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西ヶ原貝塚2025年04月20日 00:13

西ヶ原貝塚(にしがはらかいづか)は東京都北区にある縄文時代の貝塚である。

概要

貝層東側の貝層は住居跡内等に形成された後期の中・小規模の貝層のみで、大規模な面貝層が形成された西側とは対照的な様相を呈している。弥生時代の遺構はすべて後期で、周溝墓群を挟むように同期の住居跡が分布する。現在の飛鳥中学校付近に西ヶ原貝塚があったという説明板が立っている。貝塚は昌林寺、北区立飛鳥中学校校庭、東側一帯に広がる。

調査

1951年の酒詰仲男の表面調査により馬蹄形分布の大規模な遺跡であることが判明した。 その後の2007年、2008年、北区教育委員会の調査で遺物は縄文時代早期から晩期、住居は中期・後期・晩期、墓は後期のものを発見した。遺構は住居、貯蔵穴、貝塚、墓がみつかっている。住居は34軒以上がみつかったが、同時に存在したのは数軒程度とみられる。 貝塚は中期から晩期に形成され、範囲は140m×180mであることが判明している。 出土した骨角器は鹿の骨から取ったもので3800年前から3400年前の遺物である。サイズは長さ11.5cm、幅5.5cmとなる。墓壙に埋葬された保存状態の非常に良好な成人人骨3体、土器に埋葬された胎児骨1体が出土した。

遺構

  • 住居跡31
  • 竪穴状遺構4
  • 埋設土器6
  • 焼土跡36
  • 土坑127
  • ピット2262
  • 貝層49

遺物

  • 土器(早期前半・前期・中期後半・後期・晩期前半)
  • 石器(磨製石斧・打製石斧・石鏃)
  • 土製品(土偶・耳飾)
  • 骨角製品(鏃・銛・腰飾)
  • 貝製品(垂飾・貝輪)
  • 獣骨
  • 魚骨
  • 貝類
  • 人骨

考察

2007年の発掘調査で、縄文時代後期初頭の称名寺式の土器に収められた胎児骨を発見した。米田教授によれば、胎児骨の放射性炭素年代をそのまま較正すると4568~4440年前となる。土器編年では、骨が納められていた称名寺式よりもひとつ古い、縄文時代中期加曾利E4式期(4520~4420年前)に相当する年代である。しかし骨のタンパク質で炭素と窒素の安定同位体比(δ13Cとδ15N)を測定したところ。胎児骨では母親が摂取した魚貝類を通じて海洋リザーバの炭素が約34%含まれていると推定された。3割が海洋由来の炭素なので、胎児骨の年代は海産物のせいで150年ほど古くなった。再計算すると、4412~4296年前という年代になり、称名寺式土器の年代と一致する。 海辺の遺物や遺骨を年代測定するときは海洋リザーバ効果に注意する必要がある。

展示

指定

所在地等

  • 名称: 西ヶ原貝塚
  • 所在地:東京都北区西ケ原3-5-7/12 飛鳥中学校内
  • 交通:

参考文献

  1. 北区教育委員会(2004)『北区埋蔵文化財調査報告34:西ヶ原貝塚』北区教育委員会
  2. Yoshida, K. et al. (2010) Pre-bomb marine reservoir ages in the Western Pacific. Radiocarbon 52:pp.1197-1206.

池内遺跡2025年04月19日 00:32

池内遺跡(いけないいせき)は秋田県大館市にある縄文時代の遺跡である。

概要

大館市の中心部からやや南で、JR花輪線東大館駅の南東1.6kmにあり、西に流れる米代川の右岸に形成された河岸段丘上とその斜面に立地する。池内遺跡が立地する台地は、最大150m、最小40m、平均120m の間隔をもち、北東から南西に200m の長さで張り出している。 池内遺跡は縄文時代前期の集落跡で、居住域、貯蔵域、墓域、捨て場が確認されている。

調査

池内遺跡の発掘調査は、平成4年度から平成7年度まで4カ年にわたり実施されている。平成4年度では平成4年5月11 日から開始し、土坑60 、柱穴様ピット多数を検出した。フラスコ状土坑から円筒下層式土器のほか、大木式土器を検出した。遺構では円形土坑プラン23 と柱穴プラン多数を検出した。北東側の杉林地区でも方形の竪穴住居跡プラン4と円形土坑プラン1を検出した。 遺構プランは、竪穴住居跡プラン32(うち方形プラン9 )、円形土坑プラン72 、性格不明プラン2の計106 遺構と柱穴様ピット多数を検出した。

