物部太媛 ― 2025年04月01日 00:20
物部太媛(もののべ の ふとひめ, -587年(用明2年)8月2日)は飛鳥時代の豪族の女性である。父は物部尾輿であり、母は阿佐姫。「物部布都姫」、「御井夫人」、「石上夫人」とも呼ばれる。
概要
『日本書紀』では蘇我大臣(蘇我馬子)の妻は物部守屋の妹と書かれている(崇峻即位前秋七月条)。『日本書紀』は名前を特定していないので、この記載では物部太媛が蘇我馬子の妻であったかかは分からない。 『紀氏家牒』には蘇我大臣の妻は物部守屋の妹で名は太媛と書かれている。物部守屋の滅亡後は石上神宮の斎神の頭になったとされる。当時の女性は結婚しても、姓は変わらず、「物部」を名乗っていた。 『先代旧事本紀』 巻第五 天孫本紀では、物部太媛は物部贄子の妻とする。 『先代旧事本紀』「天孫本紀」に「此の夫人、倉梯宮御宇天皇(崇峻天皇)の御世、立ちて夫人と為る。亦朝の政に参て、神宮を斎き奉る」と記され、崇峻天皇の時代に神職の重職について国政にも参画したと記される。『石上振神宮略抄』『紀氏家牒』にも蘇我蝦夷の母親は守屋の妹の「太媛」とされている。
呼び方
史料間にかなりの食い違いが見られ、『先代旧事本紀』「天孫本紀」には布都姫夫人と書かれており、配偶者は異母兄弟の物部贄子となっている。子が4名いて、一人は蘇我馬子の妻となる鎌足姫(鎌姫)大刀自であるとされている。
考察
日本書紀に蘇我馬子が妻の計略を用いて物部守屋を殺したと書かれる(崇峻年七月条)。どのような計略かは分からない。石上神宮の斎主になったり、政治にも関与したことがあるならば、同時代での評価はどうであったろうか。『日本書紀』『紀氏家牒』が蘇我馬子の妻が物部系として、太媛を示唆する。さらに『神主布留宿禰系譜』は、「蝦夷の母は物部弓削連(守屋)の妹の太姫で、蝦夷が弓削連死亡後に祭首を補佐した」と書かれる。『先代旧事本紀』の記載だけが崇峻の夫人であったと書くので、それを除けば各史料は一致する。よって、蘇我馬子の妻が物部太媛で、物部守屋の妹と解釈するのが妥当と思える。
史料
- (『日本書紀』原文) 時人相謂曰「蘇我大臣之妻、是物部守屋大連之妹也。大臣妄用妻計而殺大連矣。」
- (『紀氏家牒』原文) 馬子宿祢男、蝦夷宿祢家、葛城県豊浦里。故名曰二豊浦大臣一。亦家多貯二兵器一、俗云二武蔵大臣一。母物部守屋大連亦曰二弓削大連一。之妹、名云二太媛一也。守屋大連家亡之後、太媛為二石上神宮斎神之頭一。
- (『先代旧事本紀』「天孫本紀」)「字は御井夫人。亦は石上夫人と云ふ。此の夫人、崇峻天皇の御世、立ちて夫人と為る。亦朝の政に参て、神宮を斎き奉る。」
参考文献
- 太田亮(1942)『姓氏家系大辞典』磯部甲陽堂
- 坂本太郎, 井上光貞,家永三郎,大野晋(1994)『日本書紀』岩波書店
- 田中卓(1986)『田中卓著作集 2 』(日本国家の成立と諸氏族) ,国書刊行会
常陸大宮市歴史民俗資料館 ― 2025年04月01日 00:40
常陸大宮市歴史民俗資料館(ひたちおおみやしれきしみんぞくしりょうかん)は茨城県常陸大宮市にある歴史系博物館である。大宮館と山方館とがある。
概要
常陸大宮市内には判明しているだけで約360の遺跡がある。旧石器時代の山方遺跡や梶巾遺跡は特に有名である。常陸大宮市歴史民俗資料館では市内で発掘された土器、石器、埴輪、直刀など150点を展示する。旧石器時代、縄文時代、弥生時代では石器(石斧・やじり・ナイフ・石棒・おもり)、縄文土器として甕・浅鉢、深鉢、弥生土器として人面付土器・壺・甕・高坏、土偶、ヒスイの珠・コハクの珠・土製イヤリングなどのアクセサリー、紡錘車などがある。古墳時代では埴輪、鉄剣、鉄鏃、水晶の玉・ガラス玉・コハク玉)、土師器坏、提瓶などがある。太田町役場から民俗資料館としてリニューアルオープンして、2014年に開館した。
