弘仁地震 ― 2024年07月01日 00:05
弘仁地震(こうにんじしん)は平安時代の818年(弘仁9年)に日本の北関東で発生した大地震である。
概要
818年(弘仁9年)7月、相模国・武蔵国・常陸国・上野国・下野国の諸国と現在の関東地方の広範囲に被害を及ぼした地震である。マグニチュード7.5以上(防災科学研究所、国立天文台編(2024))(一説にマグニチュード(M)7.9)と推定されている。山が崩れ数里の谷が埋まり、数え切れないほどの人々が倒壊した住宅で圧死した。被害国に上総と安房の国名がないこと、津波の記録がないことから弘仁地震は内陸地震と考えられている。被害状況は『類聚国史』の弘仁九年七月と八月(818年8月から10月)の条に書かれる。
被害状況
- ①地割れ 赤城山南麓から大間々扇状地付近に地割れが発生した。新里村教育委員会が1991年から2000年までの10年間に発掘調査した196遺跡のうち12遺跡で,平安時代前期に生じたことが確かな地割れを検出した。
- ②土石流 『類聚国史』に「水潦相仍ぎ」と書かれ、山間の脆い表層が、地震の震動で土砂や樹木とともに渓谷や小河川に流れ込み、土石なだれが起きたと見られる。磯山遺跡や不二山遺跡などの発掘で堆積物はみつかったが、新里村大久保、板橋などでは露頭として堆積物がみつかっている。そのほか鏑木川流域で土石流の痕跡がある。能登ほか(1990)は早川・粕川・荒砥川流域でも報告している。崩壊地は一箇所だけでなく、赤城山の南斜面が随所で崩壊したと見られる。斜面が多数の個所で崩壊した。土石流は沖積地の水田や集落を壊滅させた。
- ③液状化現象 埼玉県北部(深谷市、熊谷市、行田市)から群馬県南部(伊勢崎市、前橋市)の遺跡で液状化現象の跡がみられる。
- ④建築物の被害 建築物の被害は、寺院における屋根瓦の損傷や落下(前橋市上野国分寺、山王廃寺)、自重による不同沈下(深谷市皿沼西遺跡)、版築基壇の地割れ(太田市天良七堂遺跡)、礎石から柱の移動などがある。また、赤城山南麓の古墳では、横穴式石室の左壁が崩壊する現象が見られた。
- ⑤山崩れ 山崩れによる体積物が堆積する逆転地層があり、赤城山南麓面で広く確認されている。
朝廷の対策
朝廷は地震発生から1ヶ月後に被害のあった諸国へ朝使を派遣して国司とともに損害の程度を調査し、賑給(米塩の支給)を行い,詔を布告して租調免除,正税による家屋修理の補助および死者のすみやかな埋葬を指示した。弘仁9年(818年)の租・調を免除することなどを決定した。 地震は天皇の不徳によると述べている.人の心がけが自然の運行に影響を与えるとみる天人感応説が述べられる。
震源の推定
大地震の震源地は、桐生市新里町の北部付近とも考えられている。地震の原因は活断層ではなく、赤城山の地殻変動による物質の動きの可能性が指摘されている(加部2002)。
考察
818年(弘仁9年)の弘仁地震から60年後の878年10月28日(11月1日)(元慶2年9月29日)に「相模・武蔵地震」が発生した(『日本三代実録』)。M7.4と推定されている。この頃、東北地方では「貞観地震」、886年6月29日(7月3日)には伊豆諸島の噴火と立て続きに大きな地震が発生している。内陸地震であれば数千年のスパンがあると考えられる。 しかし、内陸地震は予知が難しいので、いつ起こるかは分からない。つまり日頃の備えや準備は必要である。
参考文献
- 早川由紀夫,森田 悌,中嶋田絵美(2003)『『類聚国史』に書かれた818 年の地震被害と赤城山の南斜面に残る9 世紀の地変跡』歴史地震 第18 号(2002) pp.34-41
- 国立天文台編(2024)『理科年表プレミアム(編)』丸善出版
