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弘仁地震2026年02月21日 00:11

弘仁地震(こうにんじしん)は平安時代初期の818年(弘仁9年)7月に発生したとされる地震である。史料上は『類聚国史』弘仁九年七月・八月条に被害状況が記録されており、相模国・武蔵国・常陸国・上野国・下野国など関東地方広域に被害が及んだと記される。

地震規模

地震規模については、近年の歴史地震研究によりマグニチュード7.5以上と推定する見解があり、一説にはM7.9とする推定もある(防災科学研究所・国立天文台編『理科年表』ほか)。ただし、史料記述に基づく推定値であり、確定的な数値ではない。

史料には「山崩れ」「地割れ」「家屋倒壊」などの被害が記され、死傷者も多数に及んだと伝えられる。

史料にみえる被害の概要

1. 地割れ

赤城山南麓から大間々扇状地周辺にかけて、平安時代前期の地震に伴うと考えられる地割れ痕が確認されている。 桐生市新里町では1991~2000年に実施された発掘調査により、196遺跡中12遺跡で同時期と推定される地割れが検出されたと報告されている。

2. 土石流・斜面崩壊

『類聚国史』には「水潦相仍ぎ」とあり、豪雨あるいは地震に伴う斜面崩壊が連続した可能性が示唆される。 赤城山南斜面では複数地点で崩壊堆積物が確認され、磯山遺跡・不二山遺跡などの発掘調査でも土石流由来とみられる堆積層が検出されている。

鏑木川流域、早川・粕川・荒砥川流域でも類似の報告があり、斜面崩壊は局所的ではなく広域的に発生した可能性がある。沖積地の水田や集落が被害を受けたと考えられている。

3. 液状化現象

埼玉県北部(深谷市・熊谷市・行田市)から群馬県南部(伊勢崎市・前橋市)にかけて、平安時代初頭の液状化痕跡が複数遺跡で確認されている。 砂脈や噴砂痕の分布から、広範囲で強い揺れが生じた可能性が指摘されている。

4. 建築物への影響

寺院遺跡では屋根瓦の落下・破損、版築基壇の亀裂、礎石からの柱ずれなどが確認されている。 前橋市の上野国分寺跡、山王廃寺跡などが代表例である。 また、赤城山南麓の古墳では横穴式石室の側壁崩壊例も報告されている。

5. 逆転地層

山崩れに伴う堆積により、本来の地層順序が乱れた逆転地層が赤城山南麓で広く確認されている。これは急激な土砂移動の証拠と考えられている。

朝廷の対応

朝廷は地震発生後、被災国に使者を派遣し、国司とともに被害調査を実施した。 その後、

  • 賑給(米・塩の支給)
  • 租・調の免除
  • 正税による家屋修理補助
  • 死者の埋葬促進

などの措置を命じたと『類聚国史』に記されている。

同史料では、地震を天皇の徳政と結びつける記述もみられ、当時の思想的背景として天人感応説の影響がうかがえる。

震源と発生要因

震源域については、現在の群馬県桐生市新里町北部付近と推定する説がある。 一方で、特定の活断層活動ではなく、赤城山周辺の地殻変動や火山活動に関連する地下構造変化の可能性を指摘する研究もある(加部2002)。ただし、決定的な証拠は得られていない。

周辺時期の地震活動との関係

弘仁地震の約60年後、878年(元慶2年)に相模・武蔵地震が発生したと『日本三代実録』に記録される(推定M7.4)。 9世紀後半には、東北地方で貞観地震(869年)、伊豆諸島の噴火(886年)などが相次いだことが知られる。

ただし、これらの地震同士に直接的な因果関係があるかについては明確ではなく、内陸地震の発生間隔も数千年規模と推定される場合がある。

防災的視点

歴史地震研究は、過去の被害規模や揺れの広がりを復元することで、防災計画の基礎資料となる。 内陸型地震は発生予測が困難とされるため、日常的な備えの重要性が指摘されている。

弘仁地震の研究史

1.史料研究段階(近世~20世紀前半)

弘仁地震の認識は、主として『類聚国史』の弘仁九年七月・八月条の記事に基づいて形成された。近世以来の史料編纂・校訂作業により記事の存在は知られていたが、当初は自然災害記事の一つとして扱われ、震源や規模の具体的検討は限定的であった。 また、9世紀の他の地震記事(『日本三代実録』所載の元慶地震など)との比較も、主に文献史学の枠内で行われていた。

