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白石太一郎2023年11月09日 12:20

白石太一郎(しらいし たいちろう、1938年11月14日 - )は日本の考古学者である。 。国立歴史民俗博物館名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授。大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長。

概要

1938年、大阪府大阪市に生まれる。1957年3月、大阪星光学院高等学校卒業。1961年3月、同志社大学文学部文化学科文化史専攻を卒業する。1964年3月、同志社大学大学院文学研究科文化史専攻修士課程修了、1968年、同志社大博士課程単位取得満期退学。 1969年、(財)古代学協会研究員、奈良県立橿原考古学研究所所員、1970年4月、奈良県教育委員会技術職員、1973年、龍谷大学文学部非常勤講師、1977年、同志社大学文学非常勤講師、1981年、国立歴史民族博物館 助教授 、1984年から 2002年、国立歴史民族博物館 教授、1992年、文化財審議会専門委員、1997年、国立歴史民俗博物館副館長(この間、総合研究大学院大学教授、放送大学客員教授を兼任)、2004年、大阪府立近つ飛鳥博物館館長、奈良大学文化財学科教授、国立歴史民俗博物名誉教授。

業績

考古学による日本の古代国家・古代文化形成過程の解明を目指す。

  • 2002年、雄山閣考古学賞受賞。
  • 2020年、地域文化功労者表彰

著書

  1. 白石太一郎(2022)『近畿の古墳と古代史』吉川弘文館
  2. 白石太一郎(2022)『東国の古墳と古代史』吉川弘文館
  3. 白石太一郎(2018)『古墳の被葬者を推理する』中央公論新社
  4. 白石太一郎, 水野正好, 西川寿勝(2015)『邪馬台(ヤマト)国』雄山閣
  5. 白石太一郎,橋本輝彦,坂井秀弥(2014)『邪馬台国からヤマト王権へ』ナカニシヤ
  6. 大神神社編(2013)『古代ヤマトと三輪山の神』学生社
  7. 白石太一郎(2013)『古墳からみた倭国の形成と展開』敬文舎
  8. 白石太一郎(2011)『古墳と古墳時代の文化』塙書房
  9. 白石太一郎(2009)『考古学からみた倭国』青木書店
  10. 白石太一郎(2002)『倭国誕生』吉川弘文館
  11. 白石太一郎(2001)『古墳とその時代 』山川出版
  12. 白石太一郎(2000)『古墳の語る古代史』岩波書店
  13. 白石太一郎(2000)『古墳と古墳群の研究』塙書房
  14. 白石太一郎(1999)『古墳とヤマト政権』文芸春秋

参考文献

金錫亨2023年11月09日 10:46

金錫亨(きむそっきょん、1915-1996)は朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の歴史学者である。北朝鮮の社会科学院の院長などを歴任した。

概要

大邱生まれ。1960年代に発表した論文「三韓三国の日本列島内の分国について」で分国論を提起した。強烈な民族意識に支えられた朝鮮民族中心の歴史観である。 古代日本の南朝鮮領有を主張する日本の学会の「任那日本府」説は近代日本の侵略思想の現れであると主張した。むしろ古代朝鮮が古代日本の中に多数の国を作っていたとする、「分国論」を提起した。 金錫亨、朴時亨の2 名は中国東北地方に関する中朝合同調査を進めたのを基礎に、それぞれ広開土王陵碑に関する研究を行った。当時歴史研究所所長を務めていた金錫亨は、集安現地の広開土王陵碑の観察に基づき、主に辛卯年について解析し高句麗を主語にした初期日朝関係史を展開した。

朴露子の評価

金錫亨の主張する分国の存在を考古学的に立証することは不可能であり、金錫亨の主張そのものは、日本の植民地史観に対する非常に過度な脱植民地主義的、民族主義的「対応」としての性格が強かったと語る。植民地主義に対する「対応」という観点からは当然傾聴すべき話だったが、学術的な成立は困難な学説であったと朴露子は評価する。