平成5年度では平成5年4月19 日から発掘調査を再開した。竪穴住居跡プラン2 (S 1 307、S1 308) 、円形土坑プラン数基を検出した。縄文時代の竪穴住居跡3軒、土坑4基、T-pit 3基、現代の竪穴状土坑(室) 1基、柱穴様ピット多数などを、またC-2区では竪穴住居跡3軒、フラスコ状土坑4を検出した。

平成6年度は平成6年5月16日から調査し、縄文時代の遺物を多量に確認した。土坑7基、フラスコ状土坑3墓、フラスコ状土坑1基(S K F 507) の底面から縄文時代後期の壷形土器がl個体出土した。円形あるいは楕円形の竪穴住居跡プラン7、土坑プラン6を検出した。埋土中から下半を欠損する岩偶がl点出土した。フラスコ状土坑では、円筒下層式の深鉢形土器と大木式の深鉢形土器が共伴出土した。ニワトコなど多量の植物穂子とクルミの核、クリなどの堅果類、獣骨が出土した。

平成7年度は平成7年4月20 日から調査開始し、彫刻されたクルミ、漆を塗った木片、植物遺存体、クルミ、クリ、トチノキ、桜皮、木片、多量の種子、獣骨、魚骨、を検出した。ニワトコの純層(厚さ2cm) 数カ所、ドーナツ状の木製品(直径10cm) 1点、切断された木材、自然木、加工材、樹皮、クルミ、クリ、植物種子、獣骨、魚骨、貝などが出土した。 横倒しになっていた大木の下から破断面が新しい漆塗り木製品の破片が出土した。ニワトコ集中土壌から琉泊の玉を1偶発見した。

4年間で検出した縄文時代の遺構は、竪穴住居跡79 軒、土壌墓45 基、フラスコ状土坑171 基、土坑177 基、掘立柱建物跡63 棟、T -P i t 22 茶、土器埋設遺構9基、捨て場5カ所の、計566 遺構と捨て場5カ所であった。彫刻されたクルミは本邦初である。高台付漆塗りは県内初例である。

遺構

  • 竪穴建物
  • 土壙墓
  • フラスコ状土坑
  • 土坑
  • 掘立柱建物
  • Tピット
  • 埋設土器
  • 捨て場

遺物

  • 深鉢土器
  • 壺形土器
  • 石器
  • 石製品
  • 木製品
  • 彫刻されたクルミ
  • 建物構造材
  • 植物遺存体(種子堅果樹皮)
  • 動物遺存体(魚骨、獣骨、貝、昆虫)

考察

展示

指定

所在地等

  • 名称: 大津保畑遺跡
  • 所在地:秋田県大館市池内字上野56から110
  • 交通:

参考文献

  1. 秋田県埋蔵文化財センター(1997)『秋田県文化財調査報告書268:池内遺跡』秋田県教育委員会

浅鉢形土器2025年04月17日 23:48

浅鉢形土器(あさばちがたどき)は縄文時代の土器で、底部に比べ口縁部が大きく開いた形状の土器である。

概要

鉢形土器のうち器高が低いものを浅鉢形土器という。縄文土器は上と下とで器の径には大きな差がない。口縁部が大きく開いた鉢形が主流となる。長谷部言人は高さが口径の3分の2以上を深鉢形土器、3分の1以上、2分の1未満を浅鉢形土器として提案した。 最古の縄文土器は深鉢形土器で始まり、深鉢形土器から浅鉢形土器が分かれた。縄文時代中期では東関東地方を中心に東北にも広く分布する。口縁部が装飾された土器もある。 田端遺跡の浅鉢形土器は口縁に1カ所であるが突起状の装飾がつく。口縁の下3cmほどのところに張り出しがあり、径は最大となる。

