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美々4遺跡 ― 2024年08月01日 00:15

美々4遺跡(びびよんいせき)は千歳市南部の新千歳空港内にある縄文時代後期から晩期の遺跡である。

概要

苫小牧市との境を流れる美沢川の左岸に位置する。美沢川の両岸に東西2kmにわたり「美沢川流域の遺跡群」が所在する。美々4遺跡は標高5mから20mの緩やかな斜面に位置する。 土器は、後期末~晩期初頭の堂林式、御殿山式~大洞B式に相当する遺物が主体となる。

調査

新千歳空港の建設に伴って発掘された。これまでに3回の調査が行われ、①昭和51年度から60年度調査、②平成6年度、7年度調査、③令和3年以降の調査がある。

昭和51年度から60年度調査

台地部分で周溝墓、周堤墓など大規模な集団墓が発見された。周堤墓は北海道に特有の埋葬形式である。周堤墓は円形の竪穴を掘り、土を周囲に盛り上げて周堤を築き、その内側に墓坑を作るものである。遺物点数は自然遺物を除き約40万点であった。 美沢川の低地部では盛土墓が発見された。遺体を土坑に埋めるのではなく、火山灰を盛って埋葬する。重要文化財の動物形土製品が出土している。また蛇、フクロウ、熊などの動物意匠土器も見られる。土器は、縄文時代後期末から晩期初頭の堂林式・三シ谷式・御殿山式~大洞B式に相当するものが主体であった。土製品には土偶・耳栓・土玉・オロシガネ状土製品、石製品には異形石器・垂飾・石棒・オロシガネ状石製品や動物を表現したと思われるもの等がある。

平成6年度、7年度調査

台地と低地の間の斜面を調査した。平成7年度出土のフクロウ意匠土器片と昭和58年度出土の土器片とが接合したことから、遺跡の斜面と台地が一体的に利用されていたものと判明した。

令和3年以降の調査

斜面部を調査した。令和4年度の土壙墓から石斧と石鏃が副葬されていた。人骨が残存する土坑墓10基が確認された。翡翠製勾玉や土製の耳栓などの装飾品が含まれる。 エゾシカ、イノシシ、イヌなどの焼けた獣骨片が多く出土した。斜面部で祭祀や儀礼が行われていたとみられる。 ベンガラ、坑口に大礫が出土。副葬品等周堤墓の墓坑に類似。土坑時期不明中19基を遺物等から同時期と推定された。釣り金具と思われる金属製品を伴うアイヌ文化期の土坑墓が検出された。

動物型土製品

盛土の調査が後、その下の土から土器の破片が出土した。盛土の下の土器を復元することになり、破片を詳しく観察し、ブラシで土を慎重に落とし、立体パズルのように破片の接合を確認したところ、土偶のような土製品が現れた。破片の文様や色などを手掛かりに、周辺で出土した遺物の中から同じ土製品の破片を探し出した。突起にみえた塊は頭になり、全長約32㎝、特異な造形の土製品が復元できた。その特異な姿とともに、中空作りの焼成技術の高さ、表面の文様は比類がない。頭・首・胴そして指の刻まれた手足を持ち、カメ、水鳥、ムササビ、アザラシにも見える不思議な姿であるが、特定の動物に比定することは困難である。特異な形状を伝える出土品で、繩文時代後期・晩期の祭祀、呪術的な精神生活をみるうえに貴重な遺品である。発見から3年後の1979年6月、国の重要文化財に指定された。

遺構

  • 竪穴住居跡
  • 土坑
  • 骨片集中
  • 土器集中
  • 剥片集中
  • 竪穴建物
  • Tピット
  • 土壙墓
  • 土坑
  • Tピット
  • 焼土
  • 柱穴

遺物

  • 土器
  • 石器
  • 石棒
  • 有孔三角形岩板
    • 令和5年度出土、扁平な凝灰岩の面に模様を彫り、孔を1個所開ける祭祀との関連が想定できる。
  • 玉
  • 翡翠製勾玉
    • 翡翠は新潟県糸魚川産。側面に刻みを入れた獣型勾玉である。
  • 化石 - アンモナイト
    • 北海道浦河地域から縄文人が持ち込んだ。装飾品の可能性あり。
  • 漆工品
  • サメ歯製装飾品 
  • 動物形土製品
  • 鉄製品
  • 人骨
  • 石鏃
  • スクレイパー
  • 土製品(耳栓+土玉+土偶+動物形土製品)
  • 石製品(垂飾、玉、石棒など)
  • 続縄文土器
  • 擦文土器
  • 石器
  • 骨角器
  • 鉄製品(垂飾など)

