太安麻呂 ― 2023年11月23日 00:23
太安麻呂(おおのやすまろ、? - 723年)は奈良時代前期の官人である。現存最古の歴史書とされる『古事記』の編纂者である。太安万侶とも記す。
概要
712年(和銅5年)に完成した日本最古の歴史書の『古事記』を撰録した者として知られる。 豪族多氏の出身で田原本の多の地に生まれ育った。『続日本紀』によれば,704年(慶雲1年)従五位下、711年(和銅4年)正五位上,715年(霊亀1年)従四位下に叙せられた。716年、太氏(多氏)の氏長となった。没した723年には民部卿であった。『和州五郡神社神名帳大略註解』によると、壬申の乱の功臣である多品治(「太」と「多」は通じる)の子とされる。『古事記』の序に安万侶が勲五等の勲等を得たと書かれる。
雅楽の家系
多氏は雅楽の祖としても知られている。多氏(おおうじ)は,平安朝以降,宮廷神事の歌舞音楽である雅楽をつかさどっている。9世紀中ごろに活躍した多臣自然麻呂(おおのおみじねんまろ)は舞楽・神楽の元祖といわれている。一族に音楽に関係する人物が多く、宮中の雅楽をつかさどってきた。
古事記編纂
711年9月、元明天皇の詔に従い『古事記』の撰録に着手し,翌年1月に献上した。稗田阿礼が暗唱する資料としての帝紀・旧辞を再整理し、筆録した。『古事記』の筆録では漢字の音のみを用いる音仮名と、意味をとる訓字を混用して変体漢文体を用いた。口誦文化としての神話を文字に定着させるための工夫であった。日本書紀の編纂にもあたったとされる。
墓誌
太安萬侶の墓は、奈良県庁から東南へ約7㎞離れた奈良市此瀬町にあり、1979年(昭和54)1月に、丘陵の南斜面にある茶畑の改植作業中に発見された。墓の構造や墓誌の出土状況が明確にされた貴重な例であった。太安万侶墓誌には太安萬侶の名前のほか、位階・勲位、生前の住所、亡くなった日付などが刻まれている。それまでは架空の人物説もあったが、墓誌により太安萬侶が奈良時代に実在したことを証明された。平城京左京四条四坊に住んでいたことが墓誌から分かる。
参考文献
参議 ― 2023年11月23日 10:21
参議(さんぎ)は奈良時代に設置された令外官である。
概要
朝廷組織の最高意思決定機関である太政官の大臣、納言に次ぐ重職とされ、この参議までが公卿とされる。 朝政の議政官のひとつである。
竹内説
竹内理三(1951)は 「『参議』制の成立」 で、702年(大宝二年)五月丁亥の「従三位大伴宿禰安麻呂・従四位下栗田朝臣真人・従四位上高向朝臣麻呂・従四位下下毛野朝臣古麻令参議朝政」と『続日本紀』に書かれたことが参議のはじめであり、『政事要略』に「本朝参議之起、白此始震」と書かれていることを指摘する。その理由として、大納言の「任重事密、充員難漏」とあり、大納言の任務は重大であり人を得難いため、定員を満たすことが難しいということがあった。705年(慶雲二年)に設置した中納言の職掌は、「敷奏宣旨、待問参議」であって、大納言主参議を兼ねたものであった。
竹内理三(1951)は政治上の必要というより、参議は特定の人物のために設けられた便宜的なものであつて、新官制に收容できなかった旧氏族の有力者を新政治機構に参加さるための便法として設けられたとする。天平三年八月に至ると、從三位藤原宇合以下六人が參議に任ぜられて、その食封八十戸が定められて、參議がはじめて「正官」となり、これ以来人物によることなく、參議が「正官」として任命されるに至つたとする。
749年(天平勝宝元年)七月、孝謙天皇即位時の太政官の構成は次の通りであった。
- 左大臣 正一位 橘宿禰諸兄
- 右大臣 正二位 藤原朝臣豊成 大納言 従二位 巨勢朝臣奈尽麻呂
- 大納言 正二位 藤原朝臣仲麻呂
- 中納言 従三位 石上朝臣乙麻呂
- 中納言 従三位 紀朝臣麻呂
- 中納言 従四位下 多治比真人広足
- 参議 正四位上 大伴宿繍兄麻呂
