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平原遺跡(糸島市)2025年03月30日 00:25

平原遺跡(糸島市)(ひらばるいせき)は福岡県糸島市にある弥生時代から古墳時代の複合遺跡である。

概要

糸島市の雷山塊の麓に伸びる曽根丘陵の先端付近に位置する。丘陵の西に雷山川、東に瑞梅寺川が流れる。400m東の石ヶ崎遺跡があり、そこでは支石墓1基、甕棺23基、土坑墓3基を検出した。支石墓は弥生前期のもので、主体部は組み合わせ木棺と想定されている。 平原遺跡1号墓は東西18メートル、南北14メートルの長方形の墳丘墓で、40面におよぶ銅鏡が出土し、弥生時代では日本最多である。そのうち5面の「内行花文鏡」は直径46.5センチメートルで日本最大の銅鏡である。1号墓は伊都国女王の墓と考えられている。副葬品などから弥生時代終末期(西暦200年前後)のものと判明している。 平原遺跡の遺物は伊都国歴史博物館で展示している。 同名の遺跡は佐賀県唐津市、福岡県八女郡広川町、山口県宇部市、島根県益田市、広島県広島市など多数ある。前原市は糸島市と合併している。

調査

1965年(昭和40年)1月に前原市有田の井手勇祐、セツ子、信英氏ら土地の所有者がミカンの木を植えるための溝を掘ったところ、農作業中に偶然、平原遺跡1号墓が偶然発見された。福岡県教育委員会を調査主体として平原遺跡調査団が結成され、前原在住の考古学者原田大六を中心に多くの市民の協力を得ながら約3ヶ月半に及ぶ調査が行われた。 遺跡の主体は周溝墓群である。中心となる遺跡は、幅2m前後の周溝が18m×14mの長方形上にめぐる周溝墓群である。中央に4.5m×3.6mの墓壙があり、長さ3mの割竹形木棺を収めていたと考えられる。棺内からガラス製勾玉、管玉、連玉、小玉、瑪瑙製管玉、琥珀丸玉など多量の玉類が発見された。棺外から素環頭大刀、刀子と破砕した42面文の銅鏡片が発見された。方格規矩鏡35、だ竜鏡1、長宜子孫連狐文1、倣製錬狐文鏡5がある。このうち錬狐文鏡4は同型鏡であり、径46.5cmの巨大なものであった。土器などの遺物と出土状況から弥生時代後期のものと考えられる。遺構はこのほか土壙墓群や弥生時代の柱穴や井戸がある。

出土

1号墓

1号墓の墳丘中央部に東西長4.6m、南北幅3.5mの墓壙が掘られ、王は内面に赤く朱を塗った割竹形木棺の中に頭位を西に向けて安置されていた。胸には青いガラス製の勾玉を身につけ、傍らからはガラス小玉が出土した。棺の内外から計40面の破砕された銅鏡、鉄素環頭大刀、耳とう、瑪瑙(めのう)管玉が出土している。出土した副葬品は一括して国宝に指定されている。1号墓は弥生時代後期(2世紀後半)に築かれたと考えられている。 ガラス製「耳とう」(現在のピアスに相当する)は古代中国の漢の時代の女性専用の装身具である。漢の貴族の女性が身に着けているが、日本での出土はこれだけである。武器類は少なく、装身具が多く出土していることから、女王の墓と考えられている。鏡・大刀・勾玉という『三種の神器』が副葬されていた。 平原王墓には総数40面の銅鏡が副葬されていた。平原王墓から出土した銅鏡のなかでも同じ型からつくられた5面の内行花文鏡は直径46.5cmに達する。わが国において最大であり、世界にも類を見ない超大型の銅鏡である。弥生時代では、ひとつの墓から出土した銅鏡の数として日本一である。大型内行花文鏡のうち1面は九州国立博物館、4面は伊都国歴史博物館に展示される。 平原王墓の西に二対、北裾に一対の鳥居状の並び柱跡が確認されている。王墓の東に直径約70cmの大柱を埋めた柱穴が検出された。葬送の儀礼に際して樹立された柱群と考えられている。対の並び柱は鳥居のような役割を果たしたと考えられている。