指定

  • 1979年06月06日 - 重要文化財(美術品)

展示

  • 千歳市埋蔵文化財センター

アクセス

  • 名称:美々4遺跡
  • 所在地:北海道千歳市字美々988番地
  • 交 通:新千歳駅から徒歩12分 900m

参考文献

  1. 文化庁(2024)『発掘された日本列島』共同通信社
  2. 財団法人北海道埋蔵文化財センター(1981)『北海道埋蔵文化財センター調査報告書3:美沢川流域の遺跡群』財団法人北海道埋蔵文化財センター
  3. 財団法人北海道埋蔵文化財センター(1998)『北海道埋蔵文化財センター調査報告書113:美沢川流域の遺跡群』財団法人北海道埋蔵文化財センター

岩手県立博物館 ― 2024年08月02日 00:04

岩手県立博物館(いわてけんりつはくぶつかん)は岩手県が県制百年を記念して1980年(昭和55年)10月に岩手県盛岡市に開館した総合博物館である。

概要

昭和48年4月、県教育委員会事務局社会教育課に博物館準備室係(3名)を設置した。1980年(昭和55年)10月5日、岩手県立博物館が開館した。開館後は昭和62年5月には入館者100万人を突破し、平成9年7月に入館者、200万人を達成した。令和3年11月に入館者数は、300万人を達成した。地質時代から現代にいたる地質・考古・歴史・民俗・生物などの資料によって岩手県の自然と文化を紹介する。 展示室は1階にいわて自然史展示室(地質、生物)があり、2階に総合展示室がある。また屋外展示に、植物園(岩手県内自生の山野草等、植物約345種類)と岩石園(火成岩、変成岩、堆積岩等49種類)がある。

総合展示室(2階)

  • 県土の誕生[地質分野]
    • 恐竜 モシリュウの上腕骨
    • 鉄鉱石
      • 享保12年(1727)、現在の釜石市大橋で大量の鉄鉱石が発見され、安政3年(1856)に大島高任・貫洞瀬左衛門により釜石市大橋に建設された日本初の洋式高炉が作られた。
  • いわての夜明け[考古分野]
    • 旧石器時代から平安時代初期にいたる岩手の歩みを時代別に四つのテーマにわけて紹介する。
    • 盛岡市手代森遺跡出土土偶
    • 盛岡市萪内遺跡出土土偶
    • 花巻市熊堂古墳群出土和同開珎
    • 遮光器土偶 - 盛岡市手代森遺跡出土土偶
    • 大型土偶・頭部(重要文化財)盛岡市 萪内(しだない)遺跡出土
  • いわての歩み[歴史分野]
    • 1.奥州平泉(古代)
    • 2.豪族たちとその文化(中世)
    • 3.封建社会の人々(近世)
    • 4.近代化をめざして(近代)
    • 5.古美術
    • 毛越寺・観自在王院 模型
    • 鯰尾兜

いわて文化史展示室(2階)

  • 古部門では、岩手の土器の変遷や北上山系の洞穴遺跡(いせき)の出土品、岩手町の豊岡遺跡などについて紹介する。

企画展・テーマ展

  • 「ふしぎな縄文」 令和6年6月8日(土)~8月25日(日)
    • 鼻曲り土面 - :重要文化財(国)縄文晩期
    • 壺形土器 - 岩手県指定文化財、縄文後期
    • 注口土器 - 岩手県指定文化財、縄文後期
    • 香炉形土器 -岩手県指定文化財、縄文後期

アクセス等

  • 名称:岩手県立博物館
  • 所在地:〒020-0102 岩手県盛岡市上田字松屋敷34番地
  • 休館日: 日曜日、祝日、夏季・冬季休業日、その他大学の定めた休館日
  • 開館時間:9時30分から16時30分まで(入館は16時まで)
  • 入館料: (常設展示)一般 330円
  • 交通: 盛岡駅前11番のりば発、基幹バス「松園バスターミナル」行または「松園営業所」行に乗車、「松園バスターミナル」下車(乗車時間は約30分)。

