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日本書紀2026年05月15日 00:20

日本書紀(にほんしょき)は日本の朝廷が編纂した最初の正史として位置づけられる。

概要

全30巻。神代紀から持統天皇の代までを漢文により編年体で記している。『続日本紀』養老4年(720)5月癸酉(21日)条に「先是、一品舎人親王奉勅修日本紀。至是功成奏上。紀卅巻、系図一巻」と書かれる。編纂の中心人物は天武天皇の皇子である舎人親王である。帝紀、旧辞、その他諸家の家記、官の記録、個人の記録類、寺院の縁起類、朝鮮側史料、中国史書など多方面にわたる資料を参照している。異説を「一書」として併記するなど、多様な伝承を残そうとする編纂姿勢がみられる。

写本のうち紅葉山文庫旧蔵版は、1513年(永正10年)頃に歌人で和漢の学に通じていた公卿の三条西実隆が作成した写本を、慶長年間に転写したものである。全30巻が揃う『日本書紀』写本としては現存最古級である。

日本書紀の特徴は中国正史を意識した漢文体であること、国家の正統性を示す意図があること、天皇中心史観であること、対外意識(唐・新羅への外交)が現れていることである。

六国史

六国史は官撰の6種の国史をいう。8世紀から10世紀の初頭にかけて、律令国家としての体制を整備した日本は歴史書の整備を進めていた。 六国史には『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『日本文徳天皇実録』、『日本三代実録』が含まれる。

参考文献

  1. 倉西裕子(2003)『日本書紀の真実』講談社
  2. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀〈1〉』岩波書店
  3. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀〈2〉』岩波書店
  4. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀〈3〉』岩波書店
  5. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1995)『日本書紀〈4〉』岩波書店
  6. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1995)『日本書紀〈5〉』岩波書店
  7. 井上光貞 ,川副武胤,佐伯有清(2020)『日本書紀(上)』中央公論新社
  8. 井上光貞 ,川副武胤,佐伯有清(2020)『日本書紀(下)』中央公論新社
  9. 高城修三(2000)『紀年を解読する 古事記・日本書紀の真実』ミネルヴァ書房

三国史記2026年02月07日 23:31

三国史記は朝鮮半島に成立した新羅・高句麗・百済の三国の歴史を体系的に記した、現存最古級の正史である。

概要

本書は、高麗王朝第17代王・仁宗の命により、1145年(皇統8年)に金富軾(キム・ブシク)を中心とする史官団によって編纂された。編修には金富軾のほか複数の官僚・史官が関与し、完成後、同年中に王へ進上されたとされる。

編纂方針は、中国の正史、とくに『漢書』以降に確立した紀伝体の形式を強く意識したものである。構成は、新羅・高句麗・百済それぞれの王朝史を扱う本紀を中心に、年表・制度史・人物伝を配した全50巻から成る。内訳は、新羅本紀12巻、高句麗本紀10巻、百済本紀6巻、年表3巻、雑志9巻(祭祀・服制・車制・器物・建築・地理・官職など)、列伝10巻である。

現存する完本のうち、最古とされるものは李氏朝鮮中宗代(16世紀前半)に慶州で刊行された木版本である。

旧『三国史』の存在

一方、『三国史記』以前にも、著者不詳の旧『三国史』と呼ばれる史書が存在した可能性が指摘されており、1010年以前に成立していたと推定されている。旧『三国史』では高句麗・新羅の順で叙述されていたとされるが、『三国史記』では新羅を最初に配置する構成へと改められた。構成上、新羅を最初に配置する点は、三国の序列を意識した編纂方針を示すものと考えられている。

引用原典の採用

史料の採用に関しては、中国史書からの引用が極めて多く、これに対して高句麗や百済の固有史料は整理・削減された可能性が指摘されている。これは、金富軾の歴史観は、忠・孝・礼を重んじる儒教倫理を基盤とし、王朝の安定と統治秩序を正当化する方向に傾いている。そのため、地方勢力や在地的伝承、仏教的・神話的要素は抑制的に扱われ、国家中心の視点が前面に出ている点が特徴である。引用原典は多岐にわたり、新羅関係では新羅系史料約40種、中国史料40種余、日本資料1種、高句麗関係では高句麗系史料約10種、中国史料十数種、百済関係では百済系史料数種と中国史料が用いられた。金富軾の歴史観は、忠・孝・礼を重んじる儒教倫理を基盤とし、王朝の安定と統治秩序を正当化する方向に傾いている。そのため、地方勢力や在地的伝承、仏教的・神話的要素は抑制的に扱われ、国家中心の視点が前面に出ている点が特徴である。