浅鉢と深鉢

深鉢に対して、浅鉢は出土数が少ない。坪井清足は熊本の御陵貝塚、滋賀の滋賀里遺跡から、深鉢と浅鉢の個体比率は7対3であることを明らかにした。

用途

縄文土器の形状で、出土量の多い深鉢型土器は主として煮炊き用であり、出土量の少ない浅鉢形土器は煮炊き以外の用途で使用されていたようである。浅鉢形土器はおもに豆や木の実などの固形物を盛るための容器とされている。弥生時代以降の同じ形のものは鉢形土器という名称で呼んでいる。多くは口縁部に文様をもち、その文様はベンガラ(酸化鉄)や水銀朱で赤く塗られる。 縄文時代後期では、中期以降の煮炊用の深鉢に加え、祭祀用や貯蔵用の鉢、浅鉢、台付浅鉢、注口土器、壺などの多彩な器種で構成された土器群が、列島全域に展開する。台付浅鉢土器は丁寧に作られる器であり、神や精霊への捧げものなど、大事なものが盛り付けられたと想定できる。縄文時代後期の東北北部から北海道南西部にかけて出土する土器である。

事例

  • 浅鉢形土器 - 姥山貝塚出土、千葉県市川市、東京国立博物館
  • 浅鉢形土器 - 片野町糠塚遺跡第一号住居跡出土、岐阜県高山市、縄文時代、重要文化財
  • 浅鉢形土器 - 青森県むつ市田名部品ノ木、縄文時代、九州国立博物館
  • 浅鉢形土器 - 田端遺跡、東京都町田市、縄文時代晩期

参考文献

  1. 甲野勇(1953)『縄文土器の話』学生社
  2. 坪井清足(1962)「縄文文化論」『岩波講座日本歴史 第1 (原始および古代)』岩波書店
  3. 戸田 哲也(2011)「縄文土器型式と分布域」月刊考古学ジャーナル,考古学ジャーナル編集委員会 編 (610)pp.34~37

無文土器2025年04月16日 00:11

無文土器(むもんどき)は文様のない土器をいう。

概要

一般には朝鮮半島の無文土器をいうが、日本でも無文土器は見られる。 関東地方では縄文時代早期の撚糸文土器群と沈線文土器群の間を占める時期に無文土器がの形式が行われていた。茨城県花輪台貝塚で初めて形式として独立したことが示され、神奈川県平塚貝塚により年代的位置が定められた。神奈川県平根山遺跡で沈線文土器との形式学的検討がされた。 大平山元遺跡の土器は、炭化物の放射性炭素年代測定により、紀元前13,000年頃と見られているが、古い特徴を持つ土器片は、縄による施文や貼り付けなどの装飾がない無文土器であった。縄文時代草創期の最古の土器は無文土器で、その後、隆起線文土器、爪形文土器と変遷したとされる。 日本海沿岸における無文土器系土器の拡がりが明らかになり、日本海交流に接続する日韓交流の姿が見えてきた。

出土例

  • 無文土器 大平山元遺跡、青森県東津軽郡外ヶ浜町、縄文時代草創期
  • 無文土器 隈・西小田遺跡、福岡県筑紫野市、朝鮮半島系無文土器

参考文献

  1. 森貴教、山崎賴人(2023)「長岡市大武遺跡出土の無文土器系土器について」新潟考古 第34号
  2. 根岸洋・福田正宏(2022)「軽海峡周辺における縄文早期初頭の無文土器群」東京大学考古学研究室

七社神社裏貝塚2025年04月14日 00:19

七社神社裏貝塚(ななしゃじんじゃうらかいづか)は東京都北区西ヶ原にある縄文時代の貝塚である。

概要

七社神社は子宝・安産・お宮参り・厄除・方除・開運招福で知られる。西ヶ原村の鎮守であり、かっては無量寺境内の高台、現在の旧古河庭園内にあった。 明治初年に、神仏分離により現在の地に移され、近隣に七社神社前遺跡と七社神社裏貝塚とがある。七社神社前遺跡からは、原型をとどめた古代人のブレスレット・鉄釧 (北区指定有形文化財。北区飛鳥山博物館蔵)が出土した。 「七社神社裏貝塚」は武蔵野台地北東端部の本郷台の中の標高23m前後である上野台に立地する。境内から隣地にかけての一画は「七社神社裏貝塚」として知られ、縄文土器・弥生土器・土師器等が出土し古代人の生活の場であった。縄文中期中葉の住居址内貝層である。第一地点から縄文後期前葉の土坑内貝層が出土した。多種多量の鳥獣魚骨があり、土坑内より堀之内1式土器の良好な一括資料が出土した。第二地点の土坑内から堀之内1式土器の良好な一括資料が出土した。出土した貝殻はほとんどがヤマトシジミであった。明治大学の阿部芳郎は当時は中里は浜辺であり、七社神社裏に住んだ人々は付近の小川で取れるヤマトシジミを取っていた。

