庄・蔵本遺跡 ― 2026年02月27日 00:43
庄・蔵本遺跡(しょうくらもといせき)は、、徳島市庄町・蔵本町一帯、鮎喰川下流右岸の三角州性扇状地東縁、眉山北麓に広がる、縄文時代晩期から近代に至る複合遺跡である。とくに弥生時代前期の初期農耕集落の実像を復元できる遺跡として、西日本でも重要視されている。
1.立地と環境的特質(補足)
鮎喰川は吉野川水系最大級の支流で、下流域に氾濫原・旧河道・微高地が発達する。
遺跡は微高地(自然堤防状地形)上に居住域を置き、北側低地に水田を展開する立地選択の合理性が明確である。
洪水堆積砂層が弥生前期末~中期初頭に確認され、自然災害と集落変動の関係を検討できる点も重要である。
2.弥生前期集落の構造(修正・整理)
弥生前期前葉~中葉段階では、以下の三領域構造が確認されている。
① 居住域
- 竪穴住居群が複数棟検出
- 居住域を囲む二重の大溝(環濠的性格)
- 防御・区画・排水の複合機能をもつ可能性
② 墓域
- 方形周溝墓群(中期)
- 居住域に近接しつつも明確に区分される
③ 生産域
- 水田遺構(用水路・畦畔痕跡)
- 旧河道利用の灌漑システム
2006年度西病棟地点調査で「畑作痕跡(畝状遺構)」を確認
「水田+畑作の複合農耕」が実証された点は、初期弥生社会像を考えるうえで極めて重要である。
3.出土遺物の意義
- 弥生前期土器群
- 中期方形周溝墓副葬品
- 後期の中国鏡片
- 銅鐸片
これらは、
- 瀬戸内~畿内との交流
- 威信財流通
- 儀礼的要素の存在
を示唆しており、単なる農耕村ではなく、広域ネットワークに接続された拠点的集落であった可能性を示している。
4.洪水と集落変動(重要な視点)
洪水による砂層堆積は、低地水田の埋没や用水機能の断絶を招き、集落構造の再編を促した可能性がある。
5.調査史の整理
調査史は次の段階で進展した。
- 1982年以降、30次以上の発掘調査
- 徳島大学蔵本団地造成・再開発に伴う継続的調査
- 2006年度西病棟地点調査で畑作遺構確認
まとめ
庄・蔵本遺跡は、徳島市庄町・蔵本町に所在する縄文晩期から近代に至る複合遺跡であり、とくに弥生時代前期の初期農耕集落の全体像を復元できる点で重要である。鮎喰川下流の自然堤防上に居住域を置き、二重の大溝で区画された集落の周囲に墓域・水田・畑作地が展開する構造が確認されている。旧河道を利用した灌漑施設や洪水堆積層の検出は、環境と農耕社会形成の関係を具体的に示す。中期の方形周溝墓群、後期の中国鏡片・銅鐸片の出土は広域交流を示唆し、吉野川下流域における弥生社会形成の中核的遺跡として位置づけられる。
吉野川流域弥生社会の形成
1.弥生文化受容の前提(前段階)
縄文晩期段階、吉野川下流域ではすでに
- 河川沿いの定住的集落
- 低湿地利用の知識
- 漁撈・採集と水辺環境への適応
が蓄積されていた。
この環境適応の基盤が、弥生前期における水田農耕の導入を円滑にしたと考えられる。
2.弥生前期:初期農耕集落の成立
弥生前期前葉には、吉野川下流の自然堤防・微高地上に初期農耕集落が成立する。 その代表例が庄・蔵本遺跡(徳島市)である。
この段階の特徴は:
- 居住域・墓域・生産域の明確な空間分化
- 旧河道を利用した灌漑水路
- 水田耕作と畑作の併存
- 環濠(大溝)による区画
ここで重要な点は、単なる農耕技術の導入ではなく、「集落構造そのもの」が農耕社会型へ転換している点である。 つまり、吉野川流域では計画的農耕集落が比較的早い段階で成立したことを意味する。
3.中期:集落の拡大と階層化
弥生中期になると、
- 方形周溝墓の増加
- 集落規模の拡大
- 墓制の差異化
が見られ、社会的階層化の萌芽がうかがえる。
特に方形周溝墓の分布は、
- 家族単位
- 小規模首長層
の存在を示唆する。
吉野川は四国山地から瀬戸内海へと通じる交通路でもあり、物資流通の幹線であった可能性が高い。
4.後期:広域交流と首長層の形成
弥生後期には、
