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2026年05月14日 00:09

(もがり)は死者を最終的に埋葬するまでの間、遺体を殯宮などで一定期間安置し、その周囲で葬送儀礼を継続的に行う一連の過程を指す。単なる遺体の保管ではなく、死者の魂の扱い、遺族の悲嘆の表現、さらには権力継承を含む社会的・政治的機能を併せ持つ重要な葬送儀礼である。

概要

古墳などに埋葬される被葬者の殯では、遺体は棺に納められ、仮設の施設である殯宮(もがりのみや)に安置される。殯宮は、故人の居館や宮殿の近くに設けられる場合が多く、死者と生者の関係を維持する空間として機能したと考えられている。

小倉久美子(2017)は、殯を「埋葬までの間、遺体を仮安置・仮埋葬し、それに伴う儀礼の総体」と定義している。小倉は仮埋葬と記述するが、必ずしも仮埋葬を伴うものではない点が重要である。小倉(同前)は遺体の傍近くで過ごすことが喪に服す行為と考えられていたと指摘する。 殯では一定期間安置・葬送された遺骸(被葬者)が、最終的な埋葬の場である古墳(石室・棺)へ運ばれる。同時に、被葬者が身につけていた装身具や、副葬品(刀剣、甲冑、鏡、馬具など)も一緒に納められる。

時代による性格の違い

殯は時代によって性格が異なるため、時期別に区別して理解する必要がある。

  • 古墳時代の殯
    • 古墳時代においては、首長層を中心に長期間にわたる殯が行われたと考えられている。考古学的資料をもとに復元される殯は、古墳築造や葬送儀礼と密接に関係するプロセスであった。
  • 古代国家期(飛鳥~奈良時代)の殯
    • 文献史料、特に『日本書紀』などにより、天皇の殯の具体像が知られる。この時期には、殯は国家的儀礼として制度化され、政治的意味合いがより強まった。
    • 例えば、天武天皇の殯は約2年に及んだとされる一方で、後代には期間の短縮化も確認されている。

殯の期間とその意味

殯の期間は数ヶ月から数年に及ぶ場合があり、身分の高い人物ほど長期化する傾向がある。ただし、その理由については複数の解釈が存在する。

和田晴吾は、殯の長期化について以下のような要因を指摘している。

1. 死の受容過程

遺体の変化(腐敗やその後の白骨化)を通じて、死が不可逆的であることを確認する過程とする見方がある。ただし、これはすべての事例に当てはまるわけではなく、一つの有力な解釈とされる。和田は魂が肉体を離れ、死が完全に確定するまでには時間が必要だと考えられていたと指摘する。

2. 古墳築造との関係

古墳の築造には時間を要するため、その完成まで遺体を安置する必要があった可能性がある。和田(2024)は、「首長の死後に古墳づくりが本格化する」ケースも多いと指摘しており、古墳が完成するまでの間、遺骸は殯宮(もがりのみや)に安置され続けた。 ただし、古墳が生前から計画的に築造されていたとする見解もあり、一概には断定できない。

3. 政治的調整期間

殯の期間は、次の首長への権力継承や副葬品の準備、関係集団との調整を行うための時間として機能した可能性が指摘されている。和田(2024)は豪華な副葬品の調達や準備や、周辺氏族との調整など、社会的な儀礼を整えるために長期の殯が必要とされたとする。 小倉久美子(2017)は「文武天皇の殯宮までは長い期間にわたって遺体が安置」されたが、「元明太上天皇の遺体は崩御からわずか六日後に埋葬された」として、殯の期間の短縮化が見られると指摘した。

殯宮の場所と性格

殯宮(もがりのみや)は、故人が生前に暮らしていた「正宮(居館・屋敷)」の庭や、その近くに建てられた仮の小屋であった。古墳時代の殯(もがり)は、単なる遺骸の安置ではなく、死者の魂を見守り、生者の世界と切り離すための重要なプロセスであったため、故人と縁の深い場所が選ばれた。 殯宮は仮設的な施設であるが、その規模や構造は被葬者の地位に応じて異なったと考えられる。特に高位の人物の場合、殯宮の周囲には殯庭(もがりのにわ)と呼ばれる空間が設けられ、多数の参列者を伴う儀礼が行われた可能性がある。

