朝鮮式山城 ― 2025年04月07日 00:38
朝鮮式山城(ちょうせんしきさんじょう)は5世紀から6世紀にかけて瀬戸内海沿岸地域から北部九州に作られた山間部にある城である。
概要
通説では『日本書紀』の記載を元に663年(天智2年)8月の白村江の戦いで倭軍が敗北した後、唐・新羅連合軍の侵攻に備えて築かれた古代日本の山城とされてきた。 しかし、1997年、土塁の下から古い土塁が出現し、放射性炭素年代測定で5世紀から6世紀にかけて作られたことが証明された。城内に建物が見当たらない。 とすると『日本書紀』の説明は事実のすべてではないことになる。 従来は朝鮮式山城と神籠石山城とを『日本書紀』の記載の有無で区別しているが(記載のあるものを朝鮮式山城という)、実態は同じなので、ここでは区別せずに論じる。築造年代は神籠石山城は5世紀台に遡る。両者は時期が異なるようである。 朝鮮式山城の記述は『播磨国風土記』に見られる。史実かは別としても、応神の時代に造られたなら4世紀であっても不思議ではない。396年頃高句麗が南下したとき、百済は高句麗と戦っている。百済人が本国の争乱から逃れてきて城を造った可能性が考えられる。
特徴
標高300mから400mの急峻な地形にあることが多い。 幅・高さ数メートルの土塁を築く。土塁は数十層の版築工法で築かれる。高良山や石城山の神籠石のような列石が築かれる。また谷間に水門が造られる。 大野城などの朝鮮山城の頂上部には食料その他の生活用品の保管倉庫群が造られる。 外的侵入時の住民が立てこもる逃げ城である。韓国の百済地域では100mクラスから、9000m台ぐらいまでの幅のある城壁が造られた。鬼ノ城と対馬の金田城では鉄器などを作る鍛冶炉も出土している。益山猪土城では百済の瓦が出土する。7世紀の前半段階とみられる。
朝鮮半島の山城
「朝鮮式山城」は朝鮮半島の山城との類似から関野貞が命名した。朝鮮半島では2000の城が確認されているという。外敵が侵攻したとき、兵士や民衆が城に逃げ込み、抗戦するための施設であった。*朝鮮式山城
代表的な朝鮮式山城
- 大野城 - 福岡・佐賀両県にまたがる
- 基肄城 - 福岡・佐賀両県
- 金田城 - 長崎県対馬
- 鞠智城 - 熊本県
- 城山遺跡 - 香川県
- 高安城 - 大和国、大阪・奈良両府県、
- 屋島城 - 讃岐国
- 雷山城 - 糸島市
- 御所ケ谷城 - 行橋市
- 鹿毛馬城 - 飯塚市(旧頴田町)
- 把木城 - 朝倉市(旧把木町)
- 高良山城 - 久留米市
播磨国風土記
- 粳岡は、伊和大神と天日桙命の2神が互いに軍を起こして戦った時、大神の軍は集まって稲を舂いた。すると、その糠が集まって丘のようになり、その丘を墓と呼んだり、城牟禮山と呼んだりした。また、ある人が言うには、城を掘った所を品太天皇(応神天皇)の御世に百済から渡来した人々が城を造って住み、その子孫らが川邊里の三家人(屯倉人)で夜代(ヤシロ)らなのだという。
原文 - 日本書紀
- (巻第廿七 天智四年)秋八月、遣達率答?春初、築城於長門國。遣達率憶禮福留・達率四比福夫、於筑紫國築大野及椽二城。耽羅遣使來朝。
- (巻第廿七 天智六年)是月、築倭國高安城・讚吉國山田郡屋嶋城・對馬國金田城。
参考文献
- 熊本県教育委員会(2019)「古代山城の成立と変容」鞠智城シンポジウム成果報告 : 古代山城の成立と変容 9 (2018)
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