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目梨泊遺跡2024年04月20日 00:24

目梨泊遺跡(めなしどまりいせき)は北海道枝幸町に所在するオホーツク文化期の遺跡である。

概要

海に面する丘の上に立地する。東西100m、南北300mの範囲である。 北海道大学文学部附属北方文化研究施設によって、昭和40年代に六次にわたる学術調査が行われた。 発掘調査は1990年から1992までの3年間実施された。集落を取り囲むように墓域が形成された。平成12年からは筑波大学による学術調査が3ヵ年にわたって実施された。30万点を超える膨大な量の遺物が出土している。

埋葬法

これまではオホーツク文化圏では頭を北西に向けた仰臥屈葬が一般的とみられていた。目梨泊遺跡は半数以上の頭位が西もしくは南西方向であり、墓壙の規模から伸展葬とみられる場合が多い。 一方で伝統的な被甕が使用され、多くの鉄器が副葬されるなど、従来の埋葬法と共通する要素もある。

副葬品

上記以外の副葬品では鉄器が多い。刀子を主体として、蕨手刀、剣、鉾、鎌、平柄斧、縫い針などがある。また石鏃や青銅製の帯金具や足金具、銀製の耳飾り、ガラス製小玉、琥珀玉などがある。蕨手刀は長さ73.6cm、34号土坑墓より出土した。鞘はなく、抜き身であった。 オホーツク式土器は高さ26.2cm、細かい粘土紐による貼付文で文様を付ける。

調査

遺構

  • 竪穴建物4
  • 獣骨集中
  • 墓壙3
  • 土坑253
  • 集石1
  • 焼土2

遺物

  • 土器
  • 動物遺存体(ヒグマ+アザラシ+魚)
  • 曲手刀子
  • 土製品
  • 石鏃
  • 銛先鏃
  • 砥石
  • 剥片
  • 海獣
  • クマ(四肢骨)
  • 骨製銛頭
  • 線刻骨製装飾品
  • 黒曜石剥片
  • 石錘
  • 骨角器
  • 蕨手刀 2
  • 刀子
  • 骨角器
  • 人骨

指定

展示

  • 二戸市埋蔵文化財センター

アクセス

  • 名 称:目梨泊遺跡
  • 所在地:北海道枝幸郡枝幸町目梨泊43-2
  • 交 通:

参考文献

  1. 枝幸町教育委員会(1988)『目梨泊遺跡』枝幸町教育委員会
  2. 文化庁(1997)『発掘された日本列島 1997』朝日新聞社
  3. 石田肇(1988)「北海道枝幸町目梨泊遺跡出土のオホーツク文化期人頭骨にみられたアイヌ的特徴」人類學雜誌

吉備真備2024年01月21日 15:10

吉備真備(きびのまきび,695年 - 775年10月)は奈良時代の学者、官僚、政治家である。

概要

奈良時代に遣唐留学生として唐に渡り、中国で19年間政治、経済、法律、天文、数学、暦、兵学、音楽、儒学、歴史を学んだ。帰国してから朝廷に出仕し、右大臣にまでなった。近世以前に学者で右大臣になったのは吉備真備が最初の例である。出生時の名前は「下道朝臣真備」であった。「吉備真吉備」とも記される。

修業時代

695年(持統9年)下級武官(右衛士少尉)の下道朝臣国勝の子として生まれた(『続日本紀』宝亀六年10月2日)。衛士府は宮腋を警護し、隊杖を検校し、朝議では儀杖に参列し、行幸の際は供奉する役割がある。位階は従八位相当である。吉備真備の母の墓誌は1723年(亨保13年)、大和国宇智郡大沢村(現奈良県五條市)の山麓で農民により発見された。すなわち「楊貴氏墓碑」である。 下道氏は吉備国において上道氏とともに豪族連合を形成しており、地方豪族であった。 『和名抄』に下道は「之毛津美知(しもつみち)」と読むとされている。上道は京畿に上る方向であり、下道は京都から筑紫に下る方向である。当時、国名は京畿に近いほうを「上」とし、遠い方を「下」とした。『古事記』では、若日子建吉備津日子命の後裔氏族であるとされる。『日本書紀』によれば、応神天皇によって下道臣の始祖である稲速別が吉備国川嶋県に封ぜられたとされる。 吉備真備の出生時は「下道朝臣真備」と称し、吉備地方の臣姓国造、すなわち族長的土豪の出身であった。天武13年に朝臣姓を与えられた(参考文献1)。 真備は15歳前後で大学寮に入り、6,7年の課程を経て、省試を受けて従八位下を授けられたとされる。

遣唐留学生

716年(霊亀2年)に真備は22歳で遣唐留学生に選ばれ、23歳で入唐した。『扶桑略記』によると、このときの遣唐使は過去最大の人数で、4隻557人であった。 真備は阿倍仲麻呂の7歳年長である。当時の留学生は遣唐使が唐の皇帝に持参する手土産や乗組員の私物を詰め込んだ船倉に入れられていた。 真備は唐で19年間(往復の期間を除くと実質は17年)の留学生生活を過ごし、735年(天平2年)に帰国した。「日本の留学生で唐で名をなした者は吉備真備と阿倍仲麻呂の二人のみである」(『続日本紀』)と称されるが、唐側の記録に吉備真備は現れない。 717年(養老元年)3月に難波を発した。押使は従四位下多治比縣守。大使は従五位上阿倍安麻呂(従五位下大伴宿禰山守に交代)、副使は正六位下(従五位下に昇叙)藤原宇合であった。716年(霊亀2年)8月20日に任命され、717年(霊亀3年)3月9日、多治比縣守に節刀を賜り出発した。717年(開元5年)10月1日に唐の長安に到達した(参考文献5)。10月1日に玄宗皇帝の勅を賜り、16日に中書省で宴集を受け、19日に孔子廟堂を謁し、寺院・道観の礼拝を許された。 『新唐書』巻220、東夷列伝第145日本の条に記載されている。

