茱萸ノ木遺跡 ― 2026年07月14日 00:05
茱萸ノ木遺跡(ぐみのきいせき)は秋田県能代市に所在する縄文時代中期を中心に営まれた大規模集落で、盛土遺構や列石・配石遺構、大量の土器・石器が発見されたことで知られる。
概要
茱萸ノ木遺跡は米代川とその支流である藤琴川の合流地点から北へ約3.8kmの場所に位置する。藤琴川の右岸に広がる河岸段丘上に立地し、周辺を山地に囲まれた河岸段丘上に形成された遺跡である。遺跡の立地する河岸段丘の東側を藤琴川が流れ、南へ下ると米代川と合流する。これらの川沿いに形成された河川や周辺の森林資源に恵まれた環境が、集落形成の背景となったと考えられる。
砂防工事に伴う発掘調査により、発掘調査では、盛土遺構や住居跡など数多くの遺構と、コンテナ約1,000箱分に及ぶ土器・石器などが出土した。
遺構としては盛土遺構、竪穴建物跡、掘立柱建物跡がある。盛土遺構は遺跡の中心にある、高さ約1.5メートルの土の小山である。盛土遺構は、土器・石器・焼土・炭化物などが長期間にわたり堆積して形成された高さ約1.5メートルの土の小山である。縄文時代中期を通じて、盛土遺構を中心にして集落域が展開しているが、中期初頭から中葉にかけて、中期後葉以降とでは遺構の配置に変化が見られる。
中期末葉~後期初頭になると、盛土遺構の形成が終了し、列石・配石遺構が構築されるようになる。配石(はいせき)遺構・列石遺構は石を円形や直線状に配置した、墓や祭祀に関連すると考えられる遺構が46基みつかった。周囲には掘立柱建物跡や、土坑墓の可能性があるフラスコ状土坑・土坑が形成された。土器埋設遺構は土器を地中に埋設した遺構で、祭祀や埋葬との関連が指摘されており、45基がある。フラスコ状土坑は、断面がフラスコ形を呈し、貯蔵施設や墓坑などと考えられている。
竪穴建物跡は30棟以上確認されている。尾根頂部に集中して分布する。狩猟・木材加工・植物質食料の加工に用いられた各種石器のほか、土偶・石棒・石冠など祭祀に関わる遺物も多数出土している。 茱萸ノ木遺跡は、盛土遺構を中心とする集落構造や列石・配石遺構の変遷を通じて、縄文時代中期から後期にかけての集落構造や祭祀空間の変化を知る上で重要な遺跡である。
アクセス
- 名称:茱萸ノ木遺跡
- 所在地:秋田県能代市二ツ井町荷上場字茱萸ノ木167ほか
- 交通: JR二ツ井駅から北東に約3.7km/「二ツ井コミュニティバス」乗車「如来瀬(にょらいせ)」または「荷上場」等のバス停で下車後徒歩
参考文献
- 秋田県埋蔵文化財センター(2024)『秋田県文化財調査報告書533:茱萸ノ木遺跡』秋田県教育委員会
有田七田前遺跡 ― 2026年07月10日 00:05
有田七田前遺跡(ありた ななたまえ いせき)は福岡県福岡市早良区の有田遺跡群を構成する遺跡である。夜臼式土器・朝鮮無文土器・刻目突帯文土器・炭化米が共伴して出土したことで知られ、縄文時代晩期から弥生時代早期への文化的移行、弥生時代早期から前期における水稲農耕が伝播し定着する過程を考える上で重要な遺跡である。
概要
