水面が高かった。関東地方では、現在の内陸部にも貝塚が形成された。海進の原因は約6,000年前に北極や南極にあるった厚さ数千メートルの巨大な氷床が溶けて、海水に流入し海水の体積が増えたためである。その頃の海水面は、現在に比べて2~3メートル高かった。海水の量が増えたことにより重みで海底が沈降し、海洋プレートの下にあったマントルが押し出され、大陸プレートの下に移動し、陸地が隆起した。現在のさいたま市内にも奥東京湾(現在の東京湾より奥深い)の一部が入り込んだ。

縄文海進の前の寒冷期

約2万8千~1万9千年前には氷床の量は最大となり、海水面は現在よりも120m~130m低かった。旧石器時代は、かなり寒い気候であり、平均気温は今より7から8度低かった。

参考文献

四獣鏡2025年03月23日 00:48

四獣鏡(しじゅうきょう)は、4体の獣像を表した銅鏡である。獣像の間に神像が表される。

概要

神仙思想の神(東王父、西王母)と霊獣が表される。霊獣は虎と龍が多い。 文様を肉刻手法で表現するものと、半肉彫で表すものとがある。肉刻手法はほとんどが平縁であるが、三角縁もある。径は15cm前後が多い。

事例

  • 四獣鏡 - 江田船山古墳、熊本県和水町、古墳時代
  • 四獣鏡 - 亀尾山(古墳)出土 香川県小豆郡小豆島町 
  • 三角縁四神四獣鏡 - 前橋天神山古墳 群馬県前橋市後閑町、
  • 三角縁五神四獣鏡 - 伝潮崎山古墳、兵庫県福山市、4世紀
  • 画文帯四仏四獣鏡 - 御猿堂古墳、飯田市開善寺、古墳時代、重要文化財、

台形石器2025年03月22日 00:03

台形石器(だいけいせっき)は平面形状が台形で石器の主軸に直交する刃を持つ剥片石器である。素材と形状の違いから「台形様石器」と区分される場合がある。

概要

旧石器時代の日本で広く使用された、3cmから5cm程度のサイズの石器である。旧石器時代の後半には九州、四国では見られなくなる。形状は方形や台形、二等辺三角形などがある。 用途は明確でない。

出土例

  • 台形石器 梅ノ木沢遺跡、静岡県駿東郡長泉町東野、旧石器時代
  • 台形石器 米ヶ森遺跡、秋田県大仙市、旧石器時代

参考文献

  1. 小田静夫(1971)「台形石器について」『物質文化』18号、物質文化研究会

中原遺跡2025年03月21日 23:51

中原遺跡(なかばるいせき)は佐賀県唐津市にある縄文時代、弥生時代前期から中期の複合遺跡である。

概要

松浦川右岸の旧砂丘上に位置する。遺跡地は標高約50mの台地一帯である。

調査

大正末期に大串の右近杏葉によって調査され報告されて、遺跡とされた。明治10年頃大串の三崎原で石斧4個が見つかった。崩れた田圃の修復工事中に発見したもので、田中袈裟一氏が保管していた。上無津呂の長野峠の道路工事中(大正12年頃)に石斧が発見され、右近も春日神社境内裏手から石鏃を発見した。春日神社裏の杉の杜から昭和34年、松石恵市君(当時小6で大野小ケ倉)も黒燿石の石鏃を発見した。 1965年の九州大学・パリ大学の合同調査で甕棺6基が検出された。また中期後半の4・5号甕棺から管玉、勾玉、中期末の7号甕棺から鉄戈1、管玉6、小玉1が検出された。棺外から鉄戈1が発見された。 1985年、1986年には唐津市教育委員会が調査し、古墳時代前期の方形周溝墓と5世紀の古墳が発見された。 1995年(平成7年)の栗並遺跡の発掘調査では、縄文式土器の数片が発掘された。これらの石斧や石鏃は縄文時代以前となる石器時代のものとされた。 2001年から2005年の発掘調査では首長など地域の上位階層者のものとみられる三つの墓で鏡、玉、剣の三つが揃って出土した。青銅鏡や管玉は中国や朝鮮半島などからの伝来品で、当時の流通を知る上で価値が高い。

出土

旧石器時代細石刃文化期,縄文時代早期・中期・後期の遺物等が出土している。 本遺跡の出土遺物は縄文時代中期末から後期と、限定されているが遺物の種類も多く,その出土量は膨大にある。旧石器時代の遺物は細石核2点がある。縄文時代早期の遺物は,少量であるが、前平式・吉田式の貝殻文系の円筒形土器,撚糸文系の塞ノ神式土器等が出土した。 縄文時代中期末から後期の遺物には,南福寺下層式類似・阿高式系・中津式類似・福田KⅡ式・縁帯文土器類似・彦崎KⅠ式酷似・津雲A式酷似・指宿式・倉園A式・一湊松山式・市来式等の土器,石斧・石錘・敲石・磨石・石皿・軽石製調整具等の石器が出土した。 瀬戸内地方の磨消縄文系土器と南九州在地系土器が多量に出土したことが本遺跡の特徴である。また,石錘の出土量等から川や海での漁労との関わり合いが深いことが推察された。