- 田中広明(2014)「弘仁地震の被害と復興、そして教訓」学術の動向 19 (9), pp.38-41
- 加部二生(2002)「流されてきた遺構」『赤城村歴史資料館紀要』第4集 赤城村教育委員会・赤城村歴史資料館
興福寺 ― 2023年07月29日 17:08
興福寺(こうふくじ, Kofukuji Temple)は南都七大寺のひとつで、法相宗の大本山である。正式名は「金光明四天王護国之寺」である。
概要
前身の開山
645年(皇極4年)藤原鎌足は乙巳の変のクーデターが成功することを祈り、成功した暁には釈迦三尊像と四天王を作る願いを立てたという。クーデターの成功後、病を得たとき妻鏡女王の勧めにより山科に釈迦三尊や四天王などの諸仏を安置するため「山階寺」を造営しした。『興福寺流記』所引「宝字記」に「鎌足は改新の成功を祈って、釈迦三尊像・四天王像を造ることを発願した。事が成就した後、山階の地で造像を行った。やがて重病になり、妻の鏡女王の勧めで伽藍を建て仏像を安置した。これが山階寺の始まりである」と書かれる。 「山階寺」の所在地は長く不明であったが、JR山科駅西南、御陵大津畑町を中心とした地域にあったとする説が有力である(京都府山科区御陵大津畑町に「山科寺跡」の碑がある)。
厩坂への移転
壬申の乱(672年)の後、飛鳥に都が戻ったとき山階寺を大和国高市郡厩坂(うまやさか)に移し、「厩坂寺」と称した。その正確な位置は不明とされているが、候補地として大軽町の北、現奈良県橿原市久米町と奈良県橿原市石川町の境の小字丈六とする説がある。『 日本書紀』によれば軽坂の上に建てられた厩に起源がある地名で、軽坂と厩坂は同地に存在していた。福山敏男は(橿原市石川町字 ウラン坊で発見された円形の造り出しを持つ礎石 6個 と重弧文軒平瓦が出土したことから、軽池北遺跡付近に比定している(参考文献3)。
興福寺の開山
710年(和銅3年)、平城遷都の際に藤原不比等によって厩坂寺を平城京左京3条7坊に移し、興福寺と命名された。藤原氏の氏寺であった。最近では山科寺と興福寺は別の寺とする説もあるが、正倉院文書の経典の貸出記録に同じ経典の借用先が山科寺と興福寺と書かれており、同一の寺と見られる。
奈良時代の興福寺
興福寺は平城京の東端南北東西各四町の16町の敷地に、東六坊大路の西側4町、南側4町園池(現猿沢池)も興福寺の敷地であったから、合計24町という広大な敷地であった。東大寺以前では、大安寺・薬師寺をしのぎ、当時としては最大の寺院であった。興福寺の敷地は平安遷都の計画段階から決まっていたと思われる。 藤原不比等が亡くなると妻の三千代の願いで、中金堂内に弥勒仏の浄土を再現する彫像群が作られた。その後も、聖武天皇による東金堂(726年)、光明皇后による五重塔(730年)、西金堂(734年)が作られた。奈良時代の造営の最後に講堂(746年)を建築した。 奈良時代は四大寺、平安時代は七大寺の一つとされた。730年(天平2)光明皇后は五重塔を建立した。813年(弘仁4年)藤原冬嗣は南円堂を建立した。 平安時代には本地垂迹説に基づいて、興福寺は春日大社を支配下に収めた。
鎌倉時代・室町時代
鎌倉幕府・室町幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任にあたった。1595年(文禄4年)の検地では「春日社興福寺」合体の知行として2万1千余石と定められた、
明治時代
