倭の五王 ― 2023年05月28日 22:01
倭の五王(わのごおう, Five Kings of Wa)は、中国の古代史料に名が伝わる5世紀の5人の倭国王である。
概要
中国の5世紀から6世紀にかけては南北朝時代であった。南北朝とは北朝の北魏と南朝の宋である。倭国は南朝の宋に使者を送った。このため中国南朝の宋の正史である『宋書』(夷蛮伝)に倭の五王が登場する。登場順に「讃」(さん)・「珍」(ちん)・「済」(せい)・「興」(こう)・「武」(ぶ)といずれも中国風の名前となっている。 讃は使者を送り、官職を得ている。使者の司馬曹達は、大陸の戦乱を逃れ、中国から朝鮮半島を経て日本に渡来した人と推定されている。したがって中国語の通訳は必要なかった。
『宋書』(夷蛮伝)倭国伝の訳
倭王讃
- 倭国は高句麗の東南大海にありながら、代々貢物を持参している。
- 高祖(宋の武帝)の永初二年(421年)詔して曰く。「倭国王の讃は万里からきて貢物を修めた。わざわざ遠くからやってくる誠は宜しく評価すべきである。よって除授を賜うべし」
- 『晋書』安帝本紀に「義熈(ぎく)九年(413年)是の歳、高句麗・倭国及び西南夷銅頭大師並びに方物を献ず」と書かれている。ここには倭王の名は書かれていないが、『梁書』倭伝に「晋の安帝の時、倭王賛有り」とかれるので、この時も賛であったの可能性がある(批判もある)。
- 太祖(宋の文帝)の元嘉二年(425年) 、讃は司馬曹達を遣わし、上表文を奉げ、方物(倭国の特産物)を献上した。
- 文帝本紀の元嘉七年(430年)春正月に「倭國王遣使獻方物」と書かれる。これは倭王の名がないが、讃のことと推察される。
倭王珍
- 讃が亡くなり、弟の珍が倭王となる。使者を遣して、貢ぎ物を奉った。使持節・都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事・安東大將軍を自称した。珍は上表して、安東將軍に除正せられることを求めた。詔して安東將軍・倭國王に叙した。珍は倭隋等十三人に平西・征虜・冠軍・輔國將軍の号を叙せられるよう求めた。文帝は詔して許可した。倭隋は珍の臣下であるが、珍の安東將軍は三品の四安将軍に対して、同じ第三品であるから、同じ品内でしかも1階しか違わない。倭隋はかなり有力な臣下であったと考えられる。
- 本記事に年代の記載はないが、「本紀」元嘉十五年(438) 四月の条に「倭国王珍を以て安東将軍と為す」と書かれているため、同年のことと考えられる。珍の要求した安東大將軍は第二品であるが、文帝はそのままでは認めず
倭王濟
- 元嘉二十年(425年)、倭國王の濟は同様に使者を送り、貢物を奉った。以前と同様に「安東将軍倭国王」に任命した。元嘉二十八年(433年) 、使持節・都督倭・新羅・任那加羅・秦韓、慕韓六國諸軍事の称号を加え、安東將軍はそのままとした。並びに申請された二十三人を将軍や郡長官に任命した。
倭王興
- (訳) 倭王斎が亡くなり、世子の興が朝貢した。大明六年(462年)、世祖の孝武帝は詔して「倭王丗子の興は代々続けた忠節を大事にし、外海に稟し、辺境を守り、朝貢し遠隔地を統治したので、安東將軍倭國王の称号をあたえるがよかろう。
倭王武
- 倭王興が亡くなり、弟の武が後を継いだ。「自持節・都督・倭・百濟・新羅・任那加羅・秦韓・慕韓・七國諸軍事・安東大將軍・倭國王」を自称した。
- 順帝の昇明二年(478年)、倭国王は遣使して上表文を奉じた。「封国は遠く辺地にあり、中国の藩迸となっている。昔はわか祖先は甲冑をみにつけて、山川を渡り歩き、落ち着くことはなかった。東は毛人を制すること五十五國、西は衆夷の六十六國を征服し、海を渡り、北の九十五国を平定した。王道は融泰し、領土を遠くまで広げた。代々中国に朝貢に時期が遅れたことはない。武は愚かと言えども、忝なくも祖先の偉業を継いで、中国の王室に従っている。経路は百済を通り船をつなぎ留め、旅支度をした。
- ところが高句麗は無道にも百済を征服しようとして国境を侵略し、人々を殺害した。中国への朝貢もままならず、中国への忠誠を尽くせなくなった。通行しようとして、通れる時もあるが、通れない時もある。亡き父の斉は兵士100万をもって正義の声を奮い立たせ、攻め込もうとしていたが、あと一息のところでできなくなった。父と兄の喪中は兵を動かせず、そのままであった。
- 今になって、武器を整え、兵を訓練し、兄と父の志を遂げようとしている。中国皇帝の徳により支えて頂ければ、強敵にの高句麗を打ち破り、地方を治め、かっての功業を取り戻せよう。開府義同三司を帯方郡を通じて任命され、諸将に官爵を任命していただき、中国への忠誠を勧めてほしい。順帝は武を使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東大將軍倭王に任命した。
倭王の比定
比定が一致しない王と一致している王とがある。
- 王|比定1|比定2|比定3
- 讃|仁徳|応神|履中
- 珍|反正|仁徳