発掘

遺構

  • 竪穴建物
  • 貝塚
  • 土坑

遺物

  • 縄文土器
  • 土器片錘
  • 石器
  • 貝刃
  • 骨角器
  • 動物遺存体(鳥(骨)+獣(骨)+貝)

築造時期

  • 縄文中期中葉

指定

展示

アクセス等 

  • 名 称:七社神社裏貝塚 
  • 所在地 東京都北区西ヶ原2丁目8-8
  • 交 通:

参考文献

  1. 阿部芳郎(2002)『縄文時代のくらしを掘る』岩波書店
  2. 東京都北区教育委員会生涯学習推進課(2002)『七社神社裏貝塚・西ヶ原貝塚III・中里貝塚II 北区埋蔵文化財調査報告第29集』

条痕文系土器2025年04月13日 21:52

条痕文系土器(じょうこんもんけいどき)は縄文時代早期の土器の外面や内面全体に平行な細い筋が無数に認められる土器である。

概要

縄文時代早期の西日本、甲信越、関東、東北に広く見られる土器である。1000年以上にわたり使われた土器形式である。縄文時代晩期後半の土器は、突帯文系土器から条痕文系土器へ変遷する。条痕文系土器の最初の段階は「樫王式」(標識遺跡は豊川市樫王遺跡である)とされる。縄文時代前期、後期を中心とするが、弥生時代にも見られる。縁がギザギザじている二枚貝を粘土の表面に当てて横に引くと、多数の平行線を同時に描くことができる。

特徴

土器の内面、外面に条痕が見られ、後円部に二列ないし三列に並列される文様がある。 土に植物繊維を混ぜる特徴がある。条痕文系土器には植物繊維が混入しているため、土器の断面が黒くなっているのが特徴である。底部の形は以前の尖底から平底に変化する。尖底から平底に変化する過程で、単純な胴形状から屈曲がされるようになる。 命名として型式名を示したのは久永春男であった (久永(1953))。

文様

文様は木の板(ヘラ)や二枚貝の縁辺部、絡条帯(棒状の芯に縄を巻き付ける)などを用いて刺突文、沈線文、圧痕などにより土器面を整える。条痕文を下地として胴上半部に表される。線を規則正しい方向に調整して、装飾効果を得ている。単純で原始的な方法で文様を造る。

出土例

  • 貝殻条痕文系土器 小の原遺跡・粕畑式土器、岐阜市、揖斐郡揖斐川町戸入、縄文時代
  • 条痕文系土器 伏見遺跡、鹿嶋市大字宮中字伏、旧石器|縄文|弥生|古墳
  • 条痕文系土器の土器棺 安城市安城町・古井町・桜井町、弥生時代前期中頃
  • 条痕文土器 西浦遺跡出土、愛知県丹羽郡大口町、弥生時代前期

考察

突帯文系土器から条痕文系土器に変わったのはなぜであろうか。当時の美意識として、平行線の美しさと実用性(表面の摩擦係数が大きいので、滑りにくい)が考えられる。 検証されたわけではないが、仮説的には、突帯文は制作時に貼り付けているので、暖めると温度により伸縮差が顕在化して帯が取れやすかったことが想定できる。 弥生時代にも条痕文系土器が出土することは、その時点で縄文系弥生人がいたことを表す。

参考文献

  1. 久永春男(1953)「解説三河の縄文土器」『豊橋市公民館郷土資料目録』解説 三河の縄文土器,pp.13-14
  2. 久永春男(1966)「弥生文化の発展と地域性 中部 東海」『日本の考古学』III 弥生時代,pp.162-18,河出書房新社。
  3. 永井宏幸(2003)「条痕紋系土器研究の現状と課題」『条痕文系土器の原体をめぐって』( 第 1 回三河考古学談話会研究集会資料集),pp.43-48,三河考古学談話会。
  4. 永井宏幸(2007)「条痕紋系土器様式の研究」研究紀要 8,公益財団法人愛知県教育・スポーツ振興財団愛知県埋蔵文化財センター,pp.23-32
  5. 佐藤 由紀男(2006)「条痕紋系土器分布圏における稲作をどの様に考えるか」考古学論究 / 立正大学考古学会 編 (11), 145-172