  • 「開元の初め、粟田復た朝す。諸儒に従って経を授けられん
  • ことを請う。四門助教趙玄黙に詔して鴻臚寺に即いて師と為す。
  • 大福布を献じて贄と為す。
  • 賞物を悉して、書を貿ひて以て帰る。(『新唐書』巻220)」 粟田は多治比縣守を粟田真人と混同したものである。真備は趙玄黙から『礼記』『漢書を学んだと思われる。開幅布(大福布)を束脩として差し出して入門したのは真備と考えられる。その布に「白亀元年調布」と書かれていた。白亀は神亀ではなく、「養老」前年の「霊亀」の誤りと見られる。霊亀元年(715年)に朝廷から賜った調布と見られる。

帰朝

真備は734年(天平6年)の遣唐使の帰国時に同行した。第1船の多治比広成は11月20日に種子島に帰着し(吉備真備・玄昉帰国。羽栗吉麻呂・翼・翔親子も帰国)、735年(天平7年)3月に帰国した。帰朝後、4月26日に基調報告し、従八位下から正六位下に昇叙し、大学助となった(注1)。従八位下から4階級特進である。 『続日本紀』天平七4月26日に「入唐留学生従八位下下道朝臣真備、献唐礼一百三十巻、大衍歴経一巻、立成十二巻、測影鉄尺1枚、銅律管一部、鉄如方響、写律管声十二条、楽書要録十巻、絃纏漆角弓一張、馬上飲水漆角弓一張、露面漆四節角弓一張、射甲漆箭廿隻、平射箭十隻」と書かれている。 真備は唐礼130巻、則天武后勅撰の音楽理論書『楽書要録』10巻や律呂(音階)調律用の「銅律管」など、礼・楽に関するものを招来した。唐礼一百三十巻とは高宗の『永徽礼』とされている(参考文献4)。『楽書要録』は『楽書要録』は則天武后選の音楽書で、中国には残存せず、日本に巻第五・巻第六・巻第七の3巻と残りの7巻の逸文が伝存する。このほか完本ではないが、歴史書の『東漢観気』を移せるだけ写し、持ち帰ったと伝えられる。 真備は道芸を恢弘し、学生400名に「五経、三史、明法、算術、音韻、籀篆等の六道」を学ばしめた(参考文献6)。 さらに翌736年(天平8年)正月の定期叙位で正六位下から外従五位下を授けられた。42歳の時である。翌737年(天平9年)11月には従五位下に叙せられ、入内した。入唐留学と学業の優秀性が認められたものであろう。12月27日には玄昉の宮子皇太后の看病平癒の功を賞して、大量の贈り物があり、同時に真備は従五位上に叙せられた。真備の昇進はかなり早いと見られる。

藤原広嗣の乱

大宰少藤原広嗣は、吉備真備と僧玄昉が朝廷で重用されるのを妬み、740年、2人を討つという名目により北九州で挙兵し、乱を起こした。乱の原因として藤原氏の地位の相対的な低下が挙げられている。 737年の聖武天皇の時代から疫病が流行した。遣唐使のメンバーが唐から持ち帰った天然痘が原因と言われている。疫病のため737年1月から8月にかけて藤原不比等の四子である藤原武智麻呂( 従二位・右大臣)・藤原房前(正三位、参議民部卿)・藤原宇合(正三位・参議)・藤原麻呂(従三位・参議)の4兄弟をはじめ、政府高官が次々と亡くなり朝廷は機能不全に陥った。聖武天皇は、危機を乗り越えるため生き残り政権幹部の橘諸兄を、738年に正三位 右大臣とし危機を乗り越えようとした<ref>橘諸兄は藤原不比等の娘を妻としており、藤原氏との関係が深い。橘諸兄は部下として遣唐留学生であった吉備真備、玄昉を抜擢した。当時は人材不足のため、それを解消するための措置であった。

ところが藤原宇合の息子である藤原広嗣(当時従五位下、式部少輔)は大きな不満を公言した。藤原広嗣は大宰府へ左遷されたため、上奏文を送り付けたが、右大臣の橘諸兄はこれを謀反と考えた。 『続日本紀』天平12年秋八月癸未(740年8月29日)に次のように書かれる。

「太宰少貳従五位下藤原朝臣広嗣、上表して時政の得失を指し
天地の災異を陳ぶ、因りて僧正玄昉・右衛士督従五位上
下道朝臣を除くを以て言となす」

『松浦廟宮先祖次第并本縁起』(参考文献3)は信頼できない記述も多いのであるが、採用できる部分もある。その中に藤原広嗣が上表した文を掲載している。他の資料には見られず、また誤りがほぼない個所となる。

