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興福寺2023年07月29日 17:08

興福寺(こうふくじ, Kofukuji Temple)は南都七大寺のひとつで、法相宗の大本山である。正式名は「金光明四天王護国之寺」である。

概要

前身の開山

645年(皇極4年)藤原鎌足は乙巳の変のクーデターが成功することを祈り、成功した暁には釈迦三尊像と四天王を作る願いを立てたという。クーデターの成功後、病を得たとき妻鏡女王の勧めにより山科に釈迦三尊や四天王などの諸仏を安置するため「山階寺」を造営しした。『興福寺流記』所引「宝字記」に「鎌足は改新の成功を祈って、釈迦三尊像・四天王像を造ることを発願した。事が成就した後、山階の地で造像を行った。やがて重病になり、妻の鏡女王の勧めで伽藍を建て仏像を安置した。これが山階寺の始まりである」と書かれる。 「山階寺」の所在地は長く不明であったが、JR山科駅西南、御陵大津畑町を中心とした地域にあったとする説が有力である(京都府山科区御陵大津畑町に「山科寺跡」の碑がある)。

厩坂への移転

壬申の乱(672年)の後、飛鳥に都が戻ったとき山階寺を大和国高市郡厩坂(うまやさか)に移し、「厩坂寺」と称した。その正確な位置は不明とされているが、候補地として大軽町の北、現奈良県橿原市久米町と奈良県橿原市石川町の境の小字丈六とする説がある。『 日本書紀』によれば軽坂の上に建てられた厩に起源がある地名で、軽坂と厩坂は同地に存在していた。福山敏男は(橿原市石川町字 ウラン坊で発見された円形の造り出しを持つ礎石 6個 と重弧文軒平瓦が出土したことから、軽池北遺跡付近に比定している(参考文献3)。

興福寺の開山

710年(和銅3年)、平城遷都の際に藤原不比等によって厩坂寺を平城京左京3条7坊に移し、興福寺と命名された。藤原氏の氏寺であった。最近では山科寺と興福寺は別の寺とする説もあるが、正倉院文書の経典の貸出記録に同じ経典の借用先が山科寺と興福寺と書かれており、同一の寺と見られる。

奈良時代の興福寺

興福寺は平城京の東端南北東西各四町の16町の敷地に、東六坊大路の西側4町、南側4町園池(現猿沢池)も興福寺の敷地であったから、合計24町という広大な敷地であった。東大寺以前では、大安寺・薬師寺をしのぎ、当時としては最大の寺院であった。興福寺の敷地は平安遷都の計画段階から決まっていたと思われる。 藤原不比等が亡くなると妻の三千代の願いで、中金堂内に弥勒仏の浄土を再現する彫像群が作られた。その後も、聖武天皇による東金堂(726年)、光明皇后による五重塔(730年)、西金堂(734年)が作られた。奈良時代の造営の最後に講堂(746年)を建築した。 奈良時代は四大寺、平安時代は七大寺の一つとされた。730年(天平2)光明皇后は五重塔を建立した。813年(弘仁4年)藤原冬嗣は南円堂を建立した。 平安時代には本地垂迹説に基づいて、興福寺は春日大社を支配下に収めた。

鎌倉時代・室町時代

鎌倉幕府・室町幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任にあたった。1595年(文禄4年)の検地では「春日社興福寺」合体の知行として2万1千余石と定められた、

明治時代

1868年(慶応4年)4月7日、大和国鎮撫総督府から春日大社における権現などの神号の廃止命令が出された。大乗院と一乗院は連名で鎮撫総督に「復飾(還俗)願い」を提出した。神祇局は還俗を許可し、興福寺の僧侶に「新宮司」の地位を与えた。春日大社の仏具類は、興福寺に引き取らせ、完全に神仏を分離させた。堂塔は破却処分となり、境内と七堂伽藍が残った。一部の千体仏は、民間に流出し、藤田美術館(大阪市)やMIHOミュージアム(滋賀県)などに流出した。他に快慶作の木造弥勒菩薩立像はボストン美術館、乾漆梵天・帝釈天立像はアジア美術館(サンフランシスコ)、康円作の木造文殊菩薩・侍者像(重要文化財)は東京国立博物館に行ってしまった。興福寺の廃仏毀釈においては五重塔(国宝)も破却の危機にあった。

五重塔

730年(天平2年)、興福寺の創建者である藤原不比等の娘の光明皇后の発願で建立された。その後、5回の焼失・再建を繰り返した。現在の塔は1426年(応永33年)頃に再建されたものである。薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像が初層のそれぞれ須弥壇四方に安置されている。塔の高さは50.1メートルあり、日本の仏塔として京都、東寺の五重塔に次ぐ規模である、奈良県内における建築物の中でも最も高い建築物である。

