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古代の交通ルール2024年12月09日 00:20

講演会フライヤー

'古代の交通ルール(こだいのこうつうるーる)は2024年12月08日に開催された古代の交通ル-ルに関する講演会である。

概要

  • タイトル 「古代の交通ルール」
  • 主催    国分寺市教育委員会
  • 会場    いずみホール
  • 講師    近江俊秀(文化庁主任文化財調査官)
  • 日時    2024年12月08日(日曜日)14時00分から16時00分

要旨

講演は主として時代の逆順で行われたが、ここでは時代順で説明する。

弥生時代

弥生時代にすでに道路交通ルールがあった。『魏志倭人伝』に道で偉い人に出くわしたら、身分が下位のものが道を譲ると書かれる。道を譲る行為は身分の上下関係の可視化とみられる。

飛鳥時代

670年(天智9年)、天智大王が「行路の相避ることを宣ふ」(『日本書紀』第廿七 天智九年春正月条、宣朝庭之禮儀與行路之相避)と勅したと日本書紀に書かれる。道路で出会ったら互いに避けるという意味である。弥生時代と同様の交通ルールである。

奈良時代

奈良時代の太宰府の条坊から奈良時代の柵の跡、道路と側溝が発見された(大宰府条坊跡第 357 次調査)。路面幅は約3m、東側溝は幅約2m、深さ0.5m、西側溝は幅約2.5m、深さ0.5mの直線道路であった。路面に幅5cmの筋状の溝(轍の跡)が残り、また牛の足跡も残る。「荷物を運ぶ車両は道路を通り、それ以外の人や牛は側溝を歩いていたのではないか。車両と歩行者を分離していたとも考えられる」とされるので、歩車分離の交通と見られる。牛の蹄の跡から左側通行と推定されている。

平安時代

公家の礼法では牛車がすれ違うとき、左に避けるルールがあった。しかし平安京の発掘調査では車の轍は道の中央を通っていた。

鎌倉時代

『宇治拾遺物語』では左側に避けている(大膳の大夫以長、前駆の間の事)。『極楽寺殿御消息』(北条重時、1198年~1261年)では相手が高貴なら左に避けると書かれる。公家社会のルールであったと想定される。

戦国時代・安土桃山時代

『石山寺縁起絵巻』(巻1)で人は左側を通行している。『中島摂津守宗次気』(1558)は路地でで輿に出会ったら右に退き、左を輿に通す。

江戸時代

平和の時代 右側によける戦国時代のルールは変化する。理由は敵意がないことを示すため(刀を使えない)自分から見て左側に避けるようになった。身分を示す刀が相手に当たらないようにする意味がある。『海陸行程細見記』(増補:1836年)は右に除けると無礼になると示している。武士のルールが庶民まで広がったと見られる。

考察

右側または左側の通行は「礼」と密接に関係する。何らかの社会的な合意がないと、無用な衝突が起こる。江戸時代の生麦事件も交通のお約束(ルール)を知らなかったために起きた歴史的事件である。

参考文献

  1. 近江俊秀(2024)『「人は右、車は左」 往来の日本史』朝日新聞出版
  2. 近江俊秀(2024)「古代の交通ルール」講演資料

富雄丸山古墳の蛇行剣と保存科学2024年12月04日 00:13

富雄丸山古墳の蛇行剣と保存科学(しょくとちょうりのこうこがく)は2014年11月23日に開催された古代史と保存科学に関する講演会のタイトルである。

概要

  • イベント名 第14回奈良県立橿原考古学研究所 東京講演会
  • タイトル 「富雄丸山古墳の蛇行剣と保存科学」
  • 主催 奈良県立橿原考古学研究所、由良大和古代文化研究協会、朝日新聞社
  • 会場    有楽町朝日ホール
  • 日時    2024年11月23日(土曜日)13時00分から15時55分

