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上太寺東遺跡2026年09月20日 00:05

上太寺東遺跡(じょうだいじひがしいせき)は、埼玉県さいたま市中央区に所在する縄文時代および古墳時代の遺跡である。

概要

上太寺東遺跡は北浦和駅の北西800mの位置にある。 これまでに縄文時代の遺物として、「縄文土器」が出土している。 付近には同じ「上太寺」の名を冠する「上太寺遺跡」があるが、こちらは旧石器時代・縄文時代から中近世にかけての複合遺跡である。また中里前原遺跡、亀在家南遺跡も近隣に所在する。

調査

これまで第1次・第2次調査などが行われ、2025年にも発掘調査が実施された。第1次調査では縄文時代中期の住居跡と後期の住居跡が各1軒検出された。第2次調査では縄文時代中期と後期の土器が出土した。 令和7年度(2025年度)の第3次調査では、縄文時代後期の竪穴住居跡2軒が検出された。令和7年度調査の第1号住居は長径4.2m、短径2.6mである。縄文時代中期・後期の土器が出土している。第2号住居は長径5.2m、短径2.6mである。柄鏡形住居の特徴が見られる。

遺構

  • 竪穴住居跡

遺物

  • 堀之内1式土器

指定

時期

  • 縄文時代中期~後期

アクセス

  • 名称:上太寺東遺跡
  • 所在地:埼玉県さいたま市中央区新中里1丁目
  • 交 通:JR北浦和駅の北西800m

参考文献

  1. さいたま市(2020)『上太寺東遺跡(第2次)』さいたま市遺跡調査会報告書第206集
  2. さいたま市(2026)「さいたま市遺跡発掘調査成果発表会」上太寺東遺跡・中里前原北遺跡

クリブラ・オルビタリア2026年09月08日 00:05

クリブラ・オルビタリア(くりぶらおるびたりあ)は「眼窩上壁(眼窩の天井部分)に小孔や網目状の変化がみられる骨病変」であり、眼窩(目の奥のくぼみ)の上壁に網目状の小孔ができる骨病変である。 原因は成長期の貧血や栄養・感染などとの関連が指摘されてきたが、原因は単一ではなく、現在も議論がある。成長期に受けた生理的ストレスを検討する際の指標の一つとして利用されている。人骨集団における出現頻度を比較することで、過去の集団の健康状態や生活環境を考える手がかりとなる。

概要

クリブラ・オルビタリア(cribra orbitalia)は人類学や古病理学で「ストレス・マーカー」として使われている。特に子ども時代の慢性的な貧血や栄養不良が原因とされている。 縄文人の健康状態や食生活、生活環境を読み解く手がかりになるとされている。

縄文時代と弥生時代との比較

水田稲作(米作り)が始まり食料生産が安定する一方、、人口の集中や衛生環境の変化、偏った食生活による新たな健康ストレスが生じたとされる。弥生時代には水田稲作の普及など生活環境が大きく変化したが、クリブラ・オルビタリアの出現率は一様に増加したわけではなく、地域・集団による差が大きい。

Hirata(1990)は縄文時代から現代までの出現頻度を明らかにし、江戸庶民が最も高頻度であったと明らかにした。古賀英也(2003)は縄文時代から現代までの682個の頭蓋骨を調査した。成人で比較すると、縄文時代では出現率15.8%、弥生時代では10.5%(古浦、島根県松江市)から28.6%(広田遺跡、鹿児島県)、古墳時代では11.7%(横穴墓)から28.6%(墳丘墓)、中世人で10.5%(吉母浜遺跡、山口県下関市)、近世人で2.4%(天福寺遺跡、福岡県福岡市)から17.8%(原田遺跡、福岡県嘉麻市)、現代人で35.4%であった。 ばらつきはあるが、縄文人や弥生人の栄養状態が現代人より低いわけではないことが示された。少なくともクリブラ・オルビタリアの出現頻度だけから、縄文人の栄養状態が現代人より悪かったとは判断できない。

南西諸島の場合

土肥直美(2007)は石垣島出土人骨の骨考古学的調査を行い、中近世の人骨では、クリブラ・オルビタリアの出現率が47.1%(17例中8例)と比較的高い結果を得た。南西諸島は小さな島のため、自然条件の変化に対応する事が難しく、凶作が多かったためと想定されている。