1868年(慶応4年)4月7日、大和国鎮撫総督府から春日大社における権現などの神号の廃止命令が出された。大乗院と一乗院は連名で鎮撫総督に「復飾(還俗)願い」を提出した。神祇局は還俗を許可し、興福寺の僧侶に「新宮司」の地位を与えた。春日大社の仏具類は、興福寺に引き取らせ、完全に神仏を分離させた。堂塔は破却処分となり、境内と七堂伽藍が残った。一部の千体仏は、民間に流出し、藤田美術館(大阪市)やMIHOミュージアム(滋賀県)などに流出した。他に快慶作の木造弥勒菩薩立像はボストン美術館、乾漆梵天・帝釈天立像はアジア美術館(サンフランシスコ)、康円作の木造文殊菩薩・侍者像(重要文化財)は東京国立博物館に行ってしまった。興福寺の廃仏毀釈においては五重塔(国宝)も破却の危機にあった。
五重塔
730年(天平2年)、興福寺の創建者である藤原不比等の娘の光明皇后の発願で建立された。その後、5回の焼失・再建を繰り返した。現在の塔は1426年(応永33年)頃に再建されたものである。薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像が初層のそれぞれ須弥壇四方に安置されている。塔の高さは50.1メートルあり、日本の仏塔として京都、東寺の五重塔に次ぐ規模である、奈良県内における建築物の中でも最も高い建築物である。
注・参考文献
- <多川俊映・金子啓明(2018)『興福寺のすべて』小学館
- 大協潔(1977)「遺跡の位置と環境」『軽池北遺跡発掘調査報告』(軽池北遺跡調査会)、奈良文化財研究所、pp.3-8
平安時代 ― 2023年07月29日 16:47
平安時代 (へいあんじだい)は、平安京に政治の中心があった時代である。おおむね、794年(延暦13年)から鎌倉幕府の成立までの期間を指す(異説もある)。概ね390年間である。
概要
奈良時代の中央集権的な律令体制を基盤として平安時代は開始された。
なお平安時代の開始時期は794年説のほか、784年(延暦三年)の長岡京遷都、または781年(天応元年)の桓武天皇即位を平安時代平安時代の開始とみる説もある。
時代区分の説明
平安時代は3期ないし4期に分けられる。3期説の区分を次に示す。
①天皇親政の時代
②摂関政治と国風文化の台頭
③院政の開始と武士の台頭
それぞれの特徴は次の通りである。
①天皇親政の時代
桓武天皇による[[天皇親政]]の時代である。平安遷都は、奈良時代の旧弊を改め、天皇の権威を高めようとしたと言われる。寺院勢力が強い平城京から平安京に遷都したともされる。政治を司る太政官の筆頭官は親王が占めていた。律令制の再編成するため令外官が置かれた。次代の平城天皇も親政による改革を行った。嵯峨天皇は百姓撫民(貧民救済)、権門(有力貴族・寺社)抑制の政策を取った。
②摂関政治と国風文化の台頭
平安時代中ごろから、政治の実権を貴族が握るようになっていた。貴族の中でも藤原北家すなわち藤原良房の一族が、天皇の外戚として摂政や関白あるいは内覧を占めた。飛鳥・奈良時代における摂政は、皇位継承権のある皇族・皇太子が就任することになっていた。ところが、天皇の親戚関係を利用し、866年[[藤原良房]]が摂政に就任し、「人臣摂政」となった。良房の養子の[[藤原基経]]は歴史上最初の関白となった。摂政と関白の違いは、摂政は天皇が幼少であるあるいは病気がち、ないしは女性の場合に天皇に代わり政務を取り仕切ることをいう。関白は天皇が幼少でも病気がちでもない場合に、摂政と同様の役割を果たすのが関白である。
③院政の開始と武士の台頭
1086年(応徳3年)、白河天皇は「院政」を開始した。弟の輔仁親王への皇位継承を嫌い、幼少の堀河天皇に譲位して、上皇(院)として院庁を開き、天皇を後見しながら政治の実権を握った。院の御所に北面の武士や武者所を組織し、政治の実権を行使した。院政は天皇の実父という立場に基づくものである。後三条天皇の治世下において摂関家は力を失っていた。藤原氏は堀河天皇の摂政に就いたものの、摂関政治の能力を喪失していた。大江匡房はその日記に「今の世のことは、まず上皇の御気色を仰ぐべきか」と書く。人事権(除目・叙位)の掌握が大きな力の源泉となった。白河上皇は権力基盤として、独自の警護組織である「北面の武士」を設け、軍事貴族の平正盛を北面の武士に任命して重用した。白河上皇の時代から院宣や院庁下文が重視され、天皇の位も形骸化した。院政期は1086年(応徳3年)から平氏政権が確立するまでに間の時期とみることができる。しかし、平氏政権のあとも形式的には院政は幕末まで続くが、政治的実権があったの時期は限定される。