著書

  1. 金錫亨,村山正雄 (訳), 都 竜雨 (訳)(1964)「三韓三国の日本列島内分国について」朝鮮研究 (通号 71) 、日本朝鮮研究所
  2. 金錫亨, 朝鮮史研究会(訳)(1969)『古代朝日関係史 : 大和政権と任那』勁草書房
  3. 金錫亨他,西谷正(訳)(1967)「「全世界史」(ソ連科学院編)朝鮮関係叙述の重大な錯誤について」考古学研究 / 考古学研究会編集委員会 編 14(2) 、p.34~41
  4. 金錫亨, 末松保和(訳), 李達憲(訳)(1960)「朝鮮封建時代農民の階級構成」学習院東洋文化研究所

参考文献

曺喜勝(2015)「朝鮮歴史学界の研究の現況について」コリア研究 第6号、pp.19-28,立命館大学コリア研究センター

安本美典2023年11月07日 14:29

安本美典(やすもとびてん、1934年2月13日 - )は日本の心理学者・日本史研究家(古代史)である。日本行動計量学会会員。 本名は美典(よしのり)。文学博士(京都大学)。 専攻は、日本古代史、言語学、心理学。

概要

1934年、満州国奉天省鞍山市で生まれる。1946年に帰国し岡山県高梁市で育つ。 岡山県立高梁高等学校を経て、1959年、京都大学文学部(心理学)卒業。1961年、 京都大学大学院文学研究科(心理学)を修了する。国家公務員採用上級甲種試験(心理職)に合格し、旧労働省に入省した。 旧労働省退官。 社会心理学者の南博(一橋大学教授)が設立した日本リサーチセンターに入社する。 九州説の拠点である「邪馬台国の会」を主宰する。『季刊邪馬台国』責任編集者。現在、古代史研究に専念。

業績

「卑弥呼=天照大神説」など根拠の乏しい主張を行う。日本書紀の欠史八代については実在説を取るが、いずれも説得力に乏しい。架空とされる天皇は実在すると主張する。古田武彦には激しい批判を行う。邪馬台国九州説の有力論者である。

人柄

著書

  1. 安本美典(2021)『データサイエンスが解く邪馬台国 : 北部九州説はゆるがない』朝日新聞社
  2. 安本美典(2020)『日本の建国―神武天皇の東征伝承・五つの謎』勉誠出版
  3. 安本美典(2019)『神功皇后と広開土王の激闘 : 蘇る大動乱の五世紀』勉誠出版
  4. 安本美典(2019)『邪馬台国は福岡県朝倉市にあった!!』勉誠出版
  5. 安本美典(2017)『邪馬台国全面戦争―捏造の「畿内説」を撃つ)』勉誠出版
  6. 安本美典(2016)『卑弥呼の墓は、すでに発掘されている!!: 福岡県平原王墓に注目せよ』勉誠出版
  7. 安本美典(2016)『邪馬台国は、銅鐸王国へ東遷した』勉誠出版
  8. 安本美典(2015)『真贋論争「金印」「多賀城碑」 揺れる古代史像、動かぬ真実は?』勉誠出版
  9. 安本美典(2013)『古代年代論が解く邪馬台国の謎』 勉誠出版

参考文献

樋口清之2023年07月31日 07:59

樋口清之(ひぐちきよゆき、1909年1月1日 - 1997年2月21日)は考古学者、歴史学者である。元國學院大學教授。國學院大學名誉教授、國學院大學考古学資料館名誉館長。 専門は考古学・民俗学。