参考文献

たつの市立龍野歴史文化資料館 ― 2024年08月03日 00:20

たつの市立龍野歴史文化資料館(たつのしりつたつのれきしぶんかしりょうかん)は兵庫県たつの市にある歴史系の資料館である。

概要

八重洲ブックセンターから建物の寄贈を受け、平成元年10月31日に開館した。 「龍野の歴史」をテーマに、たつの市域及び揖保川流域の町々の原始古代から近世までの歴史の流れを、5つのコーナーに分け、時代順に紹介する。常設展では、古墳から出土した鏡、白鳳時代の弥勒菩薩や奈良時代の誕生仏、古代駅家の出土品、江戸時代の龍野藩主の武具、播磨地方で唯一残された太閤検地帳が展示される。特別展開催中は、常設展示がなくなる。

1.原始古代の龍野

  • 門前遺跡出土弥生土器
  • 西宮山古墳出土飾付壺
  • 長尾タイ山古墳出土馬型埴輪
  • 三角縁神獣鏡
  • 弥生時代の壺

2.古代の山陽道

  • 奥村廃寺出土瓦(7世紀後半)
  • 布勢駅家出土墨書土器(8世紀)
  • 日本一小さな弥勒菩薩像 - 円覚寺 白鳳時代の金銅菩薩半跏像
  • 誕生釈迦仏 - 奈良時代
  • 西宮山古墳と諸豪族の紹介

アクセス等

  • 名称:たつの市立龍野歴史文化資料館
  • 所在地:〒679-4179 兵庫県たつの市龍野町上霞城128-3
  • 休館日: 毎週月曜日(祝日の場合はその翌日)、祝日の翌日
  • 開館時間:午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
  • 入館料: 一般:200円
  • 交通:姫路駅よりJR姫新線に乗車、本竜野駅下車、本竜野駅から1.6km 神姫バス:龍野停留所から500m/JR姫新線本竜野駅から徒歩20分
*参考文献

小立古墳 ― 2024年08月03日 01:27

小立古墳(こたてこふん/こだちこふん)は奈良県桜井市にある古墳時代の帆立貝式前方後円墳である。

概要

1999年(平成11年)の圃場整備に伴う事前整備により発見された。酒井温子・村上薫史他(2005)により加工木の樹種はコウヤマキと同定された。発掘時に加工木の周囲の土は青灰色であったから酸素不足のため残存したと推測される。巨大な柱状木製品はヒノキであった。丘陵上に築かれた古墳ではなく小規模な屋根に挟まれた谷部に位置する。葺石が良好に残存し墳丘や周濠から、おびただしい数の埴輪や木製品が出土した。 古墳周濠の表面から下3.5mで木製車輪が見つかった。同時に見つかった土器から、飛鳥時代後半に廃棄されたと見られている。 車のタイヤに相当する輪木は厚さ3.7cm、幅9cmである。輻はホイールに相当し、日本最古の木製車輪である。従来は奈良時代の木製車輪が最古であった。輪木に開けた穴に輻の「ほぞ」をはめて、内周の輪木で補強する。車輪はアカガシ材であり一部は摩耗していた。貴族など一部の特権階級が使用したもので、用途としては牛車または荷車が想定される。古墳時代の古墳なので、木製車輪は古墳築造後に廃棄されたのであろう。盾形木製品には直弧文が描かれていた。

調査

発掘調査は2000年に桜井市教育委員会により行われた。後円部の1段目テラスの円筒埴輪は原位置で出土し、5本の木製埴輪の基部は立ったまま発見された。埴輪と木製埴輪の使い方がわかる古墳であった。位置は山田道の西側と推定される。埋葬施設は削平され現存しない。概報では本来3段築成とされるが(桜井市教育委員会(2002))、沼澤が示すように第3段の想定は難しいと思われ(沼澤2003:97)る。茅原大墓古墳(築造4世紀末~5世紀初)とほぼ同じ時期の古墳である。

規模

  • 形状 帆立貝状古墳
  • 築成 前方部:3段か、後円部:3段か
  • 墳長 34.7m
  • 後円部径 径28m 高2m
  • 前方部 長9.7m 高1m

外表施設

  • 円筒埴輪 - 円筒・朝顔形あり
  • 形象埴輪
    • 周濠内より甲冑・蓋形埴輪などの破片
    • 周濠内より家形埴輪の破片、
    • 周濠内より鶏形埴輪の破片・
    • 周濠外堤上で馬形埴輪、
    • 葺石 2段にめぐる
  • 【周濠】盾形・幅6m・深さ1m。