福岡県を流れ、室見川が形成した早良平野のほぼ中央部に位置する標高7.5mの遺跡である。更新世に形成された洪積台地の東南部に位置する。 有田七田前遺跡は、有田・小田部地区に広がる複合遺跡群「有田遺跡群」を構成する遺跡の一つである。 周囲の沖積低地より一段高い微高地に位置する。周辺には牟多田遺跡、鶴町遺跡など夜臼式土器を出土する遺跡が多い。沖積低地では刻目突帯文期の遺物が大量に出土している。旧河道が埋没して停滞水域となり、その中へ土器などの遺物が廃棄されたと考えられている。遺跡は主に福岡市教育委員会によって調査され、1970年から1980年代にかけて実施された発掘調査では、1985年調査を含め、旧河道や溝状遺構などが確認された。 有田七田前遺跡は、夜臼式土器・朝鮮無文土器・刻目突帯文土器が同一遺跡から確認され、さらに炭化米も出土したことから、、北部九州における縄文時代晩期から弥生時代早期への文化変容を検討する上で重要な遺跡と評価されている。
調査
縄文時代晩期を中心とする土器・石器・土製品が出土した。土器の大半は夜臼式土器である。甕形土器I類、甕形土器Ⅱ類、甕形土器Ⅲ類、甕形土器Ⅳ類が出土した。土製品には紡錘車と土錘がある。石器には石鏃・石斧・石包丁・打製石鎌・石槍・磨製石剣・石錘・磨石・砥石などがある。 縄文晩期の夜臼式土器の中から朝鮮半島系の無文土器(朝鮮無文土器)が検出された。夜臼式土器は北部九州の縄文時代晩期末から弥生時代早期を代表する土器型式である。縄文時代晩期から弥生時代への文化的移行や朝鮮半島との交流を考える上で重要な資料とされている。1985年の調査では遺構として河川・包含層・溝状遺構が検出され、刻目突帯文土器の時期の土器が出土した。磨製石包丁や炭化米なども出土しており、玄界灘沿岸地域における初期稲作文化の展開や弥生文化の成立過程を考える上で重要な資料を提供している。
有田七田前遺跡の重要性
多量の夜臼(ゆうす)式土器とともに、大陸系の石器(磨製石器や石庖丁など)が出土した。この組み合わせは、この地域で日本列島における本格的な水稲耕作が早い段階から開始されていた可能性を示す。弥生時代の環濠集落や日本最古級の絹が出土した甕棺墓などが発見された拠点でもある。さらに石器の中に未製品が多く含まれており、大陸系石器の「伝播」だけでなく、当時の人々が大陸系の石器製作の技術や文化を受け入れていたという複雑な様相を示している。多量の夜臼式土器と大陸系の磨製石器石器は初期稲作農耕文化の到来を物語っている。
遺構
- 川状遺構
- 溝状遺構
- 包含層
遺物
- 突帯文土器 - 夜臼式土器
- 甕形土器1類
- 甕形土器2類
- 甕形土器3類
- 甕形土器4類
- 鉢形土器2類
- 土製品
- 石鏃
- 石槍
- 石錐
- 石匙
- 石剣
- 石斧
- 柱状片刃石斧
- 蛤刃石斧
- 石包丁
- 屈曲甕
指定
アクセス等
- 名称:有田七田前遺跡
- 所在地:福岡県福岡市早良区有田字七田前
- 交通:福岡市地下鉄室見駅から徒歩32分
参考文献
- 福岡市教育委員会(1983)『福岡市埋蔵文化財調査報告書95:有田七田前遺跡』福岡市教育委員会
- 福岡市教育委員会(1996)『有田・小田部』福岡市埋蔵文化財調査報告書第471集,福岡市教育委員会
- 藤尾慎一郎(1987)「福岡市早良区有田七田前遺跡一九八五年度発掘調査」九州文化史研究所紀要 32,pp.73-126
サヌカイト ― 2026年07月07日 00:05
サヌカイト(さぬかいと)は高マグネシア安山岩に分類される火山岩で、古銅輝石を特徴的に含む。中新世中期の瀬戸内海地域における火山活動によって形成された瀬戸内火山岩帯を代表する高マグネシア安山岩の一種である。「讃岐岩」あるいは、叩くと金属音を発することから「カンカン石」とも呼ばれる。
概要
