天之日矛 ― 2025年04月12日 00:32
天之日矛(あめのひぼこ)は『古事記』に登場する伝説的人物で、応神の時代に新羅から渡航した渡来人とされる。『日本書紀』は「天之日槍」と記す。
概要
『古事記』では天之日矛は応神紀に登場するが、その時期は「昔」となっている。天之日矛は新羅の国主の子と示される。渡航した由来は、天之日矛が妻を責めたとき「私はあなたの妻になるべきものではない。祖先の国に行く」として難波に逃れた。妻を追って天之日矛は難波に向かったが、海神が遮ったため入れず、但馬に着いた。そこで俣尾の娘の前津見と結婚して子を産んだ。天之日矛の子孫は神功皇后の母となった。 『日本書紀』では垂仁3年3月に天之日槍が帰化したと記載する。渡来時に、羽太の玉(一書は「葉細の玉」)、足高の玉、赤石の玉、出石の小刀、出石の鉾、日鏡、熊の神籬、胆狭浅の太刀の八神宝を持参したとする。近江国「鏡村谷」(蒲生郡竜王町)の陶人は従者となった。天之日槍は『古事記』と同じ、但馬に住んだ。 『播磨風土記』では韓国(からくに)からやってきて、住む土地がほしいと天之日槍命は葦原志挙乎と土地争いをし、志挙乎は海の中なら良いと許す。天之日槍は剣で海をかき分け出来た島に宿った。志挙乎はその霊力に畏れをなし、天日槍命より先に国を抑えるべく北上した。天之日槍命は伊和の大神と戦争をして8000の軍勢を動員したのでその地を「八千軍(やちぐさ)」という。
考察
『播磨風土記』は天之日槍命と書き、神と認識している。『古事記』『日本書紀』では「命(みこと)」は書かれないので、ただの人間扱いである。神功皇后の祖先は天之日槍とされている、すなわち新羅の出身ということになる。
参考文献
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋(1994)『日本書紀』岩波書店
- 倉野 憲司(1963)『古事記』岩波書店
- 武田祐吉(2016)『風土記』岩波書店
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日本考古学協会 ― 2025年03月28日 00:20
日本考古学協会(にほんこうこがくきょうかい)は1948年に設立された日本最大の考古学研究者の組織である。
概要
日本考古学協会では春の総会と秋の大会、研究発表会、シンポジウムや講演会が開催され、会場で研究発表、シンポジウム、ポスターセッションが行われる。倫理綱領は2006年5月27日制定され、2016年1月23日に一部改正・施行された。現在の会員数は約3,900名である。総会と大会は一般人も参加できる。
入会資格
入会資格は25歳以上で著書・論文・発掘報告書いずれか1篇以上、あるいは資料紹介や分担執筆など3篇以上が条件となる。会の審査委員会で著書等の審査がされ、現会員からの意見等を受け付け問題がなければ入会できる。
設立の経緯
1947年から本格的に登呂遺跡の発掘調査が行われ、そこでは集落と水田が発見され、弥生時代のムラの全容が明らかになった。考古学的成果は、新しい時代の象徴として、全国的に注目された。1947年の登呂遺跡調査会による発掘調査は、後藤守一明治大学教授に文部省科学研究費という個人への交付金をもとに実施されたものであったが、国費の補助という性格のため、調査主体者として全国的な研究者の参加団体であることが求められた。 さらに発掘過程で全国の考古学研究者が集まり情報交換し、調査に協力を求めるなど体制構築の必要性が認識された。1947年12月に考古学の全国的専門学会設立のための第1回考古学協議会、翌1948年1月に第2回考古学協議会が開催され、同年2月には早くも日本考古学協会設立準備委員会の結成へすすんだ。1948年4月2日、日本考古学協会の設立総会が東京国立博物館講堂で開催され、正式に発足した。1950年に文化財保護法が制定された。 1970年代の後半から協会の会員数が急増したのは、文化財専門職員の増員という時代背景があり、会員の大半が文化財専門職員であり、いわゆる行政内研究者が占めてきた。 2009年に、法人化が認められ「一般社団法人日本考古学協会」と改称した。現在まで日本を代表する考古学の学会となっている。