概要

1909年、奈良県桜井市生まれ。先祖は、織田長益(有楽斎)の旧家。父樋口清二氏は、京都帝国大学を卒業し、各地の師範学校等の校長を歴任した教育者であった。 旧制奈良県立畝傍中学校から1927年(昭和2年)、鳥居龍蔵先生を慕って國學院大學に入学後は、考古学、人類学を学ぶ。1932年(昭和7年)國學院大學文学部国史学科卒業。 中学時代を通じて奈良県各地で採集した考古遺物を基本に博物館の必要性を大学当局に訴えたことによって標本室を獲得し、公開した。上代文化研究会長鳥居龍蔵先生をはじめ、支援者に中川徳治、丸茂武茂、福田耕次郎、雨宮祐、新倉借光、神林淳雄、水野久尚、三木文夫、森貞次郎、江藤千萬樹、長田実がいる。 1934年(昭和9年)から國學院大學予科講師、 1943年(昭和18年)、学生大会の決議で、考古学は不敬の学問ということになり、追放されようとした。 1945年(昭和20年)同大学教授、1946年(昭和21年)学部教授。日本史、考古学概論、考古学特殊講義、文化人類学、自然人類学などを担当し、学問領域の広さと深い学識は多くの学生を魅了した、 1955年(昭和30年)学位論文「日本石器時代身体装飾品について」で國學院大學より文学博士の学位を取得。1957年(昭和32年)4月、國學院大學に博物館学課程を開設した。これは1951年(昭和26年)の博物館法制定に基づき、学芸員制度が設けられたことによるもので、日本で3番目の開講。博物館学講座の開講により、多くの学芸員を輩出した。 1979年(昭和54年)に國學院大學文学部教授を定年退職して名誉教授となる。1981年(昭和56年)國學院大學栃木短期大学学長。1995年(平成7年)に國學院大學栃木短期大学学長を退職、名誉学長。 1997年2月21日、日本大学駿河台病院にて急性腎不全で死去。

業績

人柄

しゃべる博物館と評される博識で知られる。大山史前学研究所で甲野勇・宮坂光次、東大人類学教室では松村瞭・八幡一郎、そして先生の先輩としては大場磐雄、さらに杉山寿栄男・後藤守一らの指導を受けた。当時東京高等師範学校には、三宅米吉校長、帝室博物館には高橋健自を訪ねた。特に高橋健自は畝傍中学校の元教諭だったことから、親しく温かく迎えられた。昭和4年には、小金井良精から1年間にわたり解剖学教室で組織解剖や計測の講義を受け、日本考古学会の例会に毎月山上御殿に出かけた。

参考文献

杉原荘介2023年07月30日 17:01

杉原荘介(すぎはらしょうすけ、1913年12月6日 - 1983年9月1日)は考古学者である。元明治大学教授。

概要

1913年、父杉原半・母宗穂の三男として東京市日本橋区小舟町三丁目六番地に生まれた。1923年の関東大震災で生家の日本橋杉原商店が被災したため、一家で市川市平田に居を移し,府立三中時代に姥山貝塚の威容に接して考古学に目覚めた。「少年の日、学友達と相誘い、下総姥山貝塚を訪れて、始めて見る古代の廃墟に私は無量の感慨を覚え、大きな迫力に身を委ねざるを得なかった。累々と堆積する貝層の中に、黙々として眠る古代人の営力を直感したからであろう。」と語る。1932年(昭和7年)に『史前学雑誌』(四-三・四)に「下総飛ノ台貝塚調査概報」を発表し、その後東京考古学会の同人として活躍した。長兄・次兄が早世したため,府立三中(現両国高校)卒業後,18歳で越前和紙杉原紙を扱う日本橋・杉原商店を継ぐこととなった。和服をきて帳場に座ったり、重い紙を満載したリヤカーを引いて配達したりする毎日が続き、大学で考古学を専門的に学ぶことは叶わなかった。考古学は独学で、武蔵野会で鳥居龍蔵の指導を仰ぎ,のち東京考古学会を主宰する森本六爾に師事するようになる。 東京外国語学校仏語科・上智大学外国語学校独語科を修了し、父半が亡くなり、結婚したのち、1941年、27歳で明治大学専門部地歴科に入学する。これは帝室博物館時代から親交がある後藤守一が考古学の講義を担当していたことと通学の便によるであろう。 1943年(昭和18年)明治大学専門部地歴科を卒業した。1943年9月に明治大学専門部文化文科を首席で卒業して文部省の内定を得るが、応召により杉原商店を閉じて大陸に赴く。佐倉歩兵57連隊の一等兵として召集され、戦地で病気にかかり、南京の留守部隊に残された。もし、のこされなかったら57連隊はフィリピンでわずか60人あまりを残して全滅した部隊であるから生きて帰ることはなかったであろう。1946年(昭和21年)春復員し、4月から文部省に勤務し、「くにのあゆみ」の編集等にあたった。1947年の静岡県登呂遺跡発掘調査では中心的役割を果たす。昭和23年、明治大学専門部助教授、同24年同大学文学部助教授、1949年に行われた群馬県新田郡笠懸村の岩宿遺跡発掘調査で中心となる。昭和28年、文学部教授。1959年(昭和34年)以降は、明治大学人文科学研究所長・考古学陳列館長・史学地理学科長となった。 1983年(昭和58年)9月1日死去した。享年69歳。