殯宮は単なる安置施設ではなく、以下のような多面的機能を持つ空間であった。

  • 死者の魂を扱う宗教的空間
  • 遺族が喪に服す場
  • 権力継承を示す政治的舞台

殯における主要儀礼

殯宮では、死者の死を徐々に受け入れるための精神的なプロセス、及び新権力者への継承を盤石にするための政治的なプロセスが並行して行われた。殯宮では、死者との関係を維持しつつ、最終的に死を受容するための多様な儀礼が行われた。 主な活動や儀礼は、「哭(な)く」「歌い舞う」「語る」の3つが柱となる。

1.魂呼びの儀礼

魂を引き留める儀礼(復活の願い)である。 死後すぐは「魂が体から離れただけ」の仮死状態と考えられていたため、魂を呼び戻そうとする儀礼が行われた。魂呼び(たまよばい)として 歌、踊り、楽器の演奏(歌舞)を行い、賑やかに振る舞うことで、死者の魂を肉体に引き戻そうとした。飲食の供えは死者がまだ生きているかのように、棺の前には日々食膳が運ばれた。

2. 哭(こく)の儀礼

「死」の確定と悲嘆の儀礼である。遺体の腐敗が進むにつれ、生者はその死が取り戻せないものであることを物理的に確認し、深い悲しみを表現した。発哭(みねたてまつり)は遺族や関係者が大声で泣き叫ぶ儀礼である。特に皇太子などの次継者が激しく慟哭することで、故人への忠誠心と深い哀悼を示した。遺族や関係者が泣き悲しむ行為は、死の受容を社会的に表現する重要な儀礼であった。

3. 誄(しのびごと)

生前の功績を讃える儀礼(政治的継承)である。故人の功績を称える弔辞であり、同時に後継者の正統性を示す政治的意味を持つと解釈されている。 殯宮の周囲に整えられた「殯庭(もがりのにわ)」では、社会的な秩序を確認するための儀式が行われた。誄(しのびごと)では故人の生前の徳行や功績を讃える弔辞を読み上げる。和田晴吾(2014)は、誄を述べる行為が「亡き首長への称賛」であると同時に、新首長がその正当性を周囲に認めさせる「継承の儀」でもあったと指摘している。このように、殯宮は単なる遺体の安置所ではなく、「死者の復活を願う場」から「死を認め、新しい時代へ移行する場」へと変化していくステージであった。

殯宮の設置場所

1. 殯宮設置場所の具体例 天皇(大王)の場合

生前居住していた宮殿(正宮)の南庭(みなみのにわ)などに建てられた。例えば天武天皇の際は、亡くなった正宮の南庭に殯宮が建てられたことが『日本書紀』に記されている。地方首長の場合はその首長が拠点としていた居館(屋敷)の敷地内に「喪屋(もや)」が建てられたと考えられている。

2. 場所が持つ意味

殯宮は次のリーダーが弔辞(誄:しのびごと)を述べるなど、儀礼を通じて権力を引き継ぐ(権力継承の場として)政治的なステージとなった。

3. 殯宮の構造

葬儀が終われば取り壊される前提の仮設の建物であり、簡素な構造であったが、高貴な人物の場合は周囲に「殯庭(もがりのにわ)」と呼ばれる広場が整えられ、大規模な儀礼が行えるようになっていた。

古墳へ遺骸を運ぶ際の葬列(行列)