要旨

保存科学の歴史と富雄丸山古墳の蛇行剣に適用された保存科学を解説する。

講演1「富雄丸山古墳と保存科学」

奥山誠義氏 橿原考古学研究所 総括研究員

保存科学は文化財の医者である。保存科学の役割は、今の文化財の姿を後世に残すことである。1989年に橿原考古学研究所保存科学研究室ができた。1992年に保存科学棟ができた。 研究員は現在4名である。2022年に国内最大の蛇行剣が発掘された。下にある銅板(当時の認識、距離も不明であった)や遺構を傷つけないように取り上げる必要があった。アクリル樹脂を塗布し土と剣を補強し、ガーゼを当てて竹串で周囲の土を掘り下げ、10人かかりで取り上げた。研究所に搬入後は透過X線撮影を行い、三次元形状計測を行った。当初は剣が1本か2本か分からなかったが、最終的に1本と確認した。木材の痕跡が見つかり、鞘はホオノキ製と判明した。中央部に織物の痕跡があった。慎重に剣のクリーニングを行って公開にこぎ着けた。

講演2「蛇行剣-富雄丸山古墳出土品の理解に寄せて-」

北山峰生氏  橿原考古学研究所 調査第1係長

蛇行剣は全国で約80本出土しており、茶すり山古墳(兵庫県)、宇陀北原古墳、花の木古墳群、豊中大塚古墳(大阪府)、フネ古墳(長野)、七観古墳(大阪府)などがある。韓国でも金城里古墳など数例がある。蛇行剣の年代はまだ確定しない。鉄生産は5世紀に大型利ができ、長い剣の国産化が出きている。蛇行剣は5世紀に登場し、Aタイプ、Bタイプ、Cタイプに分かれる。蛇行剣以外の剣は何度も折り返して鍛錬するが、蛇行剣はブロック状の素材がついているだけで鍛えられていない。武器としては実用では無く、儀礼用の剣ではないか。

講演3「保存科学と考古学」

今津節生氏 奈良大学学長

1989年に橿原考古学研究所入所した。藤ノ木古墳では玄室内の泥のように見えた塊が、持ち帰って分析すると実は布の塊であることが分かった。1996年の下池山古墳では地下2mの空洞から鏡と織物を発見した。繊維を剥ぎ取り、毛織物を顕微鏡で調べると兎の毛であることが分かった。鏡袋の存在を明らかにできた。目に見えない有機物の残片から様々なことが分かるようになった。出土繊維の調査が全国で行われることを期待する。

考察

考古学の発掘現場には保存科学が必須であることがよく分かった。見逃しがちなゴミに見える塊が実は、貴重な研究素材を提供する。今回はだ龍鏡の分析は未完了のため蛇行剣に焦点が当たった。

参考文献

  1. 第14回奈良県立橿原考古学研究所 東京講演会 資料

食と調理の考古学2024年12月03日 01:13

北区飛鳥山博物館 企画展講演会

食と調理の考古学(しょくとちょうりのこうこがく)は2024年11月30日に開催された古代史の講演会である。

概要

  • タイトル 「食と調理の考古学」
  • 会場    北区飛鳥山博物館 講堂
  • 講師    鈴木直人氏(博物館学芸員)
  • 日時    2024年11月30日(土曜日)14時00分から16時00分

要旨

旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代の食と調理を概説する。

旧石器時代

旧石器時代は非常に寒い頃で、列島は針葉樹林が広がり、ナウマン象、オオツノジカが跋扈していた。それゆえ食料は動物ではナウマン象、オオツノジカ、植物はナッツ、ベリーなどであった。調理は動物を解体してそのまま食べたり、蒸し焼きにして食べた。動物は大型動物を狩猟で捕獲していた。植物のチョウセンゴヨウ、ハシバミはアク抜きが不要で、そのまま食べられる。

縄文時代

縄文時代には温かくなって広葉樹林が広がって小型動物が増え、シカ、イノシシ、野ウサギ、鳥類のキジ、カモ、貝類のシジミ、ハマグリを捕っていた。植物は堅果類、豆類、根茎類、球根類、野草類、キノコ、核果類を食べていた。土器が発明されたので、煮ることが可能となった。焼く、蒸す調理も行う。