原史料の成立年代

これらの原史料の成立年代を見ると、高句麗系史料は4世紀後半、新羅系史料は6世紀中葉、百済系史料は5世紀末頃の編纂と推定されている。朝鮮側の史料としては、『古記』『海東古記』『三韓古記』『本国古記』『新羅古記』のほか、金大問による『高僧伝』や『花郎世記』などが参照された可能性が指摘されている。

史実性の限界

なお、一般に東アジア古代史料の史実性については、編纂時点から遡れる期間に一定の限界があるとされ、日本の奈良・平安期の歴史書との比較から、おおむね60年程度が同時代史としての信頼性の一つの目安と考えられている。この点を踏まえ、『三国史記』も編纂意図や史料選択を考慮した上での利用が求められる。

参考文献

  1. 上田正昭(1980)『ゼミナール日本古代史 下』光文社
  2. 金富軾 (1980) 『三国史記 1』平凡社
  3. 金富軾 (1983) 『三国史記 2』平凡社
  4. 金富軾 (1986) 『三国史記 3』平凡社
  5. 金富軾 (1988) 『三国史記 4』平凡社
  6. 金富軾・井上秀雄 (訳) (1986)『三国史記〈3〉年表・志>』平凡社
  7. 金富軾・井上秀雄 (訳) (1988)『三国史記〈4〉列伝>』平凡社

藤氏家伝2025年07月01日 23:41

藤氏家伝(とうしかでん)は奈良時代後半に成立した藤原氏の家史である。

概要

藤氏家伝は上巻と下巻からなる。藤原鎌足伝は「大織冠伝」とも言われる。藤原不比等伝は失われている。上巻は「大師」すなわち太政大臣である藤原仲麻呂が編纂を主導したとみられる。下巻は華厳宗の学僧である延慶の執筆編集とみられている。延慶は藤原仲麻呂の家僧と推測されている。藤原仲麻呂が先祖の藤原鎌足等の顕彰を目的として編纂したとみられる。貞慧は飛鳥時代の学僧で、藤原鎌足の長子である。

構成

藤氏家伝の構成は以下の通りである。

  • 上巻
    • 藤原鎌足伝
    • 貞慧伝
  • 下巻
    • 武智麻呂伝

成立

天平宝字四年(760年)から天平宝字六年(762年)頃に成立した藤原氏の家史である。

『日本書紀』との関係

鎌足伝と『日本書紀』との関係は横田健一氏の見解がほぼ通説となっている。

考察

藤原不比等伝がないのは残念であるが、藤原氏にとって都合の悪いことが書かれていたのであろうか。全体としては藤原氏に都合良くかかれており、記述のすべてを文字通りに受け止めるべきではないであろう。藤原仲麻呂は藤原鎌足とは約100年の時代差があるので(藤原鎌足→藤原不比等→藤原武智麻呂→藤原仲麻呂)、直接の面識があったわけではない。藤原仲麻呂からみれば藤原鎌足は曾祖父である。藤原仲麻呂が藤氏家伝の編纂を主導したといっても、仲麻呂に記憶があった訳ではないので、それまでの伝承や古記録(あったとすれば)に、独自の誇張を加えても不思議ではなかろう。成立が760年頃なら藤原鎌足の死後100年である。

参考文献

  1. 沖森卓也, 佐藤信, 矢嶋泉 (翻訳)『現代語訳 藤氏家伝』筑摩書房
  2. 横田健一(1973)『白鳳天平の世界』創元社
  3. 横田健一(1973)「大化の改新と藤原鎌足」史林42 (3),pp.82-411

上野三碑2025年06月28日 16:14

上野三碑(こうずけさんぴ)は群馬県高崎市にある山ノ上碑・多胡碑・金井沢碑の3つの石碑を総称していう。

概要

飛鳥時代末期から奈良時代初期(7世紀後半から8世紀前半)にかけて、群馬県高崎市南部に建立された山上碑・多胡碑・金井沢碑の3つの碑の総称である。日本国内に現存する古代の石碑は18例のみであり、その中の3例が互いに近接して群馬県に残っていることは珍しい。上野三碑は文化財保護法により、国の特別史跡に指定されている。群馬県の多胡碑、栃木県の那須国造碑、宮城県の多賀城碑は日本三古碑とされている。また山上碑は飛鳥時代の681年に建てられたものであり、完全な形で残っている石碑としては日本最古である。

