水城 ― 2023年10月26日 22:00
水城(みずき)は古代において九州の博多湾から侵攻が予想される敵から太宰府を護るために、土塁と水堀によって築かれた巨大な防御壁である。
概要
663年、白村江において百済再興を目指す百済の残存勢力と倭派遣の連合軍と新羅・唐の連合軍が激突したが、「白村江の戦い」で大敗した。ヤマト王権は、勢いに乗った唐または新羅が自国に攻め入ってくると考え、各種の防衛策を講じた。そのひとつが、水城の建設である。水城は、土塁と水堀によって大野城跡から連なる丘陵をび、博多湾に接する福岡平野への太宰府の開口部を塞ごうとした。
土塁の構造
土塁はほとんどが人工の盛土で、大城山麓から下大利に至る全長1.2Km 、幅77m、高さ9mである。博多湾側に幅60mの水濠を掘り、さらにその内側に高さ9mもの土塁を築いた。外濠の水深は約4mあったとされる。土塁の最下層部には多量の枝葉を混入し、基礎地盤を強化する、敷粗朶(しきそだ)工法とし、上層部には質が異なる土を交合に突き固める版築工法で作られた。樹木は13種類(ヤブニッケイやクスノキ、コナラなど)が特定されており、いずれも5月中旬の若葉が多い。救援の2次軍が撤退した9月から半年後の晩春から夏にかけて伐採され、その後一気に堤防の築造にかかったことが実証された。
木樋
太宰府側の水路から地下を通して博多側の濠に水を流すための導水管が作られた。厚さ20センチのヒノキの大きな板を組み合わせて造られている。土塁の基底部を横断し、埋設された木樋は、長さ79.5メートル、内法幅1.2メートル、内法高さ0.8メートルである。
水門
土塁を通過する官道には東西それぞれに城門が設置された。水城に2カ所の門があった。県道112号線の水城3丁目交差点が東門、大野城市下大利4丁目に西門があった。東門では門の礎石や木樋(もくひ)がみつかっている。底板は2枚の板を長さ25cmの大きさの鉄製の鎹で留めている。西門は水城が築造された7世紀代は、瓦も葺かれない掘立柱式の門柱2本で扉を支える冠木門であった。
改修
唐・新羅軍の侵攻はなかったため使用されなかったが、奈良時代中期の765年(天平神護元年)に対新羅外交の緊張から改修された。
日本書紀
- 巻第廿七 天智天皇
- (原文 三年)是歳、於對馬嶋・壹岐嶋・筑紫國等置防與烽。又於筑紫築大堤貯水、名曰水城。
- (大意)天智三年(664年)対馬嶋、壱岐嶋、筑紫国などに防(さきもり)と烽(とぶひ)を置く。また、筑紫に、大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城という。
指定
- 1953年(昭和28年)3月31日、国の特別史跡「水城跡」に指定
アクセス等
- 名称 水城跡
- 所在地:福岡県太宰府市水城1-1
- 交通:(水城大堤まで)JR九州旅客鉄道鹿児島本線 水城駅から徒歩6分
参考文献
渤海 ― 2023年10月26日 22:52
渤海(ぼっかい,698年-926年,발해)は8世紀から10世紀にかけて朝鮮半島北部から中国東北部にかけて高句麗の移民が建国した国である。
概要
遼東地方で大祚栄が自立して、高句麗を復興させるとして、698年に震国(または振国)を建て、高王と称して即位した。正式に渤海国となったのは762の第三代大欽茂の時からである。渤海は唐の冊封体制に組み込まれ、頻繁に遣唐使を派遣、唐の律令制度と仏教文化を積極的に受け入れ、唐風の文化が華やいだ。冊封体制下の国家は中国の年号を用いるところであるが、固有の年号を用いるなど、高句麗の後継国家を意識していた。
日本との関係
渤海の支配領域は満州から朝鮮半島北部に及んだため、新羅とは対立関係にあった。新羅の後に位置する日本(奈良朝から平安朝)とは、727年の最初の遣使が出羽に来航し、日本からも遣渤海使を派遣するなど、密接な交流が続いた。最初の渤海使は、大使の高仁義らは往路で死亡し、多くは蝦夷に捕らえられてしまうという苦難を超えて、生き残った高斉徳ら8名が出羽国から上京し、12月に聖武天皇に拝謁した。日本からの使節も何人かは渤海に到達できず行方不明になった。 727年から929年まで34回、日本に遣使した。日本からはこの間、13回遣使した。 航路は明確なコースは不明であるが、直接日本海を横断し、主として季節風を利用して冬は渤海から日本へ来航し、夏にその逆のコースを取ったと推定されている。遣唐使が新羅との関係悪化により、朝鮮半島西側の航路を取れなくなったとき、渤海経由で派遣されたことがある。
参考文献
- 上田雄(1992)『渤海国の謎―知られざる東アジアの古代王国』講談社
- 浜田 耕策(2000)『渤海国興亡史』吉川弘文館
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