- 中国鏡片
- 銅鐸片
- 威信財の流入
が確認される。
これは吉野川流域が、
- 瀬戸内海沿岸
- 畿内
- 北部九州
とつながる広域交流圏の一端に組み込まれたことを示す。
吉野川は四国山地を横断する自然回廊であり、内陸と沿岸を結ぶ交通軸として機能したと考えられる。
5.環境変動と社会再編
吉野川は氾濫を繰り返す暴れ川である。
弥生前期末~中期初頭に確認される洪水砂層は、
- 水田の破壊
- 集落移動
- 土地利用の再編
を引き起こした可能性がある。
この点は、吉野川流域の弥生社会が「自然環境との相互作用の中で形成された社会」であることを示す。
6.形成過程の総合像
吉野川流域の弥生社会形成は、次の三段階で整理できる。
- ① 受容段階(前期前葉)
- 水稲農耕導入と計画的集落成立
- ② 定着段階(前期後葉~中期)
- 灌漑体系整備・墓制分化・階層萌芽
- ③ 統合段階(後期)
- 広域交易参加・威信財流入・首長層形成
7.歴史的意義
吉野川流域は、
- 四国東部最大の農耕適地
- 瀬戸内海と内陸を結ぶ交通軸
- 初期農耕社会の実験場
という三つの要素を兼ね備えていた。 そのため、
- 四国における弥生社会の中心形成地域
と評価できる。
遺構
- 溝2
- 土坑2
- 土器溜
- 河川1
- 土器棺墓4
遺物
- 弥生土器
- 剣形木製品
- 木製品
- 輸入鏡片
- 斜縁二神二獣鏡か(銘文なし、破片10.4cm、1983年発掘)
- 弥生土器
- 石器
- 炭化米
展示
考察
指定
アクセス等
- 名称 :庄・蔵本遺跡
- 所在地 :徳島県徳島市庄町1丁目77/蔵本町2-50-1
- 交 通 :
参考文献
- 滋賀県百科事典刊行会編(1984)『滋賀県百科事典』大和書房
- 滋賀県史蹟名勝天然紀念物調査會編(1939)『滋賀県史蹟調査報告 第8冊 小野神社と唐臼山古墳』滋賀県県
- 中村豊・定森定夫(2007)「徳島・庄・蔵本遺跡」,『木簡研究』29
- 一山典・滝山雄一(1985)「徳島市庄遺跡出土の弥生時代木製品」『考古学ジャーナル』252
六野瀬遺跡 ― 2026年02月23日 00:55
六野瀬遺跡(ろくのせいせき)は、福島県阿賀野川右岸の河岸段丘縁辺部(標高約25m)に立地する弥生時代前期末~中期初頭の再葬関連遺跡である。 1938年、明治大学を中心に杉原荘介・乙益重隆らによって発掘調査が実施された。
概要
調査では、8組の土器群とともに伸展葬1例が確認され、骨を土器に再収容した再葬墓の存在が明らかとなった。壺形土器の口縁部を打ち欠き、その内部に遺骨を納め、鉢形土器を倒置して蓋状にかぶせる構造が特徴的である。
本遺跡は、東日本における再葬墓の成立と展開を示す初期事例の一つであり、岩櫃山遺跡と並んで北関東~南東北における弥生前期文化の様相を示す重要資料とされる。
再葬墓は、一次葬後に遺体を一定期間風化させ、洗骨・選骨を経て土器に収め再埋葬する葬制であり、縄文時代後期から弥生時代にかけて各地で確認される。現在、全国で約150遺跡前後が報告されている。
再葬墓の社会構造的意味 ― 階層性はあったのか
再葬墓は、縄文後期から弥生時代にかけて広く見られる葬制であり、一次葬後に洗骨・選骨を行い、土器などに再収容して埋納する形式をとる。その社会的意味、とくに階層性の有無については、研究史上大きく三つの立場がある。
1 階層未分化説(共同体的平等性)
この立場では、再葬墓は血縁・地縁共同体の象徴的結束儀礼とみなされる。
- 副葬品が乏しい
- 土器の規格差が小さい
- 墳丘規模の差異が限定的
- 男女差・年齢差が明瞭でない
といった点が根拠とされる。
とくに東日本の事例では、土器再葬が一定の形式で繰り返されることから、特定の支配層ではなく共同体構成員全体を対象とした儀礼とする見解が有力である。
福島県の六野瀬遺跡のように、複数の再葬土器群がまとまって検出される場合も、階層差よりも集団墓地的性格が強調される傾向にある。