「僧正玄昉・・・伝聞すらく、大唐の相師、当に天子となるべし
というと。竊に此言を負い、独り宝位を窺ふ。」
「従五位上守右衛士督兼中宮亮近江守下道朝臣真備は辺鄙
の伝氏、斗?の小人なり。海外に遊学して、尤も表短(ママ)を習う。
智あり勇あり権あり。
口に山甫の遺風を論じて意に趙高の権謀を慕ふ。
所謂、有為;姦雄の客、利口覆国の人なり。亦玄昉の
左翼となりて陛下の明徳を蔽う。」
「若し早く除かんば恐らくは噬臍の憂を胎さん」
「両翼去らずんば将に斧柯を用ゐんとす。」(『松浦廟宮
先祖次第并本縁起』)

と書かれている。玄昉が帝位を狙い、真備はそれを助けて天皇の判断を妨げているという讒言である。それを除くために武力を使うと脅している。玄昉と真備を追い落とそうとする急先鋒となった。 上表は740年8月29日に送付され、9月3日には兵を起こし、管轄下の1万余の兵を動員して東上を開始した。隼人を引き入れたとも伝わる。政府軍は大野東人を大将軍とする追討軍であり北九州各地で激戦する。政府軍は関門海峡をわたり、九月二十日から二十一日ごろ三鎮を陥落させた。敗れた広嗣は値嘉島(五島列島)からさらに西方へ脱出しようとして捕縛された。11月1日には松浦郡で切られた。反乱は約2ヵ月間であった。

二度目の入唐

天平12年(740年)11月21日、鈴鹿郡赤坂頓宮において真備は正五位下を賜る。さらに天平十三年7月3日(辛亥)、東宮学士となる。東宮は後の孝謙天皇であった。天平15年(743年)5月癸卯には皇太子安倍内親王に五節を舞う盛儀が行われ、五節舞は天下の人に君臣祖子の理を教えることであり、皇太子宮の官人の冠一階を進めた。博士であり真備には特に二階を進め、正五位下から従四位下とした。五位の期間は7年余りであった。天平15年6月には春宮大夫となる。都が平城に復都した5月11日から半年後の11月2日、玄昉は筑紫に左遷され、観世音寺別当となった。しかし天平18年(746年)6月18日、観世音寺造立供養の日に謎の死を遂げた。盟友の玄昉を失ったことは、真備にとって痛手であった。同年10月19日には吉備姓を賜る。真備は52歳であった。皇太子時代の安倍内親王を教えた真備は、孝謙天皇として即位した後に、従四位上に昇叙された。しかす、翌750年(天平勝宝2年)、当時の実力者である大納言の藤原仲麻呂に疎まれ、1月10日、真備は筑前守に左遷され、次いで肥後守に左降された。751年(天平勝宝3年)11月7日、真備を遣唐副使として任命した。大使は藤原清河(従四位下)、副使は大伴古麻呂(従五位下)であった。従四位上の真備の方が大使より位階は上であった。752年(天平勝宝4年)、3月9日大使に節刀を賜り、清河を二階級特進の正四位下、古麻呂を四階級特進の従四位上に昇叙させた。藤原が遣唐大使になったのは初めてのことである。閏3月3日、遣唐使は唐に出発した。

席次問題

753年(天宝十二載)正月、唐の朝賀の場において新羅と倭との席次争いが起きた。当初の席次はつぎの通りであった。

  • 天宝十二載(753)正月朝賀の席次(当初)
    • 東班 第一 新羅、第二 大食
    • 西班 第一 吐蕃、第二 日本 すなわち日本を西畔の第二吐蕃(チベット)の下に置き、新羅を東班第一大食国(サラセン)の上に置いていた。そこで遣唐副使の大伴古麻呂が「昔から今に至るまで、新羅は日本に朝貢すること久しい。ところが新羅を東列の上位に位置し、我は逆に下位にあります。道理とした納得できません」と抗議した。唐の将軍呉懐実は、古麻呂が席次をよしとしない様子から、新羅を西列第二の吐蕃の下に置き、日本の使節を東列第一位とし大食国の上席に置いたと報告されている(参考文献8)。
  • 天宝十二載(753)正月朝賀の席次(修正後)
    • 東班 第一 日本、第二 大食
    • 西班 第一 吐蕃、第二 新羅

古来、日本の国威を発揚した逸話として知られるが、最近では当時の日本の国際的地位を示すものという見解がある(参考文献9)。さらに山尾幸久は虚構説を唱える。その理由は新羅の遣府使は、748年(天宝7年)から755年(天宝14年)まで見られない事、唐側の記録に記載されていないことを挙げている(参考文献7)。

大宰府

754年(天平勝宝6年)正四位下・大宰大弐に叙任され、九州地方に赴任した。その2年後の756年(天平勝宝8年)に新羅に対する防衛のため筑前国の高祖山に怡土城を築造する。758年(天平宝字2年)に大宰府で唐での安禄山の乱に備えるよう勅を受けた.。大宰府赴任は約10年に及んだ。764年(天平宝字8年)に造東大寺長官に任ぜられ、70歳で帰京することになった。藤原仲麻呂の乱において従三位に昇叙して、中衛大将として追討軍を指揮し、優れた軍略により乱鎮圧に功を挙げ、翌765年(天平神護元年)には勲二等を授けられる。

議政官

真備は764年(天平宝字8年)から770年(宝亀元年)まで議政官として、国の政策決定に関わった。真備が推進した政策は救貧対策として、国司郡司のうち真面目で勤勉なものを選出し、農民に麦作を奨励させたこと、二柱を建設(中壬生門の西に柱を立てる)ことである。「官司に圧迫されているものは、この柱の下に来て訴えよ」「人民の中で無実の罪を着せられているものは、この柱の下に来て訴えよ」と柱に記した。その訴えを弾正台に訴状を受け取らせた。公正な司法を実現するための仁政策である。