2.歴史地震学の確立と規模推定(20世紀後半)

20世紀後半になると、文献史料を用いて震度分布や規模を復元する歴史地震学が発展し、弘仁地震も再検討の対象となった。 被害国の広がり、山崩れ・家屋倒壊の記事などから、マグニチュード7級後半規模と推定する見解が提示され、防災科学研究所や国立天文台編『理科年表』などでも推定値(M7.5以上)が示されるようになった。

この段階では、

  • 津波記録がないこと
  • 被害が内陸国に集中していること

などから、内陸型地震とみる理解が一般化した。

3.考古学的検証の進展(1990年代以降)

1990年代以降、群馬県赤城山南麓や桐生市新里町周辺での発掘調査により、平安時代前期に帰属する地割れ・液状化痕跡・土石流堆積層などが相次いで確認された。

特に新里地域の広域調査では、複数遺跡に同時期の地震痕跡が認められ、文献記録と対応する可能性が指摘された。 これにより、弘仁地震は単なる史料上の出来事ではなく、地質・考古資料から復元可能な実在の歴史地震として位置づけられるようになった。

一方で、

  • これらの痕跡が単一地震によるものか
  • 複数回の地震活動の累積ではないか

という検討も進められている。

4.震源論と発生要因をめぐる議論

震源については、赤城山南麓(現・群馬県桐生市新里町北部付近)を想定する説が提示されている。

しかし、発生要因については見解が分かれる。

  • 活断層起源説
    • 関東平野北部の断層活動に伴う内陸直下型地震とみる立場。
  • 火山・地殻変動関連説
    • 赤城山の地下構造変動や火山性要因に関連する可能性を指摘する見解(加部2002など)。

現時点では決定的証拠はなく、地質学的調査の深化が課題とされる。

5.9世紀地震活動との関連性

弘仁地震(818年)と、元慶2年(878年)の相模・武蔵地震、さらに貞観地震(869年)などとの関連をどう捉えるかも研究上の論点である。

広域的な応力場変化との関係を推測する見解もあるが、内陸地震の発生間隔やメカニズムを踏まえると、直接的連動を示す証拠は十分ではないとする慎重論が有力である。

6.現在の到達点と課題

現在の研究状況は次のように整理できる。

  • 文献史料と考古資料の対応関係は一定程度確認されている
  • 規模はM7級後半と推定されるが幅がある
  • 震源域は赤城山南麓周辺が有力視される
  • 発生メカニズムは未確定

今後の課題としては、

  • 高精度年代測定による地震痕跡の同時性検証
  • 断層調査の進展
  • 火山活動史との統合研究

が挙げられる。

参考文献

  1. 早川由紀夫,森田 悌,中嶋田絵美(2003)『『類聚国史』に書かれた818 年の地震被害と赤城山の南斜面に残る9 世紀の地変跡』歴史地震 第18 号(2002) pp.34-41
  2. 国立天文台編(2024)『理科年表プレミアム(編)』丸善出版
  3. 田中広明(2014)「弘仁地震の被害と復興、そして教訓」学術の動向 19 (9), pp.38-41
  4. 加部二生(2002)「流されてきた遺構」『赤城村歴史資料館紀要』第4集 赤城村教育委員会・赤城村歴史資料館

先代旧事本紀2026年02月14日 00:38

先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)は、成立時期を平安時代初期頃とみる説が有力な歴史書である。全十巻からなり、神代の叙述にはじまり、推古朝期に至るまでの系譜・伝承・政治記事を収録する。

概要

著者名は伝わっていないが、内容上、物部氏関係の記事が多く、「天孫本紀」では尾張氏や物部氏の系統を詳細に記載することから、特定氏族の伝承を基礎に編纂された可能性が指摘されている。とくに物部氏系伝承との関係が重視され、同氏族系の立場を反映する史料とみる見解がある。

序文については、聖徳太子撰とする伝承があるものの、文体・内容分析から後世の付加とする見方が一般的である。

受容と評価の変遷

平安時代の936年に行われた日本紀講では、本書は序文の記載を前提に『古事記』『日本書紀』と並ぶ典籍として扱われたと伝えられる。しかし中世以降、本文中に推古朝以後の事情を反映する記述が含まれること、既存史書からの引用箇所が多数確認されることなどが指摘され、近世には批判的研究が進んだ。