江戸時代の比較

江戸市中の一橋高校遺跡では成人頭蓋 102体中37体(36.3%)にクリブラ・オルビタリアが観察されており,高い人口密度による衛生状態の劣悪さが要因として報告されている(Hirata K.(1988))。江戸や地方の都市・村落から出土する人骨の調査から、当時の子どもたちは厳しい生育環境にあったことが示されている。

参考文献

  1. 古賀英也(2003)「西南日本古代人のストレスマーカー(2)クリブラ・オルビタリアとエナメル質減形成,及びハリス線を含めた三種のストレスマーカーの関連性」Anthropological Science(Japanese Series)111(1),pp.51-67
  2. 土肥直美(2007)「南西諸島出土人骨の骨考古学的調査」学研究費補助金研究成果報告書
  3. Hirata K.(1988) A contribution to the paleopathology of Cribra orbitalia in Japanese. 1. Cribra orbitalia in Edo Japanese. TheSt. Marianna Medical Journal, 16:pp.6-24.
  4. Hirata K.(1990)Secular trend and age distribution of cribra orbitalia in Japanese,Human Evolution5,pp.375-385
  5. Hirata K. (1995) Regional differences on environmental circumstances in Edo period from palaeopathological point of view. Anthropological Science, Vol.103, p.205.

番後台遺跡2026年08月30日 00:05

番後台遺跡(ばんごだいいせき)は千葉県市原市の養老川中流域の高滝湖北岸の台地に所在する縄文時代中期から古墳時代にかけての遺構が確認されているが、特に弥生時代後期から古墳時代にかけて集落が発達した遺跡である。

概要

昭和51年度に千葉県教育委員会が実施した、県内各市町村埋蔵文化財分布調査で発見された遺跡である。養老川の蛇行により囲まれた約0.6km×0.75km程度の三角形状を呈する台地の東の最上部に位置する。現在の高滝湖の北岸にあたり、養老川が蛇行して形成した三角形状の台地上に位置する。養老川総合開発高滝ダム建設工事に際して発掘調査が行われた。発掘調査は昭和54年4月2日から同年12月27日までと、昭和55年3月1日から同年7月31日にかけて実施された。昭和54年4月2日から昭和54年6月27日までトレンチ発掘を行い、昭和54年6月28日から本調査に移行した。 竪穴住居跡は合計130基が見つかった。縄文時代中期の住居跡は1基、弥生時代中期は1基、弥生時代後期は29基、古墳時代は99基である。弥生時代後期には集落が形成され、古墳時代には住居跡99基が確認されるなど、集落が大きく展開した。墓の形式は、弥生時代の方形周溝墓(方形周溝遺構)2基が確認されている。被葬者は当時の有力者層であった可能性がある。 弥生時代後期の竪穴住居跡から板状鉄斧が出土した。東海地方以西に分布する櫛描文様をもつ土器が確認されており、西方地域との文化的交流や影響を示すものと考えられる。

遺物

縄文時代中期

竪穴住居跡1基は直径約4.8mの円形で、住居跡の中央部から、床面に密着した状態で深鉢土器が出土した。下部は失われているが上部は完形である。口縁部には横S字状に延びる沈線が見られる。器面には縄文や燃糸文を地文として施し、胴部には3本を1組とする縦方向の沈線と、その間に螺旋状の沈線文が施されている。

弥生時代

002A号住居跡は長軸10.9m、短軸9.5mの胴張隅丸方形で壺、甕、船刃石斧(長さ13.4cm 、刃幅6.7cm)、鉄製品(長さ6.8cm、刃幅3.0cm、厚さ5.5cm、重量71g)が採取された(千葉県文化財センター(1982))。 弥生時代後期の004号住居跡は約9.0 × 7.0 mの隅丸長方形で、土器、鉄器、板状鉄斧(長さ12.35cm、刃幅6.0cm 、重量272gをはかる)や磨製石斧などが出土した。

調査

アクセス等

  • 名称:番後台遺跡
  • 所在地:千葉県市原市養老字番後台北方
  • 交通:小湊鉄道「月崎駅」から約3km-4km

参考文献

  1. 千葉県文化財センター(1982)『市原市番後台遺跡・神明台遺跡』
  2. 千葉県企画部広報県民課(1983)『千葉県の歴史 資料編考古2』千葉県

寺山中丸遺跡2026年08月28日 00:17

寺山中丸遺跡(てらやまなかまるいせき)は神奈川県秦野市に所在する旧石器時代から近世にかけての複合遺跡である。縄文時代草創期の石器製作跡や落とし穴群が確認されたことで知られる。