和田晴吾(2024)の議論の通り、殯から古墳へ遺骸を運ぶ際の葬列(行列)は存在したと考えられている。 古墳時代の葬儀は、遺体を単に運ぶ作業ではなく、被葬者の魂を「他界」へ送り届けるための壮大な演劇的儀礼であった。殯宮から古墳まで、装飾された船(喪船)や馬、多くの人々が連なる葬列が組まれていたと考えられている。 当時の他界観では、死者の魂は「船」に乗ってあの世へ行くと信じられていた。そのため、葬儀では実物大の飾られた船(喪船)に遺体を乗せ、それを古墳まで「牽引(引く)」する儀礼が行われたという説がある 墳の周囲に並べられた人物埴輪や動物埴輪の列は、この「葬列」そのものを表現(可視化)しているという見方がある。 古墳時代の葬列(葬送儀礼)には、単なる遺骸の運搬を超えた、政治的・宗教的に重要な3つの役割があるとされる。 身分の高い者の葬送(葬列)では、棺を台座に乗せ、大勢の人間が肩で担いで運ぶ「輿」または「棺台」が用いられた。これは平安時代以降の葬儀形式の原型となる。古墳の被葬者などの有力者の場合は、より装飾的・儀礼的な「輿」や専用の「棺台」に乗せて運ばれるのが通例とされている。多くの有力者は、白骨化が進んだ状態で石室に納められた。出土した人骨に顔料(赤色の水銀朱など)が塗られている例もあるが、これは白骨化した後に施されたと推定されている。

1. 他界への「旅立ち」

当時の他界観では、死者の魂は鳥に先導され、「船」に乗ってあの世へ赴くと考えられていた。和田(2024)は葬列の最大の役割は、この「他界への旅」を現実の世界で演劇的に再現することにあった。遺骸を乗せた喪船(または船を模した棺・ソリ)を、殯宮から古墳まで大勢で「引く」行為そのものが、死者が他界へ向かうプロセスを象徴していた。行列には、死者の魂が迷わないよう魂を導く宗教的な意味も込められていたとする。 他界観との関係では、当時の人々は、死者の魂が別世界(他界)へ移行すると考えていた。殯から埋葬に至る一連の過程は、この移行を円滑に行うための宗教的実践であったと理解される。 船や鳥などが他界への移動を象徴するモチーフとして重視されるが、実際の葬送方法との関係については慎重な検討が必要である。

2 首長権「継承」の可視化

葬列は、先代の首長の権威を讃えると同時に、新首長への権力継承を社会的に示す場でもあった。首長の氏族や臣下たちが序列に従って列をなすことにより、共同体の中での地位や絆を再確認し、死によって生じた社会的な穴を埋める役割を果たた。 壮大な葬列を組んで古墳へとゆっくりと進む様子は、遺された一族の力と、新たなリーダーシップを周囲に誇示する政治的パフォーマンスでもあった。

3.「葬列」の表現が埴輪

生者の世界との「境界」の構築葬列を経て、遺骸を古墳(石室)に密封することによって、生者の世界と死者の世界を切り離す(辟邪(へきじゃ))の役割がある。邪悪なものの遮断とは遺骸が「暴れ出さない」よう、また邪悪な霊が侵入しないよう、儀礼的に古墳へと送り届け、厳重に密封する。和田(2024)は、古墳の墳丘に並べられた埴輪の列こそが、この「葬列」を永続的に固定化し、可視化したもの(他界の完成)であると指摘している。

まとめ

殯は、死者の魂の扱い、遺族の心理的過程、そして社会的秩序の再編成を同時に進行させる複合的な葬送儀礼といえる。特に首長層においては、殯は単なる葬儀ではなく、共同体の再統合と権力継承を担う重要な社会的装置として機能していたと考えられる。

参考文献

  1. 小倉久美子(2017)「日本古代喪空間の変遷」『万葉古代学研究年報』奈良県立万葉文化館企画普及課編 (15),pp.19-29
  2. 小倉久美子(2016)「殯の歴史的展開」万葉古代学研究年報,奈良県立万葉文化館企画普及課 編 (14),pp.15-30
  3. 李壮雄(2025)「百済武寧王と王妃の喪葬礼 : 殯と仮埋葬を中心に」『東アジア諸地域における王室儀礼比較史のための国際的研究基盤の構築』
  4. 穂積裕昌(2024)『殯の考古学』雄山閣
  5. 稲田奈津子(2015)「日本古代の喪葬儀礼と律令制」吉川弘文館
  6. 和田萃(1973)「殯の基礎的考察」『終末期古墳 : 論集』塙書房
  7. 和田晴吾(2024)『古墳と埴輪』岩波書店
  8. 和田晴吾(2014)『古墳時代の葬送と他界感』吉川弘文館

