矢瀬遺跡 ― 2024年11月30日 00:22
矢瀬遺跡(やぜいせき)は群馬県利根郡みなかみ町にある縄文時代後期から晩期の集落遺跡である。
概要
利根川で作られた河岸段丘の最下段、標高396mに位置する。町道の建設工事の中で平成4年に見つかった。 集落の中央に巨木柱を立てた祭祀場と水場があり、隣に墓が作られ、その周りに竪穴住居が作られている。集落、排水路を持つ水場、祭祀場などでひとつのムラを形成している。当時の集落の構造がよく分かる。水場は水が湧き出る場所があり、その周りを石で囲う。水場からはトチの実やオニグルミなどが大量に出土した。アク抜きや製粉をしていた水場と考えられる。木の実をつぶすための石皿が見つかっている。焼けた獣骨片がみつかった。 祀りの場は集落の中央にあり、丸太や縦に半分に割った巨大な柱を多数並べて立てる。石敷きは南北に長く並べられる。装身具の耳飾り、玉、垂飾は注目される。遠隔地との交流を示す翡翠、アスファルト、細形管玉が出土している。祭祀に使用した岩版(お守り)、土偶、ミニチュア土器も出土した。 四隅袖付炉が注目される。四隅に細長い石を目の字のように組んだ配石がある炉で全国でもここだけである。面積は5018m2である。 木柱根などの出土遺物の一部を郷土歴史資料館に展示。現在は埋め戻されている。
遺構
- 住居7+22
- 配石
- 土坑
- 水場1
- 作業場1
- 排水路1
- 祭壇石敷1
- 半截材方形木柱列4
- 丸材方形木柱列1
- 木柱列3
- 木柱穴52
- 石列11
- 配石墓110
- 埋設土器3
遺物
- 安行式土器
- 石器
- 土器群
- 狩猟漁労具(石鏃+尖頭器+石錘)
- 調理加工具(石匙+石錐+削器+礫器+石皿+磨石+敲石)
- 伐採土掘具(磨製石斧+打製石斧)
- 装身具(耳飾り+玉+垂飾)
- 祭祀具(岩版+土版+線刻石+石棒+独鈷石+石冠+土偶+ミニチュア土器)
- 木柱根
- 骨角器
- ベンカラ+動物遺存体(獣(骨))
- 植物遺存体(木の実)
展示施設
- みなかみ町月夜野郷土歴史資料館
指定
- 1997年3月17日 国指定史跡、「矢瀬遺跡」
考察
アクセス等
- 名称: 鳥浜貝塚
- 所在地: 〒379-1313 群馬県利根郡みなかみ町月夜野2936
- 交通: JR上越新幹線 上毛高原駅 徒歩 10分
参考文献
鳥浜貝塚 ― 2024年11月29日 00:12
鳥浜貝塚(とりはまかいづか)は福井県にある縄文時代の遺跡である。
概要
昭和37年以来4半世紀におよぶ発掘調査が実施され、これまでの縄文人に対するイメージが完全に覆された遺跡である。福井県三方上中郡若狭町鳥浜にある縄文時代前期から草創期にかけての貝層を伴う低湿地遺跡である。鰣川と高瀬川が合流する地域の地下深くで発見された。遺物包含層は現在の地層から3mから7m下(海抜-1mから-3m)まで貝層を伴いつつ数十層に亘り堆積していた。鳥浜貝塚では、通常腐敗して残存することのないはずの草木類・種子類などの植物性遺物などの有機性遺物が25万点以上の膨大な量で出土した。 縄文時代草創期から前期の低湿地であり、有機質遺物の保存状態が極めて良い。前期には貝塚が形成され、当時の汀線付近からは杭群を検出した。縄文土器には、赤・黒の漆で幾何学文様を描いた彩漆土器や赤彩が施されている浅鉢形土器などが出土した。骨角牙貝製品には、漁具や鹿骨製斧、また髪飾りや垂飾りなどの装身具も出土した。木製品は刻歯式の櫛や石斧・弓・丸木舟・櫂などが出土した。 縄文人の多彩な生業を把握できた。遺跡のあった場所は岬の先端である。 遺跡のあった場所は岬の先端で、当時の人々は湖岸から海中に食べかすや土器を捨てていたが、水中で保存されたため、数千年後でも維持されてきた。 遺跡は調査後に水中に戻したため見学はできない。