2号墓

2号墓に埋葬された人物は、1号墓の王の近親者である可能性が高い。1号墓の南西に築かれた東西7mほどの隅丸方形の墳墓で中央に舟形木棺の埋葬痕跡が残っている。周溝および周溝周辺で出土した土器から弥生時代終末~古墳時代初頭に築かれたものと考えられている。

3号墓

主体部は不明であるが、刀子1本、滑石製臼玉、ガラス小玉、鉄鏃、土師器が出土した。古墳時代前期と考えられている。

4号墳

3号墓の南西部に築かれた径55ほどの円墳で、中央部から土壙墓を検出した。副葬品はなかった。

5号墓

5尾号墓は、隅丸方形プランの墳丘墓で、5.6m×5.2mの規模である。墳丘裾から弥生時代後期初頭の小児を埋葬した土器棺が出土した。墓群中最古の墓である。付近に2面分の銅鏡(前漢鏡)片が採集されており、この墓に副葬されていた可能性が高い。 古い順に、5号墓 → 1号墓 → 2号墓 → 3号墓・4号墳 の順であり、2号墓までは弥生時代、3・4号墓は古墳時代に入ってからの築造と想定されている。

シルクロード経由のガラス玉

奈良文化財研究所の田村朋美主任研究員らの分析により、平原遺跡で出土したガラス玉は、ユーラシアのシルクロードの一つ「草原の道」経由でもたららされたものであることが」判明した。古代のガラス交易路の調査で訪れたモンゴルで、弥生時代と同時期に栄えた騎馬民族・匈奴の墓で出土したガラス連珠が平原遺跡のものと色や形がよく似ていることを確認し、また同じ連珠はカザフスタンの遺跡でも出土していた。カザフスタン両国の研究機関や平原遺跡の出土品を収蔵する糸島市立伊都国歴史博物館と協力し、3遺跡の連珠の成分を蛍光X線分析装置で測定すると、ナトロンという塩類を使ったソーダガラスで、アンチモン、マンガンなどの微量成分を含んでおり、同じ場所で作られた可能性が高いと判明した(参考文献2)とされる。

遺構(弥生時代から古墳時代)

  • 墳丘墓3
  • 古墳2
  • 大柱3
  • 木棺墓4
  • 住居7
  • 特殊建物1
  • 掘立柱建物3
  • 溝2
  • 土坑23
  • 方形周溝墓18.0×14.0m
  • 割竹形木棺
  • 2号墓
  • 大柱1
  • 立柱2
  • 土壙墓3
  • 土坑3
  • ピット

遺物

  • 銅鏡40
  • 素環頭大刀1
  • ガラス製勾玉3
  • ガラス製珥トウ2
  • メノウ製管玉12
  • ガラス製管玉30以上
  • ガラス製小玉482
  • ガラス製連玉
  • ガラス製丸玉
  • 弥生土器
  • 土師器
  • 鉄器
  • 石器
  • 倭製内行花文鏡(銘文なし、完形46.5cm)3面、
  • 同(銘文なし、欠損46.5cm)、
  • 同(銘文なし、完形27.1cm)、
  • 尚方作流雲文縁方格規矩四神十二支鏡(完形23.3cm)、
  • 同(完形21.1cm)、
  • 同(完形20.9cm)、
  • 同(欠損20.9cm)、
  • 同(欠損18.4cm)、
  • 同(完形18.4cm)、
  • 尚方作流雲文縁方格規矩四神鏡(完形16.1cm)、
  • 同(銘帯(欠損16.1cm)、
  • 同(欠損16.1cm)、
  • 尚方作鋸歯文縁方格規矩四神鏡(完形16.1cm)、
  • 同(完形15.9cm)、
  • 同(完形15.8cm)、
  • 同(完形16.6cm)、
  • 尚方作鋸歯文縁方格規矩四神十二支鏡(完形18.5cm)、
  • 同(完形20.5cm)、
  • 同(完形18.7cm)、
  • 同(完形18.5cm)、
  • 同(欠損18.8cm)、
  • 同(完形18.8cm)、
  • 同(欠損18.8cm)、
  • 同(欠損18.6cm)、
  • 銘帯鋸歯文縁方格規矩四神十二支鏡(欠損18.7cm)、
  • 陶氏作鋸歯文縁方格規矩四神十二支鏡(完形18.8cm)、
  • 同(完形18.8cm)、
  • 同(完形18.8cm)、
  • 同(完形18.4cm)、
  • 同(完形18.4cm)、
  • 陶氏作鋸歯文縁方格規矩四神鏡(完形16.6cm)、
  • 同(完形16.6cm)、
  • 同(完形16.2cm)、
  • 同(完形16.4cm)、
  • 無銘鋸歯文縁方格規矩四神鏡(完形12.0cm)、
  • キ龍文鏡(銘文なし、16.5cm)、
  • ガラス製勾玉