竹原古墳2026年05月14日 00:07

竹原古墳

竹原古墳(たけはらこふん)は、福岡県宮若市に所在する古墳時代後期(6世紀後半)の装飾円墳である。

概要

遠賀川の主要な支流である犬鳴川の支流の黒丸川と山口川にはさまれた丘陵上に位置する装飾古墳である。直径約17.5m、高さ約5mの円墳である。竹原の諏訪神社の境内にある装飾古墳である。 石室の奥の壁画に冠を被った人物や船、その下に海の波が4つある。前室の壁には向かって左側に玄武、右側に朱雀が描かれる。龍や朱雀など大陸からの影響が認められる。

調査

神社の裏山の古墳群で、9基の古墳からなる。竹原古墳は1956年(昭和31年)3月18日に発見された。九州考古学会員の清賀義人らが古墳の中に入ると石室に壁画を発見した。開口してから盗掘の噂が立ち、翌年に調査して、文化財に指定された。埋葬施設は全長6.7mの複室構造の横穴式石室で、前室は長さ1.3m、幅1.7m、高さ2.2m、玄室は長さ2.70m×幅2.20m、玄室の天井高は3.00mである。副葬品として馬具(轡、雲珠、杏葉、鋲留金具等)、装身具(金環、銀環、勾玉、ガラス玉等)、武具(刀身、柄、鉄鏃等)などが出土した。馬具の種類が多く,鉄地銅張り金被せ七葉形鏡板付き轡1点や鉄製素環鏡板付き轡2点など。鉄地銅張り金被せ七葉形の杏葉3点、心葉形3点、楕円形3点がある。築造年代は,墳丘及び石室の構造,副葬品などから、6世紀後半と想定されている。 墳丘は2段築成である。墳丘は東側から南側にかけて大きく削平されており、諏訪神社の社殿が建立されている。

壁画の解釈

壁画の具体的内容

東に青龍、西に白虎、南に朱雀、北に玄武が配置される。竹原古墳には青龍、朱雀、玄武が描かれており、白虎はない。翳は貴人にさしかける団扇状の日よけである。古代の豪族が儀式などで使用する。龍は赤い火を吐き体に赤い斑点を描く。最も高い位置に描かれる。 波形文は人物と馬が船に乗っているかのような波形である。小舟も描かれている。 人物像は小型の馬を牽く姿で描かれ、冠をかぶり、みずら髪と尖った靴、膨らんだズボンを身につける。

使用顔料

石室の岩肌に直接顔料で図を描いている。3個所に赤と黒の2色で壁画を描く。赤の顔料はベンガラ(酸化鉄)、黒は炭素である。

四神説などの解釈

壁画の解釈には四神信仰説、葬送儀礼説などがあり、かつては騎馬民族との関連を指摘する説もあった。 基峰修(2018)は竹原古墳の壁画を四神図と判断した。古代中国を起源とする四神は,朝鮮半島を経由して,6世紀後半には九州地方に伝わっている。東西南北に動物の形状をした神が配置され、それぞれの方角を守るとの信仰である。**高松塚・キトラとの比較 7世紀末~8世紀初頭に築造された高松塚古墳やキトラ古墳の石室(横口式石榔)内で描かれた四神図が伝わっていたことは以前から知られていた。竹原古墳はそれらより100年ほど前の築造になる。日本書紀の記述から奈良時代以降でも国家の儀式で四神幡(旗)が重要な役割を果たしていた。四神信仰は奈良時代の国家祭祀にも取り入れられていた。 九州地方における四神思想受容を示す古墳として注目される。