- 斎|允恭
- |康
- 武|雄略
比定の根拠
江戸時代京都の儒学者で医師の松下見林『異称日本伝』(1693年)が比定した。根拠は五王名と天皇の諱との字の意味と字形の相似関係を根拠とした。しかし字義や語音の解釈は恣意的な解釈になりやすい。
- 王|大王|理由
- 讃|応神|応神の諱「ホムタワケ」の「ホム」|
- 讃|仁徳|オホサザキの「ササ」|
- 讃|履中|去来穂別(いざほわけ)の訓の略|
- 珍|反正|ミズハ、瑞→珍、反正天皇の諱、瑞歯別の瑞と珍の字形が似る|
- 珍|仁徳|
- 斎|允恭|雄朝津間稚子(をあさづまわくご)の津と済の字形が似る|
- 興|安康|安康天皇の諱の穴穂(あなほ)が訛った。|
- 武|雄略|雄略天皇の諱、大泊瀬幼武を略した|
問題点
次のような検討課題がある。
- 五王を記紀の誰に比定するか。
- 記紀に五王がなぜ書かれていないか。
- なぜ五王は爵号を求めたか。
- 外交目的は何であったか。
- 五王に王権があったか。
- 秦韓慕韓はどこか
- 書記の紀年と宋書のズレ
- 珍と斎との関係が明示されていない
『宋書』(夷蛮伝)倭国伝の原文
倭王讃
- 倭國在高驪東南大海中丗修貢職
- 髙祖永初二年詔曰倭讃萬里修貢遠誠宜甄可賜除授
- 太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表獻方物
倭王珍
- 讃死弟珍立遣使貢獻自稱使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王表求除正詔除安東將軍倭國王珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔國將軍號詔竝聽
倭王濟
- 二十年倭國王濟遣使奉獻復以爲安東將軍倭國王
- 二十八年加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故并除所上二十三人軍郡
倭王興
- 濟死丗子興遣貢獻
- 丗祖大明六年詔曰倭王丗子興奕丗載忠作藩外海稟化寧境恭修貢職新嗣邊業宜授爵號可安東將軍倭國王
倭王武
- 興死弟武立自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王
- 順帝昇明二年遣使上表曰封國偏遠作藩于外自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川不遑寧處東征毛人五十五國西服衆夷六十六國渡平海北九十五國王道融泰廓土遐畿累葉朝宗不愆于歳臣雖下愚忝胤先緒驅率所統歸崇天極道遥百濟装治船舫而句驪無道圖欲見呑掠抄邊隷虔劉不已毎致稽滯以失良風雖曰進路或通或不臣亡考濟實忿寇讎壅塞天路控弦百萬義聲感激方欲大舉奄喪父兄使垂成之功不獲一簣居在諒闇不動兵甲是以偃息未捷至今欲練甲治兵申父兄之志義士虎賁文武效功白刃交前亦所不顧若以帝德覆載摧此彊敵克靖方難無朁前功竊自假開府義同三司其餘咸假授以勸忠節詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王
参考文献
- 河内 春人(2018)『倭の五王 - 王位継承と五世紀の東アジア』中央公論新社
- 石原道博(1986)『新訂 旧唐書倭国日本伝・ 宋史日本伝・元史日本伝』岩波書店
- 藤間 生大(1968)『倭の五王』岩波書店
- 河上麻由子(2019)『古代日中関係史-倭の五王から遣唐使以降まで』中央公論新社
コメント
_ 古代史探索者 ― 2024年07月23日 14:32
_ 古代史探索者 ― 2024年07月24日 00:29
水野某から新たなコメントがあり「倭の五王を考古学の立場からの検討した例はある」というが、単なる思い込みである。古代史探索者としては少なくとも考古学で証明レベルのものはないと考えている。古墳と副葬品が証拠というかもしれないが、倭の五王と結びついて証明されたものはない。
水野某は「私の説はその上にある」などといっているが、どうせ間違った見解または独善的な解釈であろうから、信用できない。それがあるなら、学会でも発表すればよいのである。それをやらないのは、「笑いもの」になるからであろう。
先に述べたように、当面は弥古代史探索者は生時代の検討に力点があり、そのほか本業で忙しいので、倭の五王の項は軽く課題を指摘した程度に留まる。水野某は「倭の五王は分かっている」と言うが、分かっているなら論文でも書けばよいのだが、書こうとしないのは、何も分かっていないからであろう、としか言い様がない。
水野某は「私の説はその上にある」などといっているが、どうせ間違った見解または独善的な解釈であろうから、信用できない。それがあるなら、学会でも発表すればよいのである。それをやらないのは、「笑いもの」になるからであろう。
先に述べたように、当面は弥古代史探索者は生時代の検討に力点があり、そのほか本業で忙しいので、倭の五王の項は軽く課題を指摘した程度に留まる。水野某は「倭の五王は分かっている」と言うが、分かっているなら論文でも書けばよいのだが、書こうとしないのは、何も分かっていないからであろう、としか言い様がない。