江戸時代には

  • 多田義俊『旧事紀偽撰考』
  • 伊勢貞丈『旧事紀剥偽』

などが著され、成立事情を再検討する動きが顕著となった。近代以降もその評価は引き継がれたが、単純に偽書と断定する立場からは次第に離れ、史料批判の対象として再検討が進められている。

史料的再評価

20世紀後半以降、国造制研究の進展にともない、本書のうち他書に見えない部分が再評価されるようになった。 とくに重要視されるのは以下の二巻である。

  • 「國造本紀」 大化以前とされる国造任命伝承や初代国造の系譜を体系的に記載する。
  • 「天孫本紀」 物部氏・尾張氏の系譜を詳述し、失われた氏族系文献を参照した可能性が論じられている。

これらの部分は、『古事記』『日本書紀』とは系統の異なる伝承を含む場合があり、古代氏族伝承の比較研究において重要な位置を占める。

なお、宗教的色彩の強い後世成立の文献である『先代旧事本紀大成経』とは別書である。

構成

本書は十巻から構成される。

  • 神代本紀(陰陽本紀を含む)
  • 神祇本紀
  • 天神本紀
  • 地祇本紀
  • 天孫本紀
  • 皇孫本紀
  • 天皇本紀
  • 神皇本紀
  • 帝皇本紀
  • 國造本紀

神代から天皇系譜、さらに地方支配層に至るまでを体系的に配列する構成をとる点が特徴である。

写本と伝来

現存写本のうち最古級の完本として知られるのが、天理大学所蔵本である。これは大永元年(1521年)から翌年にかけて卜部兼永によって書写されたと伝えられる。

同写本は文化財として高い評価を受けており、古代史研究における基礎史料の一つと位置づけられている。

先代旧事本紀「國造本紀」の史料批判的検討

1.位置づけと基本性格

「國造本紀」は『先代旧事本紀』巻第十に置かれ、いわゆる大化改新以前の国造任命伝承と初代国造の系譜を列挙する構成をとる。記載数は百四十四国とされ、各国造の祖先・任命時期(神武朝以来の天皇代に配当)を示す点に特色がある。

他の巻が神代・天皇系譜中心であるのに対し、本巻は地方支配層の成立伝承を体系化した点で異質であり、史料批判上も独立的に扱われることが多い。

2.成立時期の問題

史料批判上、最大の論点は成立年代である。

  • (1)後代的要素 任命年代を天皇代ごとに整然と配列する構成は、律令制的編年意識を前提としている可能性が高い。

国造制が実質的に変質した7世紀後半以降の状況を踏まえて整理された形跡がみられる。

これらは原伝承が古くとも、編纂段階は後世的であることを示唆する。

  • (2)引用関係

『古事記』『日本書紀』に見えない系譜を含む一方、両書と共通する祖系も多い。 このことから、

  • 既存史書を参照しつつ
    • 氏族側伝承を補足的に編入した

という「二次編集史料」とみる立場が有力である。

3.史料価値の再検討

近年は、成立の新しさと史料価値を分けて考える傾向が強い。

  • (1)系譜伝承の保存性 中央史書に採録されなかった地方豪族系譜が保存されている可能性がある。 特に、国造と特定氏族の対応関係は、後世の郡司層や神社社家系図と照合可能な例がある。
  • (2)地理的配置の検証 記載国造の分布は、後の令制国境と完全には一致しない。 この差異は、
  • 旧来の地域勢力圏を反映する可能性
  • あるいは後世的再構成