本岩は1890年代前半に来日したドイツ人地質学者エルンスト・ヴァインシェンク(Ernst Weinschenk)によって研究され、当初は Sanukit と表記されたが、その後、英語圏で一般的な岩石名の語尾 "-ite" に合わせて Sanukite が定着した。 サヌカイトは黒色で緻密かつ硬堅、斑晶が少なく、ガラス質で微晶質の均質な岩質を示す。貝殻状断口をもち、打撃によって鋭利な剥片を得やすいため、石器材料として優れている。 この特性から、主に縄文時代から弥生時代にかけて、石鏃・石刃・石包丁形石器などの石器材料として広く利用され、一部では旧石器時代にも利用例が知られる。 主な産地は香川県五色台地域(国分台・金山など)や、大阪府・奈良県境の二上山周辺、考古遺跡からは原産地を離れた地域でも出土し、広域的な流通・交易の存在を示す重要な資料となっている。
サヌカイトの考古学的意義
サヌカイト(讃岐岩)は、主に瀬戸内海沿岸の限られた地域で産出する火山岩であるが、考古学的にはその産地の限定性と、広域的な分布に考古学上の大きな特徴がある。特に縄文時代後期から弥生時代にかけて、石鏃・石刃・石包丁形石器などの主要石器材料として用いられ、原産地を大きく離れた地域の遺跡からも多数出土している。
サヌカイトは、黒色で緻密、均質な岩質をもち、貝殻状断口により鋭利な刃部を得やすい。このため、狩猟具や農耕具の刃材として極めて優れており、機能的価値の高さが遠距離搬送を可能にした重要な要因と考えられる。
主要な原産地は、香川県の五色台、大阪府・奈良県にまたがる二上山周辺、坂出市の金山・城山など、瀬戸内火山岩帯に限られる。しかし、これらの地域から数十から百数十キロメートル以上離れた畿内各地、近畿東部、さらには東海地方の遺跡においても、サヌカイト製石器が確認されている。この分布は、単なる局地的資源利用を超えた広域流通網の存在を示唆する。
流通形態については、未加工の原石や剥片の搬送だけでなく、半製品あるいは完成品としての移動も想定されている。特に弥生時代には、集落間の物資交換や首長層を介した配布の可能性が指摘され、サヌカイト製石器は単なる道具素材にとどまらず、地域間ネットワークを解明する重要な資料となる。
また、産地周辺では大規模な採取・加工の痕跡が確認される一方、消費地では完成品が多い傾向がみられることから、採取地→加工地→消費地の役割分担が成立していた可能性も論じられている。これは、縄文社会後期から弥生社会への移行期における、分業化や社会構造の変化を考える上でも重要な視点である。
このようにサヌカイトは、単なる優良な石器素材ではなく、人々の移動、交易、社会的結びつきを読み解く鍵となる考古資料であり、瀬戸内地域を核とした広域交流の実態を復元する上で、欠かすことのできない存在である。
サヌカイトと頁岩の判別実験
頁岩製石製品とサヌカイト製石製品とは肉眼観察では判別が難しい。和田岩坪遺跡の計測資料剥片5点(サヌカイト)、立野遺跡の計測資料は剥片など14 点(頁岩製9点、サヌカイト製1点、頁岩かサヌカイトの判別ができないもの3点、黒色を呈した頁岩でもサヌカイトでもない石材1点)の比重を調べ比較した。比重が2.55前後ならサヌカイト製、2.65前後なら頁岩製に判別できることが示された。しかし比重2.60 前後では比重だけで石材を判別するのは難しいことが判明した。石材は不純物の多寡や風化などによって比重が変わる場合もあり、現時点では肉眼観察による判別と合わせて総合的に判断することが必要と結論づけた。なおこの実験は、和田岩坪遺跡・立野遺跡だけの研究結果であり一般化に限界があることに注意しておきたい。
サヌカイト原産地遺跡の実態解明