規模

  • 形状 円墳
  • 径17.5m、高5m

遺構

遺物

  • 耳環
    • 金環
    • 銀環
  • 玉類
    • 銀製中空丸玉
  • 鉄刀
    • 圭頭大刀
  • 鉄鏃
  • 刀子
  • 杏葉
  • 鏡板等
  • 須恵器
  • 弥生土器

指定

  • 1957年(昭和32年)2月22日 国史跡に指定

築造

  • 6世紀後半

展示

  • 竹原古墳保存観察施設

アクセス

  • 名称:竹原古墳
  • 所在地:福岡県宮若市竹原731番地2
  • 交 通: 博多駅または直方駅発のJR九州バス乗車。福丸または黒目橋で降車後、徒歩約20分から30分

参考文献

  1. 基峰修(2018)「壁画四神図の比較分析: 竹原古墳壁画の再検討」人間社会環境研究第35号2

柳田布尾山古墳2026年05月13日 00:14

柳田布尾山古墳(やないだぬのおやまこふん)は、富山県氷見市に所在する古墳時代前期(4世紀前半頃)の前方後方墳である。。

概要

柳田布尾山古墳は1998年に西井龍儀氏によって発見され、現地調査により全長100mを超える前方後方墳であることが確認された。北陸地方有数の首長墓と考えられている。発見当時は古墳北側で宅地造成の土砂採取が行われ、西側でも土砂採取が進行していた。特に西側の土砂採取は墳丘後方部のすぐ横にまで迫っており、周濠の一部が破壊され、法面(採土跡の斜面)に断面が露出する状態であった。埴輪や葺石は確認されていない。墳丘周辺から古墳時代前期の土師器が出土しており、築造年代推定の根拠となった。後方部中央に粘土槨があるが、盗掘に遭ったため、詳細な副葬品や遺体の詳細は明らかではない。 規模は墳長107.5m、後方部一辺55m・高さ9m、前方部幅47m・長さ51m・高さ6mである。 周濠は幅約8mを測り、底は北側に向かって緩く傾斜する。最も深い所で地表面から2.3mである。柳田布尾山古墳の立地はは富山湾や二上山を望む立地と墳丘方向が注目されている。前方後方墳としては、日本海側で最大級の規模である。後方部中央の粘土槨からは、碧玉製の管玉が出土した。 周辺には陪塚と考えられる2号墳が後方部東側に所在する。直径25メートルの円墳で、墳丘周囲には幅約5メートル・深さ約1.6メートルの周濠がある。

遺物

指定

  • 2001年(平成13年)1月29日 国指定史跡

展示

  • 柳田布尾山古墳公園古墳館

アクセス等

  • 名称  :柳田布尾山古墳
  • 所在地 :富山県氷見市柳田字布尾山34番
  • 交 通 :JR氷見線「氷見駅」から加越能バス「柳田南」バス停下車、徒歩約10分

参考文献

  1. 氷見市教育委員会(2006)「史跡柳田布尾山古墳 整備事業報告書」
  2. 氷見市教育委員会(2000)「柳田布尾山古墳」氷見市埋蔵文化財調査報告第29冊

上総国文尼寺2026年05月13日 00:05

上総国文尼寺(復元)

上総国文尼寺(かずさこくぶんにじ)は千葉県市原市に所在する奈良時代の国分尼寺跡である。国指定史跡「上総国分寺跡附尼寺跡」の一部として保存されている。

概要

741年(天平13年)、聖武天皇は国家鎮護を目的として、全国の諸国に国分寺と国分尼寺の建立を命じた。正式には僧寺を「金光明四天王護国之寺」、尼寺を「法華滅罪之寺」と称し、地方における仏教政策の中心施設として整備された。国分尼寺跡を示す墨書土器(「法花寺」)が出土しているため、比定には問題は無いと見られる。

上総国分尼寺は、全国に建立された国分尼寺の中でも特に規模が大きい寺院のひとつで、広大な寺域を有していた。寺域は約12万平方メートルに及び、上総国分寺とともに上総国の宗教・文化・政治の中心的役割を担ったと考えられている。