_ 古代史探索者 ― 2024年07月24日 08:34
水野某が「倭の五王を考古学の立場からの検討した例はある」というのは、稲荷山古墳出土の鉄刀銘と江田船山古墳の鉄刀を言うのだろう。これは主として文献学的方法により雄略とされ、名前の類似性から雄略が倭王「武」、たてられた説である。一部で通説のようになっている。
しかし、これは通説であっても未確認である。
鉄刀にまつわる科学的な調査がされているのかどうか。酸素同位体年代測定や年輪年代測定、などとの矛盾がないかどうか。
これらが調べられているという報告は、未見である。
水野某は早合点の迷人であるから、少ない証拠で
決めつける傾向がある。
しかし名前の類似性だけで決めてはいけないのである。
したがって、現時点では未確認としか言いようがない
のである。
しかし、これは通説であっても未確認である。
鉄刀にまつわる科学的な調査がされているのかどうか。酸素同位体年代測定や年輪年代測定、などとの矛盾がないかどうか。
これらが調べられているという報告は、未見である。
水野某は早合点の迷人であるから、少ない証拠で
決めつける傾向がある。
しかし名前の類似性だけで決めてはいけないのである。
したがって、現時点では未確認としか言いようがない
のである。
_ 古代史探索者 ― 2024年07月24日 23:59
水野某は河上麻由子氏の『古代日中関係史』記載の倭の
五王の部分は「参考資料を再整理しているだけで新しい
観点は見られなかった」という。
しかし、これは水野某の知識不足または読解力不足であ
る。東アジア全体を視野に入れて論じているところを見
落としている。
まさに猫に小判である。
なお古代史探究者は雄略が倭王「武」との確信
はまだ持っていない。年代的不整合の可能性もまだ
あるからである。
江田船山古墳では金銅竜文透彫冠帽等の冠帽類が
鉄剣(国宝)の金象嵌銘より重要とは笑止千万と
いえる。冠帽は朝鮮半島から移入されたものであろ
うが、半島との関係が熊本まで及んでいたという
証拠にはなるが、王権の組織の実態をうかがえるのは、
鉄剣である。
水野某はもしかすると、伽耶の王が倭国に来た
証拠と言いたいのかもしれないが、その証拠に
はならないであろう。十善の森古墳の金銅製冠帽、金製垂飾
や百済の金銅冠帽と比較してみよう。
五王の部分は「参考資料を再整理しているだけで新しい
観点は見られなかった」という。
しかし、これは水野某の知識不足または読解力不足であ
る。東アジア全体を視野に入れて論じているところを見
落としている。
まさに猫に小判である。
なお古代史探究者は雄略が倭王「武」との確信
はまだ持っていない。年代的不整合の可能性もまだ
あるからである。
江田船山古墳では金銅竜文透彫冠帽等の冠帽類が
鉄剣(国宝)の金象嵌銘より重要とは笑止千万と
いえる。冠帽は朝鮮半島から移入されたものであろ
うが、半島との関係が熊本まで及んでいたという
証拠にはなるが、王権の組織の実態をうかがえるのは、
鉄剣である。
水野某はもしかすると、伽耶の王が倭国に来た
証拠と言いたいのかもしれないが、その証拠に
はならないであろう。十善の森古墳の金銅製冠帽、金製垂飾
や百済の金銅冠帽と比較してみよう。
_ 古代史探索者 ― 2024年07月26日 00:11
水野某は参考文献に挙げている以外の文献として、坂元義種氏の著書しか指摘がない。実際には参考文献には挙げていないけれども、非常に参考となる書籍・雑誌がいくつか存在している。それらの文献は手元にあるが、現在、超多忙のため「倭の五王」を検討する時間は残念ながら、今はない。とりあえず横に置いてある状態である。
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水野某(大垣市あたりか?)から「坂元義種『倭の五王-空白の五世紀』を読め」という意見があった。当然、当方はそれを見ている(参考文献にはあげていない)が、坂元義種の論考は古い研究なので、それほど参考にはならないと考えている。
最近では、当方は「倭の五王」の時代より弥生時代の研究に力点を置いている。しかも、これは1年以上前に書いたものであるから、時間をかければ改定は可能である。しかし現状は文献の要旨紹介程度のままにとどめている。「「倭の五王」で古代史レベルが測れる」と水野某は言うが、「倭の五王」程度ではそうはならない。「倭の五王」は考古学的な証拠がないし、科学的な検討材料がないため、優先順位が低いと考えている。その証拠に考古学の立場からの検討は見たことがない。
個人的には坂元義種氏より河内氏や河上氏の研究の方が進んでいると考える。水野某の頭はいささか古いままであることが分かる。
古代史といっても。古墳時代、弥生時代、縄文時代、その他があり、また文献学の他に考古学もある。水野某の相変わらずの視野の狭さに驚くばかりである。