橿原考古学研究所は2026年、奈良県香芝市の鶴峯荘第1地点遺跡の再調査成果として、丘陵斜面の崩落を契機に原石採掘が始まった可能性を報告した(朝日新聞、2026年6月24日)。
参考文献
- 朝日新聞「サヌカイト開発、斜面崩落がきっかけ?」2026年6月24日
- 田之上裕子・仲原知之(2026)「頁岩製とサヌカイト製石製品の比重による判別は可能か」交易財団法人和歌山県文化財センター年報
- 奈良国立博物館(2008)『正倉院展六十回のあゆみ』奈良国立博物館
- 薬科哲男、東村武信(1977)「蛍光X線分析法によるサヌカイト石器の原産地推定(Ⅲ)」考古学と自然科学 第10号
- 山口卓也(2004)「サヌカイト以前」関西大学博物館紀要 10,pp.A91-A99
石刀 ― 2026年07月06日 00:05
石刀(せきとう)は縄文時代後期から弥生時代に作られた片刃の石製の刀剣形の磨製石器である。
概要
両刃のものを石剣、片刃のものを石刀という。石刀は片刃の刀を模した形状を特徴とする。 祭器・石棒は刃部を持たない棒状の祭器である。石刀は武器として実用された痕跡は乏しく、祭りや儀式で使われた「祭器」、呪術具の一種と考えられている。 東日本に多く分布するが、近畿地方や瀬戸内地方など西日本でも出土例が知られている。 縄文時代晩期の土坑墓の中から副葬品(死者と一緒に埋められた品)として出土する例が多い。
亀ヶ岡石器時代遺跡出土の石刀は柄の部分に美しい彫刻(S字状入組文など)が施され、赤く着色(赤彩)された精巧な装飾が施された代表例として知られる。。 萪内遺跡(岩手県花巻市)で出土した石刀は、「萪内型石刀」と呼ばれる緩やかに湾曲した特徴的な形態を示す。
町田堀遺跡(鹿児島県霧島市)からは、刀身が湾曲し、頭部に独特の文様を刻み赤彩された石刀が出土している。さらに南九州では、天附遺跡群などから九州特有の石刀が出土しており、緩やかな湾曲や厚さ約5ミリメートルの薄い刀身、持ち手や先端部に刻まれた幾何学文様などを特徴とする。
出土例
- 石刀 - 岐阜県白川町佐見出土、縄文時代(後~晩期)、東京国立博物館
- 石刀 - 伝富山県中新川郡立山町岩峅寺字上ノ山出土、縄文時代、九州国立博物館
- 石刀 - 平田遺跡、三重県鈴鹿市、縄文時代晩期
参考文献
- 小林行雄(1937)「石包丁」『考古学』8巻7号
- 齋藤 岳, 平山 明寿(2022)「青森県外ヶ浜町中ノ平遺跡出土の石刀について」研究紀要、青森県埋蔵文化財調査センター
- 八幡一郎(1933)「石剣及石刀に就いて」『人類学雑誌』48巻7号
耳取遺跡 (新潟県) ― 2026年06月30日 00:05
耳取遺跡 (新潟県)(みみとりいせき)は新潟県見附市熱田町に所在する縄文時代を中心とする集落遺跡である。東山丘陵から派生する標高約76mの尾根上の平坦地に立地する国指定史跡である。
概要
明治初期の開墾時から土器・石器の出土が知られていた。1967年(昭和42年)には盗掘防止と遺跡保護を目的とした集落の時期や内容を確認する発掘調査が実施され、1987年(昭和62年)には民間開発計画との調整を図るための発掘調査が行われた。 これらの調査によって、耳取遺跡は約72,000平方メートルの広さであり、遺跡の時期は縄文時代草創期・前期・中期・後期・晩期から弥生時代前期にかけての遺構・遺物が確認されている。ただし縄文時代早期の遺構・遺物は確認されていない。
発掘調査