刊行物
定期刊行物は機関誌『日本考古学』、英文機関誌『Journal of Japanese Archaeology』、『日本考古学年報』を発行する。総会、大会に合わせて『研究発表要旨』や会員向けの広報誌として『会報』を発行する。埋蔵文化財保護対策委員会(常置)を設置し、国・行政機関などの関係諸機関・団体と協議・連携を図っている。
類似団体
類似団体として1954年に設立された「考古学研究会」(個人会員約2,500名、本部は岡山市)がある。「日本第四紀学会」は1956年に発足し、約260万年前から現在にいたる第四紀)の自然、環境、人類の研究を行う。会員の専門分野は地質学、地理学、考古学、古生物学、植物学、土壌学、地球物理学、地球化学、工学、人類学、動物学などである。「古代学協会」は、1951年(昭和26年)10月、大学、博物館の古代史研究者の有志が結成し、考古学と文献学を総合した古代史研究の新しい方法論による古代史の総合的研究を目指す。2022年(令和4年)3月末時点で会員数728名である。「日本考古学会」は1895年(明治28年)に設立された長い歴史をもつ考古学の学会であり、機関誌は『考古学雑誌』である。
考察
アクセス
- 名称:一般社団法人 日本考古学協会
- 所在地:東京都江戸川区平井5-15-5 平井駅前協同ビル4階
- 交 通:総武本線 「平井駅」から徒歩1分
参考文献
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岡倉天心 ― 2025年03月26日 23:34
岡倉天心(おかくらてんしん,1863年-1913年)は明治時代に日本美術の革新に貢献した学者、美術指導者・思想家である。海外では『The Book of Tea(茶の本)』の著者として知られる。本名は岡倉覚三。幼名は岡倉角蔵。
概要
出生
幕末の1863年(文久2年)、岡倉覚右衛門(岡倉勘右衛門の説もある、通称は善右衛門・金右衛門・全右衛門)、母岡倉この(旧姓野畑)の次男として横浜本町甫丁目に生まれた。父は福井藩士で藩命により横浜で貿易商(生糸の輸出)を営んでいた(屋号「石川屋」)。なお巣鴨の染井霊園内にある岡倉家の墓には、父は岡倉勘右衛門と記されている。父は1896年(明治29年)7月9日、没年77歳、母このは明治 3年4月3日(1870)没。後妻の静明治32年(1899)1月9日没。生糸を扱う貿易商店・石川屋は1860年(安政7年)に開店した。 岡倉天心は貿易商店・石川屋店を訪れる外国人客から幼少時より英語に慣れ親しんでいた。
教育
1869年(明治2年)、8歳でアメリカ人宣教師ジェイムス・バラ―(James Hamilton Ballagh)の英語私塾で英語を学ぶ。この私塾が英学塾高島学校になると、ジェイムス・バラ―の弟のジョン・バラ―に英語を学ぶ。寺内正毅、本野一郎、宮部金吾、星亨らも共に学んだ。1871年(明治4年)、父に伴われて川崎大師に参詣したとき、東京府と神奈川県界に建つ標示杭を示されて読んでみろと言われたが一字も解することはできなかった。これを恥じた天心は国語の学習をさせてくれるよう父に迫り、菩提寺長命寺の玄導和尚に託されて、漢籍を学ぶことになった。『大学』『論語』『中庸』『孟子』を学んだ、 1873年(明治6年)、父は石川屋をたたみ、日本橋蛎殻町に転居し、旅館を始めた。1873(明治6)年、官立東京外国語学校(現東京外国語大学)に入学する。1875年(明治8年)、東京開成学校に11歳で入学し、1877年(明治10年)、同校が東京大学と改称されるに伴い文学部に籍を移した。