の両面を持つ。

考古学的知見(首長墓の分布・地域勢力構造)と照合すると、必ずしも全面的創作とは言い切れない事例も存在する。

4.問題点

  • (1)任命時期の一律性 多くの国造が神武から景行朝などに集中して配当される点は、歴史的実在年代とは整合しにくい。 これは系譜を古代化する操作の可能性を示す。

(2)百四十四国の固定化

「百四十四」という総数が象徴的整理の産物である可能性も指摘されている。

(3)政治的背景

物部氏系統の伝承が重視される『先代旧事本紀』全体の性格から、国造記事も特定氏族の立場を反映する編集意図を含む可能性がある。

5.研究史の動向

近世には偽撰説の一環として全面否定的に扱われたが、20世紀後半以降、

  • 国造制の地域的多様性
  • 律令以前の地方支配構造
  • 氏族系図史料の重層性

が重視されるようになり、「國造本紀」も再評価の対象となった。

現在の主流的理解は次のように整理できる。

原伝承は古層を含む可能性があるが、現存形態は平安初期以降の編集段階を経た二次史料である。

6.史料批判上の整理

  • 観点 評価
  • 編纂年代 平安初期以降の編集的整理
  • 史料性 氏族伝承の集成史料
  • 信憑性 個別検証が必要
  • 研究価値 国造制研究・地域首長層研究に重要

7.結論

「國造本紀」は、そのまま事実史料として用いることは困難であるが、地方豪族伝承の集成としては無視できないという二面性を持つ。

史料批判上は、

  • 編纂層
  • 伝承層
  • 政治的意図

を分離して検討することが不可欠である。

参考文献

  1. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  2. 工藤浩・松本直樹・松本弘毅校注・訳(2022)『先代旧事本紀注釈』花鳥社

興福寺2023年07月29日 17:08

興福寺(こうふくじ, Kofukuji Temple)は南都七大寺のひとつで、法相宗の大本山である。正式名は「金光明四天王護国之寺」である。

概要

前身の開山

645年(皇極4年)藤原鎌足は乙巳の変のクーデターが成功することを祈り、成功した暁には釈迦三尊像と四天王を作る願いを立てたという。クーデターの成功後、病を得たとき妻鏡女王の勧めにより山科に釈迦三尊や四天王などの諸仏を安置するため「山階寺」を造営しした。『興福寺流記』所引「宝字記」に「鎌足は改新の成功を祈って、釈迦三尊像・四天王像を造ることを発願した。事が成就した後、山階の地で造像を行った。やがて重病になり、妻の鏡女王の勧めで伽藍を建て仏像を安置した。これが山階寺の始まりである」と書かれる。 「山階寺」の所在地は長く不明であったが、JR山科駅西南、御陵大津畑町を中心とした地域にあったとする説が有力である(京都府山科区御陵大津畑町に「山科寺跡」の碑がある)。

厩坂への移転

壬申の乱(672年)の後、飛鳥に都が戻ったとき山階寺を大和国高市郡厩坂(うまやさか)に移し、「厩坂寺」と称した。その正確な位置は不明とされているが、候補地として大軽町の北、現奈良県橿原市久米町と奈良県橿原市石川町の境の小字丈六とする説がある。『 日本書紀』によれば軽坂の上に建てられた厩に起源がある地名で、軽坂と厩坂は同地に存在していた。福山敏男は(橿原市石川町字 ウラン坊で発見された円形の造り出しを持つ礎石 6個 と重弧文軒平瓦が出土したことから、軽池北遺跡付近に比定している(参考文献3)。

興福寺の開山

710年(和銅3年)、平城遷都の際に藤原不比等によって厩坂寺を平城京左京3条7坊に移し、興福寺と命名された。藤原氏の氏寺であった。最近では山科寺と興福寺は別の寺とする説もあるが、正倉院文書の経典の貸出記録に同じ経典の借用先が山科寺と興福寺と書かれており、同一の寺と見られる。

奈良時代の興福寺

興福寺は平城京の東端南北東西各四町の16町の敷地に、東六坊大路の西側4町、南側4町園池(現猿沢池)も興福寺の敷地であったから、合計24町という広大な敷地であった。東大寺以前では、大安寺・薬師寺をしのぎ、当時としては最大の寺院であった。興福寺の敷地は平安遷都の計画段階から決まっていたと思われる。 藤原不比等が亡くなると妻の三千代の願いで、中金堂内に弥勒仏の浄土を再現する彫像群が作られた。その後も、聖武天皇による東金堂(726年)、光明皇后による五重塔(730年)、西金堂(734年)が作られた。奈良時代の造営の最後に講堂(746年)を建築した。 奈良時代は四大寺、平安時代は七大寺の一つとされた。730年(天平2)光明皇后は五重塔を建立した。813年(弘仁4年)藤原冬嗣は南円堂を建立した。 平安時代には本地垂迹説に基づいて、興福寺は春日大社を支配下に収めた。

