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唐物2026年04月14日 00:49

唐物(;からもの,)は、奈良時代から近世にかけて日本にもたらされた舶載品(外国からの輸入品)を指す歴史用語である。とくに中世以降は、中国由来の物品を中心とした概念として用いられるが、その内容は時代により変化する流動的な用語であった。

用語の成立と初出

「唐物」の語は、平安時代初期の「808年(大同3年)」の史料に初めて確認される。大嘗会に関する記録には、

「雑楽伎人等、専ら朝憲にそむき、唐物をもって飾となす」

とあり、大嘗会において唐物による装飾が禁じられていたことが記されている。これは当時すでに「唐物」が特定の外来品を指す語として認識されていたことを示す。

「新羅物」から「唐物」へ

奈良時代には、外来品を指す語として「新羅物(しらぎもの)」が用いられていた。 752年(天平勝宝4年)の史料である「買新羅物解」は、新羅使節がもたらした物品の購入申請文書であり、香料・薬物・顔料・金属器など多様な輸入品が記録されている。

8世紀においては「新羅物」が主流であり、「唐物」はまだ一般的ではなかった。しかし9世紀以降になると、「唐物」が中国のみならず朝鮮半島を含む外来品全般を指す語として定着していく。 さらに10世紀以降は、中国文化への依存度の高まりにより、「唐物」は主として中国由来の輸入品を意味する傾向が強まった。

「唐」と「から」の意味

「唐」は本来、中国の王朝名であるが、唐滅亡後も日本では中国一般を指す語として用いられ続けた。 また「から」という語は、中国(唐)に限らず、加羅・韓など朝鮮半島諸地域を含む「海外」一般を指す広義の概念であった。

『古事記』にも「韓人(からびと)」の表現が見られ、この語の古い用法を示している。

中世における展開(唐物と和物)

鎌倉時代になると、「唐物」と「和物」という区分が明確化する。 『新猿楽記』には、商人が扱う商品として両者が並列的に記されており、輸入品と国産品の区別が意識されていたことがわかる。

この時期の主な唐物には以下のようなものがある:

  • 香料・薬品(香薬)
  • 顔料
  • 陶磁器
  • ガラス器
  • 書籍・文具
  • 動植物・珍品
  • 唐物の具体的内容

唐物の対象はきわめて広範であり、単なる工芸品にとどまらない。代表例は以下の通りである:

  • 香料・薬物
  • 陶磁器・ガラス製品
  • 紙・書籍・文具
  • 織物・毛皮
  • 調度品・楽器
  • 茶・動植物・珍獣

このように唐物は、文化・技術・嗜好の伝播を担う重要な媒介であった。

思想的評価(『徒然草』の例)

鎌倉時代末期には、唐物の流入が増大する一方で、それに対する批判的視点も現れる。 徒然草において、吉田兼好は次のように述べる。

唐の物は、薬の外は、なくとも事欠くまじ。

  兼好は、薬品を除き唐物は必須ではないとし、過度な舶来品志向を批判した。これは当時、中国船の来航が増加し、輸入品が氾濫していた状況を背景としている。

総括(概念の特徴)

唐物とは単なる「中国製品」ではなく、以下の特徴をもつ歴史的概念である。

  • 奈良時代には「新羅物」などと並存
  • 平安時代以降に外来品の総称として定着
  • 中世には中国中心の輸入品概念へ変化
  • 時代ごとに意味内容が変動する可変的用語

したがって「唐物」は、日本の対外交流史・文化受容史を読み解くうえで重要なキーワードである。

参考文献

  1. 河内春人(2022)「唐物の成立」『唐物とは何か』(河添房江編)勉誠出版
  2. 森公章(2016)「奈良時代と「唐物」」河添房江・皆川雅樹編『唐物と東アジア』勉誠出版
  3. 東野治之(1977)『正倉院文書と木簡の研究』塙書房
  4. 皆川完一(2012)『正倉院文書と古代中世史料の研究』吉川弘文館
  5. 大塚紀弘(2022)「鎌倉時代の唐物と文化伝搬」『唐物とは何か』(河添房江編)勉誠出版
  6. 河添 房江(2014)「平安物語の唐物をめぐる文化史」専修大学人文科学研究所月報272,pp.1-10
  7. 河添 房江(2014)『唐物の文化史――舶来品からみた日本』岩波書店

紀伝体2026年03月28日 13:30

紀伝体(きでんたい)とは、歴史を人物や事件ごとにまとめて叙述する歴史記述の形式であり、年代順に出来事を並べる編年体と対比される史書の叙述方法である。 概要 紀伝体の形式は前漢の歴史家「司馬遷」によって確立され、その著作『史記』が最初の本格的な紀伝体の史書とされる。