発掘調査によって、主要伽藍だけでなく、尼僧たちの日常生活や寺院運営を支えた多様な施設の存在が確認されている。主な施設として、尼僧の生活空間である尼坊、事務を執った政所院、建物修理や金属加工を行った修理院・工房、薬草や花木を育てた薗院・花苑院、雑役に従事した人々の居住施設とみられる賤院などがある。

これまでの調査では、南大門、中門、回廊、金堂、講堂、経蔵、鐘楼、北門、校倉などの建物跡が確認されている。伽藍配置が比較的良好に判明したことから、古代寺院研究における重要遺跡として評価されている。

現在、遺跡の一部では中門と回廊が奈良時代の建築技法をもとに復元されている。回廊には樹齢100年以上の木曽檜が使用され、強度が必要な部分にはケヤキ、耐水性が求められる部分にはヒバが用いられている。柱は直径約30センチのものが96本並び、古代寺院建築の規模を体感できる構造となっている。

また、基壇には瓦を積み上げて土の崩落を防ぐ工法が採用され、表面には「甎(せん)」と呼ばれる瓦質の敷材が使用された。回廊では8,833枚、金堂では3,622枚の甎が用いられ、奈良時代の高度な建築技術を示している。

復元施設は、発掘された遺構の位置にあわせて原寸大で整備されており、古代の寺院建築や国分寺制度を学ぶことのできる歴史公園として活用されている。

展示

  • 上総国文尼寺展示館

アクセス等

  • 名称:上総国文尼寺
  • 所在地:千葉県市原市国分寺台中央3-5-2
  • 交通: JR内房線五井駅東口より小湊鉄道バス国分寺台行き・山倉こどもの国行き等にて「市原市役所」下車、徒歩10分

参考文献

  1. 南木睦彦・辻誠一郎(1996)「上総国分尼寺遺跡の井戸内堆積物から産した植物化石群」植生史研究第4巻第1号,pp.25-34
  2. 須田勉(2021)『ならび建つ国分僧寺・尼寺 上総国分寺』新泉社

保渡田薬師塚古墳2026年05月12日 00:12

保渡田薬師塚古墳(ほどたやくしづかこふん)は、高崎市保渡田町に所在する古墳時代の前方後円墳である。「薬師塚古墳」ともいう。

概要

全長約105mの前方後円墳である。後円部径約66m・高さ、前方部幅72m、長さ44m。3段築成で葺石・埴輪を備え、周囲には二重の周濠と堤がめぐる。円筒埴輪は円筒Ⅴ式(5世紀後半に特徴的な埴輪編年)である。主体部には凝灰岩製の刳抜式舟形石棺が据えられる。築造は5世紀後半から6世紀初めであり、保渡田古墳群を構成する主要古墳の中では最も新しい時期に築造された古墳とされる。

西光寺の境内に古墳がある。江戸時代に、この地から灰岩製の刳抜き式舟形石棺が発掘され、後円部墳頂に保存されている。

その際に薬師如来像と伝わる石造物がみつかっている。当時の高崎藩主が西光寺(保渡田薬師塚古墳にある寺、浄土宗紫雲山東陽院、室町時代の応永2年(1395年)随泉和尚の開山と伝わる)を現在地へ移したと伝わる。

国の重要文化財に指定された内行花文鏡、玉類(瑪瑙勾玉、碧玉管玉、瑠璃丸玉)、馬具(鏡板、銅製馬鐸、銅製轡鏡板、銅製三葉形杏葉、銅製剣頭形杏葉、銅製十字形辻金具)は石棺内から出土したとされ、現在は西光寺の寺宝となっている。

遺物

  • 内行花文鏡
  • 玉類(瑪瑙勾玉、碧玉管玉、瑠璃丸玉)