名称表記について

「真備」「真吉備」の2通りの表記がある。

  • 真備:『続日本紀』巻三十三・光仁天皇宝亀六年(775年)十月
  • 真吉備:『日本紀略』『正倉院文書』『類聚国史』、『続日本紀』慶雲元年・宝亀元年・延暦十年

本居宣長は「真吉備」が正しい名であるが、唐で「吉」を省略し。帰朝後もそのまま使ったとする(本居宣長『玉かつま』6巻)。杉本直治郎(1940)は唐風の記載に「真備」が使われ、和風の記載には「真吉備」が使われたとする(参考文献13)。

吉備朝臣への改姓

吉備朝臣の名を賜ったのは746年(天平18年)である(『続日本紀』天平十八年十月丁卯条「従四位下下道朝臣真備に姓吉備朝臣を賜ふ」)。これ以降一族は吉備朝臣を称した。真備は「吉備真備」(または「吉備真吉備」)を名乗った。

生年の検討

生年を直接的に記載した文献は存在しないので、文献の他の記載から類推することになる。 『続日本紀』宝亀元年(775年)十月丙申条「上啓して骸骨を乞ふ文」に「去る天平宝字八年(764年)正月、真備生年数えて七十に満つ」と書かれており、これからすれば695年(持統天皇九年)生まれとなる。 入唐したときの年齢は20歳(参考文献13)と文献による差異がある。入唐時(霊亀2年)に20歳なら697年生まれとなる。

結論としては本人の書いた上啓文が最も信頼性が高いと考えられるので、695年(持統天皇九年)生まれが正しい生年と理解できるであろう。

出生地

出生地は確定した説はないが、2説があり、真備地方生誕説と畿内生誕説とがある。 父親のルーツは備中国下道(現在の岡山県)であるが、中央政府の下級官僚であったため、真備の出生は畿内の可能性があるとされる。

  • (1) 真備地方生誕説の根拠
    • 一方、江戸時代の「吉備大臣聖廟旧蹟録」(吉備寺所蔵)には、吉備真備が真備地方で生まれたときの様子が具体的に書かれている。しかし、江戸時代史料では時代が離れすぎているので、信頼性に乏しい。
  • (2) 畿内生誕の根拠
    • 真備の父、下道圀勝は当時、平城京の警護兵であり、大和地方の豪族である八木氏(楊貴氏)の娘と結婚していた。八木一族は鴨大神に近い大和国宇智郡に住んでいた。

吉備真備が書いた墓誌

吉備真備が書いたとみられる墓誌が中国で、発見されたと2019年12月25日に[北京発表された(参考文献12)。墓誌は望野博館が2013年に入手したものという。734年(開元22年)6月20日に死去た李訓の墓誌である。まさに吉備真備が唐に滞在中に書いたとしても不思議ではない。墓誌の末尾に「日本国朝臣備書」と書かれている。日本国朝臣とは、日本で使用する姓(かばね)を表す。「備」とは真備のことであろう。唐に滞在した日本人で朝臣を名乗れ、名前に「備」がつく人物はかなり絞られる。734年は真備が日本に帰国する直前の時期であったし、李訓は外国使節謁見の儀礼を担当していたので、吉備真備とは顔見知りであったであろう。

古代日本人の直筆「日本国」の文字としては、最古の記録になるという。中国古代史研究者である氣賀澤保規教授(明治大学文学部元教授)は、「紛れもなく本物の墓誌」と明言した。墓誌蓋の拓本には筆跡が明確に分かる(参考文献10)。

吉備真備は当時「墓誌」執筆のアルバイトを唐で行っていた。当時は文字を書ける人は少なく、また書に優れた人物も少なかった。真備にはそれなりの収入になっていたと考えられる。書物を購入する資金源となっていた。

吉備真備の墓

吉備真備の墓と伝えられている吉備塚古墳がある。、奈良県奈良市高畑町の奈良教育大学キャンパスに残る古墳である。1986年に古墳時代中期後半の特徴を有する画文帯環状乳神獣鏡が採集され、学術調査により、墳頂部に2基の埋葬施設があることが確認され、5世紀後葉から6世紀初頭の埴輪片や2基の木棺直葬をはじめ、三累環頭大刀、貝装雲珠、挂甲などの遣物が多数発掘され、吉備塚は六世紀の古墳とされ、吉備真備とは時代が異なることが判明した。吉備真備の臨終地には、吉備説と大和説とがある。右大臣の辞職後、どこで余生を送ったのか史料がないため、終焉の地も不明である。岡山県真備町にも、吉備真備とされる墓が存在している。しかし臨終の地がどこか、はっきりとした記録や物証がないため確定できないのが現状である。

吉備真備の記念碑等

  • 中国西安市吉備真備碑 真備が長安で学んだ国士監(大学)の跡地(環城公園内)に「吉備真備記念碑園」が建設され、その除幕式が1986年(昭和61年)5月8日に西安市で行われた。碑面の「遣唐留学生 吉備真備記念碑」の刻字の下書きは、岡崎嘉平太の揮毫による(参考文献11)。
  • 岡山県真備町記念館 岡山県真備町のまきび公園に吉備真備の記念碑があり、まきび記念館が作られている。
  • 名称:まきび公園
  • 開設:1986年10月
  • 所在地:岡山県倉敷市真備町箭田3652-1
  • 交通:井原鉄道井原線 吉備真備駅から徒歩で15分