紀伝体では、歴史上の人物や政治勢力を中心に記事を構成し、個々の人物の生涯や政治的活動をまとめて叙述する。これにより、歴史の流れを人物の行動や政治過程を通して理解することが可能になる。

紀伝体史書の構成

典型的な紀伝体史書は、以下の四つの部分から構成される。

  • 本紀(ほんぎ) - 皇帝や王など国家の最高統治者の事績を記す部分。
  • 表(ひょう) - 王朝の系譜や年代関係を整理した年表・系図。
  • 志(し) - 礼制・制度・天文・経済・地理など、国家制度や社会現象を体系的に記述した章。
  • 列伝(れつでん) - 官僚・将軍・学者など、重要人物の伝記をまとめた部分。

このうち「本紀」の紀と「列伝」の伝を合わせて、史書の形式は紀伝体と呼ばれる。

中国史学における位置

紀伝体は『史記』以後、中国の王朝史の基本的形式となった。

中国の公式歴史書である「正史」は、原則として一王朝につき一史書を編纂するという原則のもとで作られ、その多くが紀伝体で記述されている。

代表的な紀伝体史書としては以下がある。

  • 漢書
  • 後漢書
  • 三国志
  • 旧唐書
  • 新唐書

これらは総称して「正史」と呼ばれ、中国史研究の基本史料となっている。

編年体との違い

中国史書には紀伝体とは別に編年体という叙述形式がある。

編年体は年代順に出来事を並べて記録する方法であり、国家史の時間的推移を把握しやすいという特徴がある。

代表的な編年体史書には次のものがある。

  • 春秋
  • 資治通鑑(著者:司馬光)

日本史書における紀伝体

日本の古代国家が編纂した歴史書である六国史(例:日本書紀など)は、基本的に編年体で書かれている。

日本で本格的に紀伝体が採用されたのは江戸時代であり、水戸藩主の徳川光圀が編纂を開始した「大日本史」がその代表例である。 紀伝体の歴史叙述上の特徴

紀伝体は人物の生涯や政治活動をまとめて叙述できるため、歴史を人物中心に理解する叙述形式として優れているとされる。

江戸時代の儒学者荻生徂徠は著書『経子史要覧』の中で

  • 「一人の終始を記することは紀伝にしくはなし」

と述べ、人物の一生を通して歴史を描く方法として紀伝体の有効性を評価している。

紀伝体と中国史学

紀伝体とは、中国史学において成立した歴史叙述の形式の一つであり、ある人物や国家を単位として歴史を記述する方法である。この叙述形式は前漢の歴史家 司馬遷 によって確立され、その著作である『史記』において完成された。紀伝体はその後、中国王朝の公式歴史書である正史の基本構成として継承され、中国史学の中心的な叙述形式となった。

中国における歴史記述は、紀伝体成立以前には主として編年体によって行われていた。編年体は年代順に出来事を記録する方法であり、代表的な史書としては『春秋』が知られる。この形式は政治事件の推移を時間軸に沿って把握することに適していたが、人物の活動や政治過程を総合的に描くことには限界があった。

司馬遷はこうした編年体の制約を克服するため、人物と国家の歴史を体系的に叙述する方法として紀伝体を採用した。『史記』は本紀・表・書(後世の志に相当)・世家・列伝という複数の構成部分から成り、皇帝の事績、制度史、諸侯の家系、そして個々の人物の伝記を組み合わせることで、歴史を多面的に叙述する体系を構築した。この構造は単なる年代記ではなく、政治・社会・文化の各側面を総合的に理解するための歴史叙述であった。

紀伝体の最大の特徴は、歴史の主体を人物の行動と選択の中に見いだす点にある。列伝では政治家・将軍・学者・遊侠など多様な人物が取り上げられ、その生涯と行動を通じて時代の政治状況や社会構造が描き出される。この点において紀伝体は、個人の徳や行為を重視する儒教的歴史観と深く結びついている。歴史は単なる事件の連続ではなく、人間の道徳的行為と政治的判断によって形成されるという思想が、その叙述構造の背景にある。

『史記』以後、紀伝体は中国の正史編纂の標準的形式となった。後漢の班固が著した『漢書』はその典型例であり、以後の王朝史である『後漢書』や『三国志』なども基本的に紀伝体で編纂された。これらの史書は後世「二十四史」と総称され、中国の公式歴史記録として位置づけられている。中国の王朝では一般に「一王朝一史」という原則が採られ、新王朝が前王朝の歴史を編纂する際にも紀伝体が用いられた。この制度的枠組みの中で、紀伝体は国家の正統性を示す歴史叙述の形式として機能したのである。

