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天皇木簡2025年04月26日 17:38

天皇木簡/飛鳥資料館

天皇木簡(てんのうもっかん)は「天皇」の文字が書かれている古代の木簡である。

概要

最古の「天皇」の文字が書かれた木簡は飛鳥池工房遺跡出土のものである。1998(平成10年)3月2日、奈良国立文化財研究所が出土を発表した。 同時に出土した土器の特徴や木簡2点に677年(天武6年)を示すとみられる「丁丑年」の年号の記載があることから、7世紀後半の天武・持統朝につくられたものと判定された。 「天皇」称号の使用開始時期には諸説あるものの、少なくとも天武朝で「天皇」の称号が使われていたことが証明された。

天皇号の使用開始時期

天皇号の使用開始時期は3説があり、学界では長らく議論がされている。

  1. 天武・持統朝説
  2. 推古朝説(6世紀末~7世紀初め)、
  3. 天智朝(660年代)説

木簡作成の時期

この木簡は飛鳥池工房遺跡の北地区の、持統朝を下限とする溝のさらに下層から出土している。遺構から伴出した木簡の「サト」表記は、すべて「五十戸」であった。飛鳥から出土した多量の荷札木簡により「サト」が「五十戸」から「里」に切り替わったのは、681年から683年頃の間と判明している。これらから「天皇」の語が墨書きされた木簡は、683年(天武12年)以前に書かれたものと推定できる。「天皇」木簡が出土した同じ遺構から「庚午」天智9年(670年)、「丙子」天武5年(676年)、「丁丑」天武6年(677年)の紀年木簡が伴出している。このことから「天皇」号の表記は677年(天武6年)から676年(天武5年)頃の時点では使用されていたといえる。

木簡の意味

木簡には、「天皇聚露弘□□」(□は確認できない文字)と記されている。「天皇が露を集めて広く…」と読めるが、文字は文章の一部である全体の文意は分からない。 同じ南北の溝から見つかった木簡に「丁丑年12月三野国刀支評次米」と書かれている。「丁丑年」は677年(天武6年)年に当たるので、新嘗祭に用いる次米(すきのこめ)が、刀支評から上納された際の荷札木簡と考えられている。木簡は天武天皇の祭祀に関わる新米とも考えられる。

考察

推古朝説は法隆寺金堂の薬師如来像の光背銘や、日本最古の刺繍とされる天寿国繍帳(中宮寺蔵)の銘文が根拠であるが、大山誠一は天寿国繍帳を光明皇后の命による製作としている。 一方、東野治之は古い要素のある原本の繍帳を改めて天武朝から持統朝頃にかけて成立したとする。近藤有宜(2009)は繍帳の銘文に蘇我稲目の娘を「大后」と称していることから、天皇号の使用開始時期を蘇我馬子の全盛時代とする。 天智朝成立説は野中寺弥勒像銘などを根拠としているが、この銘文は天武・持統朝と見られるようになり、天智朝説は後退した。推古朝説は消えていないが、天寿国繍帳と光背銘は後からの一部造作(改変)も可能であるから、確実な根拠とするには弱い面がある。福山敏雄は法隆寺金堂の薬師如来像について、確実に推古朝に遡る他の遺例がないことから、薬師信仰は天武朝から日本に入ったと見られることから、天武朝以降と判断している。 天皇号の最古の確実な証拠は天武朝であることは動かない。推古朝にしても、天武・持統朝にしても飛鳥時代であることは同じである。

参考文献

  1. 近藤有宜(2009)「天寿国繍帳の制作時期について--繍帳銘文による検討--」(『美術史研究』第47冊

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