指定

  • 1982年(昭和57年)10月、国の史跡に指定。

所在地等

  • 名称: 平原歴史公園
  • 所在地:〒819-1132  福岡県糸島市有田1番地他
  • 交通:JR筑肥線「筑前前原駅」からバス(曽根線・雷山線)乗車10分「平原古墳入口」バス停下車、徒歩約3分/平日は17時までバスはない(平日7:10,17:05,17:35,18:05)(土日祝は8:25,10:45,12:45,14:25)

展示施設

  • 名称:伊都国歴史博物館
  • 名称:九州国立博物館 「内行花文鏡」1面、方格規矩四神鏡

参考文献

  1. 前原市教育委員会(2000)『前原市文化財調査報告書70:平原遺跡』前原市教育委員会
  2. 「伊都国王墓ガラス玉、草原の道から」、朝日新聞, 2021年9月18日
  3. 福岡県教育委員会(1965)「福岡県糸島郡平原弥生古墳調査概報」
  4. 馬淵久夫(2016)_「漢式鏡の化学的研究5」考古学と自然科学,日本文化財科学会誌 (70), pp.29-49

東町田墳墓群2025年03月25日 00:07

東町田墳墓群(ひがしまちだふんぼぐん)は岐阜県大垣市昼飯町にある弥生時代終末期から古墳時代前期にかけての墳墓と古墳である。

概要

金生山麓から連なる標高15~18mの段丘上に弥生時代終末期に築造された直径17.6mなど2基の円形墳丘墓が遺存する。近接して同時期の一辺10m前後の方形周溝墓2基がある。 方形周溝墓が一般的な弥生時代終末期に円形墳丘墓を築造していた。その後は、前方後方墳(前方後方形周溝墓)と方墳(方形周溝墓)が築造される段階から、前方後円墳が安定的に築造される。古墳成立期の東海地域の状況をよく表している。

調査

方形周溝墓2基と円形墳丘墓2基を発掘調査し、方形周溝墓の溝内から絵画土器(平成27年7月22日市重要文化財指定)が出土した。古墳時代前期に墓域は東方に移り,墳長22mなど2基の前方後方墳(前方後方形周溝墓)と一辺14mなど3基の方墳(方形周溝墓)が築造された。遺物としては口縁部内面に人物、外面の胴部上半に切妻高床建物、シカなどの動物を描いた絵画土器や水銀朱が付着する石臼などが出土した。

絵画土器

絵画土器は、方形周溝墓周溝の底部から10cm ほど上で潰れた状態で出土した。器高24.8cm、口径14.1cm、胴部最大径約24cm。絵画は壺口縁部内面に1 カ所、胴部上半に6カ所に線刻で描かれる。内容は口縁部内面に「人物」、胴部上半に①切妻高床建物、②辟邪視文、③鹿1 ④鹿2、⑤犬、⑥棟持柱付切妻高床建物である。人物は両腕を上に上げ、魂振をしている姿とされる。高床建物は壁のない屋根倉形式で、建物に窓が描かれる。棟先飾に雲のようなものが描かれる。鹿は地霊の象徴と言われる。