一方、中国史学には紀伝体と並んで編年体も重要な役割を果たした。北宋の歴史家 司馬光 が編纂した『資治通鑑』は編年体史書の代表例であり、戦国時代から五代十国時代までの政治史を年代順に記述している。この史書は政治的教訓を得ることを目的とし、君主の統治の参考とするために編纂された。紀伝体が人物中心の叙述を特徴とするのに対し、編年体は政治事件の時間的連関(時系列)を明確にする点で優れており、中国史学では両者が相互補完的に用いられてきた。

このように紀伝体は、単なる歴史記述の形式にとどまらず、中国における歴史観や政治思想と深く結びついた史学方法であった。人物の徳行や政治的判断を重視する儒教思想を背景に、歴史を倫理的評価の対象として記述するという特徴を持つ点に、中国史学における紀伝体の本質的意義があるといえる。

紀伝体のメリット・デメリット

紀伝体は個々の人物の生涯や行動を中心に叙述するため、人物評価や批判的な文辞を挿入しやすく、編年体に比べて歴史家の歴史観や評価を表明しやすいという特徴をもつ。

一方で、同一の歴史事件が複数の本紀や列伝に分散して記述されるため、歴史の全体像を把握するには複数の記事を参照する必要がある。また、異なる人物伝の記述の間に内容上の矛盾が生じる場合もある。さらに年代順の叙述ではないため、出来事の時間的連関や歴史の文脈を把握しにくいという欠点も指摘されている。

紀伝体は人物史・社会史を多角的に描くには適した方法である。 紀伝体は列伝によって

  • 官僚
  • 将軍
  • 学者
  • 商人
  • 遊侠

など多様な人物を扱うことができるため、司馬遷の『史記』では

  • 遊侠列伝 - 列伝第64巻
  • 刺客列伝 - 5人の暗殺者についての記録
  • 貨殖列伝 - 富豪と経済活動の記録

のように社会史資料として重要な記述が生まれた。これは編年体にはほとんど見られない特徴といえる。

参考文献

  1. 西谷正(2009)『魏志倭人伝の考古学』学生社

鎮鐸2026年03月26日 00:06

鎮鐸(ちんたく)は寺院の塔や堂の軒先に吊るされる風鐸(ふうたく)の一種であり、風によって鳴る音で邪気を祓い堂塔を鎮護する仏具である。

概要

鎮鐸は風による建物の揺れを抑えたり、魔除け(風水的な守護)として仏堂や塔の軒先に吊るされる大振りな鈴の一種である。風が吹いた際に鳴る音によって邪気を払うと考えられたことから魔除けとされた。 「鎮」は(悪霊を)鎮める意味であり、「鐸」は鐘や鈴を意味する。金メッキされた銅製の鎮鐸を金銅鎮鐸という。銅鐸と鎮鐸とは形は似ており、名称に「鐸」が含まれるが、弥生時代の祭器である銅鐸とは用途・時代ともに異なる別種の器物である。

出現時期

鎮鐸が日本での記録や遺物として確認されるのは「奈良時代(8世紀)」からである。中国(唐代)の建築様式とともに日本へもたらされたと考えられている。鎮鐸は中国仏教建築や朝鮮半島仏教建築の双方に存在するため、現在の研究では中国起源であり、朝鮮半島経由で日本に伝わったとされる。 平安時代以降にはより装飾的な「風鐸」へと簡略化・変化していく傾向があるが、奈良時代では重厚で「鐸(たく=鈴)」としての機能が強く現れる。

正倉院の鎮鐸

正倉院には19口の金銅鎮鐸が伝わる。形態は大きく二種類に分けられ、胴の断面が釣鐘形の第一号鎮鐸と、断面が菱形で弥生時代の銅鐸に似た形態をもつ第二号鎮鐸がある。 正倉院の鎮鐸は国産かどうかについては、国産の可能性が高いとされている。その理由は、鎮鐸の鋳造技術や金メッキ(金銅)の技法が、同時期の東大寺大仏建立に関わった工房の技術的特徴と一致していること、当時の仏具は国内の官営工房で作られていること、日本の寺院建築(薬師寺や東大寺など)に用いられる金具の様式と類似性があることなどが挙げられている。

第一号鎮鐸其8の表面に刻まれた銘文に「天平勝宝九歳五月二日」の年紀がある。天平勝宝8歳(756年)の聖武天皇一周忌斎会で使用されたものと見られる。「金銅鎭鐸 第1号 其3」も同様である。 第二号鎮鐸は文様を刻んだ外型二枚を組み合わせ、その内部に中子を入れて鋳造する技法で製作されており、銅鐸鋳造技術との共通性が指摘されている。これらは奈良時代の官営工房である造東大寺司に属する複数の工人集団によって製作された可能性がある。 弥生時代の銅鐸鋳造技術との共通性が指摘されている。 材質は銅製鍍金である。