業績

弥生時代の研究にすぐれ、「日本農耕社会の形成」によって、明治大学から文学博士の学位が授与された。日本考古学協会、弥生式土器文化総合研究特別委員会の委員長として活動し『日本農耕文化の生成』を刊行する。1943年(昭和18)12月、藤森栄一の経営する葦牙書房より遺書『原史学序論』は出版された。初版1000部であり、太平洋戦争が激烈な様相を帯びてきたその時代にこのような純学術書出版がなされたということは、特筆に値する。この初版の序文の末尾に掲げられたのが、「本書正に校了ならんとする日、応召を受く、筆者の光栄これに過ぎず。感激措く能はず、以て記す。」の言葉であった。杉原はこの本を残さして出征したが、考古学者杉原荘介としての遺書でもあった。

岩宿遺跡

昭和25年の岩宿遺跡の第二回目の本発掘の際に大変なことが起きた。その日の発掘が終わり、宿舎の国瑞寺に引き揚げて遺物の剥片に整理番号を記入していた大塚初重の目の前にオート三輪が横付けされた。その中から血相を変えて飛び出してきたのは、旧石器反対論者の筆頭であった東京大学の山内清男であった。「君たち明治の学生だな」「杉原君いるか、芹沢長介君いるか」「こんなもの旧石器ではない!!無駄な発掘を止めて東京へ帰り給え!!」と大きな声で叫んだ。ちょうどおなじころ山内は桐生考古学会の薗田芳雄とともに、杉原先生の発掘を否定するための発掘を岩宿遺跡の近くの桐生市普門寺遺跡で行っており、その帰り道に立ち寄ったのであった。しかし杉原荘介や芹沢長介に会うと何も言わなかった。 今では当たり前のように岩宿遺跡を旧石器と認めているが、昭和24年、25年の考古学会では岩宿の石器を認める人はほとんどいなかった。岩宿遺跡はわが国における旧石器文化の解明に大きく寄与した遺跡として重要な遺跡となっている。

人柄

11歳年長の山内清男から「荘介旦那」と名付けられ、,学界では,杉原はことを進める際の強引さが語り草になった。大学では,若旦那としての力わざとともに,若者を統率するツボを押さえる機微も備えており,また学界でも行政面等での実行力を評価する小林行雄の声もある。 座散乱木遺跡の発掘調査をおこなった東北旧石器談話会代表の鎌田俊昭は家業を継がなければいけなくなり、杉原に報告に行ったところ、「オレは家業を捨てて、考古学に邁進したんだ。お前も家業を捨てて考古学に命を懸けろ。」というように怒られたという。 東京外語大学でフランス語を学び、上智大学でドイツ語を学んだ杉原は、大変語学が達者であった。後年、演習や口頭試問のなかでよく、「一言でいうとどうなんだ」とか、「英語で言って見ろ」という言葉が出た。 市川市内の三大貝塚である姥山、曽谷、堀之内の三貝塚、下総国分寺、須和田遺跡、鬼高遺跡らはいずれも杉原荘介の尽力によって保存され遺跡公園となっている。「市川市は俺の第二の故里だ。杉原が市川にいても、遺跡の一つや二つ保存も出来やしないじゃないかということを絶対人にはいわせない。」といった。