2 緩やかな階層化認識説
一方で、近年は「完全な平等」とする見方にも再検討が加えられている。
注目点は以下である:
- 土器の製作精度や型式差
- 骨の選択性(頭骨中心など)
- 再葬回数の差
- 再葬土器の配置位置
一部の遺跡では、大型土器や丁寧な加工例が限定されることがあり、これは「社会的評価の差」を反映している可能性が指摘される。
ただしそれは、のちの古墳時代のような明確な首長階層ではなく、
- 年長者・祭祀主宰者・家系長などの緩やかな権威差 とみるのが一般的である。
3 儀礼的権威集中説
一部研究では、再葬は単なる埋葬ではなく
- 洗骨
- 再収容
- 再埋納
という複雑な過程を伴うため、儀礼を統括する特定層の存在を想定する。
この場合、再葬墓は
- 祖先祭祀の場
- 共同体の記憶装置
- 土地所有の正統化装置
と解釈される。
とくに弥生中期以降、環濠集落や地域中心集落の成立と重なる場合、再葬は社会統合の象徴儀礼とみなされることもある。
地域差という視点
西日本(北部九州など)では甕棺墓の発達とともに階層化が比較的明瞭になるが、東日本では再葬土器墓が比較的長く続き、階層性は弱い。
したがって、
- 再葬=未階層社会
と単純化することはできないが、
東日本の再葬墓は、強い階層分化を示す証拠に乏しい
というのが現状の到達点である。
遺構
- 墳墓
- ピット
- 土坑
遺物
- 縄文土器
- 弥生土器
- 石器
指定
考察
アクセス
- 名称:六野瀬遺跡
- 所在地:新潟県阿賀野市渡場六野瀬
- 交通:
参考文献
- 安田町教育委員会(1992)『新潟県安田町文化財調査報告12:六野瀬遺跡1990年調査報告書』
茄子作遺跡 ― 2026年02月22日 00:26
茄子作遺跡(なすづくりいせき)は枚方市(大阪府北東部・北河内地域)に所在する弥生時代後期から古墳時代中期にかけての複合遺跡である。遺跡は枚方丘陵および交野台地(交野ヶ原)の中位段丘面に立地し、周辺には小規模谷地形が発達する
1. 立地と周辺環境
遺跡の東方に位置する神宮寺遺跡では縄文時代早期の押型文土器を伴う石組遺構・炉跡が確認されており、本地域が長期にわたり断続的に利用されてきたことがうかがえる。茄子作遺跡は丘陵斜面と谷地形を利用した立地であり、後述する須恵器窯の設置条件とも整合的である。
2. 弥生時代後期~古墳時代初頭の集落
昭和49年(1974年)の調査では、以下の遺構が検出された。
- 竪穴住居跡 4棟
- 方形周溝墓 1基
- 土坑群
- 大溝
- 井戸状遺構
これらは弥生時代後期から古墳時代初頭に比定され、居住域と墓域が近接して展開する小規模集落の存在を示す。とくに方形周溝墓の検出は、首長層の成立や地域的階層化の進展を考える上で重要である。
3. 初期須恵器の出土と生産遺跡の可能性
2004~2006年度調査では、谷の旧流路から初期須恵器が出土した。これらには以下の特徴が認められる。
- 器体の溶着
- 焼成時の歪み
- 焼台の伴出
これらは製品ではなく焼成過程に関連する資料である可能性が高く、当該地域一帯に須恵器生産集団が存在したことを示唆していた。
4. 2025年度調査:初期須恵器窯跡群の確認
2025年度の調査では、丘陵斜面において3基の地下式窯からなる「初期須恵器窯跡群」が確認された。
とくに西側の3号窯は、
- 両側に排水・補助機能をもつ溝を備える地下式構造
- 5世紀前半に比定
とされる。
斜面を利用した地下式窯の構造は、朝鮮半島系技術を背景とする初期須恵器生産技術の展開を具体的に示すものであり、本遺跡は北河内地域における須恵器生産の実態を示す重要事例となった。
5. 陶邑窯跡群との関係と意義
従来、5世紀以降の須恵器生産は大阪府南部の陶邑窯跡群が中核的役割を担ったと理解されてきた。しかし、茄子作遺跡の窯跡群は、
- 北河内地域における早期生産拠点の存在
- 生産の地域的分散可能性
- 陶邑成立以前または同時並行的な技術展開