同期には文学部に井上哲次郎、牧野伸顕、医学部に森林太郎がいた。 1878年(明治11年)東京大学文化大学3年在学中に、来日した米国人教師フェノロサに出会う。また同時に漢詩を森春濤、奥原晴湖に文人画、琴を加藤桜老に習う。美術・文芸への興味はこの頃から抱いた。フェノロサは、英語に堪能な天心を通訳とし、フェノロサの美術品収集を手伝う。天心もフェノロサの研究対象に興味をもつ。 1879年(明治12年)、17歳で大岡もと(元子、のちに基子)と結婚する(参考文献1,p270)。大岡元子は大岡定雄の娘で、赤坂の茶会(茶店とも)で天心と知り合い、岡倉旅館で働きはじめ、1879年に結婚した(参考文献2)。政治学・理財学を学び、英文により「国家論」を東京大学の卒業論文としたが、妻の元子に焼かれてしまい、急遽「美術論」を提出した。
美術行政
1880年(明治13年)7月に東京大学を卒業して、9月フェノロサの通訳として、奈良・京都の古社寺を回る。10月から文部省専門学務局に勤務し、音楽取調係は兼務となった。1882年5月、フェノロサは龍池会に招かれ、「美術真説」を公演した。 1883年(明治16年)、フェノロサの通訳として、狩野芳崖宅を訪問。 1884年(明治17年)、フェノロサ、狩野鉄哉らと古寺調査。法隆寺夢殿の救世観音を開扉させた。「鑑画会」を設立。九鬼隆一、狩野芳崖、橋本雅邦らが参加。 1885年(明治18年)、牛込筑土八幡の元旗本屋敷に転居。 1886年(明治19年)、フェノロサ、4月、芳崖らとともに奈良・大阪で古美術調査。「天心」の号を用いる。10月、フェノロサと欧米視察。 1887年(明治20年)10月、帰国。東京美術学校幹事となる。開校準備。 1889年(明治22年)、東京美術学校第一期生として横山大観、下村寒山ら入学。5月、帝国博物館理事。美術部長に就任。 1890年(明治23年)7月、フェノロサは東京美術学校雇を辞任し帰国する。9月、東京美術学校で「日本美術史」「泰西美術史」を講義開始。10月、27歳で東京美術学校校長に就任。 1893年(明治26年)、宮内省の命令で、中国へ第1回目の古美術調査旅行。12月帰国。 1898年(明治31年)「築地警醒会」の名で岡倉を誹謗した怪文書がばらまかれる。 「美術学校騒動」で東京美術学校校長、帝国博物館理事・美術部長、パリ万国博覧会臨時博覧会評議員を辞職。10月、谷中に日本美術院を開院。 1903年(明治36年)、五浦に土地を購入。 1904年(明治37年)、4月、ボストン美術館のエキスパートとなる。11月『日本の覚醒』をニューヨークのセンチュリー社より刊行する。12月『東洋の理想』をニューヨークのダットン社より刊行する。 1905年(明治38年)、美術品収集のため京都、奈良旅行。ボストン美術館、中国・日本美術部の顧問就任。 1906年(明治39年)、『茶の本』をニューヨーク、フォックス・ダフィールド社から刊行する。 1910年(明治43年)、4月から6月、東京帝国大学で「泰東巧芸史」を講義。5月、某トン美術館中国・日本美術部長を任命される。 1912年(明治45年)、11月から5回目のボストン美術館勤務。 1913年(大正2年)腎臓炎が再発、9月2日、新潟県赤倉温泉の山荘で永眠、同日、従四位・勲五等双光旭日章を贈られる。
Wikipedia日本語版の誤り
「岡倉天心」来歴の項に「1878年(明治11年)基子と結婚。」とあるが、誤りである。結婚当時は「基子」の名前ではなかった。また1878年ではなく正しくは1879年である。家族の項には「1879年に結婚した」と書かれている。
著書
- 岡倉天心(1906)『茶の本』
- 岡倉天心(1906)『東洋の理想』
- 岡倉天心(2001)『日本美術史』
- 岡倉天心(1904)『日本の目覚め』
参考文献
- 清水多吉(2013)『岡倉天心』中央公論新社
- 新井恵美子(2004)『岡倉天心物語』神奈川新聞社