鉄生産

中原遺跡から鉄を削る際に火花として散る不純物の塊「鉄滓」や大量の鉄が出土しており、他地域にも供給していた。木簡を削る小刀として使い、鉄器の裁断によって生じた鉄片は弓矢の矢尻として再利用していた。弥生時代後期には中原遺跡で鉄器生産が始まり、島原半島や熊本の人々が鉄を手に入れようと航路を通ったとされる。

遺構

土壙墓

  • 祭祀土坑
  • 古墳

遺物

  • 弥生土器
  • 土師器
  • 木製品
  • 木簡
  • 墨書土器
  • 中空円面硯
  • 子持ち勾玉
  • 須恵器
  • 内行花文鏡
  • 方格規矩鏡
  • 浮彫式獣帯鏡
  • 素環頭小刀
  • 刀子
  • 勾玉(ヒスイ製)
  • 管玉(碧玉製)

指定

所在地等

  • 名称: 中原遺跡
  • 所在地:佐賀県唐津市原字溜ノ内・西ノ畑
  • 交通:

参考文献

  1. 志布志町教育委員会1985「中原遺跡」『志布志町埋蔵文化財発掘調査報告書』9
  2. 唐津市教育委員会(1987)『中原遺跡』

炭化物集中2025年03月21日 00:20

炭化物集中(たんかぶつしゅうちゅう)は旧石器時代、縄文時代などで数ミリ程度の細かな炭化物が集まった場所である。クッキー状炭化物、パン状炭化物、団子状炭化物、餅状炭化物などとも呼ばれる。

概要

熱をうけて炭になった遺物を炭化物という。炭化物が含まれる土を洗うと木材やクルミの殻、植物の種などが含まれていることがある。炭化物集中はクッキー状炭化物になっている場合がある。皮をむく以上の調理を行った跡である。 中野(1989) は押出遺跡で発掘されたクッキー状炭化物に対し、残留脂肪酸分析、X線解析を行い、①炭水化物(植物質食料) を主体とするクッキー型と、②タンパク質(肉)が主体のハンバーグ型に大別されることが示された。栄養分は炭水化物、脂質、タンパク質であり、ハンバーグ型はタンパク質の割合が高い。谷(1983) は曽利遺跡出土のパン状炭化物を走査電顕で観察し、エゴマ、シソが含まれていることを報告している。

出土例

  • 炭化物集中 白保竿根田原洞穴遺跡、沖縄県石垣市、旧石器時代
  • 炭化物集中 中溝遺跡、山梨県都留市、旧石器時代
  • 炭化物集中 高畠町押出遺跡、山形県東置賜郡高畠町、縄文時代

参考文献

  1. 中野益男(1989)「残留脂肪酸による古代復元」『新しい研究方法は考古学になにをもたらしたか』クパプ、pp.114-131
  2. 渡辺誠(1984)『増補 縄文時代の植物食』雄山閣出版

局部磨製石斧2025年03月20日 11:00

局部磨製石斧(きょくぶませいせきふ)は素材の石を打ち欠いた打製石斧の石斧の刃先部分のみを人手で磨いた石器である。

概要

局部磨製石斧は後期旧石器時代に登場した。旧石器時代前半期(38~29Ka)を特徴づける遺物とされる。縄文時代にも出土例がある。旧石器時代前半期は日本列島からナウマンゾウが絶滅した頃であるから、これらの旧石器時代石斧は木の伐採用ではなく,大型動物の狩猟用だったという仮説が出されている(谷和隆(1995))。 鏑川本流から約480m標高の山中にある金剛萱遺跡から出土した局部磨製石斧の石材は緑灰色の緑色岩であり,長さ136.9㎜,幅21.1㎜,厚さ32.0㎜で重量は92.6gである。 旧日石器時代から縄文時代にかけての移行期に現れる神子柴型の石斧(局部磨製石斧)は大型である。大平山元I遺跡、湯ノ沢遺跡では刃部端が膨らみ基部が円くなる。東京都内では下高井戸戸塚山遺跡で局部磨製石斧の出土例があり、これは武蔵野台地で最古の遺物である。岩宿遺跡の局部磨製石斧は後期旧石器時代前半期の初頭に特徴的なホルンフェルス製の石器である。 縄文時代の出土例としては、大平山元遺跡、垣谷遺跡などがある。