吉備真備公園

吉備真備公園は「日本の歴史公園100 選」(日本公園緑地協会)に選定されている。吉備真備銅像がある。

  • 名称:吉備真備公園
  • 所在地:岡山県小田郡矢掛町東三成3872-2
  • 交通:井原鉄道井原線 三谷駅から車で5分

参考文献

  1. 宮田俊彦(1961)『吉備真備』吉川弘文館
  2. 『続日本紀』宝亀六年十月壬戌薨伝
  3. 塙保己一 編, 続群書類従完成会校(1952)『羣書類従 第2輯』 (神祇部 第2(巻第16-28))
  4. 内藤湖南(1930)『日本文化史研究』弘文堂
  5. 『冊府元亀』巻971朝貢、玄宗開元五年十月「日本国、使を遣わして朝貢す。通事舎人に命じ鴻臚寺に就いて宣慰せしむ」
  6. 三善清行(914)『三善清行意見封事』
  7. 山尾幸久(1970)「百済三書と日本書紀」(『朝鮮史認識の展開』朝鮮史研究会論文集15 収録)龍渓書舎
  8. 『続日本紀』天平勝宝6年(754年)条
  9. 坂元義種(1967)「古代東アジアの国際関係--和親・封冊・使節よりみたる」ヒストリア (49), pp.1-25
  10. 考古学における画期的発見、吉備真備直筆の書が北京で公開2019年12月25日,CRI Online
  11. 岡崎嘉平太伝刊行会編(1992)『岡崎嘉平太伝』ぎょうせい
  12. 『扶桑略記』
  13. 『公卿補任』
  14. 杉本直治郎(1940)『阿倍仲麻呂伝研究』育芳社
  15. 吉備真備の筆跡か 中国留学中の墓誌発見」産経新聞、2019年12月26日
  16. 阿曽村邦昭(2018)『吉備真備』文芸社

上総国文尼寺2023年12月28日 18:59

上総国文尼寺(復元)

上総国文尼寺(かずさこくぶんにじ)は千葉県市原市にある奈良時代の尼寺跡である。

概要

奈良時代の741年(天平13年)に聖武天皇の詔によって全国に建立された国立の寺院である。金光明四天王護国之寺という僧寺と、法華滅罪之寺という尼寺が同時に建てられた。 全国60箇所余りに建てられた国立の寺院のひとつで、当時の地方の仏教や文化の中心となった。敷地面積約12万平方メートルの大規模な伽藍であった。 上総国分寺は、全国でも規模が大きく、国分尼寺は当時の国内で最大の尼寺である。 上総国分尼寺の建立はなかなか進まなかったようであった。 上総国分尼寺跡は数度の発掘調査が行われ、伽藍配置ばかりでなく、尼寺を構成するいくつもの施設の存在が判明している。寺の施設には、尼僧の日常生活にかかる大衆院、事務を執る政所院、建物の修理をする大工や金工の工房である修理院、薬草や野菜、花などを栽培した薗院、花苑院、寺の雑役などに従事した人たちの居住する賎院があった。現在までに判明している主要な建物跡は、南大門、脚門であった中門と東西の門、金堂跡、経蔵、講堂、鐘楼、経楼、尼坊、政所院、回廊、門跡、北門、金属の加工を行った工房、修理院、賤院、校倉がある。

復元

中門と回廊は奈良時代の工法を再現する形で木造復元された、96本の回廊の柱は、樹齢100年以上のヒノキ(木曽桧)を使い、材の結合部として強度を要する大斗にはケヤキ、耐水性を要する部分にはヒバを使う。回廊には直径30cmの柱が96本使用され、梁行はりゆき1間けん、桁行けた行きが25間の規模である。壁には古代の窓の連子窓を取り付ける。中門や回廊、金堂の基壇には、土の崩れを防ぐため瓦が積まれ、基壇表面には、瓦と同じ材料で正方形のと呼ばれる瓦の一種が敷かれる。甎は回廊で8,833枚、金堂で3,622枚が使用された。

展示

  • 上総国文尼寺展示館

アクセス等

  • 名称:上総国文尼寺
  • 所在地:千葉県市原市国分寺台中央3-5-2
  • 交通: JR内房線五井駅東口より小湊鉄道バス国分寺台行き・山倉こどもの国行き等にて「市原市役所」下車、徒歩10分

参考文献

阿倍仲麻呂2023年12月25日 00:08

阿倍仲麻呂(あべのなかまろ,701年 - 770年)は奈良時代に遣唐留学生として唐に渡り中国の皇帝に仕え、帰国を果たせず唐で没した人物である。百人一首では「阿倍仲麿」と表記する。唐名を「朝衡」(ちょうこう、晁衡)と名乗った。中国では有名な日本人である。 弟に阿倍帯麻呂がいる。

概要

阿倍仲麻呂は父の中務大輔正五位上・安倍舩守の子として生まれた。母の名は不詳である。 阿倍氏は宣下朝期に阿倍大麻呂が大夫に登用された頃からが確実な記録とされている。

生年の2説

生年に699年(文武3年)説と701年(大宝元年)説の2説がある。『古今和歌集目録』は716年(靈龜2年)8月20日に16歳(数え年齢)で、吉備真備・玄昉、井真成らとともに遣唐留学生として唐に渡った。靈龜2年から逆算すると701年(大宝元年)生まれとなる(年齢は満年齢ではなく、数え年齢であることに留意する)。 略伝によれば、770年(大暦五年)正月に73歳で亡くなったとされるので、ここから逆算すると699年(文武3年)生まれとなる。近年は701年(大宝元年)生まれ説が有力とされる。唐の太学への入学には年齢制限があり十四歳以上、十九歳以下である。(遣唐使選定時16歳、渡海時17歳、入学時18歳とすると整合性がある(参考文献1)。