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白石太一郎 ― 2025年03月05日 00:30
白石太一郎(しらいし たいちろう、1938年11月14日 - )は日本の考古学者である。 国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授。大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長。穿孔は日本考古学。
概要
1938年、大阪府大阪市に生まれる。1957年3月、大阪星光学院高等学を卒業し、1961年3月、同志社大学文学部文化学科文化史専攻を卒業する。1964年3月、同志社大学大学院文学研究科文化史専攻修士課程修了、1968年、同志社大学博士課程単位取得満期退学。 1969年、奈良県立橿原考古学研究所所員となる。1970年4月には奈良県教育委員会技術職員、1973年から龍谷大学文学部非常勤講師に就任する。1977年、同志社大学文学非常勤講師となる。1981年から国立歴史民族博物館 助教授に着任する(1984年まで)。1984年から国立歴史民族博物館教授となる(2002年まで)。 1997年、国立歴史民俗博物館副館長となる。2002年国立歴史民族博物館を退官する。2004年、大阪府立近つ飛鳥博物館館長、奈良大学文学部文化財学科教授となり、2009年3月に奈良大学を定年退官した。
古代史への興味
中学生校の頃、父が買い求めた末永雅雄博士の著書『大和の古墳』により考古学への関心を高められた。土曜日日曜日に、『大和の古墳』を片手に奈良県の古墳を回った。 高校1年生の時に読んだ『京大日本史』から人生を決めた。また高校2年生の頃刊行された『日本考古学講座』から考古学研究の動向と成果に魅せられた。大学2年生から大学院にかけて製塩遺跡や群集墳、京都市の大宅廃寺の発掘調査に参加した。
業績
古墳の研究を通じて、考古学による日本の古代国家・古代文化形成過程の解明を目指す。
- 2002年、雄山閣考古学賞受賞。
- 2020年、地域文化功労者表彰
著書
- 白石太一郎(2022)『近畿の古墳と古代史』吉川弘文館
- 白石太一郎(2022)『東国の古墳と古代史』吉川弘文館
- 白石太一郎(2018)『古墳の被葬者を推理する』中央公論新社
- 白石太一郎, 水野正好, 西川寿勝(2015)『邪馬台(ヤマト)国』雄山閣
- 白石太一郎,橋本輝彦,坂井秀弥(2014)『邪馬台国からヤマト王権へ』ナカニシヤ
- 大神神社編(2013)『古代ヤマトと三輪山の神』学生社
- 白石太一郎(2013)『古墳からみた倭国の形成と展開』敬文舎
- 白石太一郎(2011)『古墳と古墳時代の文化』塙書房
- 白石太一郎(2009)『考古学からみた倭国』青木書店
- 白石太一郎(2007)『東国の古墳と古代史』学生社
- 白石太一郎(2007)『近畿の古墳と古代史』学生社
- 白石太一郎(2002)『倭国誕生』吉川弘文館
- 白石太一郎(2001)『古墳とその時代 』山川出版
- 白石太一郎(2000)『古墳の語る古代史』岩波書店
- 白石太一郎(2000)『古墳と古墳群の研究』塙書房
- 白石太一郎(1999)『古墳とヤマト政権』文芸春秋
- 白石太一郎(1999)『古代国家はいかに形成されたか』文藝春秋
- 白石太一郎(1998)『古墳の語る古代史』歴史民俗博物館振興会
- 白石太一郎(1989)『古墳の造られた時代 古墳時代』毎日新聞社
- 白石太一郎(1985)『古墳の知識 (1)』東京美術
参考文献
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藤間生大 ― 2024年10月21日 20:50
藤間生大(とうませいた、1913年5月16日 - 2018年12月10日)は日本の歴史学者、考古学者である。
概要