ユネスコ

10月24日からフランス・パリにおいて「世界の記憶」の登録の可否を審議する国際諮問委員会が開催され、上野三碑の登録が決定された。群馬県では、上野三碑世界記憶遺産登録推進協議会及び高崎市とともに、登録祝賀セレモニーを2017年(平成29年)11月1日(水曜日)に群馬県庁にて開催した。

経過

  • 2014年(平成26年)11月1日 上野三碑世界記憶遺産登録推進協議会発足
  • 2015年(平成27年)9月24日 ユネスコ国内委員会から、岐阜県・八百津町が申請していた「杉原リスト」とともに国内候補に選定される。
  • 2016年(平成28年)5月19日 文部科学省を通じてユネスコへ登録申請書を提出
  • 2017年(平成29年)10月31日、ユネスコ世界の記憶に登録される。

参考文献

  1. 鬼頭清明(1991)「上野三碑をめぐって」『古代日本金石文の謎』学生社

漢委奴国王印2024年09月09日 00:00

漢委奴国王印/福岡市博物館

漢委奴国王印(かんのわのなこくおういん)は江戸時代の1784年(天明四年)に筑前国那珂郡志賀島(現福岡県福岡市東区)で出土した「漢委奴国王」の印文が刻まれた弥生時代の金印である。

概要

1784年(天明4年)の2月13日、志賀島で「漢委奴國王」の金印が見つかった。 出土地は志賀島(現・福岡県福岡市東区)の島内であった。発見直後に医者・儒学者で学問所・甘棠館の祭酒(学長)の亀井南冥は『後漢書』東夷伝「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀・・・光武賜以印綬」の印と指摘し、金印の由来を説明し、鑑定書として『金印弁』を著して金印についての研究を行った。亀井南冥の見解は現在も定説となっている。

発見の経緯

金印を掘り出したのは百姓甚兵衛説と甚兵衛の作人であった秀治,喜平の二人,秀治発見説の三説がある。甚兵衛の口上書には、私(甚兵衛)の所有地、叶の崎の、田の境の溝の水はけが悪かったので、先月23日、溝を修理しようと岸を切り落としていたところ、小さい石がだんだん出て来て、そのうち2人持ちほどの石にぶつかりました。この石をかなてこで取りのぞくと、石の間に光るものがあり、取り上げて水で洗うと金の印判のようなものでした。見たこともないようなものでした。甚兵衛の兄喜兵衛は元奉公先の主人福岡の米屋才蔵に見てもらった。甚兵衛は大切な物だと言われたので手元に置いていた。3月15日、庄屋武蔵から役所に提出するように言われ、甚兵衛は出土経緯を語った。3月16日、金印と村役の署名を添えた「口上書」を郡役所に提出したと書かれている。黒田藩の家老達は金印を甚兵衛より白銀5枚で買い取り、藩の宝物庫に保管した。

口上書

「天明四年 志賀島村百姓甚兵衛金印堀出候付口上書」 那珂郡志賀嶋村百姓甚兵衛申上る口上之覚 一、私抱田地叶の崎と申所、田境之中溝水行悪敷御座候に付、先月廿三日右之溝形を仕直し可申迚、岸を切落し居申候処、小き石段々出候内、弐人持程之石有之、かな手子にて堀り除け申候処、石之間に光り候物有之に付、取上水にてすすぎ上げ、見申候処、金之印判之様成物にて御座候、私共見申たる儀も、無御座品に御座候間、私兄喜兵衛、以前奉公仕居申候福岡町家衆之方へ持ち参り、喜兵衛より見せ申候へば、大切成品之由被申候に付、其儘直し置候処、昨十五日、庄屋殿より右之品早速御役所江差出候様被申付候間、則差出申上候、何れ宜敷被仰付可被為下候、奉願上候、以上 志賀嶋村百生 甚兵衛(印) 天明四年三月十六日 津田源次郎様 御役所 右甚兵衛申上候通、少も相違無御座候、右体之品堀出候はば 不差置、速に可申出儀に御座候処うかと奉存、市中風説も御座候迄指出不申上候段、不念千万可申上様も無御座奉恐入候、何分共宜様被仰付可被為下候、奉願上候、以上