参考文献

  1. 杉原荘介(1946)『原史学序論—考古学的方法による歴史学確立への試論』葦牙書房
  2. 杉原荘介(1951)『貝塚と古墳 中学生歴史文庫・日本史1』福村書店
  3. 杉原荘介(1959)『登呂遺跡』中央公論美術出版
  4. 杉原荘介(1975)『弥生式土器』日本の美術 44、小学館
  5. 熊野正也「市川の文化財と杉原荘介」『考古学者・杉原荘介』
  6. 杉原荘介先生を偲ぶ会編(1984)『考古学者・杉原荘介―人と学問』
  7. 杉原荘介(1964)『日本原始美術 第4』講談社
  8. 大塚 初重(1984)「杉原荘介教授のご逝去を悼む〔含 略歴・主な業績〕 (日本細石器文化の研究-2-<特集>)」駿台史學通号 60、明治大学史学地理学会
  9. 杉原荘介(1972)『日本青銅器の研究』中央公論美術出版

大塚初重2023年06月12日 23:02

大塚初重(おおつか はつしげ、1926年11月22日 - 2022年7月21日)は考古学者である。明治大学名誉教授、初代明治大学考古学博物館長。専門は弥生・古墳時代。

概要

1926年(大正15年)11月22日、父坂田友七、母フミの次男として東京都板橋区西台に生まれる。1928年(昭和3年)、3歳で大塚家の養子になり台東区に転居する。1933年、台東区育英小学校入学。1939年(昭和14年)、郁文館商業学校入学(1943年繰り上げ卒業)。

海軍時代

1944年(昭和19年)、海軍水路部、気象観測訓練生をへて横須賀海兵団に入隊、海軍二等水兵。1945年4月、19歳で海軍一等兵曹としてに二度、中国・上海に向かう。上海で敗戦を迎える。捕虜生活の中で中国海軍水兵に気象観測を教える。 乗船が米軍に二度撃沈され神国日本とする皇国史観に疑問を持った。自伝に「一度目の撃沈の際、ワイヤロープにつかまって助かった」。東シナ海を漂流し、気付くと済州島の浜辺にいて、民家に運ばれた。おばあさんが土間のかまどに火をたき、おかゆを長い金属のサジで食べさせてくれ、サツマイモの皮をむいてくれた。「すまんが、今晩また乗ってもらう」と言われ出港するが4、5時間後、に再び撃沈される。ボートを降ろして一般人を乗せ、軍人はボートにつかまり数時間、対馬海峡で漂流した。「なぜ神風は吹かないのか」「絶対に日本は負けないと固い決意だったが事実は違う」と戦時中の歴史教育に疑問を抱いた。