1913年5月16日、広島県広島市に生まれた。1936年、早稲田大学文学部史学科卒。1938年、日本評論社に入社し、1945年7月、埼玉県立浦和中学校教諭となる。1971年、熊本商科大学教授(経済学部)、同付属海外事情研究所長となる。1982年、熊本商科大学教授を退職する。2018年12月10日、老衰のため死去。105歳。
業績
歴史学者の石母田正らと日本古代史研究を行い、戦後のマルクス主義歴史学をリードした。マルクス主義歴史学者として井上清、石母田正と並び称せられた。 著書に『日本古代国家』『埋もれた金印』『日本武尊』などがある。岩波新書『埋もれた金印』はロングセラーとなった。1950年代には古代の英雄を研究し、民族の独立を主張する民族論を牽引して学会に激しい論争を引き起こした。藤間 生大は部族を複数の氏族(親族共同体)を包括する地域的な結合体であるとし、北部九州における部族的なあつまりが中国人によって「国」とよばれ、その族長は「国王」と呼ばれたと論じた。 古代日本史から近代東アジア史まで幅広く研究する。1950年代には1950年代半ば以降はマルクス主義歴史学の衰退とともに学界の表舞台から遠ざかった。熊本県合志市栄に藤間生大希望の歴史学記念館が開設されている。
著書
- 藤間 生大(1943)『日本古代家族』伊藤書店
- 藤間 生大(1947)『日本庄園史』近藤書店
- 藤間 生大(1949)『日本古代国家―成立より没落まで特にその基礎構造の把握と批判』伊藤書店
- 藤間 生大(1950)『国家と階級 天皇制批判序説』太平社
- 藤間 生大(1950)『やまと・たける―古代豪族の没落とその挽歌』角川書店
- 藤間 生大(1951)『国家権力の誕生』日本評論社
- 藤間 生大(1970)『埋もれた金印 日本国家の成立』岩波書店
- 藤間 生大(1972)『邪馬台国の探究 埋もれた金印を中心にしたゼミナール』青木書店
- 藤間 生大(1977)『近代東アジア世界の形成』春秋社、1977年
- 藤間 生大(1982)『東アジア世界研究への模索 研究主体の形成に関連して』校倉書房
- 藤間 生大(1987)『壬午軍乱と近代東アジア世界の成立』春秋社
- 藤間 生大(2018)『希望の歴史学 藤間生大著作論集』ぺりかん社、
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西谷正 ― 2024年10月11日 21:20
'西谷正(にしたにただし、1938年11月11日 - )は日本の考古学者である。専門は古代史。長崎県原の辻遺跡保存整備委員会会長。九州大学名誉教授、九州歴史資料館名誉館長、元海の道むなかた館長、糸島市立伊都国歴史博物館名誉館長、名誉文学博士(東亜大学校・国立公州大学校)。
概要
1938年、大阪府高槻市生まれる。1964年、奈良学芸大学を卒業する。1966年、京都大学大学院文学研究科(考古学専攻)修士課程を修了する。1966年、奈良国立文化財研究所研究員(韓国・国立博物館在外研究員)となる。その後、福岡県教育委員会に勤務。九州大学助教授(ソウル大学校訪問研究員)を経て、1987年に九州大学教授となる。、2002年に定年退官となった。2003年、九州大学 名誉教授、2004年、韓国伝統文化学校(現、韓国伝統文化大学)外国人招聘教授(2008年まで)。2004年、伊都国歴史博物館の館長となる。2006年、日本考古学協会会長となる(2008年まで)。2012年、海の道むなかた館の館長となる。2024年3月31日、海の道むなかた館長を退任する。 朝鮮半島を中心に東アジアの古代史を考古学の観点から研究する。専門は東アジア考古学。
著書
- 西谷正(2007)『東アジア考古学辞典』(東京堂出版)、
- 西谷正(2009)『魏志倭人伝の考古学-邪馬台国への道-』学生社
- 西谷正(2010)『古代北東アジアの中の日本』梓書院
- 西谷正(2012)『邪馬台国をめぐる国々』雄山閣