注・参考文献

  1. <多川俊映・金子啓明(2018)『興福寺のすべて』小学館
  2. 大協潔(1977)「遺跡の位置と環境」『軽池北遺跡発掘調査報告』(軽池北遺跡調査会)、奈良文化財研究所、pp.3-8

平安時代2023年07月29日 16:47

平安時代

平安時代 (へいあんじだい)は、平安京に政治の中心があった時代である。おおむね、794年(延暦13年)から鎌倉幕府の成立までの期間を指す(異説もある)。概ね390年間である。

概要
奈良時代の中央集権的な律令体制を基盤として平安時代は開始された。
なお平安時代の開始時期は794年説のほか、784年(延暦三年)の長岡京遷都、または781年(天応元年)の桓武天皇即位を平安時代平安時代の開始とみる説もある。

時代区分の説明
平安時代は3期ないし4期に分けられる。3期説の区分を次に示す。
①天皇親政の時代
②摂関政治と国風文化の台頭
③院政の開始と武士の台頭
それぞれの特徴は次の通りである。

①天皇親政の時代
桓武天皇による[[天皇親政]]の時代である。平安遷都は、奈良時代の旧弊を改め、天皇の権威を高めようとしたと言われる。寺院勢力が強い平城京から平安京に遷都したともされる。政治を司る太政官の筆頭官は親王が占めていた。律令制の再編成するため令外官が置かれた。次代の平城天皇も親政による改革を行った。嵯峨天皇は百姓撫民(貧民救済)、権門(有力貴族・寺社)抑制の政策を取った。

②摂関政治と国風文化の台頭
平安時代中ごろから、政治の実権を貴族が握るようになっていた。貴族の中でも藤原北家すなわち藤原良房の一族が、天皇の外戚として摂政や関白あるいは内覧を占めた。飛鳥・奈良時代における摂政は、皇位継承権のある皇族・皇太子が就任することになっていた。ところが、天皇の親戚関係を利用し、866年[[藤原良房]]が摂政に就任し、「人臣摂政」となった。良房の養子の[[藤原基経]]は歴史上最初の関白となった。摂政と関白の違いは、摂政は天皇が幼少であるあるいは病気がち、ないしは女性の場合に天皇に代わり政務を取り仕切ることをいう。関白は天皇が幼少でも病気がちでもない場合に、摂政と同様の役割を果たすのが関白である。

③院政の開始と武士の台頭
1086年(応徳3年)、白河天皇は「院政」を開始した。弟の輔仁親王への皇位継承を嫌い、幼少の堀河天皇に譲位して、上皇(院)として院庁を開き、天皇を後見しながら政治の実権を握った。院の御所に北面の武士や武者所を組織し、政治の実権を行使した。院政は天皇の実父という立場に基づくものである。後三条天皇の治世下において摂関家は力を失っていた。藤原氏は堀河天皇の摂政に就いたものの、摂関政治の能力を喪失していた。大江匡房はその日記に「今の世のことは、まず上皇の御気色を仰ぐべきか」と書く。人事権(除目・叙位)の掌握が大きな力の源泉となった。白河上皇は権力基盤として、独自の警護組織である「北面の武士」を設け、軍事貴族の平正盛を北面の武士に任命して重用した。白河上皇の時代から院宣や院庁下文が重視され、天皇の位も形骸化した。院政期は1086年(応徳3年)から平氏政権が確立するまでに間の時期とみることができる。しかし、平氏政権のあとも形式的には院政は幕末まで続くが、政治的実権があったの時期は限定される。 地方の豪族や中央の武官の中から、武士が誕生した。武士団を形成し、平将門が北関東、藤原純友が瀬戸内海で反乱を起こすなど、独自の勢力を持つようになる。東日本は源氏、西日本は平氏が有力な武士団として台頭した。京都政界の貴族内の政争から保元の乱、平治の乱がおき、武力で解決した平清盛が武家の棟梁とみなされた。1160年に[[平清盛]]は正三位参議に補任され、武士として初めて公卿となった。1167年(仁安2年)には[[平清盛]]は武家として初めて太政大臣従一位の地位を得た。

摂関政治の期間には諸説ある。
(1)100年説
967年(康保4)冷泉天皇の践祚後に藤原実頼が関白となり、1068年(治暦4)後三条天皇が皇位につくまでの約100年間を指すとする説。
(2)228年説
--藤原良房の人臣摂政に就任した858年から院政が始まる1086年まで228年間とする説。

平氏政権
平氏政権の開始時期も諸説ある。
(1)1179年説 - 治承三年、[[平清盛]]による後白河院政の停止、クーデター
(2)1160年説 – 平治2年、清盛(正四位下)が正三位となり、参議を兼ねた。
(3)1167年説 - 仁安3年、清盛が太政大臣従一位となった。