登呂遺跡の発掘

1946年、板橋区下赤塚の母の元に復員する。明治大学専門部地理歴史科(夜間)に入学する。商工省特許標準局勤務。 大塚青年は、終戦復員をへて入学した明治大学で後藤守一教授の講義を受け、考古学に衝撃を受け一生の道と定めた。1年生から考古学の講義があった。実物を分析して解釈をしていく。事実をもとに解明していく学問は面白いと感じた。 1947年から4年間登呂遺跡の発掘に参加した。最初の発掘であった。1947年4月に後藤守一教授から、登呂遺跡の発掘を開始するので勉強したい人は連れて行くと募集があった。10日間でも20日間でも参加して勉強をしたいと手紙を書いた。後藤守一教授からは、1ヵ月や2ヵ月のロングランでやってくれと言われた。そこで、商工省特許標準局を長期欠勤する必要があったので、医者に相談したところ、強度の神経衰弱の診断書を得た。職場に長期療養を願い出た。上司から、緩やかに仕事しないとまいるよ、どこに転地療養するのか、と問われて、静岡です、静岡のどこだと質問されて冷や汗タラタラとしたが、登呂に行けることになった。 発掘では後藤守一・明治大学教授が指揮し、東日本の主な考古学者が結集した。著名な各分野の研究者が集結して、さらに明治、東京、慶応、早稲田、国学院、実践女子、東京女子大学、日本女子大学などから約30人の学生が集まった。60%は戦争帰りであった。登呂に出発する前日に杉原荘助助教授から、平板測量の初歩を教わる。1947年7月13日が登呂遺跡の鍬入れ式であった。商業学校で学んだ簿記や会計の知識と捕虜時代の労役経験を活かし、発掘の傍ら、食料調達、会計、書記を担当する。食料は配給米は1日米2合3勺だがこれでは不足する。外食券、メリケン粉、大豆の粉、農家の残飯の残りを貰ってまぜてすいとんにする。静岡の魚市場に3日ごとに買い出しに行く。世界初の水田遺跡の発掘で、水田と村落の共存を発見した。

明治大学文学部

1949年(昭和24年)、杉原荘介助教授から「新制大学で明治大学に文学部ができる。編入試験に受かれば入学できる」と誘われ、新制明治大学文学部3年に編入する。商工省特許標準局を依願退職する。1950年4月に考古学専攻ができる。群馬県岩宿遺跡に参加する。1951年(昭和26年)、明治大学を卒業する。助手採用。1952年(昭和27年)、大学院新設に伴い、修士課程に入学する。助手の頃、後藤守一教授から「古代の文化は上流階級が担う、耳飾、冠、各種副葬品を確実に勉強せよ」と指令が出る。杉原荘介助教授は「考古学は土器が分からないとダメ、土器、土師器、須恵器をちゃんとやれ」とことごとに言う。 後藤守一先生の前では古墳遺物を一生懸命やり、杉原荘介助教授の前では土器を懸命にやった。杉原先生が「土器は大事だ」と言われたことは、後になると、非常に助かったと感じる。

結婚

1952年(昭和27年)4月19日、後藤守一教授の媒酌で 中川和子と結婚する。中川和子は家の縁戚に当たる女性で、大塚初重が小学校5年生、中川和子が小学校2年生のときに、父親が交通事故で亡くなり、子供が多いということで京都の親戚から大塚家が預かった。同じ屋根の下におり、兄と妹のような関係であった。主婦の友社の結婚式場は明治大学の正門前であり、そこで式を上げた。

博士課程

1954年、博士課程に進学する。1954年3月、明治大学理事会は博士課程の学生と助手はかねることができない規則を作った。そのため助手は失職した。学費を払うため、東京の親戚を5軒前後廻り、年8万円の月謝を払った。

学会発表

1954年(昭和29年)10月30保、京都大学で開催の「日本考古学協会」での学会発表として「舟形石棺に関する二、三の問題」を発表する。実測に基づき割竹型石棺と舟形石棺の関係論などでまとめた。ところが3,4日前になって後藤守一教授から「舟葬論を盛り込んで発表」するよう命じられ、書き直して取りまとめた。舟葬は北欧やイギリスで見られるが、 日本では証拠がほとんどなかった。東北大学の伊東信雄、小林行雄、金関丈夫など錚々たる先生方より鋭い質問を浴びた。後藤守一教授からの助け舟はなかった。