概要

東の中丸沢と西の小蓑毛沢に挟まれた、西向きの緩斜面上に位置する。金目川の東側に面した標高約204m~207mの傾斜地である。1992年に秦野市による確認調査が行われ、2013年度に新東名高速道路の建設に伴う本格的な発掘調査が開始された。2014年度から2016年度に継続して追加のトレンチ・区画調査が実施された。 発掘調査面積は、公表資料によれば4,764平方メートルである。 発掘された土器や石器などの出土品の一部は、近隣の秦野市桜土手古墳展示館で展示される。

調査

旧石器時代

2013年調査では、縄文時代草創期に属する有舌尖頭器・槍先形尖頭器の石器製作跡と考えられる範囲を確認した。 翌2014年調査では石器や礫群を検出し、2015年調査で黒曜石の剥片や石器が出土した。

縄文時代

2013年調査で 縄文時代早期~後期の集石遺構や陥し穴状土坑、草創期の石器製作跡が検出された。金目川流域における縄文時代草創期の石器製作活動を示す重要な資料となった。草創期から後期にかけての土器・石器・土製品が出土した。このほか、竪穴住居跡2軒、集石16基、土坑97基(うち落とし穴26基)を検出した。縄文時代草創期の土器は隆起線文土器が出土している。 翌2014年調査では縄文時代中期の竪穴住居1軒、前期~後期に亘る集石遺構や陥し穴状土坑を検出した。 2015年調査では竪穴住居2軒、集石8ヵ所、土坑76基、ピット46基が発見された。

アクセス等

  • 名称:寺山中丸遺跡
  • 所在地:神奈川県秦野市寺山1094-3
  • 交通:小田急小田原線秦野駅から北に約3km

参考文献

  1. 神奈川考古学財団(2015)「平成27年度発掘調査成果発表会」

五番田遺跡2026年08月25日 00:05

五番田遺跡(ごばんだいせき)は、新潟市江南区茅野山に所在する縄文時代から弥生時代にかけての遺跡である。砂丘下の埋没地形から発見され、縄文時代前期から弥生時代にかけての遺構・遺物が確認されている。

概要

2021年の試掘調査で発見された。地表から約2.5~3.3m掘り下げた砂丘下層から遺構・遺物が発見された。まとまって出土した石や当時の地形が確認されている。縄文時代から弥生時代にかけての遺構と遺物が発見されている。 遺構は

  1. ①縄文時代の建物1棟及び弥生時代の建物1棟が発見されている。
  2. ②人為的に集められたと見られる石10数か所が見つかった。
  3. ③当時の川跡が確認されている。
  4. ④縄文土器がまとまって配置されたとみられる遺構がある。

川跡

川跡の確認により、縄文時代から弥生時代にかけての遺跡周辺の地形や、水辺と砂丘との位置関係を復元する手掛かりが得られた。川跡(特に水気が残る低湿地)は空気に触れにくいため、通常の土壌では腐って消えてしまう木製品や植物の種、骨などが腐らずにそのまま残ることがある。川跡に積もった土の層(地層)や、そこに含まれる火山灰・土器の破片を分析するにより、「何百年前に川が干上がったか」「いつ洪水が起きてルートが変わったのか」といった自然環境の変化を調べることができる。

土器

2,000年前の「弥生土器」

ほぼ原形を留めた形の土器が発掘されている。この時期には水稲農耕が各地に広がっており、弥生土器は煮炊きや貯蔵など、日常生活のさまざまな用途に用いられた。

2,900年前の「縄文土器」

川跡や砂丘の調査において、「きれいに敷き詰められた状態」や、地面に「上下逆に置かれた状態」で見つかった土器がある。縄文土器には集中して配置されたものや逆位の状態で検出されたものがあり、その配置状況は、土器が単に廃棄されたものではなく、何らかの意図をもって置かれた可能性を考える上で注目される。祭祀的行為との関連を示す可能性が指摘される。 他の可能性として、墓(埋設土器)としての利用で、亡くなった幼児や子供の遺骨、または胎盤などを土器に入れ、蓋をするように「逆さま」にして土に埋める風習(再葬墓や埋設土器)が当時の日本各地で見られたことである。

5,500年前の「縄文土器」(縄文時代前期)

五番田遺跡で確認されている最も古い段階の土器で、縄文時代前期から晩期、さらに弥生時代に至る各時期の遺物が確認されており、長期間にわたって砂丘とその周辺環境が繰り返し利用されていたことを示している。