発見の経緯を述べた口上書から甚兵衛が発見者とされてきたが、その後の研究により、田地の所有者は甚兵衛であるが、金印の発見者は小作人の秀治と喜平の二人であるとの説が登場した。大谷光男氏によれば、博多聖福寺・仙厓和尚の『志賀島小幅』(鍋島家所蔵)に「志賀島農民秀治・喜平自叶崎掘出」と記され、金印の発見者は甚兵衛ではなく、農民の秀治と喜平が掘り出したとの一文が書かれていた。

さらに志賀島の阿曇家所蔵『万暦家内年鑑』(志賀神社)には「天明4年2月23日、志賀島小路町秀治田を墾(ひらき)し大石ノ下ヨリ金印を掘出 方七歩八厘 高三歩 漢委奴国王」とあり、金印の発見者は秀治とされている。

形状寸法

方形で一辺平均2.347cm、高さ0.887cm,総高は2.236cm、重さは108.729g、密度17.94、比重17.94である(岡崎敬(1968))。印文は「漢委奴国王」の五字を小篆の書体で三行にわけて薬研彫り形に陰刻されている。

所有者

福岡藩主黒田家に伝えられたものとして明治維新後に黒田家が東京へ移った際に東京国立博物館に寄託された。1974年(昭和49年)からは福岡市立歴史資料館で展示される。1978年(昭和53年)に黒田茂子(黒田長礼元侯爵夫人)から福岡市に寄贈され、1979年(昭和54年)からは福岡市美術館、1990年(平成2年)から福岡市博物館で保管・展示されている。

後漢書

『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」に次の記載がある。

  • (原文)建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
  • (読み下し)「建武中元二年、倭奴国、貢を奉じて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極南の界なり、光武帝は印綬を賜った。」

真贋論争

弥生時代の遺跡はない田の中から、農作業中の農夫がこの金印を見つけたので、来歴に不審をいだかれ、偽物説が浮上した。 江戸時代の国学者松浦道輔は「漢倭奴国王金印偽作辨」を表し、贋作説を唱えた。論点は

  • 1.印文の最後に印・爾・章などがない、
  • 2.印の多くは鋳物であるが金印は鋳物ではない、
  • 3.漢が下賜するのにわざわざ「漢」の文字を入れるのは通例に反する、
  • 4.神武紀元にあてはめると垂仁86年になり仲哀紀にみえる伊都県主はまだいないはずである]。

松浦道輔の贋作説には次の反論がなされている。

  • 1.三宅米吉は、蛮夷印には爾・章は不要であるとした。漢代の封泥に用いられた印は「蛮夷里長」「漢夷邑長」など印・爾がないものがある。
  • 2.鉄製の印は鋳物であるが、金印は鋳物では作られないのが通例である。
  • 3.漢がつく印には多数の実例がある。薬研彫は「広陵王爾」(58年)の実例がある。
  • 4.神武紀元にあてはめて論じるのは『記紀』の記載をそのまま歴史的事実として判断することになるため、問題にならない反論である。 1966年に金印の精密測定がなされ、印面一辺が平均2.347cmであることが確認された。これは、後漢時代の墓で見つかった物差しの一寸と同サイズであり、当時の印は一寸四方で作られることから、この金印は後漢時代のものであると、認められるようになった。

鈴木勉

NPO工芸文化研究所の鈴木勉理事長は、金印に残る彫り痕の特徴は古代中国で作られたとされる印と大きく異なっていると指摘している。金印は、文字の中心線を彫ったあと、別の角度から「たがね」を打ち込んで輪郭を整える「さらい彫り」という技法で作られている。「広陵王璽」印は、たがねで文字を一気に彫り進める「線彫り」と呼ばれる高度な技法で製作されている。前漢から後漢の印の多くは1つの線がほぼ均一の太さで彫られているが、志賀島の金印は中央から端に向かって太くなる特徴があり、印面に対する文字の部分の面積が他の印と比べて突出して大きいから、江戸時代の印ではないかとする。

三浦佑之説

  1. 奴国に関する遺構のない所で発見された
  2. 発見時の記録にあいまいな点が多い
  3. 江戸時代の技術と知識で岩作は作れる
  4. 滇王之印に比べて稚拙である。 ことから、三浦佑之(2006)は亀井南冥が商人と結託して偽作したとする。