銅鐸鋳造技術の奈良時代継承問題

1 問題の所在

弥生時代の青銅祭器である銅鐸は、弥生時代後期後半(3世紀頃)に製作が停止したと考えられている。一方、奈良時代の正倉院宝物には、断面が菱形で弥生銅鐸に似た形態をもつ「金銅鎮鐸(第二号鎮鐸)」が伝えられている。この鎮鐸の鋳造技術は、外型を二枚合わせる鋳造方法や文様の配置などにおいて銅鐸鋳造と共通点が指摘されており、弥生銅鐸の鋳造技術が奈良時代まで継承された可能性が議論されてきた。 この問題は、日本古代の金属工芸技術の継承関係を考えるうえで重要な論点となっている。

2 銅鐸鋳造技術の特徴

弥生時代の銅鐸は青銅鋳造によって製作される。主な技術的特徴は次の通りである。

  • ①分割外型鋳造
    • 銅鐸は文様を刻んだ外型(鋳型)を左右または前後に分割して作り、それを組み合わせて鋳造する。
  • ②中子(なかご)の使用 内部空間を確保するため、中子を設置して鋳造する中空鋳造が行われる。
  • ③文様鋳出技法 鋳型に文様を刻み、鋳造段階で文様を浮き出させる鋳出文様技法が用いられる。
  • ④大型鋳造技術 大型銅鐸では高さ1mを超える例もあり、高度な青銅鋳造技術が必要とされた。 これらの技術は弥生時代の青銅器文化のなかで独自に発展したものである。

3 奈良時代の金銅鎮鐸

奈良時代の正倉院宝物には19口の金銅鎮鐸が伝わる。 このうち第二号鎮鐸は以下の特徴をもつ。

  • 断面が菱形で銅鐸に似た形態
  • 外型二枚を合わせる鋳造技法
  • 鋳出文様の使用
  • 中空構造

この鋳造方法は弥生銅鐸の鋳造方法と非常に近い。

さらに第二号鎮鐸の鋳造では、

  • 文様を刻んだ外型を作る
  • 外型を二枚合わせる
  • 中子を入れて青銅を流し込む

という工程が確認されており、技術構造は銅鐸鋳造とほぼ同系統であると指摘されている。

4 技術継承説

これらの共通点から、弥生銅鐸の鋳造技術が古代まで継承されたとする説がある。

この説では次のような技術伝承が想定される。

  • 弥生銅鐸工人
  • 古墳時代の青銅器鋳造工人
  • 飛鳥・奈良時代の官営工房(造東大寺司など)

つまり弥生時代の青銅鋳造技術が工人集団の中で世代を超えて伝承されたという考え方である。

特に畿内地域では弥生銅鐸の鋳造拠点が存在したと推定されており、古代国家の官営工房にその技術が吸収された可能性が指摘されている。

5 技術再導入説

一方で、銅鐸技術の直接継承を否定する見解もある。

その理由として次の点が挙げられる。

  • ①時間的断絶
    • 銅鐸の製作停止から奈良時代まで約500年の空白がある。
  • ②大陸技術の影響
    • 奈良時代の青銅鋳造は、中国・朝鮮半島から導入された仏教工芸技術の影響を強く受けている。
  • ③用途の差異
    • 銅鐸は祭器であるのに対し、鎮鐸は仏教建築の仏具である。