- 西谷正(2012)『伊都国の研究』学生社
- 西谷正(2014)『古代日本と朝鮮半島の交流史』(同成社)、
- 西谷正(2016)『北東アジアの中の弥生文化』梓書院
- 西谷正(2017)『北東アジアの中の古墳文化』梓書院
- 西谷正(2018)『地域の考古学』梓書院、
- 西谷正(2019)『私の東アジア考古学』海鳥社
- 西谷正(2021)『九州考古学の現在』海鳥社
- 西谷正(2023)『朝鮮考古学研究』海鳥社
参考文献
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森浩一 ― 2024年10月11日 20:40
森浩一(もりこういち、1928年7月17日 - 2013年8月6日)は日本の考古学者である。学界最後の重鎮として知られていた。
概要
1928年7月17日、大坂で生まれる。父は高島屋の図案部長であった。 小中学生時代に目にした遺物や遺跡を通じて考古学に目覚めた。学生時代から古墳の発掘と報告書作成に取り組む。旧制中学のころから奈良県の橿原考古学研究所に出入りし、大学予科時代に、大量の短甲が出土した大阪府の黒姫山古墳、大学卒業のころには中国・魏の年号「景初三年」銘の銅鏡が出土した同府の和泉黄金塚古墳の発掘調査などに参加した。壱岐・対馬など各地の遺跡を見て回る。就職後は高等学校教諭の傍ら、新沢千塚古墳(奈良県橿原市)などの発掘に従事する。 東京大学の井上光貞から『日本の歴史』(中央公論社)の考古学担当の執筆者に抜擢される。1965年8月、急逝した酒詰仲男(東京大学卒、人類学専攻)の後任として同志社大学専任講師となる。方法論は遺構遺物の観察に基づく実証主義に依りつつ、考古学だけでなく文献史学・民俗学・人類学・神話学など様々な関連諸学に精通した幅広い視野で研究を進める。大学に教員として勤務する頃までに携わった発掘調査に大阪府の和泉黄金塚古墳や奈良市の大和6号墳、また大阪府の姫山古墳など、戦前戦後の行政的遺跡保護体制が極めて不十分な中で、手弁当による緊急発掘調査に従事した。自称する「町人学者」としての人生哲学から、生涯に渡り叙勲や褒章を受けなかった。宮内庁が管理している陵墓について、同庁による被葬者の指定が必ずしも裏付けられないことを問題提起し、天皇名などではなく所在地名で呼ぶことを提唱した。これは現在、主流の呼称になっている。
小学生で須恵器発見
小学校5年のとき、家から1kmほどの西除川に遊びに行った。川の中から土器の破片を見つけ『日本文化史』から該当する個所を探した。今の須恵器(当時は「斎瓮土器」)が該当すると判断した。担任に見せたところ「古いものが簡単に落ちているはずがない」と言われ、担任のことばより書物を信じるようになった(文献3)。
末永雅雄と出会う
黄金塚古墳は陸軍のため掘り返され、主体部が損傷を受けていた。また黒姫山古墳は松の根を堀り返したため、円筒埴輪や鉄製鉄剣などが散乱してしまった。後始末の相談に、狭山村に戦後の昭和20年8月26日、末永雅雄を訪ねた。森は当時は17歳であり、戦後間もない時期であった。11月になり、現地に末永博士が入り、露出した部分の応急調査と補修を行った。末永雅夫博士に「橿原に考古学研究所を作っている。良ければ日曜日に来ないか」と誘われて、同年9月9日から奈良県立橿原考古学研究所(当時はまだ奈良県の組織ではなかった)に出入りするようになった(文献3)。
対馬旅行
大学4年生の夏に壱岐対馬を訪問した。朝鮮戦争の時期であった。博多の港から壱岐の芦辺港を経由して対馬の厳原でおりた。自分で対馬を歩くと、魏志倭人伝は実際に現地を訪れて書いた紀行文的な描写であることに気づいた。邪馬台国だけ関心を持って研究している人は、一生やっても何の意味もない。確実なところをなぜ研究しないのだろうか(文献3)と考えた。現地で1年くらい過ごさないと書けない文章ではないかと思う。単に中国人が通過して書いた資料ではないした。 『魏志倭人伝』は3世紀の出来事を3世紀のうちにまとめた同時代史料であり、非常に重要な資料である。『古事記』や『日本書紀』は奈良時代に編集しているから、比較すると、どこまで3世紀に使えるか判断は難しい、また当時とでは意味が違っている。