出土例

  • 局部磨製石斧 金剛萱遺跡、群馬県下仁田町、旧石器時代
  • 局部磨製石斧 宮ノ入遺跡、長野市松代町大室、旧石器時代
  • 局部磨製石斧 岩宿遺跡、群馬県みどり市、旧石器時代
  • 局部磨製石 東早淵遺跡、東京都練馬区、旧石器時代のローム層より出土
  • 局部磨製石 大平山元遺跡、青森県東津軽郡外ヶ浜町、縄文時代
  • 局部磨製石斧 垣谷遺跡、和歌山県西牟婁郡白浜町、縄文前期および晩期

参考文献

  1. 中村由克、保科裕(2016)「金剛萱遺跡の局部磨製石斧の石材とその意義」下仁田町自然史館研究報告、下仁田町自然史館研究報告編集委員会編 (1),pp.21-24
  2. 谷和隆(1995)野尻湖遺跡群と石斧、考古学ジャーナル、385,pp.22-28.

断夫山古墳2025年03月19日 22:09

断夫山古墳(だんぷさんこふん)は愛知県名古屋市にある前方後円墳である。

概要

東海地方で最大の前方後円墳である。熱田台地の西の端の標高6mにあり、熱田神宮の神域として保護されており、熱田神宮公園内にある。前方部が大きく、前方後円墳としては比較的新しい。墳丘の西側に造り出しがある。後円部に段があり、3段築成とされている。 周濠は後世に作られたものである。土師器と須恵器の埴輪が検出されている。墳丘は前方部南東端に封土の崩落が見られる。周濠の外縁、「周堤」の上部は江戸時代には削平されていた。断夫山古墳は盾形の二重周濠(内濠・外濠)、二重周堤(内堤・外堤)を備え、同時 期の大王墓の今城塚古墳(全長181m の前方後円墳)に次ぐ規模となる。葺石はないようである。

尾張氏

宮簀媛命の墓として伝えられている。古来より「日本武尊」伝承により宮簀媛命の墓と伝わる。宮簀媛命は尾張氏の祖とされている。

調査

古墳の本格的な発掘調査は行われていないため、内部構造は不明。資料の一部は南山大学と名古屋市博物館に保管される。出土品は円筒埴輪が知られる程度である。

埴輪

円筒・朝顔形埴輪は総重量26.2kg が出土した。色調は淡橙色系、淡黄橙色系、黄橙色系、橙色系、黄灰色系、灰白色系、灰色系、紫〜赤灰色系など多様である。

放射性炭素年代測定

周濠から採取した炭化材(資料1)、溝003SD 上層から出土した炭化材1 点(資料2)、炭化種実(イネ種子(頴果))(資料3)について放射性炭素年代測定を行った。資料1の年代範囲は2σで1268年から1296年、13 世紀後半〜末の暦年代つまり鎌倉時代となる。資料2は1446-1510 cal AD (80.01%)で15 世紀中頃〜16 世紀初頭、および16 世紀末〜17 世紀前半の暦年代を示した。試料No.は1950-1954 cal AD (1.28%)で、17 世紀後半〜20 世紀中頃の暦年代であった。周濠等の炭化材、種実はいずれも後世の混入と考えられる。

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 築成 後円部:3段
  • 墳長 151m
  • 後円部 径80m 高13m
  • 前方部 幅116m 長87m 高16m

外表施設

  • 円筒埴輪 円筒Ⅴ式
  • 葺石 あり

主体部

遺物

  • 埴輪片
  • 須恵器
  • 土師器

築造時期

  • 5世紀末から6世紀の前葉とみられる

被葬者

  • 古代の尾張連氏に関係する墳墓と見られる。

日本書紀 巻第七 景行天皇

  • (原文)日本武尊、更還於尾張、卽娶尾張氏之女宮簀媛、而淹留踰月。於是、聞近江五十葺山有荒神、卽解劒置於宮簀媛家、而徒行之。
  • (大意)日本武尊は尾張に帰還し尾張氏の娘の宮簀媛命を娶り、長くとどまった。近江の伊吹山に荒ぶる神がいると聞き、剣を宮簀媛の家に置いて歩いて行った。

指定

  • 1987年(昭和62年)7月9日 国の史跡

アクセス等 

  • 名 称:断夫山古墳 
  • 所在地 愛知県名古屋市熱田区旗屋町1014
  • 交 通:名古屋市営地下鉄名港線 日比野駅から徒歩16分 1.1km

参考文献

  1. 愛知県埋蔵文化財センター(2024)「史跡 断夫山古墳」愛知県埋蔵文化財センター調査報告書 第226 集