明治大学の教員となる

1957年(昭和32年)、大学院を修了する。借金は1957年(昭和32年)、専任講師になったときに返金した。1961年、文学部助教授となる。 1963年、学位論文「前方後円墳の研究」で文学博士(明大文1号)。1968年、明治大学教授。1977年、日本学術会議会員に就任(1985年まで)。1990年、日本考古学協会会長に就任する(1992年まで)。1992年、明治大学理事に就任する(1996年まで)。1997年、明治大学教授を定年退官、名誉教授となる。

古墳研究の開始

旧石器時代の存在を始めて明らかにした群馬県岩宿遺跡、放射線炭素年代測定法により縄文時代の年代を明らかにした夏島貝塚などにも加わった。古墳研究にすすむきっかけは、千葉県能満寺古墳の発掘であった。始めて本格的な古墳の調査に携わった大塚は、杉原助教授の思いがけない指名により、同古墳の調査報告を任され、ほぼ独力で完成させた。さらに三昧塚古墳の調査では、並行して古墳の破壊工事が進む極限状態の中、貝塚発掘の経験から盛土の重なりを冷静に観察し、未盗掘石棺の発見に至る。石棺からは、国内唯一の例である金銅製馬形飾付冠を始めとし、後に重要文化財となる遺物を続々と検出した。 その後、大塚は日本考古学協会会長、日本学術会議会員、山梨県立考古博物館館長、千葉県文化財審議委員、成田市文化財審議委員などを歴任する。

経歴

  • 1926年11月22日 - 東京都生まれ。
  • 1933年、台東区立育英小学校入学。
  • 1939年、郁文館商業学校入学、1943年、繰り上げ卒業し、進学を断念する。
  • 1944年、海軍水路部、気象観測訓練生を経て、横須賀海兵団に入隊する。海軍二等水兵。
  • 1945年、中国上海勤務が発令され、4月13日に乗船した寿山丸がアメリカの潜水艦に撃      沈され、韓国済州島民に救助される。20日に乗船した吉林丸も撃沈される。      5月に日向丸で釜山に渡り、上海で敗戦を迎えて捕虜となる。
  • 1946年 – 戦争から復員する。佐世保に上陸し、板橋区の母宅に帰還する。明治大学専門     部地理歴史科(夜学)に入学する。商工省特許標準局に勤務する。
  • 1947年 -夏、静岡の登呂遺跡の発掘に参加する。
  • 1949年、明治大学専門部地理歴史科卒業。商工省特許標準局を依願退職する。      新制明治大学文学部3年日本史専攻に編入する。群馬県岩宿遺跡の調査に参加      する。
  • 1950年 - 明治大学文学部に考古学専攻が創設されたため同専攻に転じる。主任後藤守一教授、杉原荘介助教授の体制。
  • 1951年、明治大学を卒業し、助手となる。
  • 1952年、明治大学大学院文学研究科考古学専攻(修士課程)に進学する、後藤先生の媒酌     のもと、中川和子と結婚する。
  • 1954年、博士課程に進学する、、併任不可のため助手を辞任する。経済的に困窮する。
  • 1957年(昭和32年) - 博士課程を修了。文学部専任講師となり、親族から祝辞を受ける。
  • 1961年、文学部助教授となる。
  • 1963年、学位論文「前方後円墳の研究」で文学博士の学位記を受ける。
  • 1967年、能満寺古墳の発掘。在外研究に出発。アメリカ、ヨーロッパ、中近東の遺跡や博物館を調査する。8月大英博物館で日本人研究者として初めてガウランド資料の本格的な調査を行う。
  • 1968年、1月に帰国する。文学部教授。綿貫観音山古墳の発掘で豪華な副葬品を確認する。
  • 1969年、明治大学副学生部長となり、学生運動、大学紛争の矢面に立つ。
  • 1973年、虎塚古墳では、横穴式石室で円形模様などの彩色壁画を発見する。
  • 1974年、成田市に転居する。
  • 1977年、学術会議会員。
  • 1983年、明治大学考古学陳列館長。
  • 1987年、明治大学考古学博物館、第1回考古学ゼミナール開講。
  • 1990年、日本考古学協会長。
  • 1992年、明治大学理事。
  • 1997年、明治大学定年退職、名誉教授。
  • 2005年、瑞宝中綬章受賞
  • 2014年(平成26年)、淑徳大学人文学部歴史学科客員教授
  • 2018年、明治大学リバティアカデミー最終講義。
  • 2022年7月21日 - 肺炎で死去、95歳、