古今和歌集目録

古今和歌集目録に阿倍仲麻呂の略歴が載る。阿倍仲麻呂を知るための基本資料である。聡明にして読書を好むと書かれる。

  • 中務大輔正五位上船守男。靈龜二年八月廿日乙丑。
  • 爲遣唐學生留學生。従四位上安倍朝臣仲麿。
  • 大唐光祿大夫散騎常侍。兼御史中丞。
  • 北海郡開國公。贈?州大都督朝衡。國史云。
  • 本名仲麿。唐朝賜姓朝氏名衡字仲満。性聴敏。
  • 好讀書。靈龜二年以選爲入唐留學問生。時年十有六。
  • 十九年京兆尹崔日知薦之。不詔褒賞。超拜左補闕。
  • 廿一年以親老上請歸。不許。賦詞曰。慕義名空在。
  • 愉中高不全。報恩無有日。
  • 皈國定何年。至于天寶十二載。與我朝使参議
  • 藤原清河同船溥歸。任風掣曳。漂泊安南。屬祿山構逆羣盗蜂起。
  • 而夷撩放横。刧殺衆類。
  • 同舟遇害者。一百七十餘人。僅遣十餘人。
  • 以大暦五年正月薨。時年七十三。贈?州大都督。
  • 明達律師傳云。有夢松尾明神。
  • 天王寺借住僧等之靈驗也。各委不記可見本傳也。
  • 追至公卿。

安倍家

阿部氏は大和盆地東南部を本拠とする中央氏族である。孝元天皇の皇子大彦命を祖とする。 阿部仲麻呂の父安倍舩守は中務大輔正五位上である。和銅四年(711年)四月の従五位上から正五位下、養老七年正月に正五位上に昇叙された(;続日本紀)。中務大輔は中務省の次官である。

遣唐留学生

阿部仲麻呂は716年(靈龜二年)8月、16歳で遣唐留学生に選ばれた。そのときの遣唐使は総勢557人。主要メンバーは押使(長官)に従四位下・多治比真人県守、大使に従五位下・大伴宿禰山守、副使に正六位下・藤原朝臣馬養(;宇合)である。留学僧に玄昉、留学生に阿部朝臣仲麻呂(16歳)、下道朝臣真備(22歳)、井真成(18歳)。養老元年(717年)10月、入唐し、長安に到着した。

唐での活動

阿部仲麻呂は718年(養老2年)に18歳で唐の太学に入る。721年、東宮司経局校書になる。727年頃に結婚した可能性がある。天平六年(734年)玄宗皇帝は仲麻呂の帰国を不許可とした。 中国側史料の『楊文公談苑』の記載に「開元中、朝衡なるもの有りて、太学に隷きて挙に応じ、仕えて補闕に至る。国に帰らんことを求む。検校秘書監を授けて放ち帰す。王維及び当時の名輩、皆詩序ありて別を送る。後去くを果たさず。官を歴て、右常侍・安南都督に至る」と書かれている。太学に入学したことは、王維の送別の詩文にも書かれている。 阿部仲麻呂は唐では朝衡と名乗っている。東宮司経局校書は正九品下相当、「校書」は書物の誤りを訂正する校正担当である。古典を知っていなければ務まらない役職である(参考文献1)。

帰国の不許可

天平度の遣唐使が来日したとき仲麻呂は老いた父母に孝養をつくしたいからと帰国願を提出したが、玄宗皇帝の許可は得られなかった。略伝に「慕義名空在。愉忠孝不全。報恩無有日。帰國定何年」(義を慕いて名は空しく在り。忠を愉しむも、孝は全からず。報恩は日あることなし。帰國が定まるは何年ならん)とある。皇帝への忠と、親への孝のはざまで苦しむ姿がある。当初の留学計画では帰国の予定であった。

帰国の試み

753年(天宝12年、仲麻呂 53 歳)には「秘書監」(従三品。秘書省の長官、文筆の官としては最高位)に昇進していた。 753年(天平勝宝5年)、藤原清河を大使とする遣唐使の帰国に同乗して帰国することが許可された。第1船は藤原清河・阿倍仲麻呂、第2船に大伴古麻呂・鑑真、第3船に二度目の渡唐をした吉備真備、第4船には布勢人主らが乗船した。53歳になった仲麻呂としては、最後のチャンスと考えた。第1船は最も安全とされていたが、第1船は日本方面まで来たものの漂流し、安南(ベトナム)に漂着したため、帰国することはできなかった。清河と仲麻呂らは755年に長安に帰還し、その後は唐に仕えた。第2船は11月21日に阿児奈波島(沖縄島)に漂着し、12月7日に益救島(屋久島)、20日に薩摩国阿多郡秋津屋浦に上陸した(唐大和上東征伝(779年))。第3船は20日に阿児奈波島(沖縄島)に漂着した。益救島(屋久島)を経て、紀伊国太地に漂着した。第4船は途上で船が火災に遭ったが、舵取の川部酒麻呂などの奮闘により鎮火に成功した。754年4月、薩摩国石籬浦(現鹿児島県揖宿郡頴娃町石垣)に漂着し、帰国できた(参考文献1)。