丸木舟
鳥浜貝塚から1981年7月と1982年に丸木船が1隻ずつ出土した。前者は縄文時代前期のものであった。丸木舟としては当時は日本最古であった。
遺構
- 竪穴建物3
- 炉
- 焼土1
- 貯蔵穴5
- 貝層
- 杭群
- 貝層
- ピット
- 杭
- 礫床土坑
遺物
- 丸木舟
- 編物
- 木製品
- 植物遺存体
- 縄文土器
- 石器
- 骨角器
- 木製品
- 動物遺存体
- 貝製品
- 漆製品
- 繊維製品
展示施設
- 若狭三方縄文博物館
- 福井県立若狭歴史民俗資料館
指定
- 平成14.6.26 有形文化財 考古資料 福井県鳥浜貝塚出土品
考察
アクセス等
- 名称: 鳥浜貝塚
- 所在地: 福井県三方上中郡若狭町鳥浜
- 交通:JR小浜線三方駅から徒歩20分。
参考文献
- 鳥浜貝塚研究グループ(1987)『鳥浜貝塚』福井県教育委員会
根古谷台遺跡 ― 2024年11月28日 00:11

根古谷台遺跡(ねごやだいいせき)は栃木県宇都宮市にある縄文時代前期の環状集落遺跡である。
概要
鬼怒川の支流である姿川と武子川に挾まれた細長い台地の先端部に位置する縄文時代前期の大規模な集落跡である。遺跡は東西約300m、南北約150mである。広場の中心部に339基の土坑墓が配置され、土坑墓を囲むように竪穴住居、長方形大型建物、方形建物跡、掘立柱建物が配置される。 昭和61年、昭和62年、宇都宮市営の霊園墓地建設に先立って発掘調査が行われた。墓壙の周囲を多数の竪穴住居や長方形大型建物や方形建物、掘立柱建物などの特殊な建物跡群が環状に取り囲む。長方形大型建物が15棟検出された。発見当時は縄文時代で最大の建物と言われた。現在では三内丸山遺跡でよい大型の建物が見つかっている。 竪穴住居についても長さ8mを越える6本の主柱と多くの炉があり、頻繁に建て替えられる非常に大型のものであった。方形建物跡は、主柱4本を方形に配置し、外周を溝状に続く隅丸方形の柱がめぐる。遺跡の規模の割に出土遺物が少ない。土器は黒浜式土器が大部分である。一部に諸磯a式土器がある。土器はコンパス文を多用した土器が見られる。 国の重要文化財に指定された石製玦状耳飾等は宇都宮市役所の12階で展示される。
将軍塚古墳
駐車場脇に直径約30m・高さ約2.4m、2段築成の将軍塚古墳(円墳)が見える。出土した須恵器、土師器、鉄器は隣接の資料館で展示される。
墓壙
広場の中心部に339基の土坑墓(墓壙群)が配置される。中心に空白部があり、その周囲に5から10の墓壙が楕円状に並んでいた。穴は楕円形と円形であり、小さく浅いものがほとんどである。北西隅のまとまった8基から石製の玦状耳飾、管玉類などの装身具がみつかった。
建物跡