高倉洋彰説

高倉洋彰(2007)は次の主張をした。

  1. 江戸時代以前に漢代の一寸の実長を知ることは困難である。
  2. 漢代の一寸の実長は『漢旧儀』で知られようが、そこに蛇鈕は載っていない。
  3. 偽作するなら『後漢書』の記述に従って「委」を「倭」にする方が自然である。 江戸時代及びそれ以前では知識の水準と量が不足しており、偽作は不可能であるとした。

形状の疑問説

印のつまみ部分は蛇鈕であるが、実際には、蛇とはわかりにくい。、胴体をらせん状に巻き、頭を後ろに向けて振り返っている蛇の姿は相当に観察しないと分からない。そこで膝を折って座っている駱駝の胴体部分との指摘が生まれた。駱駝がデザインされた鈕であったものを、なんらかの理由で、上の部分だけ蛇の形に再加工したというのである。蛇の頭が後ろを振り返る図像は日本人にはまったく馴染みがないものの、前漢から後漢時代では、龍や虎などが振り返った表現は多い。 江戸時代に鈕を蛇形につくることは可能ではなかった。顧従徳『集古印譜』(1575) には参考となる蛇形鈕の見本は掲載されていない。

字体の問題

「漢」のさんずいは縦線の一番上が緩く弧を描き、左上の線は逆L字形である。 前漢時代は、S字を三つ並べたような形であったが、時代が下ると、徐々に伸びてきて、前漢と後漢の間の王莽の時代になると、全体の曲りは非常に緩やかになり、左上の縦線の下端が小さく飛び出す形状となる。後漢時代には曲がりのない縦の直線になる。他の4文字も同様で、「漢委奴國王」の文字はすべて、王莽から後漢初期の時代の特徴が表れている。石川(2017)は鈕と文字の2点だけで、後漢時代に作られた金印を江戸時代に再現することは、まず、不可能と断言する。

金属組成

「漢委奴國王」金印の金属組成は,蛍光X 線分析で金95.0%・銀4.5%・銅0.5%と測定されている(本田ほか(1990))。中国では前漢代・後漢代とも95~99%であるから、金印の値に矛盾はない。,金品位95%の製品を江戸時代に作れるのかという問題がある。江戸時代では後漢代の金製品が95%以上の高品位であることは知ることができない。さらに江戸時代では金座で金製品は厳重に管理されていた。江戸時代に流通する小判等は江戸時代前半で85%内外,後半56%であるから、小判を潰して作ったとしても95%以上の高品位の金を作ることはできない。

石川教授の結論

明治大学文学部の石川日出志教授は志賀島の金印は、「漢」の字の「偏」の上半分が僅かに曲がっており、「王」の真ん中の横線がやや上に寄っている点など、中国の後漢初期の文字の特徴があるとする。蛇形をした「つまみ」は、中国や周辺の各地で発見された同様の形の印と比較すると、後漢はじめごろに製作されたものが最も特徴が近いとする。金印に含まれる金の純度は90%以上であることは、古代中国の印とほぼ同じであると指摘する。「江戸時代に金の純度をまねて作ることはできない」と判断している。

指定

  • 重文指定年月日:1931年12月14日
  • 国宝指定年月日:1954年3月20日

参考文献

  1. 直木考次郎(2008)『邪馬台国と卑弥呼』吉川弘文館
  2. 石川日出志(2015)「金印と弥生時代研究-問題提起にかえて-」古代学研究所紀要 (23), pp.99-110
  3. 石川日出志(2017)「「漢委奴國王」金印の複眼的研究」第5回 西泠印社印学峰会“弧山証印”
  4. 石川日出志(2022)『国宝「漢委奴國王」金印の考古学』令和4年度 福島県文化財センター白河館  第3回館長講演会
  5. 本田光子・井上充・坂田浩(1990)「金印その他の蛍光X線分析」『研究報告』No14,福岡市立歴史資料館
  6. 呉朴(1959)「我村"滇王之印"的看法」『文物』1959-7
  7. 岡崎敬(1968)「「漢委奴國王」 金印の測定」史淵 100,pp.265-280
  8. 高倉洋彰(2007)「「漢の印制からみた「漢委奴國王」蛇鈕金印」」、『国華』112巻12号(通巻1341)、国華社
  9. 三浦佑之(2006)『金印偽造事件』幻冬舎