弥生時代

弥生時代では壺が登場する。稲作が始まるが、田の生産力はまだ大きくなかったので、米だけに頼る生活ではなかった。米、あわ、ひえ、きび、大麦、小麦などの穀物の他、どんぐり・くるみ・かや・とち・くりなどの木の実、いのしし、鹿、熊、うさぎ、たぬき、きつねなどの野生動物、すずき、くろだい、はも、きす、にしん、あじ、ふぐ、あゆ、ふ な、うぐい、うなぎ、たこ、さめ、すっぽん、さんしょう魚などの魚・水産動物を取っていた。はいがい、おおたにし、かわにな、まがき、うみにな、しおふき、さるぼう、 やまとしじみなどの貝類も利用する。弥生人は、土器に海水・海藻などを入れ、熱を加え水分を蒸発させ、塩をつくっていた。

古墳時代

朝鮮半島からカマドが伝わった。竈は炉に比べると熱効率が良く、少ない燃料で強い火力が得られた。古墳時代には、かまどの強い火で「こしき」と下に水をいれた甕をつかい、米を蒸して食べていた。お粥や雑炊だけではなく、米を蒸した「強飯」とよばれる赤飯が炊かれた。水田技術や農具も発展し、米の収穫が増えた。これにより米が美味しくなった。古墳時代には大規模な水田が作られるようになったので、収量が増えた。弥生時代後期に朝鮮半島から鉄器が伝来し、鉄製の農具を使う効率的な農作業ができるようになった。古墳時代には食生活がより安定している。 古墳時代の食材は弥生時代と似ている。主食はアワ・ヒエや豆、米を栽培し、ソバなどの穀類を採っていた。ハマグリやウニ、魚類などの海産物が食卓に加わる。動物はシカやイノシシなど、木の実はドングリ、シイの実、クリなどで、果物は果物は、モモやスモモなど野イチゴ、ブドウ、アケビなどがある。穀物や魚介類を発酵させた味噌や醤油、塩辛などの原型も加わる。日本酒の原形といえる麹カビも採用する。 海がない地域では、川のマスやフナ、 コイ、ウナギ、 サケを食べていた。

参考文献

  1. 鈴木直人(2024)「食と調理の考古学」配付資料
  2. 名久井文明(2019)『食べ物の民俗考古学』吉川弘文館

弓矢の誕生2024年10月21日 00:13

弓矢の誕生(ゆみやのたんじょう)は2024年10月19日に開催された考古学の講演会のテーマである。

概要(講演概要と要旨)

  • タイトル:「弓矢の誕生 有舌尖頭器から石鏃出現の意義を考える」
  • 開催日:2024年10月19日(土) 14:00-15:30
  • 主催者:大田区立郷土博物館
  • 会 場:大田区立郷土博物館 2階会議室
  • 定 員:先着順 50名
  • 講師:愛知学院大学 白石浩之 名誉教授
    • 講師紹介
    • 國學院大學修士課程を修了後、1971年、財団法人かながわ考古学財団入職、調査研究部調査研究部長を歴任。2000年、「石槍の研究 : 旧石器時代から縄文時代初頭期にかけて」で博士 (歴史学:國學院大學)。2000年より愛知学院大学教授、現在名誉教授。1993年に第3回岩宿文化賞を受賞。1994年12月、神奈川県研究業績賞。