平安時代の出来事

西暦年 和暦年 出来事
794年 延暦13年 平安京へ遷都
799年 延暦18年 遣新羅使
800年 延暦19年 富士山、大噴火
804年 延暦23年 7月、空海、最澄、遣唐使船で出航
806年 延暦25年 桓武天皇崩御、平城天皇即位
809年 大同4年 平城天皇が譲位し、嵯峨天皇即位
729年 神亀6年 長屋王の変
810年 弘仁1年 薬子の変
820年 弘仁11年 遠江・駿河の新羅人700人が反乱を起こす
|823年 弘仁14年 嵯峨天皇譲位し、淳和天皇即位
827年 天長4年 京で大地震
833年 天長10年 淳和天皇譲位、仁明天皇即位行
836年 承和3年 第19回遣唐使、出航後遭難し漂着
838年 承和5年 最後の遣唐使派遣
842年 承和9年 承和の変
857年 天安1年 唐天安1年が来日
866年 貞観8年 応天門の変
869年 貞観11年 東北で貞観三陸沖地震
878年 元慶2年 元慶の乱
887年 仁和3年 仁和地震、光孝天皇崩御、宇多天皇即位
888年 仁和4年 阿衡の紛議
894年 寛平6年 菅原道真の建議により、遣唐使が廃止
901年| | 延喜1年 菅原道真、大宰府に左遷(昌泰の変)
939年 天慶2年 平将門の乱、藤原純友の乱
976年 貞元1年 山城・近江地震
1017年 寛仁1年 藤原道長が太政大臣、子の頼道が摂政/藤原氏全盛時代
1167年 仁安2年 平清盛 太政大臣に
1086年 応徳3年 堀河天皇即位、白河上皇、院庁で政務をみる(院政開始)
1096年 永長1年 永長地震、東海、東南海の地震
1099年 承徳3年 南海地震
1159年 平治1年 平治の乱
1167年 仁安2年 平清盛、太政大臣に就任
1179年 治承3年 治承三年の政変
1180年| | 治承4年 安徳天皇即位、治承・寿永の乱、源頼政挙兵、南都焼き討ち
1181 養和1年 安養和の大飢饉
1185 文治元年/寿永4年 壇ノ浦で平家滅亡、文治地震、文治勅許
1192年| | 建久3年 源頼朝、征夷大将軍

参考文献
1. 北山 茂夫 (2004)『平安京』中央公論新社
2. 川尻 秋生(2011)『平安京遷都』岩波書店
3. 古瀬 奈津子 (2011)『摂関政治』岩波書店

尼寺廃寺跡2023年05月21日 21:01

''尼寺廃寺跡'(あまでらじはいじあと)は奈良県香芝市にある古代の寺院跡である。

概要

香芝市の北端王寺町との境界に位置する。北廃寺と南廃寺とがある。両伽藍は南北約200m離れている。現在は塔跡以外は平地の水田や畑にされている。般若寺本堂が南廃寺にあるが、ここは創建当初の基壇上に建築された可能性がある。付近に500m以内に平野古墳群、平野窯跡群がある。7世紀中期以降に創建されたと考えられている。塔心礎は巨大な地下式心礎であり、塔心礎としては日本最大級の規模になる。 蘇我日向が白雉五年(654年)に創建した般若寺の可能性がある。発掘から尼寺廃寺跡は7世紀後半とされ、遺物と史料との矛盾は見られない。

調査

  • 北廃寺 第10次調査(平成7年度)では塔跡と考えられた基壇をトレンチ調査した。堆積土を除去すると、原位置を保つ基壇を検出した。「北廃寺」とも呼ばれる北側の遺跡は塔と金堂とが南北に並び、その東側に中門をもうけた回廊が周囲をぐるりととりかこむ東向きの「法隆寺式伽藍配置」の古代寺院と判明した。礎石の表面は焼失に伴う変色と割れが認められた。 中央の柱座より耳輪12点、水晶玉4点、ガラス玉3点、刀子1点の舎利荘厳具が検出された。片側雨落と北側で焼け落ちた瓦を検出した。金堂との間隔は10mと確認した。 第12次調査(平成8年度)では金堂が南北棟であることを確認した。第14次調査(平成9年度)では塔基壇との距離が約6.5mであることが判明した。回廊の北側に講堂があった可能性がみられた。また鉄滓や韛の羽口や砥石が見つかったことから、鋳造工房があったと推定された。伽藍配置が確認され、金堂・塔・中門・回廊・東門(東大門)の遺構が検出された。回廊は東西約44.3m・南北約71.4m、金堂は東西約14.7m・南北約16.8mと推定されている。塔の基壇は一辺約13.5m・高さ約1.4mである。 瓦は川原式の複弁8弁蓮華文軒丸瓦、12単弁弁蓮華文軒丸瓦、単弁16弁蓮華文軒丸瓦、三巴文軒丸瓦などである。鬼瓦と鴟尾も出土した。
  • 南廃寺 寺域は不明である。主要伽藍は現在の般若院境内で基壇の一部が検出されたため、重なり合うと推定されている。金堂が東、塔が西に配される南向きの法隆寺式伽藍配置である。 南廃寺では北廃寺に先行して7世紀中頃に造営が開始され、7世紀後半頃までに金堂は完成した。