主体部

遺物

  • 円筒埴輪 77点
  • 形象埴輪(鶏形、家形、舟形、盾形、蓋形、冑形、草摺形、短甲方、靫形)
  • 木製埴輪(石見形13点、靫形2点、盾形2点、太刀形1点)

築造時期

  • 5世紀 中頃から後半 (古墳時代)

被葬者

指定

アクセス等 

  • 名称 小立古墳
  • 所在地 奈良県桜井市山田字小立
  • 交通:

参考文献

  1. 酒井温子・村上薫史他(2005)「出土木製品に残る 劣化痕跡の解析(Ⅱ)」考古学と自然科学、日本文化財科学会誌 (51),pp.65-75
  2. 柴原聡一郎(2022)「遺構寸法の計測手法と古墳築造企画研究への応用」東京大学考古学研究室研究紀要35、pp.125-133
  3. 文化庁(2004)「発掘された日本列島2000-2004」朝日新聞社
  4. 桜井市文化財協会(2002)「磐余遺跡群発掘調査概報1 小立古墳・八重ヶ谷古墳群の調査」桜井市内埋蔵文化財 2001年度発掘調査報告書4
  5. 沼澤豊(2003)「帆立貝式古墳築造企画論(5)前方後円墳との境界(1)」季刊考古学 (84),pp.97-104
  6. 沼澤豊(2006)『前方後円墳と帆立貝古墳』雄山閣
  7. 櫻井久之(2007)「直弧文の「基本配列」に関する予察 奈良県小立古墳の盾形木製品の文様から」大阪歴史博物館研究紀要 6,pp.97-106

古代東アジア情勢と白村江の戦い ― 2024年08月04日 01:35

古代東アジア情勢と白村江の戦い(こだいひがしあじあじょうせいとはくそんこうのたたかい)は2024年7月27日に開催された「第9回高麗郡公開歴史講演会」のテーマである。

概要(講演概要と要旨)

  • タイトル:「古代東アジア情勢と白村江の戦い、その後 行方を探る!」
  • 主催者:日本高麗浪漫学会
  • 後援:日高市教育委員会
  • 開催日:2024年7月27日(土) 13:30-16:30
  • 会 場:日高市総合福祉センター「高麗の郷」1F研修室
  • 定 員:150名(申込先着順))

内容プログラム

  • 講演「白村江戦余滴~亡命百済人・高句麗人の到来とその行方~」
    • 13:45~15:15 講演1(45分)
    • 講師:森公章氏(東洋大学文学部教授)
  • トークセッション『古代東アジア情勢と白村江の戦い、その後の行方を探る!』
    • 15:30~16:30 (60分)
    • 講師:森公章氏
    • コーディネーター:中野高行氏(日本高麗浪漫学会副会長) 進 行
    • コメンテーター:新井秀規氏(日本高麗浪漫学会副会長)

講演要旨

講演1「古代東アジア情勢と白村江の戦い、その後 行方を探る」森公章教授

「白村江」は日本書紀の写本に「ハクスキノエ」と読むモノがあるが、最近では「ハクソンコウ」と読んでいる。 当時の百済への倭国への軍事援助は3段階があった。

  1. 661年9月 百済豊璋を国に還すとき(倭国は)5,000名の兵士を送った。(①)
  2. 663年9月 新羅を側面攻撃するため27,000名の兵士が渡海した。(②)
  3. 663年8月 百済遺民の拠点・周留城を救援するため万余の兵士が渡海した。(③)
  • 『三国史記』『旧唐書』によれば倭国は1,000隻の船を出したが、663年7月26日の「白村江戦」で唐と新羅の連合軍に大敗した。1000隻の内400隻が焼かれた。その後、9月7日の周留城陥落が最終的な敗北で転回点となる。②の軍は南部中央にいたので、「白村江戦」に参加していない。伽耶地域から上陸し、戦後はそこから退去したと思われる。百済人の随伴はない。③は百済の高官と倭軍が随伴して、百済の南部地域から倭国に亡命・帰還した。亡命百済人は倭国の形成に大きな役割を果たした。百済の佐平は3名おり、百済の王族の余自身は671年(天智10年)、大錦下を授与されている。同じく佐平の沙宅紹明は671年(天智10年)法官大輔となっており、673年(天武天皇2年)閏6月に死去した。高句麗は668年(天智7年)に滅亡したので、そのときの亡命高句麗人も多かったが、百済人とは異なり、倭国の中央政界で活躍する例は少ない。高麗若光は666年(天智5年)に日本に派遣された使節の一員として玄武若光がいたが、同一の可能性のある人物である。高麗若光は高句麗王の息子であり、『続日本紀』703年(大宝3年)4月4日条に「王」の姓を与えたとの記載がある。716年(霊亀2年)、武蔵国に東海道7ヶ国から1799人の高句麗人を移住させたが、高麗若光はそのリーダーであった可能性がある。