を示唆するものであり、須恵器生産体制の成立過程を再検討する契機となる。
遺構
- 竪穴住居
- 溝
- 流路
- 土坑
- ピット
- 落込み
遺物
縄文時代
- 縄文土器
- 弥生土器
- 石製品
- サヌカイト剥片
古墳時代
- 土師器
- 須恵器(初期須恵器含む)
- 木製品
- ミニチュア土製品
- 焼台
- 鉄製品
指定
考察
アクセス
- 名称:茄子作遺跡
- 所在地:大阪府枚方市茄子作南町地先
- 交通:
参考文献
- 大阪府文化財センター(2008)「茄子作遺跡」
東小田峯遺跡 ― 2026年02月10日 00:14
東小田峯遺跡(ひがしおだみねいせき)は、福岡県朝倉郡筑前町に所在する、弥生時代前期から中期にかけて営まれた集落遺跡および墓域からなる複合遺跡である。筑紫平野北端部、曽根田川西岸の河岸段丘上に立地し、低湿地と段丘という異なる自然環境を近接して利用できる点に特徴がある。この立地条件は、水田耕作に適した土地と安定した居住域を同時に確保するうえで有利であり、弥生時代初頭における農耕集落の成立を支えたと考えられる。
概要
本遺跡では、日本列島に稲作が伝来して間もない段階から本格的な水稲農耕が行われていたことが確認されており、北部九州における弥生時代集落の展開を考えるうえで中核的な位置を占める遺跡と評価されている。集落規模や墓域の形成状況、社会的分化を示す考古資料の存在から、同時期の北部九州に成立した政治的・社会的単位、すなわち『魏志倭人伝』に記される「国」に類似した社会構造と比較しうる規模と性格を備えていた可能性が指摘されている。ただし、文献史料と直接対応させることは慎重であるべきであり、あくまで社会構造の類似性という観点からの比較にとどめられる。
東小田峯遺跡の特徴
東小田峯遺跡の大きな特徴の一つは、青銅器製造に関わる遺構・遺物が確認されている点である。坩堝、青銅器の土製鋳型、炉壁片などが出土しており、遺跡が単なる農耕集落ではなく、青銅器の鋳造を行う技術集団を内包していたことが明らかとなっている。内陸部に立地しながらも、沿岸部の須玖岡本遺跡や三雲南小路遺跡と共通する高度な金属加工技術を有していた点は注目され、技術や原材料が広域的なネットワークを通じて流通していた可能性を示している。
発掘史
1926年(大正15年)には、甕棺に収められた前漢鏡と鉄戈が偶然発見され、副葬品を伴う甕棺墓の存在が知られるようになった。戦後の昭和20年代以降には、地元の朝倉高等学校史学部による継続的な調査が行われ、弥生時代前期に成立した居住域と墓域が明確に区分された遺跡であることが確認された。さらに、昭和60年から62年にかけて県営圃場整備事業に伴う大規模発掘調査が実施され、甕棺墓427基が確認されている。これは北部九州の弥生時代前期墓地としても有数の規模であり、集団が長期間にわたり安定して存続していたことを示す。
遺跡の構造
遺跡は大きく三つの区画に分かれ、北側および南側に甕棺墓が集中する墓域が形成されている。一方、調査区中央部ではL字状の溝によって区画された範囲に居住域が確認されており、生活空間と埋葬空間を明確に分離する集落構造が認められる。この墓域の中で特に注目されるのが、南側墓域に位置する10号甕棺墓である。
10号甕棺墓
10号甕棺墓は、約20メートル四方の平面規模をもつ隅丸方形の墳丘墓(2号墳丘墓)のほぼ中央部から検出された。甕棺内からは、重要文化財に指定されている前漢鏡2面(内行花文清白鏡・内行花文日光鏡)をはじめ、鉄戈1本、鉄剣1本、鉄製鑷子1点、円形のガラス製璧2点、布片などが出土した。鉄戈は柄を装着した状態で、甕棺の接合部直上に置かれており、被葬者の武的・象徴的性格を強く示す配置と考えられる。
これらの副葬品の内容と質から、10号甕棺墓の被葬者は東小田峯遺跡における最高位の人物、すなわち当該集団を統率した首長的存在であったと評価できる。一方で、須玖岡本遺跡や三雲南小路遺跡の首長墓と比較すると、副葬品の点数や構成には差異が認められ、より広域的な政治秩序の中では下位に位置づけられる首長であった可能性が高い。このように、東小田峯遺跡の首長像は、「遺跡内部では最高位でありながら、北部九州全体では中位ないし下位の首長」という二重の評価によって理解される。