主な収蔵品
- 硬玉(ヒスイ)製大珠 坪井上遺跡出土、茨城県
- 人面付壺形土器 泉坂下遺跡出土品、茨城県 、重要文化財
- 鉢形土器 泉坂下遺跡220号土坑、茨城県、弥生時代
- 蓋 泉坂下遺跡220号土坑
指定
アクセス等
- 正式名称: 常陸大宮市歴史民俗資料館
- 開館時間 : 午前9時~午後4時30分
- 入館料 : 無料
- 休館日 :月曜日、祝祭日、年末・年始(12月29日~1月3日)
- 所在地 : 〒319-2265 茨城県常陸大宮市中富町1087-14
- 交通 :JR水郡線常陸大宮駅 徒歩 5分
旧練兵場遺跡 ― 2025年04月02日 00:06
旧練兵場遺跡(きゅうれんぺいいじょういせき)は香川県善通寺市仙遊町を中心とする縄文時代後期から中世にいたる複合遺跡である。かって「旧練兵場遺跡」、「善通寺西遺跡」、「仙遊遺跡」、「彼ノ宗遺跡」、「仲村廃寺」などの遺跡名で呼ばれていた。
概要
旧練兵場遺跡は,丸亀平野の南西部にある。香川県で最大級の規模と内容を有する弥生時代の集落遺跡である。東西約1km、南北約0.5km範囲にある。集落規模は45万m2に及び、吉野ヶ里遺跡にも匹敵する。 笹川龍一(1988)は彼ノ宗遺跡の調査成果から、善通寺市付近で弥生時代後期前後に住居Ⅲ跡廃絶時に銅鏡片、土玉、ガラス玉、管玉などを用いた祭祀が行われた可能性を示唆した。 また他地域から持ち込まれた土器が出土している、土佐、豊後、筑前、河内、阿波の土器もあるが、特に瀬戸内海沿岸(吉備、防長、伊予、安芸)の土器が多い。 弥生時代から古墳時代まで同じ場所で長期に継続して集落が営まれたため、その間の社会の変化を検討できる遺跡である。銅鏃は約80本が出土し、全国最多である。
調査
旧日本陸軍善通寺練兵場用地が戦後開発された際に確認された遺跡である。周辺の遺跡には弥生時代前期段階として甲山北・乾e永井e稲木の各遺跡で土器が出土し、また五条遺跡・中ノ池遺跡では大規模な環濠を伴う集落遺構が確認されている。弥生時代後期段階になると,遺跡の数や規模が大型化し,平成7年度の本遺跡内での発掘調査からも40棟を超える竪穴住居跡が確認されている。1997年調査では弥生時代中期後半頃から後期終末頃までに埋没した竪穴住居跡15基、掘立柱建物跡3棟,土器棺墓2基以外に,相当数の柱穴跡が重複する状態で検出された。 弥生時代中期末から後期初頭では、竪穴住居1 棟、掘立柱建物6 棟が検出された。このうち、掘立柱建物800 は柱の間隔が450 cmを測る1 間×1 間の大型建物です。 掘立柱建物跡の柱穴は大型であり、高層の建物跡の可能性が指摘された。
記号土器
旧練兵場追跡では、今回の調査で記号土器が4点出土した。香川県下の絵画・記号土器資料は15遺跡54点が知られている。前田東・中村遺跡、久米池南遺跡、太田下・須川遺跡、空港跡地遺跡、上天神遺跡、大空遺跡、などである。住居を建てる際に、後世の地鎮めのように意識的に埋置した可能性が考えられている。叉形記号は水鳥の絵画が記号化した土器もある。
遺構
- 竪穴建物
- 掘立柱建物
- 柱穴
- 土坑
- 溝
- 河川
遺物
- 弥生土器
- 土師器
- 須恵器
- 石器
- 磨製石庖丁
- 石杵
- 石臼
- 小玉
- 臼玉
- 管玉
- 勾玉
- 土玉
- 銅鏃
- 耳環
- 鉄釘
- 鉄鎌
- 把手付鉢
- 銭貨(銅銭)
- 支脚
- 匙形土製品
- 船形土製品
- 把手付鉢