古今和歌集

『古今和歌集』羇旅歌 406首目に収録されている阿部仲麻呂の和歌は有名である。

  • あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも

詞書に「唐土(もろこし)にて月を見て、よみける 安倍仲麿」と記載される。 また注に「この歌は、むかし仲麻呂を唐土にもの習わしに遣わしたりけるに、あまたの年を経てえ帰りまうで来ざりけるを、この国より又使まかりいたりけるにたぐひて、まうできなむとて出で立ちけるに、めいしうといふ所の海辺にてかの国の人餞別(むまのはなむけ)しけり、夜になりて月のいと面白くさしいでたりけるを見て詠めるとなむ語り伝ふる」 とある。平城京から東方を眺めると、標高498メートルの春日山に隠れて三笠山を見ることはできない。遣唐使の航海安全祈願のための神祭を実施した三笠の山の麓から月をみることになる。『続日本紀』に「遣唐使、神祇を蓋山(みかさやま)の南に祠る(養老元年〔717年〕2月条)と書かれていることがこれを示す。その思い出を歌に込めたのであろう。 唐の明州での送別の宴の際に詠まれた歌で、望郷の想いが語られる。送別の開催は753年(天平勝宝5年)11月15日のことで、この夜は満月であったという。

仲麻呂の影響力

玄宗皇帝は、宮殿の府庫(図書館)を遣唐使の日本使(750年(天平勝宝二年)九月任命)に許可した。案内者は朝衡(仲麻呂)であった。朝衡が玄宗皇帝に願い出て許可を得たと考えられている。君主教殿、老君之経堂、釈典殿宇などくまなく見せ、さらに大使(藤原朝臣清河)、副使(大伴古麻呂)の肖像画を書かせ、送らせた(宮田俊彦1961)『吉備真備』吉川弘文館。これは他の遣唐使にはなかったことであり、相当に異例の厚遇といえる。仲麻呂の皇帝への影響力によるものと考えられる。

阿倍仲麻呂の記念碑

護国寺

東京文京区大塚の護国寺の正式名称は「神齢山悉地院大聖護国寺」である。仲麿塚碑がある。銘文に次が記載される。

-此碑旧在大和国安倍村久没 
-蒿莱無人剥蘚者大正十三年
-甲子仲秋移植斯地題詩于其陰     
-箒庵逸人

「此の碑、旧は大和国安倍邸に在り。久しく蒿莱(こうらい)に没し、人の蘚を剥ぐ者無し。大正十三年甲子仲秋、斯の地に移し置き、詩を其の陰に題す。箒庵逸人(高橋義雄)」

 高橋義雄は実業家で俳人であり数寄者として知られる。箒庵逸人は俳号。著書『箒のあと』下(秋豊園出版部、1836年)で、経緯を書いている。奈良の骨董商の店先で石碑を見つけ購入したという。碑面の文字は温秀高雅で、藤原時代の名家の筆蹟と見た。安倍村は、安倍一族の発祥の地のため、仲麻呂が物故したのち、招魂碑としてこの地に建てたと推測される。東野浩之教授は考古学的見地から7~8百年前のものとは思えず、江戸時代ではないかとする。江戸時代本居宣長が安永三年(1772年)のこの地を訪れたとき、田の中に「あべの仲まろのつか」があることを記している(『菅傘日記』)。18世紀後半には存在していたと推定される(参考文献1)。

国陝西省西安市

興慶宮は陝西省西安市にあり、玄宗皇帝の兄弟五人の王子たちの御殿として造営された。728年に興慶宮で公式の政務を執りはじめ、大明宮に代わる唐代の政治の中心地となった。現在の興慶宮には勤政務本楼の遺跡や沈香亭、花萼相輝楼、長慶軒、湖などがある。阿倍仲麻呂記念碑は唐の柱に似せてつくられた漢白玉製の記念碑で、高さ3.6メートル、市内の興慶宮公園の東南隅にある。西安と奈良は、昔はそれぞれの国の首都であったところから、1974年に友好都市となり、奈良市長の提案で、西安と奈良に阿倍仲麻呂記念碑が建立された。西安の記念碑は1979年7月1日に立てられている。

科挙に合格したか

科挙に合格したという明確な根拠はない。しかし合格説では、高位高官に出世した事実をもって説明する。しかし科挙が出世に決定的に重要であったのは、宋代以降という理解もあるため、唐代における科挙の位置づけが問題となろう。

Wikipedia日本語版の誤り

Wikipedia日本語版にいくつかの誤りがある。

  • 生年月日を「文武天皇2年〈698年〉」の生まれとしているが、これは誤りである。上野誠説(参考文献)に依拠したと思われるが、数え年齢と満年齢とを混同している点で、誤りである。
  • 733年(天平五年)の遣唐使の帰国に同行しなかった理由を「唐での官途を追求するため帰国しなかった」と書いているが、仲麻呂の意思で帰国しなかったわけではない。皇帝の許可がでなかったため帰国できなかったのである。

参考文献

  1. 森公章(2019)『阿倍仲麻呂』吉川弘文館
  2. 上野誠(2013)『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』角川書店

唐招提寺2023年11月25日 23:29

唐招提寺(とうしょうだいじ)は唐の高僧の鑑真和上により奈良時代中期に創建された南都六宗の一つである律宗の総本山である。

概要

1998年(平成10年)、世界遺産のひとつとして登録された。 鑑真大和上は、東大寺で5年を過ごした後、新田部親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜され、159年(天平宝字3年)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場として開いた。 当初は講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵だけであった。 唐では官寺でない寺を「招提」と称しており、四方から僧が集まり居住する所を意味した。平安末期には興福寺の末寺となった。1900年(明治33年)に興福寺から独立して律宗総本山となる。