遺構

弥生時代

  • 竪穴建物

古墳時代

  • 前方後方形周溝墓 2
  • 竪穴建物

弥生時代、古墳時代

  • 環濠
  • 土坑
  • 方形周溝墓

遺物

旧石器

  • 槍先形尖頭器

弥生時代

  • 弥生土器
  • 石器
  • 須恵器
  • 土師器
  • 石製品
  • 土器
  • 石製品
  • 鉄製品

古墳時代

  • 絵画土器
  • 石臼

指定

  • 平成29年2月9日 国指定史跡

展示

考察

アクセス

  • 名称:東町田墳墓群
  • 所在地:岐阜県大垣市昼飯町東町田
  • 交 通:

参考文献

中原遺跡2025年03月21日 23:51

中原遺跡(なかばるいせき)は佐賀県唐津市にある縄文時代、弥生時代前期から中期の複合遺跡である。

概要

松浦川右岸の旧砂丘上に位置する。遺跡地は標高約50mの台地一帯である。

調査

大正末期に大串の右近杏葉によって調査され報告されて、遺跡とされた。明治10年頃大串の三崎原で石斧4個が見つかった。崩れた田圃の修復工事中に発見したもので、田中袈裟一氏が保管していた。上無津呂の長野峠の道路工事中(大正12年頃)に石斧が発見され、右近も春日神社境内裏手から石鏃を発見した。春日神社裏の杉の杜から昭和34年、松石恵市君(当時小6で大野小ケ倉)も黒燿石の石鏃を発見した。 1965年の九州大学・パリ大学の合同調査で甕棺6基が検出された。また中期後半の4・5号甕棺から管玉、勾玉、中期末の7号甕棺から鉄戈1、管玉6、小玉1が検出された。棺外から鉄戈1が発見された。 1985年、1986年には唐津市教育委員会が調査し、古墳時代前期の方形周溝墓と5世紀の古墳が発見された。 1995年(平成7年)の栗並遺跡の発掘調査では、縄文式土器の数片が発掘された。これらの石斧や石鏃は縄文時代以前となる石器時代のものとされた。 2001年から2005年の発掘調査では首長など地域の上位階層者のものとみられる三つの墓で鏡、玉、剣の三つが揃って出土した。青銅鏡や管玉は中国や朝鮮半島などからの伝来品で、当時の流通を知る上で価値が高い。

出土

旧石器時代細石刃文化期,縄文時代早期・中期・後期の遺物等が出土している。 本遺跡の出土遺物は縄文時代中期末から後期と、限定されているが遺物の種類も多く,その出土量は膨大にある。旧石器時代の遺物は細石核2点がある。縄文時代早期の遺物は,少量であるが、前平式・吉田式の貝殻文系の円筒形土器,撚糸文系の塞ノ神式土器等が出土した。 縄文時代中期末から後期の遺物には,南福寺下層式類似・阿高式系・中津式類似・福田KⅡ式・縁帯文土器類似・彦崎KⅠ式酷似・津雲A式酷似・指宿式・倉園A式・一湊松山式・市来式等の土器,石斧・石錘・敲石・磨石・石皿・軽石製調整具等の石器が出土した。 瀬戸内地方の磨消縄文系土器と南九州在地系土器が多量に出土したことが本遺跡の特徴である。また,石錘の出土量等から川や海での漁労との関わり合いが深いことが推察された。

鉄生産

中原遺跡から鉄を削る際に火花として散る不純物の塊「鉄滓」や大量の鉄が出土しており、他地域にも供給していた。木簡を削る小刀として使い、鉄器の裁断によって生じた鉄片は弓矢の矢尻として再利用していた。弥生時代後期には中原遺跡で鉄器生産が始まり、島原半島や熊本の人々が鉄を手に入れようと航路を通ったとされる。