トークセッション『古代東アジア情勢と白村江の戦い、その後の行方を探る!』

  • 高麗郡、新羅郡の設置記事はあるが、百済郡の設置記事はない。百済郡の設置はおそらく664年から700年の間ではないか。
  • 高麗系と百済系の違いは何か。
  • 高句麗から倭国には間に新羅や百済があった。どうやって倭国にきたのか。高句麗と倭国とは4世紀以来の通行の歴史がある。百済経由できたのではないか。
  • 高句麗の貴族階級はどのくらいの規模できたのか。
  • 666年(天智5年)高句麗から玄武若光が倭国に来ている。これは高麗王若光と同一人物であろうか。『日本書紀』には「二位玄武若光」と記載されている。『日本書紀』記載の玄武若光と『続日本紀』記載の高麗若光が同一人物ではない可能性もある。
  • 新羅、百済、高句麗ではそれぞれ土器が全く異なる。高句麗土器は日本ではあまり出土しない。深い関係はなかったのではないか(酒井清治駒澤大学名誉教授)。

参考

  • (日本書紀 巻第廿七 )
  • (天智五年)冬十月甲午朔己未、高麗遣臣乙相奄𨛃等進調。大使臣乙相奄𨛃・副使達相遁・二位玄武若光等。
  • (旧唐書原文 卷八十八 列伝第三十四 劉仁軌 ?處俊 裴行儉)
    • 仁軌引新羅之兵,乘夜薄城。四面攀草而上,比明而入據其城,遂通新羅運糧之路。俄而餘豐襲殺福信,又遣使往高麗及倭國請兵,以拒官軍。詔右威衛將軍孫仁師率兵浮海以為之援。仁師既與仁軌等相合,兵士大振。於是諸將會議,或曰:「加林城水陸之沖,請先?之。」仁軌曰:「加林險固,急攻則傷損戰士,固守則用日持久,不如先攻周留城。周留,賊之?穴,群兇所聚,除惡務本,須拔其源。若克周留,則諸城自下。」於是仁師、仁願及新羅王金法敏帥陸軍以進。仁軌乃別率杜爽、扶餘隆率水軍及糧船,自熊津江往白江,會陸軍同趣周留城。仁軌遇倭兵於白江之口,四戰捷,焚其舟四百艘,煙?漲天,海水皆赤,賊?大潰。餘豐?身而走,獲其寶劍。偽王子扶餘忠勝、忠志等,率士女及倭?並耽羅國使,一時並降。百濟諸城,皆復歸順。賊帥遲受信據任存城不降。
  • (旧唐書原文 卷一百九十九上 高麗 百濟 新羅 倭國 日本)
    • 二年七月,仁願、仁軌等率留鎮之兵,大破福信餘眾於熊津之東,拔其支羅城及尹城、大山、沙井等柵,殺獲甚眾。仍令分兵以鎮守之。福信等以真峴城臨江高險,又當沖要,加兵守之。仁軌引新羅之兵乘夜薄城,四面攀堞而上,比明而入據其城,斬首八百級,遂通新羅運糧之路。仁願乃奏請益兵,詔發淄、青、萊、海之兵七千人,遣左威衛將軍孫仁師統眾浮海赴熊津,以益仁願之眾。時福信既專其兵權,與撫餘豐漸相猜貳。福信稱疾,臥於窟室,將候扶餘豐問疾,謀襲殺之。扶餘豐覺而率其親信掩殺福信,又遣使往高麗及倭國請兵以拒官軍。孫仁師中路迎擊,破之。遂與仁願之眾相合,兵勢大振。於是仁師、仁願及新羅王金法敏帥陸軍進,劉仁軌及別帥杜爽、扶餘隆率水軍及糧船,自熊津江往白江以會陸軍,同趨周留城。仁軌遇扶餘豐之眾於白江之口,四戰皆捷。焚其舟四百艘,賊眾大潰,扶餘豐脫身而走。偽王子扶餘忠勝、忠志等率士女及倭眾並降。百濟諸城皆復歸順。孫仁師與劉仁願等振旅而還。詔劉仁軌代仁願率兵鎮守。乃授扶餘隆熊津都督,遣還本國,共新羅和親,以招輯其餘眾。