中心の墓域(土坑墓)を囲むように竪穴式建物、長方形大型建物、方形建物跡、掘立柱建物が建て替えを含めて69棟みつかった。長方形大型建物は、①炉の跡がない、②地表面が柔らかい、③踏み固められた床面、④出土品が少ないという特徴がある。柱穴は2列10本ある。これは住居として使われたものではなく、地域の集会場としての役割が推定されている。竪穴式建物の最大のものは、長軸13m以上の2棟がある。J5号は長軸15.2m、面積は約150m2である。最大の1号は長軸23.1m、短軸9.8mである。発掘調査報告では仮設的な建物で、墓域に関わる葬送儀礼、墓前祭祀、祖先崇拝儀礼の建物としている。
遺構
- 礫群
- 土坑
- 竪穴建物
- 落し穴状遺構 - 12基
遺物
- 根古谷台遺跡土壙出土品
- 石製玦状耳飾 4個
- 石製丸玉 2個
- 石製小玉 5個
- 石製管玉 13個
- 石匙 5個、
- 石鏃 3本
展示施設
- うつのみや遺跡の広場
- 資料館
指定
- 1990年(平成2年)06月29日 - 重要文化財(考古資料)
- 1988年(昭和63年)5月17日 - 国史跡史跡
考察
竪穴住居は入母屋であるが、梯子をかけて出入りするよう復元されている。梯子で出入りする竪穴住居はあまり見たことがない。この復元の是非は問われるかもしれない。 長方形大型建物はかなり広いもので、15名以上多人数が入ることができる。何に使ったかは分からない。弥生時代なら穀物倉庫かもしれないが、縄文時代では長期貯蔵ができないので、倉庫ではなさそうである。池上曽根遺跡の神殿と類似する葬送儀礼、墓前祭祀、祖先崇拝儀礼の場かもしれないが、それを裏付ける遺物はない。
アクセス等
- 名称: 根古谷台遺跡
- 所在地: 〒320-0855 栃木県宇都宮市上欠町170
- 交通:JR宇都宮駅西口から 関東バス楡木車庫または運転免許センター行きで「聖山公園入り口」バス停下車
参考文献
- 宇都宮市教育委員会(2018)「根古谷台遺跡」(縄文時代編)
館崎遺跡 ― 2024年11月27日 00:05
館崎遺跡(たてさきいせき)は北海道にある縄文時代の遺跡である。
概要
館崎遺跡は北海道の最南端、白神岬の北東6kmの標高24mの高台に立地する。 縄文時代前期後葉から中期中葉、後期前葉の集落遺跡である。盛土遺構、竪穴住居跡、墓、土坑、柱穴、焼土などが検出された。集落の変遷が、土層堆積状況、遺構の重複状況、住居形態、土器型式などから明らかになった。 土器91万点、石器48万点と大量の遺物が出土した。出土状況は破片状態、正立、倒立、横転状態で散逸していない状態のものが多い。本遺跡は縄文時代前期末葉から中期中葉の約500年間継続した。青森県の三内丸山遺跡と時代が重なる。注目する遺跡は国最大級の現存長37cmの大型岩偶、東北以北最多量の滑石製主体のけつ状耳飾、透明度の高い長野県産黒曜石製の石鏃がある。長野県域産黒曜石製石鏃の最北例である。本州で作られたものが館崎に持ち込まれたものと考えられている。霧ケ峰周辺から福島町まで、直線距離にして約620kmである。縄文時代の人々の活発な移動がうかがえる。北海道では見られない形状の石鏃もある。動物はオットセイ、ウトウ、アイナメ類、ソイ類など海産生物が主体である。植物は、オニグルミ殻が多いが。ヒエ属種実が確認され、クリ花粉が多量に確認された。大型岩偶正面からみると五角形で、頭と足は省略されるが、人の胴体を表している。けつ状耳飾はすべて三角形である。
コクゾウムシ
縄文時代後期の深鉢形土器に、推定500匹のコクゾウムシが練り込まれていたことが発見された。縄文時代のコクゾウムシはクリやドングリ等を餌としていたとされています。コクゾウムシは寒さに弱い昆虫のため、縄文人は暖かな屋内でクリやドングリを貯蔵して、北海道の厳しい冬を乗り越えていたことが分かる。た