このため、第二号鎮鐸は銅鐸技術の継承ではなく、東アジア青銅鋳造技術の共通性による類似とする見解も存在する。

6 評価

現在の研究では、次のような折衷的理解が有力とされている。

  • 技術の基本原理は東アジア青銅鋳造の共通技術である。
  • しかし日本列島には弥生以来の鋳造技術の蓄積が存在した可能性が高い

つまり

  • 完全な断絶でも完全な継承でもなく、部分的な技術伝統の存続

と考えられている。

  • 奈良時代の官営工房には渡来系工人と在地工人が混在していた可能性があり、弥生以来の鋳造技術が新しい仏教工芸技術と融合した可能性が指摘されている。

7 まとめ

正倉院の第二号鎮鐸は、弥生銅鐸と共通する鋳造技術を示す重要な資料である。しかし両者の間には長い時間的隔たりがあり、単純な技術継承と断定することは難しい。

現在の研究では、弥生以来の鋳造技術の基盤の上に、中国・朝鮮半島から伝来した仏教工芸技術が加わり、奈良時代の青銅工芸が成立したと理解されている。

鎮鐸はその過程を示す数少ない実物資料であり、日本古代金属工芸史を考えるうえで重要な位置を占めている。

注・参考文献

  1. 細川晋太郎(2019)「金銅鎮鐸の製作技術と生産の様相」正倉院紀要第 41号

調銭2026年02月13日 00:25

調銭(ちょうせん)とは、律令制下の租庸調のうち「調」を本来の物納ではなく、銭貨で代納させた制度、またはその納入銭を指す語である。律令法では調は絹・布・糸・紙など各地の産物を中央に納める税目と規定されていたが、8世紀初頭に国家が銭貨流通を促進する政策を採用したことにより、銭納が制度化された。

1.導入の背景 ― 銭貨発行と国家政策

708年(慶雲5年)、武蔵国から銅が産出したことを契機として元号が「和銅」に改められ、同年には和同開珎が鋳造された。鋳銭司が設置され、国家主導による貨幣鋳造が開始される。

しかし当時の社会では物々交換や物納が経済の基本であり、銭貨は自発的には流通しにくかった。そこで政府は、税制を利用して銭の需要を人工的に生み出そうとした。その一環が調銭の制度化である。

709年には銀銭の使用を停止し、銅銭を正貨とする方針が採られた。711年(和銅4年)には官人給与の一部が銭で支給され、712年(和銅5年)には平城京造営従事者への日当として銭が支払われたことが記録されている。これらは、銭を租税・給与・労働報酬の三方面に組み込み、流通基盤を形成しようとした政策と理解できる。

2.調銭の実施範囲

当初、銭納が認められたのは畿内周辺に限定されていたとみられる。銭は都を中心に流通させる必要があったためである。

722年(養老6年)には、伊賀・伊勢・丹波・播磨・紀伊など周辺国へと拡大したとされ、銭流通圏を段階的に広げたことがうかがえる。

ただし全国一律に銭納が実施されたわけではなく、物納と銭納が併存する状態が続いた。

3.平安期の再編と地域限定

平安時代に入ると、銭流通はむしろ京および畿内に限定される傾向がみられる。『延喜式』では、左右京および山城・大和・河内・摂津・和泉における調銭が規定されている。

これは銭を都周辺に集中させる政策的意図を示すものと考えられる。

9世紀には銅資源の不足が進み、新規鋳造が困難となった。さらに蓄銭(銭の退蔵)も進行したため、市中流通量が減少した可能性が指摘されている。こうした事情のもとで、調銭は広域流通政策というよりも、都城経済維持のための限定的制度へと変質したとみられる。

4.歴史的意義

調銭は、単なる納税形態の変更ではなく、国家が税制を通じて貨幣経済を育成しようとした試みであった点に意義がある。 律令国家は、

  • 銭の鋳造
  • 税の銭納化
  • 官人給与の銭支給
  • 公共事業賃金の銭払い

を組み合わせることで、貨幣流通の循環構造を構築しようとした。しかし銅供給の制約や経済基盤の未成熟により、恒常的な貨幣経済への移行には至らなかった。

貨幣経済成立論争(律令国家と調銭をめぐって)

古代日本における貨幣経済の成立時期と性格をめぐっては、長く議論が続いてきた。特に和同開珎発行(708年)以降の銭貨流通をどのように評価するかが争点となる。ここでは主な立場を整理する。

1.国家主導的成立論(早期成立説)

この立場は、8世紀初頭の銭貨鋳造・調銭制度・官人給与の銭支給などを重視し、律令国家が意図的に貨幣経済を導入しようとした点を評価する。

主な論点

  • 鋳銭司の設置と和同開珎の発行は計画的政策である
  • 調銭は税制を通じた貨幣需要創出策である
  • 平城京造営などで銭が労賃として支払われた
  • 都城を中心に市場取引が活発化した可能性

この見解では、8世紀を日本における貨幣経済の本格的開始期とみる。ただし「全国的成熟」ではなく、「都城圏を中心とする段階的成立」と位置づけることが多い。

2.限定的流通論(部分成立説)

近年有力とされるのは、銭貨流通はあくまで都と畿内周辺に限定された現象であり、全国的な貨幣経済には至らなかったとする立場である。

根拠

  • 調銭の適用範囲が畿内中心であった
  • 地方では物納・物々交換が基本であった
  • 銭の退蔵(蓄銭)により流通量が不足した
  • 銅資源不足で鋳造が停滞した

この立場では、律令国家の政策は存在したものの、社会経済構造がそれを十分に支える段階にはなかったと評価する。

3.未成熟・不成立論(名目的貨幣論)