漢書2024年08月07日 00:27

漢書(かんじょ)は前漢の歴史を記述した歴史書である。高祖から王莽の滅亡までを記述した前漢の正史である。 『前漢書』ともいう。

概要

漢書の構成は本紀(皇帝の伝記)12巻,表(人物、位階)8巻,志(事物)10巻,列伝70巻からなる。合わせて100巻。紀伝体で書かれる。 後漢の班固による撰であるが、班固が宮中の政争に巻き込まれて獄死したため、班固の死後は妹の班昭が八表と天文志を執筆した。 それでも欠けていた個所は弟子の馬続に続纂(ぞくさん)させたとされる。 詔や上奏文を忠実に引用しているため、正確さで『史記』に優れる。

倭人

『漢書』「志」の地理志には、「夫(そ)れ楽浪海中に倭人あり。分かれて百余国を為す。歳時を以て来たり献見すと云う」とあり、紀元前1世紀の日本に関する正確な記録となる。

写本

  1. 漢書楊雄伝第五十七 京都国立博物館 国宝 現存最古の写本 
  2. 宋版後漢書〈慶元刊本) 南宋 23巻 天理大学図書館 重要文化財

参考文献

類聚国史2024年08月06日 00:15

類聚国史(るいじゅうこくし)は菅原道真が六国史の記事を分類編集し、事項別とした文献である。

概要

道真は宇多天皇から編纂の命を受けて類聚国史の編纂を開始した。中国の会要、類書にならって『日本書紀』から始まる「六国史」記事を、内容毎に分類、つまり「類聚」したものである。892年(寛平4年)に完成したとされる。古代史の重要史料の一つである。 『類聚国史』は本文200巻、目録2巻、帝王系図3巻から成っていたが、現存する写本は写本61巻と逸文が伝わるのみである。六国史本文の校訂や『日本後紀』の欠逸部分の復原に資するところが大きいと評価される。

弘仁地震

818年の赤城山の地震は『類聚国史』の弘仁九年七月と八月(818 年 8 月~10 月)の条に書かれる。元は『日本後紀』巻二七に記載されていたが,それは散逸している。

秋田地方地震

天長七年(830)1月3日の秋田地方の地震は『類聚国史』に記載される。

  • 今日辰刻、大地震動、響如雷霆、登時城郭官舎并四天王寺丈六仏像、
  • 四王堂等、皆悉顛倒、城内屋仆、撃死百姓十五人、支体折損類一百
  • 余人也、歴代以来未曾有聞、地之割辟、或処卅許丈、或処廿許丈、
  • 無処不辟、又城辺大河云秋田河、其水涸尽、流細如溝、
  • 疑是河底辟分、水漏通海歟、吏民騒動、未熟尋見、添河・覇別河、
  • 両岸各崩塞、其水汎濫、近側百姓懼当暴流、競陟山崗

蝦夷進出戦の終了

802年(延暦21)4月15日、阿弖利為(あてるい)は母礼500人余を率いて降伏した記事は『類聚国史』に書かれる。奥州市水沢地域付近で生活していた蝦夷のリーダーである。阿弖利為は坂上田村麻呂に降伏し、144年間に渡る蝦夷進出戦争が終わった。

陸奥国俘囚の授位

835年(承和二年)6月27日、俘囚に授位した記事が『類聚国史』に書かれる。。陸奥国奥地の俘囚、内紛、警備に兵士差発。同月二十七日、さらに援兵を請う。また陸奥国に賑給、出羽国俘囚に授位。藤原清衡、俘囚之上頭を自称する。

写本

  1. 類聚国史 巻第廿五 国宝(書跡・典籍)仙台市青葉区 東北大学蔵 狩野亨吉旧蔵本
  2. 尊経閣文庫 鎌倉時代書写本四巻(巻百六十五・百七十一・百七十七・百七十九)国宝 前田育徳会
  3. 類聚国史 石清水八幡宮 所蔵本(巻一・五) 重要文化財
  4. 類聚国史 明応九年(1500年)書写の一五冊本
  5. 大永年間(16世紀前半)に三条西公条らが書写した四冊本

参考文献

  1. 黒板 勝美・国史大系編修会(1965)『類聚国史 前篇』東京 吉川弘文館
  2. 黒板 勝美・国史大系編修会(1965)『類聚国史 後篇』東京 吉川弘文館
  3. 早川由紀夫(2002)「『類聚国史』に書かれた818年の地震被害と赤城山の南斜面に残る9 世紀の地変跡」歴史地震 (18),pp.34-41
  4. 赤羽目 匡由(2017)「『類聚国史』所載の所謂「渤海沿革記事」の史料的性格について」東洋史研究 76 (2),pp.232-267