遺構
- 土坑3
- 盛土遺構2
- 竪穴住居跡48
- 土坑90
- 焼土85
- 集石25
- フレイク集中48
- 小ピット385
- 杭列2
- 道路跡1
遺物
- 東釧路4式土器
- 円筒土器下層c式土器
- 円筒土器下層d式土器
- 円筒土器上層a式土器
- 円筒土器上層b式土器
- 見晴町式土器
- 土偶
- スクレイパー
- 箆状石器
- たたき石
- 石鏃
- 石錐
- 台石
- 石皿
- 北海道式石冠
- 扁平打製石器
- 石斧
- 石棒
- 烏帽子形石器
- ヒスイ製垂飾
- けつ状耳飾
- 岩偶
- 銛頭
- 釣針
- 骨針
- 垂飾
- オットセイ骨
- 植物遺体
展示施設
- 福島町チロップ館
指定
考察
アクセス等
- 名称: 館崎遺跡
- 所在地: 北海道松前郡福島町館崎337-11
- 交通:
参考文献
石塚山古墳 ― 2024年11月25日 23:00
石塚山古墳(いしづかやまこふん)は福岡県京都郡苅田町に所在する4世紀初頭の前方後円墳である。
概要
福岡県の周防灘を望む緩斜面に築かれている古墳時代前期の前方後円墳である。九州最大最古の定型化した典型的な畿内型前方後円墳となっている。墳丘は前方部は2段、後円部は3段である。墳丘は全面に葺石が施される。各稜線には水みちが設けられる。墳丘下に3条の暗渠が北から南に走り、西側の暗渠は墳裾から南に3mの地点で東に延びる。 前方部は墳丘上にある神社建立時に上面が削平されている。墳丘には葺石が見られるが、埴輪の存在は確認されていない。江戸時代の1796年に長さ5.5m、幅・高さとも1mの竪穴式石室が発掘されている。埴輪は確認されていない。江戸時代に三角縁神獣鏡が出土している。 鏡を含む出土品は1953年に国の重要文化財に指定されている。
調査
内部は墳丘中央に前向きに置かれた横口式石室で、「高松塚型」の石棺式石室とされている。凝灰岩切石を用いて、石室の規模は長さ約2.6n、幅1.04n、高さ1.06m。天井部は屋根型に0.1m、跨り込まれる。天井石は組み合わせ式である、灰白色粘土を詰めて、目張りを施す。石室閉塞の扉石は側壁南端部との接合に陵角を設ける。石室前面の墓道を設け、幅約3m、長さ5mの断面U字型を呈し、石室の南2.6mに礫敷がみられる。底面には道板を抜き去った跡の溝が2条検出される。 出土遺物は石塚山古墳より少し離れた宇原神社に所蔵されている。小倉藩主「小笠原家文書」によると銅鏡11面(「宇原神社由来記」によると14面)と金具が出土したと伝えられる。現存する鏡は岡山県備前車塚古墳、京都府椿井大塚山古墳などの出土鏡と同笵である。 1987年に再発掘が実施され、後円部の石室は大破していることがわかった。この時の発掘では細線式獣帯鏡片、琥珀製勾玉、碧玉製管玉、小札革綴冑片などが出土。
規模
- 形状 前方後円墳
- 築成 前方部:2段、後円部:3段
- 墳長 110m
- 後円部径 径60m 高9.5m
- 前方部 幅40m 長44m 高3.5m
- 標高 - 8m
遺構
- 横口式石室
遺物
- 三角縁神獣鏡7以上 舶載
- 獣帯鏡1(伝中国鏡11出土)。
- 素環頭大刀
- 銅鏃
- 細線式獣帯鏡片
- 琥珀製勾玉
- 碧玉管玉 3
- 小札革綴冑片
- 素環頭大刀
- 類銅鏃:大形11以上
- 柳葉12以上、
- 小札革綴冑