さらに慎重な見解では、8~9世紀の銭貨は実質的な交換媒体として広範に機能したとはいえず、貨幣経済は成立していなかったとする。

論点

  • 税や給与で銭が使われても、市場取引がそれに依存した証拠は限定的
  • 銭の鋳造量が少なく、流通基盤が脆弱
  • 物価体系が安定せず、貨幣価値の信頼性が低い

この立場では、古代日本は依然として物納経済を基礎とする社会であり、貨幣は国家財政上の補助手段にとどまったとみる。

4.再評価の視点 ― 「成立」の定義をめぐって

近年の研究では、「貨幣経済の成立」をどの水準で定義するかが重要視されている。

  • 全国的市場経済の確立をもって成立とみるか
  • 都城圏で貨幣交換が常態化すれば成立とみるか
  • 税・給与体系に組み込まれた段階で成立とみるか

評価基準によって結論が異なるため、単純な成立・不成立の二分法では整理できないことが指摘されている。

現在の理解(整理)

現在の研究動向を総合すると、

  • 8世紀初頭に国家主導で貨幣流通政策が展開されたことは確実
  • しかし流通は都城圏中心で、地方社会まで浸透したとは言い難い
  • 9世紀には銅不足・退蔵により停滞した

という点でおおむね一致している。

したがって、古代日本における貨幣経済は「国家政策として導入されたが、限定的地域経済にとどまった段階」と評価するのが比較的穏当と考えられている。

参考文献

  1. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店

養老律令2025年09月23日 00:36

養老律令(ようろうりつりょう)は律令制国家の基本法典である。律十巻・令十巻から成る。行政の組織、職務、刑罰、税制を定めた法律である。

概要

718年(養老2)右大臣の藤原不比等の主導で、陽胡真身、大和長岡、矢集虫麻呂・塩屋古麻呂、百済人成が大宝律令を改正し養老律令を撰定したとされる。完成は養老年中(717~724)とする説がある。

編纂から施行まで

大宝律令と養老律令との大きな相違点はないと見られている。しかし戸令などはかなり改正されている。養老律令は757年(天平宝字元年)に施行されたとされる。藤原不比等が日本の実情に合わせて大宝律を修正して整備されたと考えられているが、選定から40年後の施行となった。藤原仲麻呂が孝謙女帝の勅により施行にこぎ着けた。 長い時間が掛かった理由に、藤原不比等の死去に伴う政治的な不安定性、長屋王の変、天然痘の流行、班田収授制や戸籍制度は理論と実際の乖離があったこと、人材不足などが挙げられている。その他の事情として、718年時点では完成されていないので、すぐに施行されなかったとする見解がある。

原典

上代の大和朝廷の法典の原文は、応仁の乱以後の戦乱で失われたとされて、『飛鳥浄御原令』と『大宝律令』の原文は現存しない。『養老律令』は、『令義解』『令集解』の令文などにその一部が、また、諸書へ引用された逸文としてその他の部分が残存している。律10巻約500条は大半が散逸し、令10巻は約1000条は大半が残存する。

背景

藤原不比等が藤原氏所出の首皇子(後の聖武天皇)の統治を裏づける新律令の制定をもくろみ、養老律令施行には不比等の功を顕彰し、仲麻呂の権勢を強める意図があったとされる。後に不比等の孫の藤原仲麻呂の主導で施行された。 形式的には明治維新まで存続した。

構成

  • 律 - 12篇。
    • 名例(みょうれい)、
    • 衛禁(えごん)、
    • 職制(しきせい)、
    • 戸婚、
    • 厩庫(きゅうこ)、
    • 擅興(せんこう)、
    • 賊盗、
    • 闘訟、
    • 詐偽、
    • 雑、
    • 捕亡、
    • 断獄
  • 令 - 30篇
    • 官位
    • 職員、
    • 後宮職員、
    • 東宮職員、
    • 家令職員、
    • 神祇(じんぎ)、
    • 僧尼、
    • 戸、
    • 田、
    • 賦役、
    • 学、
    • 選叙、
    • 継嗣(けいし)、
    • 考課、
    • 禄(ろく)、
    • 宮衛(くえい)、
    • 軍防、
    • 儀制、
    • 衣服、
    • 営繕、
    • 公式(くしき)、
    • 倉庫、
    • 厩牧(きゅうもく)、
    • 医疾、
    • 仮寧(けにょう)、
    • 喪葬、
    • 関市、
    • 捕亡、
    • 獄、