- ミニチュア鉢
展示
- 高知県立埋蔵文化財センター蔵
指定
所在地等
- 名称: 旧練兵場遺跡
- 所在地:香川県善通寺市仙遊町
- 交通:
参考文献
- 香川県教育委員会(1997)「旧練兵場遺跡」
- 善通寺市(2001)「旧練兵場遺跡」市営西仙遊町住宅建設に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書
- 笹川龍一(1988)『九頭神遺跡発掘調査報告書』 九頭神遺跡発掘調査団・善通寺市教育委員会
大神神社 ― 2025年04月03日 00:42
大神神社(おおみわじんじゃ)は、奈良県桜井市に鎮座する神社である。日本最古の神社の一つと言われる。別名は「三輪明神」「大神大物主神社」である。地元では「三輪さん」と呼ばれる。
概要
一説に日本で最古の神社とされる。三輪山を御神体としており、本殿はなく拝殿だけがあり、拝殿奥の三ツ鳥居を通して三輪山を拝む。ご利益は人間生活全般の守護神とされ、縁結びもあるとされる。拝殿・三ツ鳥居は重要文化財であり、三つ鳥居は明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式である。 祭神は大物主大神。JR三輪駅から参道が続く。
由来
ヤマト朝廷は桜井市の纒向遺跡から始まったとされており、その人々が「国魂」として祀ったのが大神神社である。三輪山の祭祀の全盛時代は3世紀から4世紀であった。5世紀になると司祭者として軍事的指導者の役割が求められるようになり、リーダーは実力制となり、大王家の内紛が続いた。6世紀になると政治安定のため、天照大神を中心とする新たな信仰が作られた。大神神社は王権から距離ができ、国神とされて、高天原の天神より下位に位置づけられた。大三輪氏は三輪山の神の祭司として、疫病の神と位置づけを変更した。古代の大和朝廷では、疫病を避ける鎮花祭と三枝祭が執り行われた。
登拝
三輪の「登山」は「登拝」という。ご神体の「三輪山」は江戸時代まで「お留山(おとめやま)」とされ一般の人は入山できなかった。登山が可能となったのは明治時代からである。現在は入山登拝禁止日以外は「午前9時から正午まで(午前中)」「登拝」を受け付ける。
社伝
社伝によれば神体山三輪山の上に奥津盤座があり、ここに大物主の神が鎮座するという。中腹の中津盤座に大己貴の神が鎮座し、下の方の辺津盤座に少彦名の神が鎮座するとされる。大己貴の神は三諸の山に鎮座するとされ、すなわち三輪の大神とされる。
万葉集
- 味酒を 三輪の祝が 忌ふ杉 手觸し罪か 君に逢ひ難き
古事記
古事記に大物主大神と活玉依毘売の神婚譚が記載される。美しい乙女の活玉依毘売のもとに夜になると麗しい若者が訪ね、恋に落ち姫は身ごもる。姫の両親は若者を怪しみ、若者が訪ねてきた時に赤土を床にまき、糸巻きの麻糸を針に通して若者の衣の裾に刺すよう教えた。翌朝には糸は鍵穴を出て、糸を辿ると三輪山に着いた。これによって若者の正体は大物主大神と判明した。
- 三嶋湟咋之女・名勢夜陀多良比賣、其容姿麗美。故、美和之大物主神見感而、其美人爲大便之時、化丹塗矢、自其爲大便之溝流下、突其美人之富登。(古事記 中-1 神武天皇記~開化天皇記)
- (原文)此天皇之御世、伇病多起、人民死爲盡。爾天皇愁歎而、坐神牀之夜、大物主大神、顯於御夢曰「是者我之御心。故以意富多多泥古而、令祭我御前者、神氣不起、國安平。」是以、驛使班 于四方、求謂意富多多泥古人之時、於河內之美努村、見得其人貢進。(崇神天皇)
日本書記
日本書記崇神紀七年二月条に三輪の神が倭迹迹日百襲姫命に憑るといい、大物主の子大田田根子に祭らせたという。タタはタタス、 すなわち神の降臨、 顕現をいう。