- 斧5。
築造時期
- 古墳時代前期
指定
- 1985年(昭和60年)国の史跡指定
- 2017年(平成29年)10月13日 史跡範囲の追加指定
アクセス等
- 名称:石塚山古墳
- 所在地:福岡県京都郡苅田町富久町1丁目
- 交通: JR苅田駅より徒歩15分 苅田町役場の横
参考文献
- 肥後和男・竹石健二(1973)「日本古墳100選」秋田書店
- 大塚初重(1996)『古墳辞典』東京堂出版
- 長嶺正秀(2020)『筑紫政権からヤマト政権へ 豊前石塚山古墳〔改訂版〕』新泉社
天満・宮西遺跡 ― 2024年11月24日 01:01
天満・宮西遺跡(てんまみやにしいせき)は香川県高松市にある弥生時代から古墳時代前期の集落遺跡である。
概要
天満・宮西遺跡は現在の海岸線から3km内陸側にある。高松平野の拠点集落であり、弥生時代後期に最盛期を迎えた遺跡である。弥生時代後期前葉を中心として、近畿地方をはじめとする他地域で作られた土器が多数持ち込まれており、古・高松湾に面する集落として、交易の拠点であったことが推測されている。遺跡の自然流路の西側に竪穴建物や掘立柱建物を検出している。しかし東側の銅鐸出土地点周辺には建物の痕跡は見当たらない。銅鐸は集落の外れに捨てられたものと考えられる。 天満・宮西遺跡の弥生時代前期は環濠集落であった。環濠は一重、直径約65mを測る平面円形である。弥生時代終末期に集落は最盛期となる。竪穴住居は全て周溝を有する。古墳時代前期初頭に集落は終わりを告げた。
銅鐸片
2016年(平成28年)3月23日に、天満・宮西遺跡の試掘調査を行った際に銅鐸片が出土した(高松市教育委員会(2017))。銅鐸の裾部であり、高さ約49.5 ㎝、幅約34.5 ㎝、重量4.1 ㎏の近畿式銅鐸であった。破片の大きさは、高さ約49.5cm、幅34.5cm、厚さ4mm、重量4.1kgで大型の破片である。破片から推定される全長は1mを越えており、近畿式銅鐸で最終段階に属するものである。裾に鹿あるいは鳥の絵画を鋳出している。銅鐸絵画が盛行するのは外縁付鈕2式までで、扁平鈕式古段階以後は絵画を鋳出す例が激減するとされる。近畿式銅鐸と製作時期が重なる三遠式銅鐸には近畿式銅鐸より絵画を鋳出している例が多い。今回出土の銅鐸は「突線鈕5Ⅱ式」とされる。銅鐸は破片状態で出土するものが多いが、これらは意図的に破砕されたと考えられている。今回出土した破片は重量が4.1 ㎏で、通常の全高42 ㎝ほどの扁平鈕式新段階の六区袈裟襷文銅鐸1個より重い。香川県内では21例目、高松市内では2例目の銅鐸である。
科学分析
高松市教育委員会(2017)でのICP分析によれば、天満・宮西遺跡出土の近畿式銅鐸の破片は、錫濃度2.22%、鉛濃度3.47%であった。ヒ素とアンチモンの濃度はそれぞれ0.394%、0.458%で、鉛同位体比分析(鉛同位体分析で中国華北産の鉛と判定)の結果や銀などの他の微量元素の濃度を総合すれば、前漢鏡と共通する原料金属で作られたと考えられる。つまり銅鐸の材料は中国からもたらされたものである。
遺構
弥生前期
- 環濠
- 土坑
弥生後期から古墳前期初
- 竪穴建物
- 井戸
- 溝
- 土坑
遺物
弥生前期
- 弥生土器
- 石器
弥生後期から古墳前期初
- 弥生土器
- 木器
- 銅鐸破片
展示施設
- 高松市埋蔵文化財センター
指定
- 平成31年3月15日 市指定有形文化財
