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万二千余里の意味2023年11月05日 22:00

東夷伝の里程(東潮)「「三国志」東夷伝の文化環境」

万二千余里の意味(まんにせんよりのいみ)は『魏志倭人伝』に書かれた萬二千餘里が観念的な数字であるという説である。

概要

『魏志倭人伝』には郡から女王國まで「萬二千餘里」と書かれている。郡とは帯方郡である。 つまり、帯方郡から女王卑弥呼のいる邪馬台国まで1万二千里あまりであると書かれている。この数字が正しいものとして、邪馬台国の位置を比定しようとする議論がさかんに行われてきた。いわゆる里程論である。しかし、1万二千里が果たして正しい数字であるかは疑問であるとする説がある。邪馬台国まで1万二千里が正しい数字でないとすれば、里程論はそもそも成り立たない議論となってしまう。そこで、「萬二千餘里」の妥当性を論じた松本清張の説と東潮の説を紹介する。

松本清張説

松本清張(2017)は、「帯方郡から倭までの万二千余里」はいいかげんな数字であるとする。例として『前漢書』西域伝「大宛国。王は貴山城に治む。長安を去る万二千五百五十里」と書かれ個所がある。五百五十里を端数(余里)とみれば「万二千余里」になる。また「鳥弋山離国、長安を去る万二千二百里。都護に属さず」、「安息国、王は番兜城に治む。長安を去る万一千六百里。都護に属さず」「大月氏国、王は氏城に治む。長安に去る万一千六百里。都護に属さず」「唐去国。長安を去る万二千三百里。都護に属さず」などの数字、四捨五入するとすべて「万二千余里」となる。これらは、いずれも都護に属さない(中国から見た)辺境の蛮地とされる国である。端数は一見正しく見せるための粉飾であるとする。すなわち「万二千里は首都から蛮地までの距離」を表す決まり文句のような数字となっている。

『三国史』の陳寿は『前漢書』の前例を踏襲し、帯方郡から遙かに遠い蛮国の女王国までの距離を一万二千余里としたのである。「東夷伝記載の里数はいずれも虚数であり、倭人伝の里数も虚数である」とした。

結論的に松本は「倭人伝は東夷伝の中の記事であるから、倭人伝だけを切り取って論じるべきではない。東夷伝諸国の記事を見渡しながら研究しなければならない」とし、さらに「これまでの諸学説の論議がいかに虚妄の数字を抱いて苦悩してきたか、その愚かさに唖然となるに違いない」と里程論を批判する。説得力のある議論といいえる。

九服説と東夷伝

東潮(2009)は帯方郡から邪馬台国までの「万二千里」は『周礼』の九服説によって書かれたと指摘する。すなわち京師からの地理観を郡治からの距離観におきかえる小天下観にもとづいて記述されたものであると指摘する。

九服説は「周礼‐夏官・職方氏」に書かれたものである。中国、古代の制度として千里四方の王畿を中心とし、外へ五百里ごとに一服とした九つの区域で表される世界観である。その証拠として、『三国志』東夷伝の冒頭に『尚書』禹貢篇五服,『周礼』夏官職方氏の「九服之制」にもとづく天下方万里説が展開されていることをあげる。

帯方郡から邪馬台国までを同様に、帯方郡を長安に置き換え、そこから最も遠い辺境の地として邪馬台国を位置づけた。 帯方郡から狗邪韓国までの「七千里」は六服の方七千里に対応するとし、狗邪韓国から「周旋五千里」を加算して、「万二千里」になったとする。蛮服の世界である。「周旋五千余里」は「方5 千里」に相当するとされる。整理すれば、帯方郡から狗邪韓国まで「七千里」、狗邪韓国から伊都国まで3500里、伊都国から邪馬台国まで、水行を除くと合計陸行一月(30日)となり、日に五十里(『唐六典』)として1500里となる。合計して1万二千余里である。(水行分は余里とする)『周礼』にいう蛮服の世界が描かれている。

以上のように、帯方郡から邪馬台国までの「万二千里」の記載は『周礼』に記載された中国古代の世界観に基づく観念的な数字となっている。

参考文献

  1. 松本清張(2017)『古代史疑』中央公論新社
  2. 東潮(2009)「「三国志」東夷伝の文化環境」 国立歴史民俗博物館研究報告 巻 151, pp. 7-62

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