参考文献

  1. 「古代東アジア情勢と白村江の戦い、その後 行方を探る!」当日資料
  2. 森公章(1998)『「白村江」以後 国家危機と東アジア外交』講談社
  3. 森公章(2006)『東アジアの動乱と倭国』吉川弘文館

池上曽根遺跡 ― 2024年08月04日 15:10

池上曽根遺跡

池上曽根遺跡(いけがみ・そねいせき),Ikegami Sone Ruins)は大阪府にある弥生時代の環濠集落である。弥生時代の全期間(2300~1800年前)を通じて営まれた、近畿地方を代表する大規模な弥生時代の環濠集落遺跡である。

概要

大阪府和泉市池上町、泉大津市曽根町に渡っており、大阪府南部の和泉山地北側の扇状地から沖積地に移行する直前の端に位置している。弥生時代中期後半の遺跡としては最大規模である。 竪穴住居や掘立柱建物などからなる居住区と方形周溝墓と呼ばれる一般層の墓があり、その周辺部を何重もの濠をめぐらせた環濠集落である。わが国屈指の環濠集落と言われる。環濠の外周には南部、東部、北部と方形周溝墓群が取り巻く。

発掘調査の歴史

明治時代末期の1903年、当時中学生の南繁則が自宅の土塀に挟まった石器を発見したことが始まりであった。南繁則は「池上曽根遺跡の父」と呼ばれる。泉大津高校地歴部と森浩一が遺物の分布範囲からその遺跡の大きさと重要性について言及し、1961年に発掘によって遺跡の南北が確認され、遺跡の北端では巨大な溝と竪穴住居33棟を発見した。1964年、第二阪和国道の建設予定地が池上曽根遺跡を南北に貫通することになり、南繁則氏らが中心となり遺跡の保存運動が始まった。大阪府教育委員会は遺跡範囲確認調査を実施し、遺跡は南北約1000メートル、東西500メートルと広大であることが判明した。1995年、弥生時代中期の大型建物と井戸がみつかり、弥生時代のイメージを一新した。大型建物は東西19.2メートル、南北6.9メートル、面積133平方メートルと、弥生時代最大級の規模をもつ建物で、地面に掘った穴に直接柱を立てた掘立柱建物であった。当時の柱の根元が腐らず、17本が残されていた。建物の用途は不明であるが、祭祀空間または首長の居館と考えられている。 南側の井戸は、直径2.3メートルのクスノキの大木を刳りぬいて井筒にしており、刳りぬき井戸としてはわが国最大である。1969年から発掘調査が行われた。1996年4月27日、各新聞の一面に大型掘立柱建物から出土した柱のうちの1本が紀元前52年に伐採されたという記事が掲載された。

年代測定

集落のほぼ中心部で、床面積が135m2ある巨大な掘立柱建物、大型建物1が発見され、断片を含めると18基の柱穴に16本の檜や二本のケヤキの柱根が残っていた。檜の柱材16本の中から状態能良好なものを選び、年輪年代法による測定を行った。柱12は樹皮型、柱20は辺材型である。柱12と柱20の檜の暦年標準パターンとの照合は成立し、それぞれの年輪年代を決定することができた。柱12は紀元前52年、柱20は紀元前56年であった。伴出遺物として、柱材伐採年の判明した柱穴12の堀形内から弥生時代Ⅳ-3様式を下限とする土器資料が得られた。弥生時代の相対年代と絶対年代の対応が示された。 それまで想定されていた大型建物の年代より約100年古い年輪年代が出たことは考古学関係者の注目を集めた。 大型建物の中でも構築当初の柱がそのまま残り、表皮をはいだだけで辺材が残っていた柱穴12の柱材に対して、高精度の放射性炭素C14年代法(AMS法)で測定したところ、「紀元前60年プラスマイナス20年」という類似した年代が得られた。