鎌倉時代・室町時代

鎌倉幕府・室町幕府は大和国に守護を置かず、興福寺がその任にあたった。1595年(文禄4年)の検地では「春日社興福寺」合体の知行として2万1千余石と定められた、

明治時代

1868年(慶応4年)4月7日、大和国鎮撫総督府から春日大社における権現などの神号の廃止命令が出された。大乗院と一乗院は連名で鎮撫総督に「復飾(還俗)願い」を提出した。神祇局は還俗を許可し、興福寺の僧侶に「新宮司」の地位を与えた。春日大社の仏具類は、興福寺に引き取らせ、完全に神仏を分離させた。堂塔は破却処分となり、境内と七堂伽藍が残った。一部の千体仏は、民間に流出し、藤田美術館(大阪市)やMIHOミュージアム(滋賀県)などに流出した。他に快慶作の木造弥勒菩薩立像はボストン美術館、乾漆梵天・帝釈天立像はアジア美術館(サンフランシスコ)、康円作の木造文殊菩薩・侍者像(重要文化財)は東京国立博物館に行ってしまった。興福寺の廃仏毀釈においては五重塔(国宝)も破却の危機にあった。

五重塔

730年(天平2年)、興福寺の創建者である藤原不比等の娘の光明皇后の発願で建立された。その後、5回の焼失・再建を繰り返した。現在の塔は1426年(応永33年)頃に再建されたものである。薬師三尊像、釈迦三尊像、阿弥陀三尊像、弥勒三尊像が初層のそれぞれ須弥壇四方に安置されている。塔の高さは50.1メートルあり、日本の仏塔として京都、東寺の五重塔に次ぐ規模である、奈良県内における建築物の中でも最も高い建築物である。

注・参考文献

  1. <多川俊映・金子啓明(2018)『興福寺のすべて』小学館
  2. 大協潔(1977)「遺跡の位置と環境」『軽池北遺跡発掘調査報告』(軽池北遺跡調査会)、奈良文化財研究所、pp.3-8

平安時代2023年07月29日 16:47

平安時代

平安時代 (へいあんじだい)は、平安京に政治の中心があった時代である。おおむね、794年(延暦13年)から鎌倉幕府の成立までの期間を指す(異説もある)。概ね390年間である。

概要
奈良時代の中央集権的な律令体制を基盤として平安時代は開始された。
なお平安時代の開始時期は794年説のほか、784年(延暦三年)の長岡京遷都、または781年(天応元年)の桓武天皇即位を平安時代平安時代の開始とみる説もある。

時代区分の説明
平安時代は3期ないし4期に分けられる。3期説の区分を次に示す。
①天皇親政の時代
②摂関政治と国風文化の台頭
③院政の開始と武士の台頭
それぞれの特徴は次の通りである。

①天皇親政の時代
桓武天皇による[[天皇親政]]の時代である。平安遷都は、奈良時代の旧弊を改め、天皇の権威を高めようとしたと言われる。寺院勢力が強い平城京から平安京に遷都したともされる。政治を司る太政官の筆頭官は親王が占めていた。律令制の再編成するため令外官が置かれた。次代の平城天皇も親政による改革を行った。嵯峨天皇は百姓撫民(貧民救済)、権門(有力貴族・寺社)抑制の政策を取った。

②摂関政治と国風文化の台頭
平安時代中ごろから、政治の実権を貴族が握るようになっていた。貴族の中でも藤原北家すなわち藤原良房の一族が、天皇の外戚として摂政や関白あるいは内覧を占めた。飛鳥・奈良時代における摂政は、皇位継承権のある皇族・皇太子が就任することになっていた。ところが、天皇の親戚関係を利用し、866年[[藤原良房]]が摂政に就任し、「人臣摂政」となった。良房の養子の[[藤原基経]]は歴史上最初の関白となった。摂政と関白の違いは、摂政は天皇が幼少であるあるいは病気がち、ないしは女性の場合に天皇に代わり政務を取り仕切ることをいう。関白は天皇が幼少でも病気がちでもない場合に、摂政と同様の役割を果たすのが関白である。