遺構

土壙墓

  • 祭祀土坑
  • 古墳

遺物

  • 弥生土器
  • 土師器
  • 木製品
  • 木簡
  • 墨書土器
  • 中空円面硯
  • 子持ち勾玉
  • 須恵器
  • 内行花文鏡
  • 方格規矩鏡
  • 浮彫式獣帯鏡
  • 素環頭小刀
  • 刀子
  • 勾玉(ヒスイ製)
  • 管玉(碧玉製)

指定

所在地等

  • 名称: 中原遺跡
  • 所在地:佐賀県唐津市原字溜ノ内・西ノ畑
  • 交通:

参考文献

  1. 志布志町教育委員会1985「中原遺跡」『志布志町埋蔵文化財発掘調査報告書』9
  2. 唐津市教育委員会(1987)『中原遺跡』

銅剣2025年03月18日 00:10

銅剣(どうけん,Bronze sword)は銅製の剣である。

概要

日本の弥生時代の銅剣は大陸から輸入された実用的利器と、戦闘用に使えない祭器として使用される国産品の2種類があった。 日本では縄文時代の石剣、銅剣から、弥生時代中期中ごろには鉄剣が使用された。鉄製武器到来までの時期は短いため、銅剣が実際に戦場で使用された期間は比較的短かいと考えられている。銅剣は九州地方、中国・四国地方などに集中して分布する。 朝鮮半島から銅剣が伝わった直後から日本で銅剣の製作が開始され、弥生時代中期初頭からである。

形の変化

日本には弥生時代に朝鮮半島製の短剣がもたらされた。しかし日本では朝鮮半島の細形銅剣と異なる独自の形態に変化し、銅剣の使い方は武器から祭器に変化し、伝来時の銅剣とは全く異なる形に変化した。すなわち実用武器から実用を離れた祭祀・儀式用となっていった。荒神谷遺跡からは総計358本の銅剣が出土した。

形態

銅剣の形態には細形銅剣・中細形銅剣・平形銅剣がある。細形銅剣は中国製、中細形銅剣・平形銅剣は国産である。

出土例

  • 陣山出土銅剣 香川県善通寺市与北町陣山、弥生時代
  • 銅剣 荒神谷遺跡、島根県出雲市、弥生時代
  • 銅剣 加茂岩倉遺跡、島根県雲南市、弥生時代

参考文献

  1. 大塚初重(2019)『巨大古墳の歩き方』宝島社
  2. 大塚初重(1996)『古墳事典』東京堂出版
  3. 会下和宏(2007)「弥生時代の鉄剣・鉄刀について」日本考古学14 巻 23 号

野多目遺跡2025年03月15日 00:40

野多目遺跡(のためいせき)は福岡県福岡市にある旧石器時代から縄文時代、弥生時代に渡る複合遺跡である。

概要

野多目遺跡は福岡市西部を北に流れる那珂川左岸の標高15mから20mほどの段丘上にある。 那珂川河口から南に8kmの地点で、弥生時代開始期の遺跡として全国的に有名な板付遺跡は本遺跡の北東3.5kmにある。 弥生時代には野多目遺跡は板付遺跡と同様に晩期終末の水田遺構が検出され、水系の異なる両遺跡の関係は福岡平野における弥生時代開始期の状況を解明するために極めて重要な遺跡とされる。野多目遺跡の周辺には前方後円墳の老司古墳など有名な遺跡が存在している。 野多目遺跡は野多目A遺跡、野多目B遺跡、野多目C遺跡、野多目D遺跡などを合わせて野多目遺跡群という。