中里貝塚2025年04月13日 01:25

中里貝塚(なかざとかいづか)は東京都北区上中里にある縄文時代中期から後期初めに形成された貝塚である。「中里遺跡」の範囲内である。中里貝塚は南北100m以上,東西500m以上の範囲に最大で厚さ4.5m以上の貝層が広がる遺跡である。

概要

現況は台地の崖下に敷設されたJR東日本の京浜東北線・新幹線車両基地と尾久操車場及び宇都宮・高崎線などの線路群に挟まれており、鉄道関連施設が付近に集積している。大森貝塚の発掘から9年後の明治19年には白井光太郎によって「中里村介塚」として学界に初めて報告された。東京帝国大学で地理学教室を創設した山崎直方は、地質学科在学中の1893年(明治26 年)頃に中里貝塚を視察し、『人類学雑誌』(第96・98 号、明治27 年3月・同5月)誌上に付近の地形を記載している。 中里貝塚には最大約4.5mの厚さの貝層があり、長さ1km、幅約70~100mにわたる日本最大級の規模の貝塚である。中里遺跡内にある縄文時代中期から後期初頭にかけて当時の海岸線に形成された大型貝塚である。土坑上部から多量の材や種子が検出され、下部からは材の他に焼礫やマガキの貝ブロックが伴出した。 焼石を投入して水を沸騰させて貝のむき身を取ったと考えられる土坑や焚き火跡、木道などが確認されている。ストーンボイリングで貝を茹でていた。土坑に水を張った中にマガキを入れ、そこへ焼石を投入して沸騰させ、口を開けていた。土器を用いるより多量のマガキを一度に処理することができる。生産された大量の干貝は、遺跡で消費せず、内陸部へ供給されたものと想定されている。

発掘

昭和33年に和島誠一による調査が行われ,厚さ2m以上に及ぶハマグリとマガキからなる貝層が確かめられた。1983年(昭和58年)から1984年(昭和59年)にかけて東北新幹線田端地区建設工事に伴い実施されたのが最初の発掘調査である。当時の浜辺からムクノキ製の丸木船1艘と集石炉2基が出土した。 1986年(昭和61年)に遺跡地図上に中里遺跡が始めて示された。A地点から出土した縄文土器片は総数81 点であった。土器の形式は勝坂式土器、称名寺Ⅰ式土器、堀之内1式土器である。出土した石器は敲石10 点、砥石1点、磨石2点、石錘2点、礫器2点、剥片4点である。サメやイヌの歯も出土する。丸木舟は田端微高地上の砂層中から出土した。出土した丸木舟は、全長579cm、最大幅72cm、最大内深は中央部で42cm、船体の厚さは、舷の上端で2cm、船底部で5cmを測る。舷内部の上端がオーバーハングしている。使用された樹種は、ニレ科ムクノキである。公園建設にともなって北区教育委員会が行った平成8年の発掘調査では,厚さ4mの大規模な貝層と貝の処理施設と考えられる2基の浅い皿状の土坑が検出された、

遺構

  • 貝層
  • 木枠付土坑
  • 杭列
  • 焚き火址
  • 木道
  • 集石

遺物

  • 縄文土器
  • 土器片錘
  • 丸木舟

築造時期

  • 縄文時代中期から後期初め

指定

  • 2000年(平成12年)9月6日 国史跡指定

展示

  • 北区飛鳥山博物館 剥ぎ取り標本

アクセス等 

  • 名 称:中里貝塚 
  • 所在地 東京都北区上中里二丁目
  • 交 通:

参考文献

  1. 東京都北区教育委員会(2018)「史跡 中里貝塚総括報告書」
  2. 阿部芳郎(2014)「ムラとハマの貝塚論-大森貝塚と中里貝塚-」『ハマ貝塚と縄文社会』雄山閣