2011年(平成23年)から2014年(平成26年)までの4年間、見附市教育委員会による発掘調査が行われた。 縄文時代中期では直径3~8mの卵形の平面形をした12軒の竪穴建物跡とそれら建物に伴う炉跡が検出された。南西側が開く馬蹄形に並び、その範囲は南北60m、東西70mに広がっている。ヒスイ製大珠が2点出土した。ヒスイ製大珠として新潟県内最大級である。
縄文時代後期前葉の集落は丘陵の中央部から西側にかけて広がり,直径18mの中央広場を有する南北200m、東西118nの環状集落となる。集落の北端と東端及び中央広場から多数の人骨片が出土した。
後期後葉の集落は丘陵の東側に広がり,柱穴は直径約130cm、深さ1m以上に達し、その内部には直径約50cmの柱痕が確認された。これらの柱穴によって構成される亀甲形の掘立柱建物が検出された。建物として確認できたのは55棟である。出土遺物は三十稲葉式、大洞A式などの土器類、ヒスイの勾玉、石錘、石斧、石棒、石皿などの石器類、土偶および土製品である。 耳取遺跡から出土した遺物はみつけ伝承館で展示されている。 なお長崎県長崎市、熊本県人吉市、秋田県横手市にも同名の遺跡がある。
遺跡の重要性
縄文時代中期・後期前葉・後期後葉という三つの時期の集落構造の変遷を同一遺跡内で比較できる全国的にも貴重な事例とされている。大規模な開発等により破壊されずに良好な保存状態を残していることは重要である。 耳取遺跡は縄文集落の変遷や建築様式、集落構造の発展を知る上で重要な遺跡と評価されている。
指定
- 2015年10月7日 国指定史跡
展示
- みつけ伝承館
アクセス
- 名称:耳取遺跡
- 所在地:新潟県見附市耳取町字岩沢
- 交通: JR信越本線「見附駅」から徒歩58分(車20分)
参考文献
- 新潟県見附市教育委員会(2018)「史跡耳取遺跡保存活用計画」
元屋敷遺跡 (新潟県) ― 2026年06月29日 00:09
元屋敷遺跡 (新潟県)(もとやしきいせき)は新潟県村上市に所在する縄文時代後期から晩期の大規模な集落遺跡で、奥三面遺跡群を代表する遺跡の一つである。
概要
朝日連峰に源を発する三面川上流域の河岸段丘上、標高190~200mに位置しており、明治時代から土器や石器の採集地として知られていた。 県営奥三面ダムの建設に伴い、その水没範囲に所在する奥三面遺跡群の一つの遺跡である。昭和63年(1988年)から平成10年(1998年)まで奥三面ダム建設に伴う発掘調査が実施され、朝日村教育委員会が1991年(平成3年)から1993年(平成5年)および1996年(平成8年)から1998年(平成10年)に調査を担当した。調査面積は33,000㎡以上に及んだ。現在、遺跡はダム湖底に水没している。
発掘調査
縄文時代後期(約4,000年前)から晩期(約3,000年前)に形成された遺跡である。奥三面ダム建設に伴う発掘調査が実施された。南北に延びる人工的に造成された可能性が指摘されている流路によって居住域と墓域が区画されていた。 発掘調査により竪穴建物23棟、掘立柱建物62棟、配石土坑(配石墓)99基、土坑墓65基など多数の遺構が検出された。遺物では埋設土器204基のほか、土製品、石器、石製品、骨角器、漆製品、動植物遺存体などが出土した。