- (原文 巻第九 神功皇后九年秋九月)秋九月庚午朔己卯、令諸國、集船舶練兵甲、時軍卒難集、皇后曰「必神心焉。」則立大三輪社以奉刀矛矣、軍衆自聚。
- (大意)兵が集まらなかったときこれは「神の御心」として、大神神社に刀と矛を奉納したところ兵士が集まった。
そうめんの本場
三輪は日本三大そうめんのひとつである、三輪そうめんで知られる。大神神社の参道にはそうめん店が多数ある。毎年2月5日にその年の素麺相場をご神前で占う神事『卜定祭(ぼくじょうさい)』が執り行われる。
アクセス等
- 所在地:〒633-8538 奈良県桜井市三輪1422 大神神社
- 拝観料:無料 ※宝物収蔵庫は有料(大人200円 高校生以下100円)
- 交 通:JR桜井線(万葉まほろば線)三輪駅から徒歩5分
- リンク: 大神神社
参考文献
- 江上波夫(1993)『日本古代史辞典』大和書房
- 八田幸雄(1991)「室生、長谷、大神神社の神仏習合の源流」智山学報40 (0), pp.53-67
- 『日本書紀』(日本古典文学大系67)岩波書店,p.239
五斗長垣内遺跡 ― 2025年04月03日 00:44
五斗長垣内遺跡(ごっさかいといせき)は弥生時代後期に鉄器づくりを行っていた集落遺跡である。
概要
淡路島北部の西側斜面、海岸より3km、標高200mの丘陵上に位置する。弥生時代後期(1世紀から2世紀)の鍛冶遺跡が中心となる遺跡である。発掘調査では竪穴建物が23棟みつかり、うち12棟で鍛冶炉が確認されている。 五斗長垣内遺跡は弥生時代後期初頭に突然出現した遺跡である。当初は石器作りを行っていたが、1世紀後半に直径約10mの大型竪穴建物が作られ、その中で鉄器生産が始められた。炉で熱した鉄素材を台石に載せ、敲石で伸ばし、裁断を行い、先を砥石で仕上げて鉄鏃などを作った。 大型竪穴建物に複数の炉が作られ、周囲に細かい炭が広がる。台石や敲石(幅8.1cm)などの鍛冶道具が出土した。台石や敲石は使用により表面が潰れた状態でみつかった。高温の熱にさらされて(熱した鉄を叩いた)煤がついて変色しており、鍛冶に使われたことを証明する。弥生時代の掘立柱建物は4棟が見つかった。いずれも梁行1間、桁行2間のSB-204は2.76m×2.49mの規模である。SB-203は梁行1間、桁行4間で、2.77m×5.21mの規模である。柱穴は小規模で直径平均25cm、深さ33cmである。
調査
2007年度から2008年度、水田整備に伴う発掘で計23棟の建物跡が⾒つかった。うち12棟で鉄鍛冶の炉跡や台石、敲石などの道具類、鉄の矢尻、鉄の破片といった遺構や遺物を発見した。大きな板状鉄斧は朝鮮半島から持ち込まれた(輸入した)物とみられ、折れた鉄斧の刃先と共に、大型竪穴建物の壁付近で発見された。SH-302竪穴建物は円形の竪穴建物跡で、少なくとも3回程度の建て直しがあるが、10本柱の時期は直径10.5mである。炉跡は中央付近に10個所ある。鉄製品は19点が出土した。
遺構
- 竪穴建物跡23棟
- 掘立柱建物4
- 溝
- 土坑
- 鍛冶関連遺跡
遺物
- 弥生土器(壺+甕+鉢+高杯+器台+絵画土器+小型土器)
- 石器(敲石+砥石+台石+サヌカイト製石鏃)
- 鉄器(板状鉄斧+鉄鏃+板状鉄+棒状鉄)
- 鉄製品
- 敲石、
- 砥石
- 敲石 ベンガラが付着する
指定
- 平成24年9月19日 国史跡
展示
- 五斗長垣内遺跡活用拠点施設
考察