調査

遺跡は戦前から知られていたが、昭和54年から発掘調査が始まり、旧石器時代の包含層、縄文時代の貯蔵穴・落とし穴、同終末の水田関係遺構、弥生時代の住居・貯蔵穴や墓地、古墳時代の住居・墳墓、古代から中世の集落、近世の集落跡などが確認された。 1987年の調査では水田跡が認められ、弥生時代の開始期、突帯文土器から板付Ⅰ式の段階が認められた。水路祭祀の遺物、水路を検出した。野多目A遺跡では第二次調査で弥生時代開始期(突帯文土器単純期)の水田(水路、井堰、水口、土坑等)が検出された。A遺跡の第4次調査では縄文時代後期の土器の精製土器が出土した。鉢形土器の口縁部片である。 野多目B遺跡第一次調査では縄文時代後期前半の旧河川.溝状遺構、弥生時代前期の水田水路を検出した。野多目C遺跡群では旧石器時代の三稜尖頭器・台形石器、縄文時代中期後半~後期初頭の貯蔵穴などが出土した。第三次調査では縄文時代晩期の貯蔵穴.溝状遺構を確認した。

縄文時代

縄文時代後期から晩期(約4,000~2,400年前)のドングリの貯蔵穴、稲作開始期の水田跡などが発見された。縄文的な採集経済から弥生的な生産経済への移り変わりを示す遺跡である。

遺構

旧石器時代

  • 集石
  • 包含層

弥生時代

  • 畦畔
  • 水路5
  • 井堰3
  • 水口8
  • 土坑5
  • 掘立柱建物1
  • 溝2

遺物

旧石器時代

  • ナイフ形石器
  • 台形石器
  • 細石刃
  • 細石核
  • 角錐状石器

縄文時代

  • 石器類
  • 堅果類

弥生時代

  • 弥生土器
  • 石器
  • 夜臼式土器
  • 磨製石斧
  • スクレイパー
  • 石包丁
  • 石鏃
  • 須恵器
  • 打製石鏃
  • 打製石斧
  • 石包丁

指定

アクセス等

  • 名称:野多目遺跡
  • 所在地:福岡県福岡市南区野多目字古古賀522
  • 交通:天神大牟田線 大橋駅 徒歩33分

参考文献

  1. 福岡市教育委員会(1987)『野多目遺跡群- 稲作開始期の水田遺跡の調査』福岡市埋蔵文化財調査報告書 第159集
  2. 福岡市教育委員会(1997)「野多目A遺跡 4」福岡市埋蔵文化財調査報告書第527集

纒向型前方後円墳2025年03月11日 00:40

纒向型前方後円墳(まきむくがたぜんぽうこうえんふん)は奈良県桜井市の三輪山西麓の纒向遺跡周辺で発生した前方後円墳の形態をいう。

概要

纒向型前方後円墳は前方部が短いホタテ貝古墳に近い形状である。出現期の大型前方後円墳であり。古墳時代中期の帆立貝式古墳とは異なり、全長・後円部・前方部の長さが3:2:1となっている。纏向遺跡が3世紀初めに出現し、最古の纏向石塚古墳が造られた。纏向石塚古墳は前方後円墳が定型化する以前の全長96mの帆立貝形前方後円墳であり、周濠から大量の土器、弧文円板と呼ばれる木製品が出土した。これ以降、前方後円墳は王権の象徴となる。纏向勝山古墳の周濠のくびれ部埋土中から見つかった檜材は、年輪年代測定法による調査の結果、AD203年から211年の間に伐採された木と判定され、伐採後すぐに古墳上に建てられたとされる。定型化された前方後円墳は箸墓古墳で確立される。 纒向型前方後円墳は古いタイプの前方後円墳とされ、寺沢薫によって纒向石塚古墳をはじめとする奈良県の纒向古墳群の検討から提唱された考え方である。

弥生墳丘墓説

纒向型前方後円墳は弥生時代の墓であるため「弥生墳丘墓」とする説もある。

寺澤薫による説明

寺澤薫(2008)は最古の定型化した前方後円墳である箸墓古墳の直前に作られた6基の古墳を纒向型前方後円墳とする。纒向型前方後円墳は定型化した前方後円墳に比べると前方部が未発達であり、前方部が小さくその先端は明確でないものが多い。前方部の長さは後円部の直径に比べると約2分の1となる。纒向型前方後円墳は、纏向から全国に広がり、南は鹿児島から、北は福島県に及んでいる。柳本古墳群では6基が「纒向型前方後円墳」とされる。