地方の豪族や中央の武官の中から、武士が誕生した。武士団を形成し、平将門が北関東、藤原純友が瀬戸内海で反乱を起こすなど、独自の勢力を持つようになる。東日本は源氏、西日本は平氏が有力な武士団として台頭した。京都政界の貴族内の政争から保元の乱、平治の乱がおき、武力で解決した平清盛が武家の棟梁とみなされた。1160年に[[平清盛]]は正三位参議に補任され、武士として初めて公卿となった。1167年(仁安2年)には[[平清盛]]は武家として初めて太政大臣従一位の地位を得た。
摂関政治の期間には諸説ある。
(1)100年説
967年(康保4)冷泉天皇の践祚後に藤原実頼が関白となり、1068年(治暦4)後三条天皇が皇位につくまでの約100年間を指すとする説。
(2)228年説
--藤原良房の人臣摂政に就任した858年から院政が始まる1086年まで228年間とする説。
平氏政権
平氏政権の開始時期も諸説ある。
(1)1179年説 - 治承三年、[[平清盛]]による後白河院政の停止、クーデター
(2)1160年説 – 平治2年、清盛(正四位下)が正三位となり、参議を兼ねた。
(3)1167年説 - 仁安3年、清盛が太政大臣従一位となった。
平安時代の出来事
西暦年 | 和暦年 | 出来事 |
794年 | 延暦13年 | 平安京へ遷都 |
799年 | 延暦18年 | 遣新羅使 |
800年 | 延暦19年 | 富士山、大噴火 |
804年 | 延暦23年 | 7月、空海、最澄、遣唐使船で出航 |
806年 | 延暦25年 | 桓武天皇崩御、平城天皇即位 |
809年 | 大同4年 | 平城天皇が譲位し、嵯峨天皇即位 |
729年 | 神亀6年 | 長屋王の変 |
810年 | 弘仁1年 | 薬子の変 |
820年 | 弘仁11年 | 遠江・駿河の新羅人700人が反乱を起こす |
|823年 | 弘仁14年 | 嵯峨天皇譲位し、淳和天皇即位 |
827年 | 天長4年 | 京で大地震 |
833年 | 天長10年 | 淳和天皇譲位、仁明天皇即位行 |
836年 | 承和3年 | 第19回遣唐使、出航後遭難し漂着 |
838年 | 承和5年 | 最後の遣唐使派遣 |
842年 | 承和9年 | 承和の変 |
857年 | 天安1年 | 唐天安1年が来日 |
866年 | 貞観8年 | 応天門の変 |
869年 | 貞観11年 | 東北で貞観三陸沖地震 |
878年 | 元慶2年 | 元慶の乱 |
887年 | 仁和3年 | 仁和地震、光孝天皇崩御、宇多天皇即位 |
888年 | 仁和4年 | 阿衡の紛議 |
894年 | 寛平6年 | 菅原道真の建議により、遣唐使が廃止 |
901年| | | 延喜1年 | 菅原道真、大宰府に左遷(昌泰の変) |
939年 | 天慶2年 | 平将門の乱、藤原純友の乱 |
976年 | 貞元1年 | 山城・近江地震 |
1017年 | 寛仁1年 | 藤原道長が太政大臣、子の頼道が摂政/藤原氏全盛時代 |
1167年 | 仁安2年 | 平清盛 太政大臣に |
1086年 | 応徳3年 | 堀河天皇即位、白河上皇、院庁で政務をみる(院政開始) |
1096年 | 永長1年 | 永長地震、東海、東南海の地震 |