参考文献

  1. 明治大学博物館(2023)「東国の古墳文化の実像を求めてー大塚初重と明大考古学」企画展展示概要
  2. 大塚初重(2005)『君よ知るや、わが考古学人生』学生社

山内清男2023年05月28日 21:35

山内清男(やまのうち すがお、1902年1月2日 - 1970年8月29日)は考古学者である。元東京大学講師、元成城大学教授。日本先史考古学の父とも言われる。

概要

綿密な観察と層位学的研究手法を用いて縄文土器の年代決定を行い、縄文土器の編年体系を構築した。時間的経過とともに事象の変化生成を明らかにする学問では、その時間経過の体系、すなわち編年が重要となる。大正末期から昭和初年にかけて科学的考古学が確立された。山内は編年体系の基礎として、型式と系統という二つの概念を用いた。型式は一定の形態と装飾を持つ一群の土器であって、他の型式とは区別される特徴を持つとされる。系統は諸型式間における時間的、空間的関連をたどるさいの指標となる。相似の形態、相同の形態、その他の概念で表される。

ミネルヴァ論争

「縄文時代終末論争」とも呼ばれる。歴史学者の喜田貞吉は宋銭と亀ヶ岡式土器が併出した事例により東北地方の縄文時代の終わりを鎌倉時代頃まで引き上げた。これに対して山内は『ミネルヴァ』創刊号で各地の時や文化の編年研究(縦)と,それらの地域間のつながり(横)を検討し、縄文文化の終末時期は日本各地で大差ないと反論した。

経歴

  1. 1902年(明治35年)1月2日、東京府東京市下谷区谷中清水町に生まれる。
  2. 1919年に鳥居の勧めで東京帝国大学理学部人類学科選科に進学。
  3. 東京帝国大学理学部人類学科選科卒業。
  4. 1924年、東北帝国大学医学部解剖学教室の副手となる。
  5. 1924年(大正13)、千葉市若葉区加曽利貝塚発掘で、土器型式の差が年代の違いによることを明らかにした。、
  6. 1933年に東北帝国大学医学部を依願解職する。
  7. 1946年、東京帝国大学理学部人類学教室非常勤講師となる。
  8. 1962年、京都大学より文学博士の学位授与。
  9. 1962年4月、成城大学文芸学部教授に就任
  10. 1970年8月29日、死去、

著書/論文

  1. 山内清男(1934)「真福寺貝塚の再吟味」『ドルメン』第3巻第12号 岡書院
  2. 山内清男(1938)「縄紋土器型式の大別と細別」『先史考古学』第1巻第1号 先史考古学会
  3. 山内清男(1958)「縄紋土器の技法」「図版解説」 『世界陶磁全集 第一巻』 河出書房
  4. 山内清男(1968)「縄紋土器の改定年代と海進の時期について」『古代』48号,早稲田大学考古学会
  5. 山内清男(1969)『先史考古学論文集〈新第1-3集〉』先史考古学会
  6. 山内清男(1969)「縄紋草創期の諸問題」 『MUSEUM』224 東京国立博物館
  7. 山内清男(1979)『日本先史土器の縄紋』先史考古学会

共著

  1. 山内清男編(1964)『日本原始美術 第1』講談社

参考文献

  1. 山内 清男(1936)「日本考古学の秩序」『ミネルヴァ』 第1巻 第4号,pp.1-10.
  2. 日本人類学会(1971)「山内清男博士略歴」人類学雑誌79(2),pp.6-10