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長屋王2023年11月17日 22:06

長屋王(ながやおう、676年?- 729年3月16日)は奈良時代前期の政治家である。

概要

天武天皇の孫で、父は高市皇子(長男)、母は天智天皇の皇女の御名部皇女、妻は吉備内親王である。血筋から皇親政治を推進した。皇位継承者でもあった。 704年(大宝4年)無位からいきなり正四位上に叙任される。天武天皇直系として、一目置かれる存在であった。5年後の709年には早くも従三位・宮内卿に叙任された。 715年(霊亀元年)、元明天皇は、皇女で長屋王の正室でもある吉備内親王が生んだ子女はすべて皇孫として扱うという勅を出した。716年(霊亀2年)、長屋王は正三位に叙せられた。一方、長屋王は右大臣・藤原不比等の娘を室に迎えており、当時の政界で長屋王は不比等の勢力に次ぐ位置になった。718年(養老2年)、長屋王は大納言に任ぜられて右大臣の不比等の次に位置した。720年(養老4年)、藤原不比等が没し、721年(養老5年)に長屋王が右大臣となり、実質的に政界のリーダーとなった。724年(神亀元年)2月に聖武天皇が即位すると長屋王は正二位・左大臣となる。729年(神亀6年)2月に長屋王の変が起き、王は自尽し、その室の吉備内親王(草壁皇子の娘)と男子膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王らも首をくくって自殺した。

辛巳事件

724年(神亀元年)2月、聖武天皇は夫人の藤原宮子に「大夫人」の尊称をたてまつる勅を出した。3月、長屋王は宮子の尊称について意見を奏し、、『公式令』に皇太夫人の名が定められているのに照らせば、宮子に大夫人の尊称をたてまつった勅に従うと令制に反することになり、令制に従って宮子に皇太夫人の称をたてまつると、大夫人の称をたてまつった勅に反し、どうすればよいか示してほしいと述べた。天皇は2月の勅を撤回し、文では令制どおり皇太夫人と記し、語では大御祖(おおみおや)とすることとした。

長屋王邸宅跡

1988年(昭和63年)8月26日、奈良市の二条大路南一丁目の奈良そごう建設現場で、長屋王邸宅跡が発見された。邸宅跡から10万点に及ぶ多数の木簡(長屋王家木簡)が発見された。

大般若経

従三位式部卿の位にあった長屋王が従兄である文武天皇の崩御を悼んで発願し、その北宮(妃吉備内親王の邸)に写経生を集めて書写したものである。書写年次の明らかなわが国最古の『大般若波羅蜜多経』として知られる。和銅五年の発願のため、「和銅経」と呼ばれる。経文は6、7人の写経生が書写し、願文は2人の筆跡が認められる。

参考文献

  1. 大塚初重(1992)『悲劇の宰相・長屋王邸を掘る』山川出版社
  2. 寺崎保広(1999)『長屋王』吉川弘文館