利用形態

建物が少なく、恒常的な居住を示す痕跡が限定的であることから、五番田遺跡は大規模な定住集落ではなく、周辺の集落から人々が訪れて一時的・季節的に利用した場所であった可能性が考えられている。縄文時代の人が主に活動したと考えられる範囲がほぼ判明する成果があった。弥生時代前期の土器も出土し、この時期にも遺跡周辺が人々によって利用されていたことが明らかになった。

遺跡の特徴

五番田遺跡の大きな特徴は、「まとまって出た石」が非常に多く見つかっている点である。これらは縄文時代晩期(約2900年前)の遺物と推測されている。五番田遺跡では、石がまとまって検出された地点が10数か所確認されている。これらがどのような目的で集められたのかは、石材の種類や配置状況、周辺の遺構との関係を含めて検討する必要があるが、人為的な集積である可能性が注目されている。 砂丘の下に埋没していた縄文時代前期から弥生時代に至る複数時期の活動痕跡が確認され、建物跡、石の集積、川跡、土器の特徴的な出土状況などから、人々と砂丘・水辺環境との関係を考えることができる

調査

遺構

  • 縄文時代の建物
  • 弥生時代の建物
  • 集石遺構

遺物

  • 弥生土器
  • 縄文土器

指定

時期

アクセス

  • 名称:五番田遺跡
  • 所在地:新潟市江南区茅野山 (亀田総合体育館付近)(国道403号沿い)
  • 交 通:JR「亀田駅」西口からバス(江南区区バスまたは住民バス「カナリア号」)で「アスパーク亀田」下車 徒歩

参考文献

  1. 新潟市文化財センター(2025)「新潟市遺跡発掘調査説明会2025」

曽利式土器2026年07月27日 00:10

曽利式土器(そりしきどき)は縄文時代中期後半(約5,000~4,500年前)に中部高地を中心に発達した縄文土器の一型式である。

概要

勝坂式土器に続いて成立し、中部高地における縄文時代中期後半を代表する土器型式となった。代表的な特徴として(1)口縁部の肥厚帯(口縁部を厚く盛り上げる)、(2)炎や煙が立ち上るような曲線的な立体文様である水煙文(ダイナミックで流れるような曲線の立体的な装飾)、(3)渦巻文様(胴部の大きな渦巻文様)、がある。ただし時期差・地域差がある。 分布範囲は山梨県甲府盆地から八ヶ岳西南麓 または 八ヶ岳山麓、富士川下流域、伊豆地方、西関東(神奈川県・東京都西部・埼玉県西部)が主な分布域である。房総半島からも出土しており、中部高地との交流を示す資料と考えられている。 曽利式土器は、中部高地における縄文文化の成熟を示す土器型式であり、縄文時代中期の地域文化や交流を研究する上で重要な資料となっている。

長野県諏訪郡富士見町に所在する曽利遺跡が標識遺跡であり、その名称の由来となった。曽利遺跡は、縄文時代中期の代表的な大集落跡である。2025年に国史跡「井戸尻遺跡」に追加指定され、「史跡井戸尻遺跡群」を構成する遺跡となった。

編年

主にⅠからⅤの5期に細分化されている。曽利Ⅰ・Ⅱ式(縄文時代中期中葉から後葉)は前身である井戸尻式の系統を引き継ぐ。Ⅰ式は流麗な水煙文や浮線文(ふせんもん)、従位条線地文を特徴とする。Ⅱ式では胴部に重弧文や波状文が描かれ、この時期に関東地方に拡散した。 曽利Ⅲ式(中期後葉前半)は関東の加曽利EⅡ式などと並行する。沈線で区画された中に矢羽根状沈線文などを充填する。曽利Ⅳ式(中期後葉後半)は関東の加曽利EⅢからⅣ式と並行する。器形は「キャリパー形」と呼ばれる胴部が張り出した特徴的な形になり、文様が徐々に退化・省略される傾向がある。曽利Ⅴ式(中期末?後期初頭)は曽利式の終末段階であり、関東の加曽利EⅣ式や称名寺式などへ移行する過渡期の土器群である。

郵便はがき料額印面での採用

曽利式土器は考古学上の価値だけでなく広く知られ、1972年(昭和47年)には郵便はがきの料額印面の意匠にも採用された。1963年にはフランス・パリのセルヌスキ美術館で開催された「日本古美術展」に出品され、日本の縄文美術を代表する作品として海外でも紹介された。1972年には、その芸術性が評価され、郵便はがきの料額印面の意匠にも採用された。