③院政の開始と武士の台頭
1086年(応徳3年)、白河天皇は「院政」を開始した。弟の輔仁親王への皇位継承を嫌い、幼少の堀河天皇に譲位して、上皇(院)として院庁を開き、天皇を後見しながら政治の実権を握った。院の御所に北面の武士や武者所を組織し、政治の実権を行使した。院政は天皇の実父という立場に基づくものである。後三条天皇の治世下において摂関家は力を失っていた。藤原氏は堀河天皇の摂政に就いたものの、摂関政治の能力を喪失していた。大江匡房はその日記に「今の世のことは、まず上皇の御気色を仰ぐべきか」と書く。人事権(除目・叙位)の掌握が大きな力の源泉となった。白河上皇は権力基盤として、独自の警護組織である「北面の武士」を設け、軍事貴族の平正盛を北面の武士に任命して重用した。白河上皇の時代から院宣や院庁下文が重視され、天皇の位も形骸化した。院政期は1086年(応徳3年)から平氏政権が確立するまでに間の時期とみることができる。しかし、平氏政権のあとも形式的には院政は幕末まで続くが、政治的実権があったの時期は限定される。 地方の豪族や中央の武官の中から、武士が誕生した。武士団を形成し、平将門が北関東、藤原純友が瀬戸内海で反乱を起こすなど、独自の勢力を持つようになる。東日本は源氏、西日本は平氏が有力な武士団として台頭した。京都政界の貴族内の政争から保元の乱、平治の乱がおき、武力で解決した平清盛が武家の棟梁とみなされた。1160年に[[平清盛]]は正三位参議に補任され、武士として初めて公卿となった。1167年(仁安2年)には[[平清盛]]は武家として初めて太政大臣従一位の地位を得た。

摂関政治の期間には諸説ある。
(1)100年説
967年(康保4)冷泉天皇の践祚後に藤原実頼が関白となり、1068年(治暦4)後三条天皇が皇位につくまでの約100年間を指すとする説。
(2)228年説
--藤原良房の人臣摂政に就任した858年から院政が始まる1086年まで228年間とする説。

平氏政権
平氏政権の開始時期も諸説ある。
(1)1179年説 - 治承三年、[[平清盛]]による後白河院政の停止、クーデター
(2)1160年説 – 平治2年、清盛(正四位下)が正三位となり、参議を兼ねた。
(3)1167年説 - 仁安3年、清盛が太政大臣従一位となった。

平安時代の出来事

西暦年 和暦年 出来事
794年 延暦13年 平安京へ遷都
799年 延暦18年 遣新羅使
800年 延暦19年 富士山、大噴火
804年 延暦23年 7月、空海、最澄、遣唐使船で出航
806年 延暦25年 桓武天皇崩御、平城天皇即位
809年 大同4年 平城天皇が譲位し、嵯峨天皇即位
729年 神亀6年 長屋王の変
810年 弘仁1年 薬子の変
820年 弘仁11年 遠江・駿河の新羅人700人が反乱を起こす
|823年 弘仁14年 嵯峨天皇譲位し、淳和天皇即位
827年 天長4年 京で大地震
833年 天長10年 淳和天皇譲位、仁明天皇即位行
836年 承和3年 第19回遣唐使、出航後遭難し漂着
838年 承和5年 最後の遣唐使派遣
842年 承和9年 承和の変
857年 天安1年 唐天安1年が来日
866年 貞観8年 応天門の変
869年 貞観11年 東北で貞観三陸沖地震
878年 元慶2年 元慶の乱
887年 仁和3年 仁和地震、光孝天皇崩御、宇多天皇即位
888年 仁和4年 阿衡の紛議
894年 寛平6年 菅原道真の建議により、遣唐使が廃止
901年| | 延喜1年 菅原道真、大宰府に左遷(昌泰の変)
939年 天慶2年 平将門の乱、藤原純友の乱
976年 貞元1年 山城・近江地震
1017年 寛仁1年 藤原道長が太政大臣、子の頼道が摂政/藤原氏全盛時代
1167年 仁安2年 平清盛 太政大臣に
1086年 応徳3年 堀河天皇即位、白河上皇、院庁で政務をみる(院政開始)
1096年 永長1年 永長地震、東海、東南海の地震
1099年 承徳3年 南海地震
1159年 平治1年 平治の乱
1167年 仁安2年 平清盛、太政大臣に就任
1179年 治承3年 治承三年の政変
1180年| | 治承4年 安徳天皇即位、治承・寿永の乱、源頼政挙兵、南都焼き討ち
1181 養和1年 安養和の大飢饉
1185 文治元年/寿永4年 壇ノ浦で平家滅亡、文治地震、文治勅許
1192年| | 建久3年 源頼朝、征夷大将軍