ガラス製璧が示すもの
ガラス製璧は、三雲南小路遺跡、須玖岡本遺跡、東小田峯遺跡の三遺跡から共通して出土しており、科学分析の結果、バリウムを含む鉛ガラス製であることが明らかとなっている。これらは威信財として首長層に限定的に配布された可能性が高く、三遺跡が同一または密接に連関した社会圏に属していたことを示唆する資料といえる。
その他の遺構
このほか、調査区南側の357号甕棺墓では、長辺約3.7メートル、最大幅約3.3メートルの大型土坑内から細形銅剣が出土している。この銅剣は背幅が細く、鋒部の研磨が丁寧であることから、実用武器というよりも象徴的・威信的性格を帯びた青銅器であった可能性が指摘されている。また、114号竪穴建物跡から出土した銅矛の土製鋳型は朝鮮半島系青銅器の系譜を引くものであるが、その製作技術は前漢鏡の鋳型と共通しており、複数の技術系統が在地で融合・継承されていたことを示している。
土器の特徴
土器類についても多量の丹塗土器や黒塗土器が出土している。丹塗り注口土器には、ベンガラなどの顔料を用いて赤色に彩色し、ヘラ状工具で表面を丁寧に磨き上げたものが含まれ、儀礼や饗宴など特定の場面で使用された可能性が高い。一方、塗装や仕上げが簡略な土器も認められ、用途や使用場面の違いに応じた土器製作が行われていたことがうかがえる。
東小田峯遺跡にみる弥生時代前期の階層分化
弥生時代前期の社会構造をめぐっては、階層分化の進展度をどのように評価するかが長く議論されてきた。近藤義郎(1983)は、「弥生時代前期の埋葬においては、副葬品の有無や多少にかかわらず、多くの場合、一般埋葬との間に明瞭で際立った差異を示さない」ことを指摘し、この時期の社会がまだ固定的な身分制度を形成していない段階にあったと論じている。この見解は、弥生前期社会を基本的に平準的な集団として捉える立場を代表するものといえる。
一方で、近年の発掘調査の進展により、弥生時代前期においても、集団内部における地位差や役割差が、限定的ながら物質文化として表出し始めている事例が各地で報告されている。とりわけ北部九州では、甕棺墓の一部に漢鏡や鉄製武器、ガラス製装身具などの威信財が集中する例が知られ、階層分化の萌芽を示す資料として注目されている。
東小田峯遺跡は、このような研究動向の中で、弥生時代前期における階層分化の具体像を検討するうえで重要な事例を提供する遺跡である。同遺跡では、427基に及ぶ甕棺墓が確認されており、その大多数は副葬品に乏しく、埋葬施設の規模や構造にも大きな差異は認められない。この点において、東小田峯遺跡全体の墓制は、近藤が指摘した「差異の乏しい弥生前期墓制」の一般的傾向と整合的である。
しかしながら、その中にあって南側墓域に位置する10号甕棺墓は、明確に異なる性格を示す。10号甕棺墓は、約20メートル四方の平面規模をもつ隅丸方形の墳丘墓の中心部に位置し、前漢鏡2面、鉄戈、鉄剣、ガラス製璧など複数の威信財を組み合わせて副葬している点で、一般の甕棺墓とは画然と区別される。この差異は、副葬品の数量的増加にとどまらず、漢鏡や鉄製武器といった象徴性の高い物資が集中している点に特徴がある。
このような状況は、東小田峯遺跡において、集団内部における社会的地位の差異が、まだ全面的・制度的な階層構造として確立する以前の段階で、特定の個人に集中的に表現され始めたことを示していると考えられる。すなわち、社会全体としては依然として平準的な性格を保ちつつも、その中から首長的役割を担う個人が析出し、対外関係の統括や儀礼の主宰といった機能を象徴的に体現する存在が現れた段階と位置づけることができる。