- 参議 従四位上 橘宿禰奈良麻呂
- 参議 従四位上 石川朝臣年足
- 参議 従四位下 藤原朝臣八東
- 参議 従四位下 藤原朝臣清河
参考文献
- 乕尾達哉(1997)『古代参議制の研究』京都大学博士論文
- 竹内理三(1951)『「参議」制の成立』史淵 49,pp.25-48
石匙 ― 2023年11月23日 17:01
石匙(いしさじ)は縄文時代の石器のひとつで、ナイフのような「刃」の付いた石器の一種である。「石匕」とも呼ばれる。
概要
縄文時代を代表する石器の一つで、打製石器石器の1つである。1か所につまみのような出っ張りがあるのが特徴である。縄文時代早期に出現し、前期に全国的にみられる鋭利な刃部を持つ石器であった。日本列島全体に分布し、東北日本に多く、関東・中部より西ではやや少ない傾向がある。 明治期に「石匙」という呼称がつけられ、体系的な研究が行われた。 「刃器(スクレイパー)」と呼ばれる、物を切ったり削ったりすることができる道具の仲間としても分類される。その刃器中で、つまみのような突起状の部位を有するものを、石匙として分類している。
用途
動物などを解体・調理するナイフ、木・骨などを削る工具が想定されている。使用痕の観察から動物質の皮・肉・角・骨や植物質の木などを加工するために用いられた万能ナイフと考えられている。つまみの部分にひもを掛け、腰などに下げたとされる。
出土
- 石匙 - 青森県弘前市十腰内出土、縄文時代(後~晩期)・前2000~前400年
- 石匙 - 尾元遺跡、揖斐郡揖斐川町徳山、縄文時代
心合寺山古墳 ― 2023年11月23日 23:23
心合寺山古墳(しおんじやまこふん)は古墳時代中期に造られた中河内では最大の前方後円墳である。
概要
平成13年から平成17年にかけて整備工事を行い、発掘調査でわかったことを元に、墳丘や埴輪列を復元史跡公園として整備され、墳丘の平坦部には円筒埴輪(レプリカ)が並べて立てられる。 出土した副葬品等は、古墳の脇にある八尾市立しおんじやま古墳学習館で展示する。 埋葬施設は、後円部に3つの「粘土槨(ねんどかく)」、前方部の「方形壇(ほうけいだん)」の下に木棺がありました。後円部の粘土槨のひとつである西槨から、甲冑、鳳鏡、刀剣類などの副葬品が出土する。生駒山地の麓に等高線に沿うように築かれて、周濠は南側と北側の2か所で堤を造って区切られているため、その東西で水位の異なる珍しいつくりである。
調査
埴輪列は中段の葺石裾から3.5m外側に位置する。合計24本の円筒埴輪、普通円筒埴輪10本、大型円筒埴輪1本の配列で並べられ、その列の外側に盾型埴輪1本が立ててあった。この盾形埴輪は、樹立した状態で出土したもので、線刻模様のある盾の面を外側に向けている。大型前方後円墳の埴輪列の原位置での出土例は全国的にもなく、埴輪の配列を考える上で、貴重な資料となる。
規模
- 形状 前方後円墳
- 築成 前方部:2段、後円部:2段
- 墳長 140m
- 後円部 径47m 高11.1m
- 前方部 幅70m 長76m 高10.3m
- 外表施設
- 円筒埴輪 円筒・朝顔形Ⅲ式 形象埴輪
- 埴輪
- 草摺
- 靫
- 蓋
- 楯
- 壺形
- 葺石 あり
主体部
- 棺 長持形石棺(縄掛突起採集)
出土品
- 鉄斧 後円部で採集
- 青銅鏡 鳥の模様で飾られた
- 甲冑、
- 大刀、
- 勾玉
指定
- 昭和41年2月25日 国指定文化財
所在地等
- 名称: 心合寺山古
- 年代: 5世紀後半(古墳時代中期)
- 被葬者: 地域一帯を治めた豪族の墓
- 所在地:大阪府八尾市大竹5丁目143-2
- 交通: 近鉄「服部川」駅から徒歩約20分/近鉄バス「大竹」から徒歩約5分
参考文献
- 大塚初重(2019)『巨大古墳の歩き方』宝島社
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