参考文献
1. 北山 茂夫 (2004)『平安京』中央公論新社
2. 川尻 秋生(2011)『平安京遷都』岩波書店
3. 古瀬 奈津子 (2011)『摂関政治』岩波書店

尼寺廃寺跡2023年05月21日 21:01

''尼寺廃寺跡'(あまでらじはいじあと)は奈良県香芝市にある古代の寺院跡である。

概要

香芝市の北端王寺町との境界に位置する。北廃寺と南廃寺とがある。両伽藍は南北約200m離れている。現在は塔跡以外は平地の水田や畑にされている。般若寺本堂が南廃寺にあるが、ここは創建当初の基壇上に建築された可能性がある。付近に500m以内に平野古墳群、平野窯跡群がある。7世紀中期以降に創建されたと考えられている。塔心礎は巨大な地下式心礎であり、塔心礎としては日本最大級の規模になる。 蘇我日向が白雉五年(654年)に創建した般若寺の可能性がある。発掘から尼寺廃寺跡は7世紀後半とされ、遺物と史料との矛盾は見られない。

調査

  • 北廃寺 第10次調査(平成7年度)では塔跡と考えられた基壇をトレンチ調査した。堆積土を除去すると、原位置を保つ基壇を検出した。「北廃寺」とも呼ばれる北側の遺跡は塔と金堂とが南北に並び、その東側に中門をもうけた回廊が周囲をぐるりととりかこむ東向きの「法隆寺式伽藍配置」の古代寺院と判明した。礎石の表面は焼失に伴う変色と割れが認められた。 中央の柱座より耳輪12点、水晶玉4点、ガラス玉3点、刀子1点の舎利荘厳具が検出された。片側雨落と北側で焼け落ちた瓦を検出した。金堂との間隔は10mと確認した。 第12次調査(平成8年度)では金堂が南北棟であることを確認した。第14次調査(平成9年度)では塔基壇との距離が約6.5mであることが判明した。回廊の北側に講堂があった可能性がみられた。また鉄滓や韛の羽口や砥石が見つかったことから、鋳造工房があったと推定された。伽藍配置が確認され、金堂・塔・中門・回廊・東門(東大門)の遺構が検出された。回廊は東西約44.3m・南北約71.4m、金堂は東西約14.7m・南北約16.8mと推定されている。塔の基壇は一辺約13.5m・高さ約1.4mである。 瓦は川原式の複弁8弁蓮華文軒丸瓦、12単弁弁蓮華文軒丸瓦、単弁16弁蓮華文軒丸瓦、三巴文軒丸瓦などである。鬼瓦と鴟尾も出土した。
  • 南廃寺 寺域は不明である。主要伽藍は現在の般若院境内で基壇の一部が検出されたため、重なり合うと推定されている。金堂が東、塔が西に配される南向きの法隆寺式伽藍配置である。 南廃寺では北廃寺に先行して7世紀中頃に造営が開始され、7世紀後半頃までに金堂は完成した。

展示

尼寺廃寺跡に併設されている学習館で現存する日本最大の塔心礎の模型と、塔基壇の土層を展示する。 香芝市二上山博物館では尼寺廃寺跡の創建時の姿を紹介し、出土品等を展示する。

指定

  • 2002年(平成14年)3月19日、国指定史跡(北廃寺)

アクセス

  • 名称:尼寺廃寺跡
  • 所在地:奈良県香芝市尼寺2丁目88
  • 交通: JR和歌山線畠田駅より南西へ徒歩約7分(約0.6km)

参考文献

  1. 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
  2. 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋 (1994)『日本書紀』岩波書店
  3. 東野治之(2013)『上宮聖徳法皇帝説』岩波書店
  4. 香芝市教育委員会・香芝市二上博物館編(2003)『尼寺廃寺Ⅰ』香芝市教育委員会調査報告書第4集