年代再測定

和泉市教育委員会、泉大津市教育委員会、国立歴史民俗博物館は「池上曽根遺跡」の大型掘立柱建物の柱材の年代の再測定を実施した。2024年7月10日、国立歴史民俗博物館(歴博、千葉県佐倉市)と和泉、泉大津の両市教育委員会などが開いた池上曽根遺跡の柱材の年代再測定に関する記者会見で発表された。 1997年に報告された柱の1つの年代(紀元前52年)は再現されたが、他の柱からは最大700年も古い年代が得られた。大きな年代差のある木材で構築された建造物は、日本では類例がない(千葉太郎・奥野三和他(2024))。 再測定した5つのサンプルのうち、最も新しい「柱12」は前回と同じ年代の紀元前52年であったがほかの柱は紀元前403年、前520年などと古くなり、前113年とされていた「柱16」は前782年までさかのぼった。再測定結果を検証するため、最新の「酸素同位体比年輪年代法」による測定も実施した。サンプルを1つ加え、6つで確かめたが、再測定を裏付ける結果となったので、測定の問題ではない。 当初約60年の範囲に収まっていた柱材の年代差が、730年もの隔たりが生じてしまっている。同一の建物に年代に大きく隔たりのある木材がなぜ使用されたのか。多くの研究者も合理的な説明はできていない。

調査面と時代との対応(97年度調査)

以下は、大阪府教育委員会(1999)に記載される。1997年度調査の概要である。

  • 第2面(97-8区) 弥生時代の方形周溝墓と考えられるSD214を検出した。
  • 第4面(97-6区、97-3区) は弥生時代中期の遺構面で、溝SX127を検出した。平野部における環濠集落の環濠の第一の機能が軍事的防御施設ではなく、集落の防水・排水施設にあったことは疑いない。平野部における洪水のあり方から考えると、河川上流側よりも下流側に多くの環濠を必要としたと見るのが妥当とされた。方形周溝墓に伴う土器が第Ⅳ様式を主体とすることから、この区域における墓域としての利用は弥生時代中期後半と見られる。
  • 第5面(97-5区、97-7区) 第5面は弥生時代前期までに河川の埋没により形成された自然堤防上面と、一部河川の下刻作用によって露出した黄褐色粘土およびその下層の黒色粘上の地山面で、著しい凹凸がある。

集落の変遷

大阪府教育委員会(1999)による、集落の変遷は以下の通りである。池上曽根遺跡に集落が形成されるのは弥生時代前期中葉であった。それ以前から集落を営んでいた池浦遺跡からの移住と考えられる。中期中頃から後半にかけて河川の本流が生産域である水田地域に移動し次第に居住域より低い部分に自然堤防を形成した。「4申殿」と考えられる巨大な掘立柱建物は、池上曽根遺跡が発展拡大しきった弥生時代中期中頃に初代建物の建造が行われ、その後あたかも式年遷宮のようにきわめて短いサイクルで、規模を拡大しながら4ないし5回の建て替えが行われと考えられている。

出土品

地下水位が高いため木製品や植物遺存体などが数多く残存していた。土器、石器、木器などは膨大で、弥生人の日常生活用具や食料残滓動植物遺存体のほとんどすべてを出土品が占める。信仰関係の遺物である鳥形木製品、竜を線刻したらしい後期の長頸壺、終末期に土器といっしょに投棄された銅鐸の断片など注目される資料が見つかっている。

対外交流

弥生時代の近畿以東の遺跡では、前漢との交流を示す出土品は見られない(参考文献1.p.64)。

祭祀施設

柱材が出土した大型建物は東西10間(19.2m)、南北1間(6.9m)、床面積約133mであり、高床式建物が想定される。絵画土器をもとに復元されている。独立棟柱は神社建築に共通しており、「神殿」としての意義を持つ(参考文献1.p.63-64)。しかし、王墓と呼べる卓越した規模や特別の副葬品をもつ墳墓は見られない(参考文献1.p.64)。

指定

  • 1976年4月26日 遺跡中心部が国史跡に指定
  • 1978年11月15日 特別史跡
  • 2014年(平成26年)3月18日 特別史跡(追加) 1993年2月5日 追加指定

アクセス等

  • 名称:池上曽根遺跡
  • 遺跡面積:約35万m2
  • 南北:450m
  • 東西:280m
  • 所在地:大阪府和泉市池上213-1(池上曽根史跡公園)
  • 交通:東北道青森ICよりR7環状バイパス経由、三内丸山遺跡方面へ5分

公式ページ

池上曽根遺跡史跡公園

2000年前の大集落を再現した史跡公園である。日本で初めての大型神殿「いずみの高殿」、井戸、竪穴住居などの復元建物、環濠、竪穴住居跡、祭祀遺構などの遺構復元がある。