講演要旨

忠実な講演の再現ではないし、記載ミス(誤解)もあり得るので、文責は筆者となる。

講演

弓矢の起源はどこまで遡れるかということであるが、定説では縄文時代からとなっている。しかし、そうではないらしい。弓矢を考える上で、自然環境の理解が大事である。古い時代の気象環境は16千年前頃の地球は氷河時代で寒かった。15千年頃前からのベーリング期では気温が急に上がった。最寒冷期には海水面が下がっており、樺太と北海道は地続きであった。対馬海峡は深いので、大陸とつながってはおらず、島が海に点々としていた。植生について東日本は氷河期・高山の植生であるが、西日本は温帯針葉樹の混交林であった。先史時代の動物相は、北海道・東北ではマンモスが陸続きの大陸から移動してきた。ナンウマンゾウは森林地帯に生息し、ヘラジカは亜寒帯針葉樹林にいた。月見野遺跡群(神奈川県大和市)の上野遺跡では16千年前の地層から、旧石器の無文土器、石鏃、細刃が出土している。15千年前の地層(第二地点)第一文化層から旧石器時代の石鏃が見つかっている。縄文時代草創期初頭では、三ノ宮・下谷戸遺跡から有舌尖頭器がみつかっている。矢尻は矢の尖頭部である。埼玉県寿能泥炭層遺跡では縄文時代後期の石鏃が出土している。弓は出ていないが、石鏃があれば矢がある。愛知県上黒岩岩陰遺跡の石器として、えぐり込みがある有舌尖頭器が出土した。後代の古墳時代になるが、埴輪では、矢で射られる鹿、猪が表現されている。 鈴木道之助(1972)は変遷「木葉形尖頭器⇒有舌尖頭器⇒石鏃」を提唱し、弓矢の出現を捕らえようとした。 石鏃はどこまで遡ることができるのか。神奈川県綾瀬市吉岡遺跡群、C区15層上部相当(約16000年前)から大型木葉形石槍に伴って石鏃が出土している。芹沢長介(1966)は有舌尖頭器が大型から小型に変化する中で、鏃が使用された可能性を指摘した。栓先形尖頭器は月やり・投げ槍、有舌尖頭器は投槍器の投げ槍、石鏃は弓矢としてそれぞれ使われた。したがって時期的な順序関係が証明されれば、芹沢長介(1966)説が支持されるであろう。 有舌尖頭器には大型、中型、小型の区別がある。寸法によって役割がそれぞれ異なる可能性がある。 おそらく自然環境変化に伴い、大型動物から小型動物への交代があり、縄文人が対応した可能性が考えられる。また有舌尖頭器を弓矢に使用した可能性もある。 長崎県百花台遺跡の台形石器は、「ナイフ形石器⇒台形石器⇒細石器」が層位順に出土した。 これは2万年前にすでに弓矢が存在していた可能性を示唆する。佐野勝宏(2012)の実験結果は、後期旧石器時代初頭の3万年から4万年前に弓矢があった可能性を示唆する。小型の有舌尖頭器は弓矢に用いていた可能性がある。すなわち石鏃が弓矢の穂先に用いられたことと、弓矢の出現の意義は異なると考えられる。

参考文献

  1. 「弓矢の誕生」配布資料
  2. 小野 昭(2019)『人類と資源環境のダイナミクスⅠ 旧石器時代』雄山閣
  3. 小林謙一(2009)『縄文はいつから!?-地球環境の変動と縄文文化-』新泉社
  4. 佐藤宏之(2019)『旧石器時代』敬文社
  5. 鈴木道之助(1972)「縄文時代草創期初頭の狩猟活動」考古学ジャーナル
  6. 芹沢長介(1966)「新潟県中林遺跡における有舌尖頭器の研究」『日本文化研究所研究報告2』東北大学文学部附属日本文化研究施設、pp.1-67
  7. 佐野勝宏(2012)「狩猟同定のための投射実験研究(1)」『旧石器研究』No8、pp.45-63
  8. 白石浩之(2020)「石鏃の出現に関わる諸問題」『神奈川考古』第56号,神奈川考古同人会,pp.35-54
  9. 大工原 豊(2014)「石鏃の出現について」岩宿博物館・岩宿フォーラム実行委員会

日本考古学20242024年10月07日 00:47

日本考古学2024(にほんこうこがくにぜろによん)は2024年10月5日に開催された考古学の研究会である。

概要(講演概要と要旨)

  • タイトル:「日本考古学20」
  • 主催者:明治大学博物館・明治大学博物館友の会
  • 開催日:2024年10月5日(土) 13:00-16:10
  • 会 場:明治大学駿河台キャンパス グローバルフロント
  • 定 員:先着順 90名