金堂

  • 国宝 奈良時代(8世紀後半)
  • 奈良時代建立の寺院金堂としては現存唯一のものである。
  • 外観は、正面間口七間、奥行き四間の寄棟造

講堂

  • 国宝 奈良時代(8世紀後半)
  • 平城宮の東朝集殿を移築・改造したもの

宝蔵

  • 国宝 奈良時代(8世紀)
  • 唐招提寺創建にあわせて建立されたといわれ、経蔵より一回り大きい。

鼓楼

  • 国宝 鎌倉時代 仁治元年(1240)

経蔵

  • 国宝 奈良時代(8世紀)
  • 高床式の校倉
  • 唐招提寺創建以前の新田部親王邸の米倉を改造したものといわれる。
  • 唐招提寺で最も古い建造物

礼堂

  • 重要文化財 鎌倉時代
  • 礼堂は、隣の鼓楼に安置された仏舎利を礼拝するための堂である。

基本事項

  • 名称:唐招提寺
  • 本尊:盧舎那仏
  • 宗派:律宗
  • 拝観時間:8:30~17:00(受付は16:30まで)
  • 拝観料 大人・大学生 1000円
  • 国宝 鑑真和上坐像 特別公開 1000円
  • 所在地:〒630-8032 奈良県奈良市五条町13-46
  • 交通:近鉄西ノ京駅徒歩10分/ 奈良交通バス「唐招提寺」「唐招提寺東口」

参考文献

太安麻呂2023年11月23日 00:23

太安麻呂(おおのやすまろ、? - 723年)は奈良時代前期の官人である。現存最古の歴史書とされる『古事記』の編纂者である。太安万侶とも記す。

概要

712年(和銅5年)に完成した日本最古の歴史書の『古事記』を撰録した者として知られる。 豪族多氏の出身で田原本の多の地に生まれ育った。『続日本紀』によれば,704年(慶雲1年)従五位下、711年(和銅4年)正五位上,715年(霊亀1年)従四位下に叙せられた。716年、太氏(多氏)の氏長となった。没した723年には民部卿であった。『和州五郡神社神名帳大略註解』によると、壬申の乱の功臣である多品治(「太」と「多」は通じる)の子とされる。『古事記』の序に安万侶が勲五等の勲等を得たと書かれる。

雅楽の家系

多氏は雅楽の祖としても知られている。多氏(おおうじ)は,平安朝以降,宮廷神事の歌舞音楽である雅楽をつかさどっている。9世紀中ごろに活躍した多臣自然麻呂(おおのおみじねんまろ)は舞楽・神楽の元祖といわれている。一族に音楽に関係する人物が多く、宮中の雅楽をつかさどってきた。

古事記編纂

711年9月、元明天皇の詔に従い『古事記』の撰録に着手し,翌年1月に献上した。稗田阿礼が暗唱する資料としての帝紀・旧辞を再整理し、筆録した。『古事記』の筆録では漢字の音のみを用いる音仮名と、意味をとる訓字を混用して変体漢文体を用いた。口誦文化としての神話を文字に定着させるための工夫であった。日本書紀の編纂にもあたったとされる。

墓誌

太安萬侶の墓は、奈良県庁から東南へ約7㎞離れた奈良市此瀬町にあり、1979年(昭和54)1月に、丘陵の南斜面にある茶畑の改植作業中に発見された。墓の構造や墓誌の出土状況が明確にされた貴重な例であった。太安万侶墓誌には太安萬侶の名前のほか、位階・勲位、生前の住所、亡くなった日付などが刻まれている。それまでは架空の人物説もあったが、墓誌により太安萬侶が奈良時代に実在したことを証明された。平城京左京四条四坊に住んでいたことが墓誌から分かる。

参考文献

光明皇后2023年11月18日 23:33

光明皇后(ふじわらのうまかい、701年- 760年)は奈良時代の聖武天皇皇の皇后で孝謙天皇の生母である。出家して光明子となる。諱は安宿媛。

概要

父は藤原不比等、母は県犬養橘三千代である。 両親、特に三千代の影響から仏教に深く帰依した。東大寺大仏造立や国分寺建立は光明子の勧めにより実施されたとされる。716年に同い年の首皇子(のちの聖武天皇)の妃となり、聖武天皇の即位後の727年に基王を生んだ。729年に皇后となる。749年(天平勝宝1年)7月聖武天皇が譲位すると、皇太后となり紫微中台を設置し、甥の藤原仲麻呂を長官に登用し、娘の孝謙天皇に代わって実質的なトップとなった。藤原仲麻呂の専権がピークとなった760年6月に没した。60歳没,大和国添上郡佐保山(諸陵式 佐保山東陵)に葬られた。

政治活動

施薬院を置き諸国の薬草を集めて貧しい病人に施すとともに、貧窮者や孤児を救済するために悲田院を設置した。法華寺の十一面観音がその姿を写したものと伝えられる(「七大寺巡礼記」)。 756年に聖武太上天皇が没したあと遺愛の品々を東大寺に献納したことにより正倉院宝物が始まった。

人物

聖武天皇の在位中、娘の孝謙女帝の時代にも、事実上の権力者は光明皇后であったとする説がある。『国家珍宝帳』の願文には「生前聖武の好んだ品々をみるにつけ、ありし日が思い出されて泣き崩れてしまう」と書かれる。

参考文献