参考文献

  • 井上光貞,席晃,土田直鎮,青木和夫(1977)『律令』『日本思想大系3』岩波書店

ソグド人2025年07月28日 00:12

ソグド人(そぐどじん、sogd)は 中央アジアのソグディアナ地方を本拠地としていたイラン系民族である。

概要

ソグディアナ地方はアム川とシル川にはさまれた地方で、現在のウズベキスタンに当たる場所である。東に中国、東南にインド、西南にペルシア(現イラン)があり、東西交通の要衝である。都市はサマルカンド(康国)、タシュケント(石国)、ブハラ(安国)などの都市国家ができていた。 サマルカンドを中心とする都市から東西への商業を得意としてシルクロード周辺域の隊商など多様な経済活動を行っていた。ソグド人の領土は、サマルカンドを中心にゼラフシャン川流域にあった。シルクロード交易を約700年にわたり支配した謎の民族と言われる。中国語では栗特と呼ばれ、中国では西方から来た人々を胡人と呼んでいた。6世紀の中国の記録では240人の隊商が600頭の駱駝による隊列を組み、万に及ぶ絹を運んだと記される。移動先で集落を作り定住することもあった。2000年に西安で発見された墓は、ソグド人の墓であった。薩保(薩宝)という名前の人物であった。元はキャラバンのリーダーを意味していたという。碑文では集落の代表者を表すことばになっていた(NHK「隊商の民 ソグド」)。宗教的としてはゾロアスター教を信仰したが、2世紀から3世紀にかけて中国に仏教を伝えた。 6世紀60年代、エフタルはチュルク朝とイランによって征服された。8世紀初頭、アラブ人はソグド諸侯国を征服したが、政治は安定せず、反乱の鎮圧は困難であった。719年から739年にかけてほぼ絶え間なく続いた戦争のため、ソグドは荒廃し、深刻な衰退が訪れて、イスラム教を受容した。アラビア語では「川の向こう側にある地方」を意味するマー・ワラー・アンナフルの名で呼ばれ、この地名が定着する。最後には13世紀のモンゴルの来襲によって破壊され、終焉を迎えたとされる。

現代に残るソグド人

ザラフシャン川の流域はソグディアナ(ソグド人の土地)と呼ばれるが、現在はソグド人はいない。タジキスタンのアルトーチュ村にソグド人の子孫が300人残る。子供が生まれると蜜をなめさせ、コインを握らせる。ソグドの伝統で蜜は食べ物に困らないように、コインはお金持ちになるようにとの願いである。子供が20才になると旅に出す慣習がある。

中国への定住

北朝から隋・唐時代にソグド人の往来が最大となり、定住する者も多くいた。中国で定住すると戸籍にはいり漢字の姓を持つようになる。昭武姓と呼ばれ、出身地ごとに異なっている。サマルカンド出身なら「康」、ブハラ出身なら「安」、タシケント出身なら「石」となる。有名な安禄山は、「安」姓で、禄山もソグド語の名前を漢字で音写したものと考えられている。

アフラシアブ博物館

アフラシアブ博物館はサマルカンドで1970年に開館した。サマルカンドの中心部から北東近郊に広がる岩の丘 「アフラシャブの丘」の近くにある。サマルカンドの都城は、紀元前 6、5世紀頃から建設が開始され、ソグド人の康国の中心として繁栄した。アフラシャブの丘の宮殿址から出土した壁画は、ソグド王国の宮殿の壁に描かれており、特に外交使節を描いたものが有名である。 壁画はソグド王国のバルフマン王の治世の時に制作されたと推定されており、王国を訪問した様々な国の使節団が描かれる。高句麗の使節は鳥羽冠を被り、環頭大刀を腰に帯びて描かれる。バルフマン王は中国側の史料では、唐の高宗から康居都督府の都督に任じられた「拂呼縵」とされる。復元された壁画(オリジナルに近い模写図)はソウルの国立中央博物館3階中央アジア室に展示されている。

言語

紀元7世紀前半に中国人旅行家の義浄は、チュー川沿いのシュアブの町からケシュに至る土地すべてがソグドと呼ばれ、ソグド語を使用し、ソグド語が話されていたと述べている。ソグド語は国際的な言語であった。ソグド語はシルクロードの共通語として使用されていた。 ソグド人がもたらしたソグド文字はウイグル文字となり、そのウイグル文字が13世紀にモンゴル文字となった。イスラム時代には言語として近世ペルシア語を用いるようになり、ソグド語は使われなくなり、イランとの文化的な繋がりが緊密になった。1907年にイギリスの探検家のスタインは、中国・敦煌西北の烽火台の下から8通のソグド語の文書(手紙)を発見した。