邪馬台国畿内説では弥生時代末期の近畿で鉄器が出土しないことが難点とされてきたが、五斗長垣内遺跡の発見により難点ではなくなった。淡路島では五斗長垣内遺跡や舟木遺跡などの鉄器生産工房跡が発見されており、弥生時代後期の近畿圏の鉄器生産基地であったと見られる。淡路島が西日本屈指の鉄器生産地であったことが明らかになった。 同じ弥生時代の鉄器生産は舟木遺跡(淡路市)でも行われていた。 五斗長垣内遺跡のあったのは倭国乱の時期である。五斗長垣内遺跡で作られた鉄鏃は倭国乱の戦いでも使われたかもしれない。
指定
- 平成24年9月19日 国指定 史跡名勝天然記念物
所在地等
名称:五斗長垣内遺跡
- 所在地:兵庫県淡路市黒谷1395-3
- 交通: JR神戸線快速「舞子」から(高速バス淡路交通・舞子・福良線「福良行」50分)「北淡IC」下車から徒歩45分
参考文献
- 淡路市教育委員会(2011)「五斗長垣内遺跡発掘調査報告」
縄文時代の漆 ― 2025年04月05日 00:04
縄文時代の漆(じょうもんじだいのうるし)はウルシの木の樹皮に傷をつけて樹液を採取し、漆液を作り塗料や接着剤としたものである。
概要
漆の木は日本、中国、朝鮮半島にあるウルシ科ウルシ属の落葉高木である。 日本では縄文時代から漆を利用している。縄文時代の漆器は青森県是川遺跡や埼玉県真福寺貝塚における発掘調査によって1920 年代から知られていた(能城修一・吉川昌伸・佐々木由香(2021))。継続的に居住が続いた縄文時代の集落の周辺においてウルシ林が維持され、漆液を採取し、漆液を用いて漆器を製作していたことが明らかにされた。
漆器が出土する遺跡
古くは上久津呂中屋遺跡(富山県)、三引遺跡(石川県)から約7500年から7200年前の 漆塗りの櫛の破片が発見された。三内丸山遺跡からは漆塗りの赤い木皿や赤色顔料発見され、約5500年前のものとされる。縄文時代の漆器の出土状況から、本州の中央部から東北 部では普通にウルシ林が維持されていたと見られる。縄文時代前期の青森県岩渡小谷遺跡縄文時代中期から晩期の東京都下宅部遺跡から漆器の製作とともに、多数のウルシの木材が低地の遺構の構築や容器の製作に使われていた(同前)。下宅部遺跡における漆工作業は堀之内1 式期に始まり,縄文時代晩期初頭にはほぼ終息した(千葉敏朗(2021))。 関東地方ではデーノタメ遺跡(埼玉県)があり、漆塗り土器が出土している。集落でウルシの木を栽培し、管理していたとみられる。ウルシの痕跡は花粉、木材、漆製品、ウルシのパレットで確認されている。現在、ウルシの木の苗木は、岩手、福島、茨城で育成されている。日本一の漆の木の産地は岩手県である。
漆の木材
ウルシの木材は縄文時代草創期に福井県西部の鳥浜貝塚で出土しているが、縄文前期には東北地方の4遺跡、中期には関東地方と北陸地方の6 遺跡、後・晩期には本州中部から東北地方の18 遺跡で確認されている(能城修一・吉川昌伸・佐々木由香(2021))。短期間に使われた集落遺跡では、ウルシ資源の維持はできなかった。下宅部遺跡ではウルシは22 年生の個体が検出されている。ウルシは風通しを良好に保たないとと弱って枯れてしまうため,木が生長して大きくなるにつれ,隣接木との間隔を確保するために人手で間伐を行なう必要がある。下宅部遺跡からは木杭として70本の漆の木が出土した。このうち43本に杭を一周する掻き傷が確認された。下宅部遺跡のウルシ樹液採取の傷を持つ杭は縄文人がウルシ林を意図的に維持管理していた証拠となる。
発祥地
漆器は中国発祥であり(ウルシの原産地は中国の揚子江中・上流域から東北部とされていた)、漆技術は漆の木と共に大陸から日本へ伝わったと考えられていた(山崎敬(1989))。ところが北海道函館市南茅部地区の垣ノ島B遺跡から出土した漆の装飾品6点は米国における放射性炭素年代測定により7400年前の中国の漆器を大幅に遡る約9000年前(縄文時代早期前半)と判明した。