また、10号甕棺墓に副葬されたガラス製璧が、須玖岡本遺跡や三雲南小路遺跡と共通する素材・製作技術を有することは、東小田峯遺跡の首長的個人が、広域的な交流圏の中で威信財の分配や技術・物資の媒介に関与していた可能性を示唆する。この点からみると、東小田峯遺跡の階層分化は、単なる経済的格差の反映ではなく、象徴資源や対外関係の掌握を通じて形成された「権威の差異」として理解することが妥当である。
以上のように、東小田峯遺跡は、弥生時代前期における階層分化が、集団全体の均質性を基盤としながらも、首長的個人の突出という形で徐々に可視化されていく過程を具体的に示す遺跡である。その様相は、弥生社会における階層形成が、急激な身分制度の成立ではなく、象徴的・機能的差異の蓄積を通じて段階的に進行したことを示す重要な考古学的証拠として位置づけられる。
東小田峯遺跡の位置付け
以上のように、東小田峯遺跡は、初期水稲農耕の展開、青銅器鋳造技術の存在、大規模墓域と首長墓の形成といった要素を併せ持つ、北部九州弥生社会の構造を理解するうえで極めて重要な遺跡である。その社会的性格は、『魏志倭人伝』に描かれる倭国世界と比較可能な側面を持ちつつも、在地的首長権のあり方を具体的に示す点に、本遺跡の大きな意義が認められる。
遺物
- 内行花文清白鏡 - 重要文化財
- 内行花文日光鏡 - 重要文化財
- 鉄戈 1本
- 鉄剣 1本
- ガラス璧 2点
- 鉄鑷子 1点
- 黒塗土器
- 丹塗土器
- 坩堝
- 青銅器鋳型
- 炉壁
- 細形銅剣
- 銅矛土製鋳型
指定
- 昭和63年6月6日 国指定重要文化財(考古資料)、九州国立博物館に一括保管
アクセス
- 名称:東小田峯遺跡
- 所在地:〒838-0214 福岡県朝倉郡筑前町東小田
- 交 通:九州旅客鉄道 原田駅から徒歩52分。
参考文献
- 文化庁(2022)『発掘された日本列島2022』共同通信社
- 「発掘された日本列島 東小田峯遺跡」東京新聞,2022年6月8日
- 伊都国歴史博物館(2022)『伊都国王誕生』伊都国歴史博物館
- 近藤義郎(1983)「集団墓地から弥生墳丘墓へ」『前方後円墳の時代』岩波書店
金隈遺跡 ― 2025年12月09日 00:48
金隈遺跡(かねのくまいせき)は福岡県福岡市にある弥生時代の遺跡である。
概要
福岡市の南東で、標高30m前後の地点に位置する。弥生時代前期中頃から後期前半に渡る約400年間の弥生時代の墓地である。
調査
昭和43年の春、桃畑の開墾中に遺跡が発見された。昭和44年から45年に遺跡を発掘調査し、弥生時代の前期後半から後期初頭にかけての甕棺墓348基、土壙墓119基、石棺墓2基が確認された。埋葬された遺体の骨の保存状態が良好であり、形質人類学上資料として意義あるものと認められた。発掘指導には岡崎敬九州大学教授(当時)、西谷正九州大学助教授(当時)も当たった。甕棺墓から136体の人骨が出土した。平均身長は、男性が162.7cm、女性が151.3cmである。祭祀遺物は193号甕棺の上面に高杯と円筒形の器台がみられる。土墳墓の発生は板付ⅡⅠ式期であった。 甕棺は成人用134基に対して、小児用は214基である。当時の幼児死亡率は高かったと推測される。金隈の弥生人は男女とも中頭型に属しており、土井ヶ浜の遺骨に近似する。
遺構
- 甕棺墓203
- 土壙墓92
遺物
- 弥生土器
- 人骨
展示
- 金隈遺跡甕棺展示館
指定
- 昭和47年5月17日 国指定史跡
アクセス等
- 名称:金隈遺跡
- 所在地:福岡市博多区金の隈一丁目39番52号
- 交通:西鉄バス「金隈遺跡前」から徒歩約5分
参考文献
- 福岡市教育委員会(1985)「史跡金隈遺跡」福岡市埋蔵文化財発掘調査報告書第123号
下古沢松ヶ枝遺跡 ― 2025年12月06日 00:21
下古沢松ヶ枝遺跡(しもふるさわまつがえいせき)は、神奈川県厚木市にある弥生時代、古墳時代、平安時代の複合遺跡である。
概要
厚木市西部の高松山丘陵と東側の丘陵に開削された台地から丘陵裾部への転換点に当たる位置にある。
調査