出土した動植物遺存体から、トチノミ・クルミ・クリなどの木の実を採集し、クマやカモシカの狩猟、マス・イワナ・コイなどの漁撈を行っていたことがうかがえる。磨製石斧未成品が13,000点以上出土したことから、石斧製作の拠点であったと考えられている。完成品は周辺地域へ供給された可能性が指摘されている。配石土坑(配石墓)は集落の儀礼や祭祀を行うエリアに設けられていた。墓域からは、縄文時代の祭祀や信仰を考えるうえで重要な土偶、石刀、石剣、岩版、土版などの貴重な遺物が多数出土している。 「縄文時代後期から晩期の生活や精神文化、広域交易を知るうえで学術的価値が高い」と評価され、出土品1,718点は、「元屋敷遺跡出土品」として平成27年(2015年)9月4日に国の重要文化財(考古資料)に指定された。 出土品は村上市「縄文の里・朝日 奥三面歴史交流館」で展示されている。
アクセス
- 名称:元屋敷遺跡
- 所在地:新潟県村上市三面字黒淵(三面ダムの湖底)
- 交通: (三面ダム)JR羽越本線「村上駅」村上市コミュニティバスあべっ車『縄文の里朝日線』に乗車し、「縄文の里朝日」または「発電所前」で下車徒歩20分
参考文献
- 加藤元康(2019)「潟県における配石墓の沈み込み事例の検討」公益財団法人 新潟県埋蔵文化財調査事業団,研究紀要第10号
南堀貝塚 ― 2026年06月25日 00:05
南堀貝塚(なんぼりかいづか)は神奈川県横浜市都筑区に所在する縄文時代前期の貝塚遺跡である。鶴見川流域を代表する縄文集落の一つとして知られ、1955年(昭和30年)の発掘調査では竪穴住居跡や貝塚が確認された。考古学者・和島誠一による縄文集落研究の代表的な調査例としても著名である。
概要
縄文時代の横浜市では、縄文海進により海が内陸に入り込み、鶴見川流域は湾口が広くて水深が浅いため干潟が発達し、貝類を採取しやすい環境にあった。鶴見川や早渕川の流域奥深くまで海水が入り込み、人々は貝を採り、貝殻を斜面などに捨てていた。発掘調査では、縄文時代前期の黒浜式期から諸磯a式期にかけての集落跡が検出された。鶴見川水系を代表する貝塚である。
和島誠一の縄文社会論
考古学者・和島誠一は、南堀貝塚の発掘成果をもとに縄文時代の集落構造を研究した。台地上に住居址が広場を囲む配置で並び、縄文時代前期中頃、土器型式では黒浜式から諸磯a式を中心とする。和島誠一(1958)は住居群の配置や出入口の方向、中央広場、共同の廃棄場所などに着目し、縄文集落の復元を試みた。この研究は戦後日本の縄文社会論に大きな影響を与えた。
調査
縄文時代の集落の在り方を調査するため1955年(昭和30年)、縄文時代の集落構造を解明する目的で発掘調査が実施された。調査では竪穴住居跡、落とし穴、炉穴、貯蔵穴、土壙、斜面貝層などの遺構が確認され、縄文土器、石器、動物骨、貝殻などが出土した。
遺構
- 落とし穴
- 炉穴
- 竪穴建物
- 土坑
- 落し穴 炉穴
- 竪穴住居址
- 土壙
- 斜面貝層
遺物
- 縄文土器
- 石器
- 貝
- 動物遺存体
指定
アクセス等
- 名称:南堀貝塚
- 所在地:神奈川県横浜市都筑区南山田3丁目40付近
- 交通:横浜市営地下鉄「北山田駅」から徒歩14分/1.0km
参考文献
- 横浜市埋蔵文化財センター(1990)『全遺跡調査概要』港北ニュータウン埋蔵文化財調査報告 10
- 横浜市ふるさと歴史財団埋蔵文化財センター(2008)『港北ニュータウン地域内埋蔵文化財調査報告40:南堀貝塚』横浜市教育委員会
- 和島誠一(1958)「南堀貝塚と原始集落」『横浜市史』資料編21
- 丹羽佑一(1978)「縄文時代中期における集落の空間構成と集団の諸関係」史林 61 (2),PP. 274-312
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