事例

  1. 石名塚古墳 - 奈良県天理市柳本町石名塚、
  2. マバカ古墳 - 奈良県天理市成願寺町、-纏向石塚古墳 - 奈良県桜井市太田字石塚、
  3. 矢塚古墳 - 天理市萱生町、全長96m、前方部幅34m、後円部径62m
  4. ホケノ山古墳- 奈良県桜井市大字箸中字ホケノ山
  5. 纏向勝山古墳 - 奈良県桜井市東田字勝山、
  6. 神門4号墳 - 千葉県市原市
  7. 山戸4号墳 - 兵庫県姫路市

参考文献

  1. 寺澤薫(2008)『王権誕生』講談社

牟田辺遺跡2025年03月03日 23:58

牟田辺遺跡(むたべいせき)は、佐賀県多久市南多久町にある弥生時代中期から古墳時代の複合遺跡である。

概要

佐賀県多久市の標高15nから60mの丘陵縁辺に位置する。 弥生時代には拠点集落として人々が生活を営んでいた場所で、1974年以後 7 回に渡り発掘調査が行われた。その間に細形銅剣などの副葬品や甕棺墓群、環濠などが発見された。第 7 次調査で、弥生時代中期の環濠集落や 5 世紀中頃につくられた前方後円墳と円墳、6 世紀ごろにつくられた円墳が発掘された。古墳群は14基が確認された。前方後円墳は見晴らしの良い丘の上にあり、王族の墓と考えられる。全長18メートルと前方後円墳としては小規模であるが豊富な副葬品が発見された。前方後円墳から出土した馬具の一種とみられている「三環鈴」や「鈴杏葉」は大変状態が良く、当時の音色を聴くことができり。さらに石室から見つかった装身具の「獅噛文帯金具」は出土例がほとんどなく、小さな古墳から発見されることも珍しい品であり。 多久は石器の材料になる安山岩の原産地で、2万年以前から人々が生活をしていたとされる。また安山岩が豊富なことから、独自の文化が育まれた特殊な地域だったことが伺える。

調査

昭和40年に通称「勘太郎丘」で地元の学生が土器出を発見したことにより、遺跡が知られた。1974年(昭和49年)から2018年まで7回の発掘調査が行われた、2017年からの次調査で、弥生時代の遺構や古墳3基を発見した。第4次調査により、「勘太郎丘」の末端部にあたる第1区西で甕棺墓60基が検出され、71号甕棺墓には細形銅剣、硬玉製勾玉、碧玉製管玉、48号には円環型銅釧、碧玉製管玉が副葬されていた。また馬具の「三環鈴」や「鈴杏葉」などが出土している。9号墳は墳丘に葺石を張る墳丘18.5mの前方後円墳である。横穴式石室がある。「獅噛文帯金具」は獣の顔をあらわす複数の小型の金具を帯に装着する。獅子のベルト一式が出土したのは、国内初である。獅噛文帯金具の全容が判明した。朝鮮半島と日本列島合わせて13例しか知られない希少品である。

遺構

  • 円墳
  • 前方後円墳
  • 甕棺墓
  • 柱穴
  • ピット+土坑

遺物

  • 細形銅剣
  • 碧玉製管玉
  • 円環型銅釧
  • 三環鈴
  • 鈴杏葉
  • 獅噛文帯金具
  • 石器
  • 土器
  • 青銅器鋳型

指定

  • 平成15年3月10日 佐賀県重要文化財 牟田辺遺跡甕棺墓出土遺物

展示

  • 多久市郷土資料館

時期

弥生時代中期から古墳時代

アクセス

  • 名称:牟田辺遺跡
  • 所在地:〒846-0024 佐賀県多久市南多久町大字下多久下多久牟田辺3851
  • 交 通:東多久駅 から徒歩42分

参考文献

  1. 文化庁『発掘された日本列島 2021』共同通信社