発掘調査は2023年8月1日から11月27日、2024年9月4日から11月26日にかけて行われた。第2地点から弥生時代から古墳時代前期、古代、近世以降の3時期が検出された。
弥生時代から古墳時代
竪穴住居跡は調査区の東側で2棟を確認した。平面形は楕円形と方形である。Y2号竪穴住居跡から柱痕4基、炉跡1基を確認した。Y1号は一部が調査区外である。
古代
古代の遺構は主として平安時代である。古代の住居跡は合計22棟が確認された。22棟中13棟で竈が確認された。住居の同じ方向に作り付けられている。平面形はすべて方形である。3m四方と5m四方の2種類がある。集落は長期に渡り存続した可能性がある。出土遺物は少なめであり、土師器、須恵器、灰釉陶器が多い。甲斐型坏、武蔵型甕も見られる。古墳時代後期の土器も確認された。
遺構
- 竪穴住居跡
遺物
- 土師器、
- 須恵器、
- 灰釉陶器
展示
考察
指定
アクセス等
- 名称 :下古沢松ヶ枝遺跡
- 所在地 :神奈川県厚木市下古沢字松ヶ枝347番地
- 交 通 :
参考文献
- 厚木市(2025)「令和7年度厚木市遺跡講演会」資料集
土生遺跡 (佐賀) ― 2025年12月01日 00:23
土生遺跡 (佐賀)(はぶいせき)は、佐賀県小城市にある弥生時代前期末から弥生時代中期の農耕集落遺跡である。
概要
佐賀平野の北の天山山系を源流とする祇園川と晴気川によって形成された扇状地上に位置する。佐賀平野西部において最大規模の遺跡である。南北約150m、東西約250mの範囲に広がる平地集落遺跡である。 遺跡から住居跡が発見され、多数の木製農耕具・石器・土器などが検出された。本遺跡の性格は、伴出する城の越式土器などから、主として弥生式時代中期の農耕集落遺跡と見られる。出土した遺物には胴部に牛角状の把手をもつ壺や口縁部に粘土紐を貼り付けた瓶があり、朝鮮の無文土器の影響が指摘されている。住居跡と推定される柱根十数本は、直径30cm前後であり、底部には筏穴を設けるなど、弥生時代の建築部材としては独特である。住居跡・貯蔵穴・井戸跡などが確認されている。 朝鮮半島からの渡来人が在来の人々と一緒に居住していたことが判明している。 遺跡は土生遺跡公園として整備されている。
調査
1971年(昭和46年)8月27日、三日月町(現小城市)の石炭鉱害水田復旧工事現場で偶然発見された遺跡である。9月に緊急発掘調査を実施した。耕作土下25cmから多量の土器片と木片が出土した。1972年(昭和47年)10月に第二次調査を実施した。 多量の弥生土器(壺形土器、鉢形土器、甕型土器、蓋形土器、高坏形土器、器台形土器)と鋤や全長43cmの二叉鍬、全長62cmの板鋤、斧、柄鍬・竪杵・杓子・織具などの木製農工具、石剣、石斧、石戈、石包丁、漆器4例、3cm角の麻布、が発見された。 平成4年度に銅ヤリガンナ鋳型1点、13年度に青銅器鋳型2点、14年度には青銅器鋳型4点が出土した。
踏鋤
出土した踏鋤は木製の組合せ式であり、柄・鋤身・鐔・楔の四部材から構成されている。朝 鮮半島では「タビ」と呼ばれ、韓国大田出土の踏鋤は畑を耕す道具とされる。全体の形状がはっきりと判明する例は珍しい。
放射性炭素14年代測定
九州大学による鑑定結果は「BP2590±200」であった。紀元前650年頃であろうか。
遺構
- 土坑
- 柱穴
- 溝
- 河川
- 堰
- 包含層
- ピット
遺物
- 無文土器
- 靴形木製品
- 弥生土器
- 石器
- 木製品
- 土製品
- 青銅器
- 勾玉
- 管玉
展示
考察
指定
- 昭和48年(1973年) 国史跡に指定
アクセス等
- 名称 :土生遺跡
- 所在地 :佐賀県小城市三日月町久米2488-2
- 交 通 :JR小城駅 車 5分
参考文献
- 佐賀県教育委員会(1973)「土生・久蘇遺跡」佐賀県文化財調査報告書25集
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