展示

尼寺廃寺跡に併設されている学習館で現存する日本最大の塔心礎の模型と、塔基壇の土層を展示する。 香芝市二上山博物館では尼寺廃寺跡の創建時の姿を紹介し、出土品等を展示する。

指定

  • 2002年(平成14年)3月19日、国指定史跡(北廃寺)

アクセス

  • 名称:尼寺廃寺跡
  • 所在地:奈良県香芝市尼寺2丁目88
  • 交通: JR和歌山線畠田駅より南西へ徒歩約7分(約0.6km)

参考文献

  1. 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
  2. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  3. 東野治之(2013)『上宮聖徳法皇帝説』岩波書店
  4. 香芝市教育委員会・香芝市二上博物館編(2003)『尼寺廃寺Ⅰ』香芝市教育委員会調査報告書第4集

青谷横木遺跡2023年05月21日 20:42

青谷横木遺跡(あおやよこぎいせき)は鳥取市青谷町にある縄文時代終わり頃から平安時代までの複合遺跡である。特に平安時代の古代山陰道の遺構が発見された。

概要

遺跡は山陽自動車道の「鳥取西道路」の建設に伴い、平成24年3月1日から3月22日、4月19日から7月19日までの試掘調査で新たに発見された遺跡である。当初は「養郷所在遺跡」の名前だった。平成25年度から平成27年度のかけて鳥取県埋蔵文化財センターが国土交通省の委託を受けて発掘調査を行った。

調査

平成26年度の調査では古代の道路ではなく、一町方格の条里制である可能性が高まった。古代官道と条里地割ガセットで確認されたのは、青谷上寺地遺跡に続く二例目であった。2015年7月10日に記者発表し、7月12日に現地説明会を開催した。

古代山陰道

古代山陰道は飛鳥時代に律令国家が都と地方を最短距離で結ぶために作った官道の一つである。七道駅路は北陸道・東山道・東海道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の7つである。 古代山陰道は盛土により作られ、丘陵の裾に沿って作られている。道幅は6mから7mで、その外部に「道路外盛土」を作り、道路の脇に側溝を作る。山裾の安定した地盤に大規模な道路を敷設した。路面は石敷きである。 7世紀末から11世紀頃まで使われていた古代道で国内初の柳の街路樹も確認されている。 道路の外盛に樹木根がみつかり、樹種同定で柳と同定された。文献や和歌では古代の街路樹に槐や柳が植えられていることが知られている。 当時の移動手段は馬であるため、30里(16km)ごとに「駅屋(うまや)」を置き、駅馬をおく。駅使は1日160㎞を疾走する。 大宰府と平城京を5日間で走る。 青谷横木遺跡は因幡国にあり、因幡国の駅家は4駅(山埼・左尉・敷見・柏尾)であった。 路床に大型の礫を落とし込む、もしくは敷く。軟弱地盤部分のみ敷葉(敷粗朶)工法を採用した。「敷葉・敷粗朶(しきば・しきそだ)工法」は道路盛土内に枝や葉を敷くと呼ばれる当時における最先端の土木技術であった。

遺物

調査では「祓え」と呼ばれるまじないに使われた人や馬などをかたどった木の板や、木に文字が書かれた木簡が見つかっている。これらの出土品などから、近くに周辺を治めるための役所の出先機関があったと推定されている。

  • 土器  7世紀~ 11 世紀の須恵器を中心に出土 出雲産と思われるもの
  • 木製祭祀具(人形、馬形、舟形など)2万点以上出土
  • 木簡 -題箋軸や付札木簡、傍示木簡、文書木簡等が 81 点出土
  • 墨書・刻書・墨画土器 各種文字や蓮の花?を描いたもの
  • 木製品 -木製ハソウ(国内初?)、木とんぼ
  • 金属製品 銅板(山岳文様?と思われる)
  • 女子群像板絵 → 東アジアとの関係

築造時期

  • 敷設時期:7世紀末とみられ、11世紀頃に廃絶した。

指定

アクセス等

  • 名称:青谷横木遺跡
  • 所在地:
  • 交通:

参考文献

  1. 鳥取県埋蔵文化財センター(2018)『青谷横木遺跡』
  2. 文化庁(2019)『発掘された日本列島 2019』共同通信社