指定

  • 昭和60年9月3日 国史跡指定

展示

  • かみつけの里博物館(一部)
  • 西光寺

アクセス等

  • 名称  :保渡田薬師塚古墳
  • 所在地 :高崎市保渡田町字薬師前1873-1
  • 交 通 :高崎駅 バス 30分

参考文献

吉島古墳2026年05月11日 00:25

吉島古墳(よしじまこふん)は、兵庫県たつの市に所在する3世紀中葉頃の前方後円墳である。

概要

揖保川流域右岸の比高180mの急峻な山塊の尾根上に造られた古墳である。播磨地方で最古級の前方後円墳とされ、築造は3世紀半ばで播磨地方最古級の前方後円墳とされ、築造時期は3世紀中葉頃で、箸墓古墳と並行する時期と考えられている。前方部先端がバチ形に開くなど、古墳時代前期初頭の前方後円墳の特徴を示す。葺石は見つかっていない。

墳丘全長36m、後円部径16m、後円部高約2.5m、前方部長14m、前方部幅11.4mを測る。1897年(明治30年)に土地所有者によって竪穴式石室が発見された。石室は長さ5.3m、幅1.5mで割石と河原石で築かれている。出土鏡は6面である。三角縁神獣鏡が複数面、「八弧内行花文鏡」19.5cm(「四葉座Ⅲ式・5期」)、「尚方作盤龍座半肉彫獣帯鏡」23.0cm、方格規矩鏡、画文帯神獣鏡が出土している。 三角縁神獣鏡は「三角縁吾作四神四獣鏡」1面18.0cm、・魏晋鏡の「三角縁天王日月・唐草文帯四神四獣鏡」1面23.4cm、「三角縁天王日月・唐草文帯四神四獣鏡」2面23.4cm、「三角縁波文帯盤龍鏡」24.0cm、などとされている。

吉島古墳(福岡県新宮町)における三角縁神獣鏡の集中副葬は、4世紀前半の古墳時代前期において、畿内ヤマト政権と北部九州の有力首長が緊密な政治的同盟関係にあり、鏡が王権の正統性を示す「政治的贈与品」として分配・保有されていたことを示す重要な証拠となる。 畿内を中心とした王権からの「授与品」であり、吉島古墳の被葬者は地域的な支配力を背景とした権力者であることを証明する。

天王日月・唐草文帯四神四獣鏡は山城大塚山古墳出土鏡と、三角縁波文帯盤龍鏡は大阪府万年山古墳などの出土鏡と同笵関係にある。その他埴輪片、土師器壺、ガラス玉・刀剣が出土した。特殊器台片は、吉備地域との交流を示す資料として注目されている。

調査史

明治時代に竪穴式石室が発見され、三角縁神獣鏡6面を含む多くの副葬品が出土した。1925年(大正14年)に梅原末治が「揖保郡香島村吉島古墳」として実地踏査と出土品の研究成果を公表した。1966年(昭和41年)に測量調査・主体部の発掘調査を吉島古墳調査団が実施した。この調査で竪穴式石室内に割竹形木棺の痕跡が認められた。1983年(昭和58年)3月に新宮町教育委員会より『新宮町文化財調査報告4 吉島古墳』が発行された。この報告書は岡山大学の近藤義郎が編者となり、出土遺物(特に鏡類)や石室構造の精査が行われ、古墳の年代や性格が明らかとなった。この重要な成果に基づおて、吉島古墳は国指定史跡となった。

遺物

  • 三角縁神獣鏡破片 東京国立博物館
  • 三角縁神獣鏡残片 直径23.4cm、東京国立博物館
  • 長宜子孫内行花文鏡 直径19.5cm、東京国立博物館
  • 四神鏡 東京国立博物館
  • 盤龍座獣帯鏡 東京国立博物館
  • 三角縁四神四獣鏡1
  • 三角縁盤竜鏡
  • 波文帯竜虎獣鏡1
  • ガラス小玉66以上