三角縁神獣鏡
卑弥呼が魏の皇帝から下賜された鏡を「三角縁神獣鏡」とする説に疑義を投じ、大きな論争を巻き起こした。魏鏡には三角縁神獣鏡を構成するどの要素もない。縁の三角、神獣という模様、大型であること、その三要素は魏にない。呉にはバラバラにある。それを統合したという意味で、三角縁神獣鏡は日本製であることは間違いない(文献3)、と語った。
経歴
- 1928年7月17日、 大阪市に生まれる。
- 1935年、堺市の海岸近くに転居する。
- 1938年、川で須恵器の破片を拾い、考古学との出会いとなる。
- 1945年3月 大阪府立堺中学校(現大阪府立三国丘高等学校)卒業
- 1946年4月 同志社大学予科入学。
- 1948年、学生考古学研究会を組織し、『古代学研究』を機関紙として発刊する。
- 1949年4月 同志社大学英文科三年に編入
- 1951年3月 同志社大学英文科卒業
- 1951年 4月 大阪府立泉大津高等学校教諭となる
- 1955年4月 同志社大学大学院文学研究科修士課程に入学
- 1957年3月 同志社大学大学院文学研究科修士課程 課程修了。
- 1957年4月 同志社大学大学院文学研究科博士課程に入学
- 1958年 同志社大学大学院文学研究科博士課程中退。
- 1965年8月 泉大津高等学校教諭を退職、同志社大学文学部専任講師
- 1967年4月 同志社大学文学部助教授となる
- 1972年4月 同志社大学教授就任。
- 1999年(平成11年)3月 同志社大学を退職し、同名誉教授
- 2013年8月6日、急性心不全のため死去した。享年85歳。
受賞
- 第22回南方熊楠賞
著書
- 森浩一(1965)『古墳の発掘』中央公論社
- 森浩一(1973)『古墳―石と土の造形』保育社
- 森浩一(1991)『古代日本と古墳文化』講談社
- 森浩一(1995)『古代史の窓』新潮社
- 森浩一(1998)『僕は考古学に鍛えられた』筑摩書房
- 森浩一(1998)『考古学へのまなざし―地中から甦る本当の歴史』大巧社
- 森浩一(1999)『日本神話の考古学』朝日新聞社
- 森浩一(2004)『地域学から歴史を読む』大巧社
- 森浩一(2005)『記紀の考古学』朝日新聞社
- 森浩一(2005)『日本の深層文化』筑摩書房
- 森浩一(2010)『倭人伝を読みなおす』筑摩書房
- 森浩一(2011)『古代史おさらい帖: 考古学・古代学課題ノート』筑摩書房
- 森浩一(2011)『萬葉集に歴史を読む』筑摩書房
- 森浩一(2011)『天皇陵古墳への招待』筑摩書房
- 森浩一(2015)『古墳時代を考える (森浩一著作集 第1巻)』新泉社
- 森浩一(2015)『和泉黄金塚古墳と銅鏡 (森浩一著作集 第2巻)』新泉社
- 森浩一(2016)『渡来文化と生産 (森浩一著作集 第3巻)』新泉社
- 森浩一(2016)『倭人伝と考古学 (森浩一著作集 第4巻)』新泉社
- 森浩一(2016)『天皇陵への疑惑 (森浩一著作集 第5巻)』新泉社
- 森浩一(2022)『敗者の古代史 「反逆者」から読みなおす』KADOKAWA
参考文献
- 東京文化財研究所(2016)「森浩一」『日本美術年鑑』平成26年版,pp.461-462
- 「森浩一氏が死去 同志社大名誉教授、古代史ブームけん引」日本経済新聞, 2013年8月9日
- 森浩一(2010) 『森浩一の考古学人生』大巧社
by 南畝 [古代史人物団体] [コメント(0)|トラックバック(0)]
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