学術的意義

曽利式土器の学術的意義は、高度な造形技術による水煙文の芸術性だけでなく、当時の地域間交流や社会構造を解明する指標となる点にある。曽利式土器の最大の特徴の一つに、胴部や口縁部に施される複雑な「渦巻文」「重弧文(じゅうこもん)」「斜行文」などがある。これら独自の文様や土器の製作技術は、中部高地から関東地方や東海地方などの周辺地域へと広範囲に拡散した。異なる地域社会の間で、どのように土器のスタイルや情報が共有・受容されたのか、あるいは地域ごとの独自色とどう融合したのか、人や物資の移動や社会関係を追跡するための重要な基準(指標)となる。曽利式の変遷の基準は、関東地方の加曽利E式など周辺地域の土器編年(土器編年の基準)を組み立てる上での重要な基準資料として機能する。

出土

  • 曽利遺跡

展示

  • 井戸尻考古館

参考文献

  1. 櫛原功一(2014)「曽利式土器編年の再検討」『山梨考古学論集. 7』山梨県考古学協会
  2. 神奈川考古同人会編(1981)「曽利式土器編年の現状と課題」『神奈川考古11』神奈川考古同人会

縄文時代の炉2026年07月26日 00:05

縄文時代の炉(じょうもんじだいのろ)は縄文時代に火を用いるために設けられた施設であり、竪穴住居内や屋外に設けられた。

概要

縄文時代には竪穴住居の重要な施設として炉が発達し、その後の弥生時代・古墳時代にも継続して用いられた。縄文時代の竪穴住居の多くには炉が設けられた。 縄文時代草創期から早期には屋外炉が多く見られる地域があるが、住居内に炉を設けた例も確認されている。縄文時代の早期後半以降になると住居内に炉を設ける例が増え、中期には一般的な構造となった。縄文時代の炉には円形・楕円形・方形などさまざまな平面形がみられる。

弥生時代にも地床炉や石囲炉、土器埋設炉などさまざまな形式が用いられ、古墳時代になると竈(かまど)が普及していく。発掘調査では焼土や炭・灰、焼けた石などが検出され、これを「炉跡」として認識する。炉は住居中央付近に設けられる例が多いが、時期や地域によって入口寄りに配置されるものもあり、住居構造や生活様式を知る重要な手掛かりとなる。 炉跡は住居跡を認定する際の重要な遺構であり、炭化物や焼土の分析から当時の食生活、燃料、居住形態などを復元するための重要な資料となっている。

炉は住居の中心的施設であるため、その位置や構造は住居の年代や地域性を知る重要な指標となる。また、炉跡から出土する炭化種子や獣骨・魚骨などの分析によって、縄文人の食生活や燃料利用、居住環境を復元する研究が進められている。

炉の役割

炉は家族が集まる生活の中心でもあり、調理や暖房だけでなく、木の実の乾燥、土器の補修、祭祀などにも利用されたと考えられている。炉で食事を作り(調理)、家の中を明るくし(照明)、寒い時期には暖房の役割もあった。

炉の種類

炉の種類には、(1)地床炉、(2)石囲炉、(3)煙道付炉穴、(4)複式炉がある。

地床炉

地面を浅く掘っただけの炉である。

石囲炉

炉の周りを河原石などで囲んだもの。

煙道付炉穴

地面に深く穴を掘り、空気を取り入れて燃焼効率を高めるための煙道を備える炉である。

複式炉

複式炉は、土器を埋設した炉と石組部を組み合わせた縄文時代後期を代表する炉である。煮炊きや火力調整を効率的に行える構造で、東日本を中心に確認されている。複式炉は東北地方から関東地方を中心に分布し、縄文時代後期から晩期にかけて多くみられる。

炉の変遷

一般的な縄文時代の炉の変遷は次のとおりである。(地域により異なる)

  1. 草創期:屋外炉が多い。
  2. 早期:住居内炉が出現する。
  3. 前期:地床炉・石囲炉が現れる。
  4. 中期:石囲炉が普及する。
  5. 後期:複式炉が発達する。
  6. 晩期:地域ごとの特色が顕著となる。

参考文献

  1. 吉川昌伸・吉川純子(2005)「縄文時代中・後期の環境変化」日本考古学協会福島大会
  2. 中尾真琴(2021)「煙道付炉穴について」京都府埋蔵文化財論集