  • 名称:池上曽根遺跡史跡公園
  • 時間:10:00~17:00(入園は16:30まで)
  • 休日:月曜日(祝日の場合は翌日)・年末年始
  • 入園料:無料
  • 所在地:和泉市池上町四丁目14-13
  • 交通:JR阪和線「信太山駅」徒歩7分/南海本線「松ノ浜駅」徒歩20分

参考文献

  1. 坂 靖(2020)『大和王権の古代学』新泉社
  2. 埋蔵文化財研究会(2003)『考古学と暦年代』ミネルヴァ書房
  3. 大阪府教育委員会(1999)『池上曽根道跡』大阪府埋蔵文化財調査報告1998-1
  4. 千葉太郎・奥野三和他(2024)『池上曽根遺跡出土大型掘立柱建物の年代測定』古代学研究、No240

類聚国史 ― 2024年08月06日 00:15

類聚国史(るいじゅうこくし)は菅原道真が六国史の記事を分類編集し、事項別とした文献である。

概要

道真は宇多天皇から編纂の命を受けて類聚国史の編纂を開始した。中国の会要、類書にならって『日本書紀』から始まる「六国史」記事を、内容毎に分類、つまり「類聚」したものである。892年(寛平4年)に完成したとされる。古代史の重要史料の一つである。 『類聚国史』は本文200巻、目録2巻、帝王系図3巻から成っていたが、現存する写本は写本61巻と逸文が伝わるのみである。六国史本文の校訂や『日本後紀』の欠逸部分の復原に資するところが大きいと評価される。

弘仁地震

818年の赤城山の地震は『類聚国史』の弘仁九年七月と八月(818 年 8 月~10 月)の条に書かれる。元は『日本後紀』巻二七に記載されていたが,それは散逸している。

秋田地方地震

天長七年(830)1月3日の秋田地方の地震は『類聚国史』に記載される。

  • 今日辰刻、大地震動、響如雷霆、登時城郭官舎并四天王寺丈六仏像、
  • 四王堂等、皆悉顛倒、城内屋仆、撃死百姓十五人、支体折損類一百
  • 余人也、歴代以来未曾有聞、地之割辟、或処卅許丈、或処廿許丈、
  • 無処不辟、又城辺大河云秋田河、其水涸尽、流細如溝、
  • 疑是河底辟分、水漏通海歟、吏民騒動、未熟尋見、添河・覇別河、
  • 両岸各崩塞、其水汎濫、近側百姓懼当暴流、競陟山崗

蝦夷進出戦の終了

802年(延暦21)4月15日、阿弖利為(あてるい)は母礼500人余を率いて降伏した記事は『類聚国史』に書かれる。奥州市水沢地域付近で生活していた蝦夷のリーダーである。阿弖利為は坂上田村麻呂に降伏し、144年間に渡る蝦夷進出戦争が終わった。

陸奥国俘囚の授位

835年(承和二年)6月27日、俘囚に授位した記事が『類聚国史』に書かれる。。陸奥国奥地の俘囚、内紛、警備に兵士差発。同月二十七日、さらに援兵を請う。また陸奥国に賑給、出羽国俘囚に授位。藤原清衡、俘囚之上頭を自称する。

写本

  1. 類聚国史 巻第廿五 国宝(書跡・典籍)仙台市青葉区 東北大学蔵 狩野亨吉旧蔵本
  2. 尊経閣文庫 鎌倉時代書写本四巻(巻百六十五・百七十一・百七十七・百七十九)国宝 前田育徳会
  3. 類聚国史 石清水八幡宮 所蔵本(巻一・五) 重要文化財
  4. 類聚国史 明応九年(1500年)書写の一五冊本
  5. 大永年間(16世紀前半)に三条西公条らが書写した四冊本

参考文献

  1. 黒板 勝美・国史大系編修会(1965)『類聚国史 前篇』東京 吉川弘文館
  2. 黒板 勝美・国史大系編修会(1965)『類聚国史 後篇』東京 吉川弘文館
  3. 早川由紀夫(2002)「『類聚国史』に書かれた818年の地震被害と赤城山の南斜面に残る9 世紀の地変跡」歴史地震 (18),pp.34-41
  4. 赤羽目 匡由(2017)「『類聚国史』所載の所謂「渤海沿革記事」の史料的性格について」東洋史研究 76 (2),pp.232-267