1099年 | 承徳3年 | 南海地震 |
1159年 | 平治1年 | 平治の乱 |
1167年 | 仁安2年 | 平清盛、太政大臣に就任 |
1179年 | 治承3年 | 治承三年の政変 |
1180年| | | 治承4年 | 安徳天皇即位、治承・寿永の乱、源頼政挙兵、南都焼き討ち |
1181 | 養和1年 | 安養和の大飢饉 |
1185 | 文治元年/寿永4年 | 壇ノ浦で平家滅亡、文治地震、文治勅許 |
1192年| | | 建久3年 | 源頼朝、征夷大将軍 |
参考文献
1. 北山 茂夫 (2004)『平安京』中央公論新社
2. 川尻 秋生(2011)『平安京遷都』岩波書店
3. 古瀬 奈津子 (2011)『摂関政治』岩波書店
尼寺廃寺跡 ― 2023年05月21日 21:01
''尼寺廃寺跡'(あまでらじはいじあと)は奈良県香芝市にある古代の寺院跡である。
概要
香芝市の北端王寺町との境界に位置する。北廃寺と南廃寺とがある。両伽藍は南北約200m離れている。現在は塔跡以外は平地の水田や畑にされている。般若寺本堂が南廃寺にあるが、ここは創建当初の基壇上に建築された可能性がある。付近に500m以内に平野古墳群、平野窯跡群がある。7世紀中期以降に創建されたと考えられている。塔心礎は巨大な地下式心礎であり、塔心礎としては日本最大級の規模になる。 蘇我日向が白雉五年(654年)に創建した般若寺の可能性がある。発掘から尼寺廃寺跡は7世紀後半とされ、遺物と史料との矛盾は見られない。
調査
- 北廃寺 第10次調査(平成7年度)では塔跡と考えられた基壇をトレンチ調査した。堆積土を除去すると、原位置を保つ基壇を検出した。「北廃寺」とも呼ばれる北側の遺跡は塔と金堂とが南北に並び、その東側に中門をもうけた回廊が周囲をぐるりととりかこむ東向きの「法隆寺式伽藍配置」の古代寺院と判明した。礎石の表面は焼失に伴う変色と割れが認められた。 中央の柱座より耳輪12点、水晶玉4点、ガラス玉3点、刀子1点の舎利荘厳具が検出された。片側雨落と北側で焼け落ちた瓦を検出した。金堂との間隔は10mと確認した。 第12次調査(平成8年度)では金堂が南北棟であることを確認した。第14次調査(平成9年度)では塔基壇との距離が約6.5mであることが判明した。回廊の北側に講堂があった可能性がみられた。また鉄滓や韛の羽口や砥石が見つかったことから、鋳造工房があったと推定された。伽藍配置が確認され、金堂・塔・中門・回廊・東門(東大門)の遺構が検出された。回廊は東西約44.3m・南北約71.4m、金堂は東西約14.7m・南北約16.8mと推定されている。塔の基壇は一辺約13.5m・高さ約1.4mである。 瓦は川原式の複弁8弁蓮華文軒丸瓦、12単弁弁蓮華文軒丸瓦、単弁16弁蓮華文軒丸瓦、三巴文軒丸瓦などである。鬼瓦と鴟尾も出土した。
- 南廃寺 寺域は不明である。主要伽藍は現在の般若院境内で基壇の一部が検出されたため、重なり合うと推定されている。金堂が東、塔が西に配される南向きの法隆寺式伽藍配置である。 南廃寺では北廃寺に先行して7世紀中頃に造営が開始され、7世紀後半頃までに金堂は完成した。
展示
尼寺廃寺跡に併設されている学習館で現存する日本最大の塔心礎の模型と、塔基壇の土層を展示する。 香芝市二上山博物館では尼寺廃寺跡の創建時の姿を紹介し、出土品等を展示する。
指定
- 2002年(平成14年)3月19日、国指定史跡(北廃寺)
アクセス
- 名称:尼寺廃寺跡
- 所在地:奈良県香芝市尼寺2丁目88
- 交通: JR和歌山線畠田駅より南西へ徒歩約7分(約0.6km)
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