考察
ウルシの木が栽培されていたデーノタメ遺跡では現在、ウルシの木が見られないことから、人手がなければウルシの木を維持できないことは明らかである。ウルシの木は他の樹木よりも生長が遅いので、他の樹木との生育競争で負けてしまい生育できない。維持するには人手が必要である。ウルシの木は埼玉県では自生していないことから、埼玉県の縄文人はウルシの木をどこから手に入れたのであろうか。
参考文献
- 能城修一・吉川昌伸・佐々木由香(2021)「縄文時代の日本列島におけるウルシとクリの植栽と利用」
- 山崎敬(1989)「ウルシ科.『日本の野生植物 木本II』(佐竹義輔・原 寛・亘理俊次・冨成忠夫編)pp.4-6,平凡社,
- 坪井睦美(2001)「遺跡速報 垣ノ島B遺跡の漆製品」考古学ジャーナル (479) (臨増) p.29
- 千葉敏朗(2021)「下宅部遺跡から見た縄文時代の漆工技術」
唐古・鍵遺跡 ― 2025年04月05日 14:28
唐古・鍵遺跡(からこかぎいせき)は奈良県磯城郡田原本町に所在する弥生時代の集落遺跡である。弥生時代においては、日本最大級の集落であった。
概要
唐古・鍵遺跡は奈良盆地の中央部にあり、寺川と初瀬川の間の標高47mから49mの沖積地に立地する遺跡である。弥生時代の拠点集落の一つである。拠点集落の中で、その実態が最も解明されているのが唐古・鍵遺跡である。弥生時代前半から古墳時代前半までの長い期間に渡る集落である。7世紀には藤原京から平城京へとつながる大動脈の下ツ道が脇に通り、中世・近世にはそれを中街道と呼んだ。
発掘調査の歴史
1936年・19377年、国道敷設用採土に伴い唐古池底の調査がおこなわれた。この時に出土した土器や木製品等は弥生時代の総合的な認識をもたらし、畿内の土器編年の枠組みの基礎となった。その後、発掘調査は1977年に再開され、2015年9月までに116次に達した。
主な調査
最初の報告は高橋健自による遺跡調査である。1901年の論文「大和考古雑録」で「磯城郡川東村大字鍵の遺跡」として紹介した(高橋健自(1901))。その後、飯田恒男・飯田松次郎親子は唐古池を中心とする遺物採取を行い、自費出版で『大和唐古石器時代遺物図集』を刊行した(飯田恒男・飯田恒男編(1929))。第一次学術調査は国道15号線(現在の24号線)建設に伴う唐古池の土取り工事と併行して1936年暮れから始まった唐古池調査であった。1943年に刊行された『大和唐古弥生式遺跡の研究』は日本の弥生時代研究の大きな成果となった(京都帝国大学文学部考古学教室編(1943))。出土品は木製農具など類例が少ないものであり、弥生時代を総合的に把握するために重要な役割を果たした。唐古池の発掘により、弥生式土器の様式が確立された。調査を担当した末永雅夫による「唐古池発掘日誌」に調査の様子が詳しく語られている(末永雅雄(1937))。
唐古・鍵遺跡発掘の歴史
学術調査
弥生集落の変遷
発掘調査により判明した弥生集落の変遷を時代順に概説する。
第一段階 - 弥生集落の成立(弥生時代前期)
小高い所を選んで人が住むようになった。遺跡の北部、西部、南部の3ヶ所の微高地にムラが形成された。周辺は湿地が広がるため、中洲状が想定されている。弥生式土器で最も古い段階の「大和第Ⅰ-1-a様式」とともに、ごくわずかの縄文式土器も検出された。縄文人と弥生人の棲み分け論の根拠である。藤田三郎は縄文晩期から徐々に変化したというより、新たに稲作技術を持った人々が唐古・鍵の地を開拓したと見る(参考文献5,p48)。集落の成立初期には環濠はなかったようである。