指定

  • 1978年(昭和53年)5月22日 国史跡指定

展示

  • 東京国立博物館

アクセス等

  • 名称  :吉島古墳
  • 所在地 :兵庫県たつの市新宮町吉島字新山854-19
  • 交 通 :播磨新宮駅から徒歩35分 /2.6km

参考文献

  1. 福永伸哉(2016)「ヤマト政権成立期における猪名川流域の重要性」待兼山論叢. 史学篇50,pp.1-27
  2. 肥後和男・竹石健二(1973)「日本古墳100選」秋田書店
  3. 大塚初重(1996)『古墳辞典』東京堂出版
  4. 近藤義郎 編(1983) 「吉島古墳(新宮町文化財調査報告 4)」新宮町教育委員会

獅子塚古墳 (福井県)2026年05月09日 20:10

獅子塚古墳 (福井県)(ししづかこふん)は福井県三方郡美浜町に所在する古墳時代後期(6世紀頃)の前方後円墳である。三方郡では唯一の前方後円墳として知られる。

概要

赤坂山を水源として美浜町中央部を流れる耳川左岸の河岸段丘上に立地する。墳丘は後世の改変を受けており、特に前方部は明治時代に削平されたため、本来の形状の一部が失われている。6世紀前葉の築造と考えられている。

1897年(明治30年)、開墾中に遺物が発見されたことにより古墳の存在が知られるようになった。その後、帝室博物館、若林勝邦、美浜町教育委員会、若狭考古学研究会などによって複数回の発掘調査が実施された。出土した副葬品の多くは現在、ほとんどが東京国立博物館に所蔵されている。その後、昭和53年に調査されている。

出土遺物には、石室内から須恵器、馬具、鉄製の武器・武具、農工具(鎌・斧・トングなど)や、勾玉や管玉、ガラス玉などがあり、装飾付脚付壺、筒形器台(口径15.8cm、器高79.5cm)、高坏、はそう(𤭯)、杯、角杯形土器などの土器類のほか、鉄斧、鉄鏃、長刀、鹿角製柄頭をもつナイフ、銅製三鈴、鍛冶関連工具が含まれる。これらは当時の武器体系、生産活動、祭祀、馬利用を知る上で重要な資料である。装飾付脚付壺は壺の肩部に横向きに3頭、縦向きに3頭の動物が取り付けられている。

埋葬施設は後円部中央に築かれた九州北部系の横穴式石室であり、南に開口する。石室全長は約6mを測る。特徴として、石を内側へ張り出す「持ち送り」構造が顕著であること、玄室全面が赤色顔料で塗られていること、羨道部が短く墳丘内に収まること、大小不同の石材の間に小石を充填する構築法が用いられていることが挙げられる。これらは北部九州地域の横穴式石室との強い関連性を示している。被葬者は耳川流域を治めた豪族の古墳と考えられている。

また、獅子塚古墳に供給された土器を焼成したと考えられる窯跡が近隣山腹で確認されており、古墳造営と地域生産体制との関係を示す資料として注目されている。

規模

  • 形状 前方後円墳
  • 墳長 推定32.5m
  • 後円部径 推定径17m 高3.5m
  • 前方部 幅推定15m 長推定15.5m 高現存1.6m
  • 円筒埴輪 円筒Ⅴ式
  • 葺石 あり

遺構

  • 室・槨
  • 横穴式石室(北部九州系)

遺物 

  • 碧玉管玉4
  • メノウ勾玉2
  • ガラス小玉25
  • 水晶勾玉2
  • 水晶管玉7
  • 鉄剣 1(鹿角装
  • 鉄鏃 細身 若干
  • 刀子(鹿角装) 若干
  • 曲刃鎌残片
  • 鉄斧残片
  • 金鉗残片
  • 轡残片2
  • 須恵器
    • 筒型器台1
    • 装飾付長頸壺2・
    • 角杯形土器2・
    • 無蓋高坏2
    • はそう1
    • その他短頸壺杯身
  • 杯蓋数個、
    • 長頸壺1(MT15)

築造

  • 6世紀前葉

指定

  • 2020年(令和2年)3月27日 美浜町指定史跡

展示

  • 東京国立博物館

アクセス

  • 名称:獅子塚古墳
  • 所在地: 福井県三方郡美浜町郷市13号横田14番1
  • 交通: JR小浜線 美浜駅から徒歩5分

参考文献