ソグド人の遺跡

ソグド人の遺跡にはペンジケント、アフラシアブ(当時はマラカンダの名称)、バラフシャなどがある。全盛期は6世紀の都市遺跡であり、宮殿跡から壁画、幾何学紋様の塑像が発掘された。付近にゾロアスター経の神殿がある。中国でソグド人は胡人と呼ばれ、唐で胡服、胡歌、胡旋舞が流行した。ペンジケント遺跡はサマルカンドから東に65km、タジク共和国の西北にある。5世紀から6世紀の間に最も発展していた。ペンジケント遺跡から壁画や炭化した仏像が出土する。連珠文にパルメット紋を配する副服装は、ササン朝ペルシャと共通する。風貌は金髪、巻き毛、目は大きく蒼く、鼻は高く口髭を蓄え、眉毛は濃い。アフラシアブはサマルカンドの北にあるソグド人の都市遺跡である。

正倉院のソグド

渤海使として来日したソグド人もおり、日本の文化にも影響を与えたといわれる。 法隆寺献納宝物の一部として白檀2点と沈香1点が伝わる。白檀2点に刻まれた謎の刻印と焼印は、ソグド商人の海と陸にわたる交易のネットワークの手がかりである。白檀に記された墨書は天平宝字5年(716年)のもので、刻名の文字はパフラヴィー語(中期ペルシア語)で「ボーフトーイ」(人名)、焼印の文字はソグド文字で「ニーム・スィール」とされる(加藤九祚)。 ソグド人の特徴である「深目高鼻」の面が、正倉院に残る。ソグド人の首領は帽子を被っている。正倉院の「酔胡王」と「酔胡従」の伎楽面はソグド人を表す。酔胡王は泥酔した胡(古代ペルシャ)の王という設定であるが、高い鼻をもち、分厚い唇、太い眉毛、高い帽子でソグド人の特徴をもつ。奈良県明日香村の飛鳥池遺跡で、古代の仮面舞踊劇「伎楽」に使用する面の一つ「酔胡王」を描いた木簡が出土している。義浄の『南海寄帰内法伝』に671年の広州に住むペルシアの船商人について書かれている。唐招提寺の四代目住職の安如宝は中国揚州のソグド人であった。

考察

参考文献

  1. 早田啓子(2005)「中央アジアとその周辺の宗教文化V」昭和女子大学紀要 学苑 (773), pp.88-97
  2. 早田啓子(2004)「中央アジアとその周辺の宗教文化Ⅳ」昭和女子大学紀要 學苑 (762) pp.113-122
  3. 「NHKスペシャル 文明の道 第5集 シルクロードの謎 隊商の民 ソグド」2003年9月14日放送
  4. 加藤九祚(1981)『西域の秘宝を求めて第2版』新時代社
  5. 森安孝夫(2016)『シルクロードと唐帝国』

備中国分寺跡2025年07月25日 00:08

備中国分寺跡(びっちゅうこくぶんじあと)は岡山県総社市にある古代の寺院跡である。

概要

低丘陵のゆるやかな南麓に位置する東西160m、南北178mの寺院跡である。備中国分寺は聖武天皇が741年(天平13年)に仏教の力を借りて天災や飢饉から人々と国を守る (鎮護国家)ことを目的に建てられた官寺の一つであった。 敷地の周囲は底面の幅約1mの築地によって区画されていた。創建当初の国分寺跡は現在の国分寺境内と重複する。建物は南門や中門が発見されており、ともに5間×2間である。1971年(昭和46年)に岡山県教育委員会が実施した発掘調査によって、南門跡、中門跡、建物跡、築地土塀などが確認されている。金堂跡や講堂跡は現在も寺の境内地のうちに含まれており、その位置や規模などは明らかではない。 出土品は軒丸瓦や軒平瓦のほかに、鬼瓦や鴟尾などがある。 出土した土器などから、中世初期まで存続したと推定されている。備中国分寺は、中世には廃寺となったが、その後江戸時代中期に至って清水山惣寺院住職増鉄和尚が、領主蒔田氏から再興の許可と国分寺の跡地を賜り、江戸時代・1717年(享保2年)から19年の歳月を費やし、日照山国分寺として再建したものである。建設費用は銀360貫目、金に換算すると5,000~6,000両と言われる。 現存する伽藍はすべて再興後に建てられた建築である。 岡山県唯一の五重塔がある。

調査

遺構

出土遺物

指定

  • 昭和43(1968)年2月15日 国指定 史跡
  • 1968年2月15日 - 重要文化財 五重塔

アクセス

  • 名称:備中国分寺跡
  • 所在地:〒719-1123 岡山県総社市上林
  • 交通:JR伯美線総社駅から総社バス「吉備路もてなしの館」下車、徒歩約15分

参考文献

  1. 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版
  2. 葛原克人(1975)「備中国分寺」『仏教芸術』103