第二段階 - 弥生集落の分立(弥生時代中期初頭)
3ヶ所に形成されてきた居住区が、それぞれ周りに溝を巡らせて「環濠集落」となる。西側地区では総柱の大型建物が建築された。梁行き2間(7m)、桁行き5間以上(11.4m以上)の南北に長い建物である。床面積は80m2。炭素14年代測定では北東隅の倒れていた柱は紀元前3から4世紀と推定されるが、立っていた2本のケヤキ柱は下っても紀元前5世紀までとされた。小溝から検出された土器を検証し、前後関係を整理すると、弥生時代中期初頭に建築され、大和第Ⅱ-3様式には解体されたと理解され、倒れていた柱の年代と一致する。立っていた柱は転用材とみられる。弥生時代前期から中期の墓は2つ見つかっており、南側の第一号木棺墓は木棺と人骨が残存していた。東京大学埴原和郎の鑑定では身長160cm以上の20歳代後半から30歳代前半の男性とみられた(藤田三郎(2012),p60)。国立科学博物館の馬場悠男の復元では、江戸時代など現代人とあまり変わらない骨格で大陸系の人の可能性があると見られた。2号木棺の放射性炭素年代測定では約2100年前と測定され、弥生時代と確認された(藤田三郎(2012),p62)。
第三段階 - 集落統合と大環濠の切削
3ヶ所の居住区が統合され、全体を囲む「大環濠」が掘削される。大環濠で囲まれた集落は、直径約400mと考えられる。その周りを幾重にも溝が取り囲み、中期後半には、楼閣をはじめとする建物、鹿、人物などの絵画を土器に描く風習が広まった。
第四段階:環濠集落の再建(弥生時代後期)
中期末の洪水で環濠の大半は埋没するが、すぐに再掘削が行われる。環濠帯の広さは最大規模となる。後期のはじめに、ムラの南部で青銅器の製作が行われた。弥生時代中期末の洪水は全村的な災害と推定されている(藤田三郎(2012)5,p91)。集落は放棄されず、より大きなムラが再建され、より大きな環濠が再建された。定住性の強いムラであった。後期後半に方形周溝墓が作られた。
第五段階:環濠集落の解体(弥生時代後期)
弥生時代中・後期に大環濠はなくなり、ムラの規模が縮小する。環濠の一部は再掘削されるが、井戸などの居住区関連の遺構は大幅に減少する。 環濠は土器の大量廃棄により埋没する。藤田三郎は環濠を必要としない新しい社会を想定する(藤田三郎(2012),p96)。南地区では弥生時代の環濠が再切削され、溝内から多量の遺物が出土する。
アクセス等
- 名称:唐古・鍵遺跡
- 遺跡面積:約42万平方メートル
- 遺跡規模:東西700m、南北80mの楕円形
- 調査面積:3万5271平方メートル
- 所在地:奈良県磯城郡田原本町大字唐古及び大字鍵
- 交通:近鉄橿原線石見駅下車 東へ徒歩約20分(約1.5キロメートル)
参考文献
- 高橋健自(1901)「磯城郡川東村大字鍵の遺跡」『考古界』第1篇第7號,考古学会
- 飯田恒男・飯田恒男編(1929)『大和唐古石器時代遺物図集』飯田松次郎
- 京都帝国大学文学部考古学教室編(1943)『大和唐古弥生式遺跡の研究』京都帝国大学文学部考古学研究報告 第16冊,桑名文星堂
- 末永雅雄(1937)「大和の弥生式遺跡 唐古 発掘日誌」『考古学』第8巻2-4号,東京考古学会
- 藤田三郎(2012)『唐古・鍵遺跡』同成社
- 名古屋大学中村俊夫( 考古学,文化財科学,地理学,文化財科学,文化財科学・博物館学
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