考察
古墳時代になって銅鐸がなくなった理由はなんであろうか。 古墳時代において「外部勢力(渡来人)による征服」説もあるが、その明確な証拠はない。 渡来人の大量渡航はDNA分析から、弥生時代と古墳時代にあったことは事実と考えられるが、古墳時代に新たな弥生人とそれまでに定住した弥生人との戦争は考えにくい。 銅鐸は弥生時代の祭祀の道具であったが、むしろ祭祀の方法や考え方が古墳時代になって変化したことが要因として考えられる。弥生時代に鏡・剣・勾玉などを使った祭祀はあったが、それは地域ごとの首長が祭祀の主催者であった。古墳時代には地域間ネットワークが強まり、「共立された」広域連合体の王が登場し、政治体制が変化して、地域の首長を統合していった。古墳時代には王は旧来の銅鐸祭祀を否定し、新しい祭祀を提唱し、弥生時代の祭祀を抑圧した、というストーリが見えてくる。「共立された」王は前方後円墳を全国的に作らせるだけの影響力があったことが、そのひとつの証拠として提示できる。これは、もちろん「仮説」であるからさらなる証拠は必要である。
アクセス等
- 名称: 天満・宮西遺跡
- 所在地: 香川県高松市松縄町295番地1
- 交通: 琴平電鉄 三条駅から徒歩18分
参考文献
- 高松市教育委員会(2002)「天満・宮西遺跡」高松市埋蔵文化財調査報告第60集
- 高松市教育委員会(2017)「高松市内遺跡発掘調査概報」
栃木県埋蔵文化財センター ― 2024年11月23日 00:47

栃木県埋蔵文化財センター(とちぎけんまいぞうぶんかざいせんたー)は栃木県内の埋蔵文化財の保護及び調査研究、並びに保存活用・普及啓発を行う埋蔵文化財センターである。
概要
1991年(平成3年)に開館した。栃木県や国あるいは市町などの開発事業地内に遺跡が存在したときは発掘調査をし、その成果を報告書にまとめて、遺跡に残されていた情報や出土品を後世に伝える役割を担う。発掘調査で得られた出土品、写真・図面等の記録や報告書等を管理・保管し、希望者への閲覧や博物館等への貸し出しを行う。2015年11月1日より常設展示室を開館する。旧石器時代から飛鳥・奈良・平安時代までの出土品を見ることができる。
弥生文化の東西差
弥生時代の代表的な青銅器である、銅鐸、銅剣、銅矛や、稲作に関連する石包丁は栃木県内の遺跡からは発見されない。弥生時代の末期には東日本でも小銅鐸が発見される。
展示室
ミニ展示室では旧石器時代から平安時代までの出土品等を展示する。バックヤードツアーでは埋蔵文化財センターの施設を公開し、遺物収蔵庫では実物の土器に触れることができる。
- 異形土器 竹下遺跡、宇都宮市竹下町、縄文時代後期
- 注口土器 横倉遺跡、栃木県小山市、縄文時代後期前半(堀之内2式)
- 六鈴鏡 仁良川2号墳、栃木県下野市、古墳時代後期
- 人面把手付土器 浄法寺遺跡、栃木県那珂川町、縄文時代中期(大木8a式)
- 鯨面土偶 後藤遺跡、栃木県栃木市、縄文時代晩期
- 子持勾玉 相生町遺跡、栃木県足利市、古墳時代後期
アクセス等
- 正式名称:栃木県埋蔵文化財センター
- 開設 :1991年(平成3年)4月1日
- 開館時間 : 9:30~16:30(入館は16:00まで)
- 入館料 : 無料
- 休館日 : 祝日、毎週土曜日、年末年始
- 所在地 :〒329-0418 栃木県下野市紫474
- 交通 : JR小金井駅徒歩47分/3.4km
最近のコメント