内容プログラム

  • 講演1「同位体分析による縄文人の食性と生業の多様性」
    • 13:00~14:30 講演1(90分)
    • 講師:米田穣氏(東京大学総合研究博物館教授)
  • 講演2「道具としての縄文土器~多様化とその背景~」
    • 14:40~16:10 講演1(90分)
    • 講師:阿部芳郎氏(明治大学文学部教授)

講演要旨

文責は筆者となる。忠実な講演の再現ではないし、筆者の誤解も含まれるかもしれないので。

講演1「同位体分析による縄文人の食性と生業の多様」

生態学的アプローチとは生業の季節性や資源の分布とセトルメント・バターンとの密接な関係を与慮に入れた、析しい枠組である(羽生淳子(1990))。そのうち小林達雄の「縄文カレンダー」小林 達雄(1996)は知られているが、縄文時代の生態を全体的に把握する事は難しい。山内清男(1964)に「サケマス論」山内 清男(1964)がある。これは東日本と西日本との人口差を説明し、縄文時代の生業に関する理論を立てたたものである。 本研究は縄文時代の動・植物依存体の科学的な同定・分析結果に基づいて食料を推定し、食料獲得戦略を推定しようとする。縄文時代と弥生時代の食の多様性が明らかになってきた。人骨の同位体分析では北海道の縄文人はオットセイや海産物を食べ、東日本の縄文人はあまり魚を食べていないことが分かった。縄文系弥生人はデンプンを多く取る。渡来系弥生人は窒素とアンモニアの比率が多いからデンプンだけではない。縄文時代の土器はデンプン質を食料にするために加熱し、糖化することにより食料としていた。調理の際に付着したオコゲである土器内面の付着炭化物を分析した、縄文時代における食生活の変化を資源利用史として把握できた。 時代差による食料の変化はあまり見られない。同じ遺跡でも遺跡内の個体差の方が大きく、遺跡間の差より大きい、同じ環境でも食生活が異なることが判明した。 土器の作り分けに2つのモデルがある。第一は「ハレとケ」である。第二は「加工工程の複雑化」である。その解明には調理文化全体をさらに深く分析することが必要である。

講演2「道具としての縄文土器~多様化とその背景」

貝塚は海があったからできたのであろうか。循環する四季は豊かさをもたらしたのであろうか。人口増加は社会の発展と言えるのであろうか。様々な疑問のあるところである。 土器を道具としてみると、製作技術、使用方法、利用空間、利用した社会を考えなければならない。各場面を接続しなければ、土器を何に使ったかは分からない。当初は煮炊き用であったが、縄文時代の草創期は形は単純といえるが、しだいに小型土器と大型土器の使い分けが生じた。粗製土器とは模様が簡素なモノをいう。やがて精製土器と粗製土器の作り分けが明確化する。土器の使い方に2つのモデルがある。製塩土器とは、無文、薄手で剥離性があるのが特徴である。社会は生産と消費の二重構造となっていった。各場面を接続するモデル構築に考古学的検証が必要である。

参考文献

  1. 「日本考古学2024」配布資料
  2. 羽生 淳子(1990)「縄文時代の集落研究と狩猟・ 採集民研究との接点」『物質文化』第53号
  3. 小林 達雄(1996)『縄文人の世界』朝日新聞出版
  4. 山内 清男(1964)「日本先史時代概説」 山内清男 編『縄紋式土器』日本原始美術第1巻 講談社
  5. 阿部 芳郎編(2014)「縄文の資源利用と社会」季刊考古学 別冊、雄山閣

古代東アジア情勢と白村江の戦い2024年08月04日 01:35

古代東アジア情勢と白村江の戦い(こだいひがしあじあじょうせいとはくそんこうのたたかい)は2024年7月27日に開催された「第9回高麗郡公開歴史講演会」のテーマである。

概要(講演概要と要旨)

  • タイトル:「古代東アジア情勢と白村江の戦い、その後 行方を探る!」
  • 主催者:日本高麗浪漫学会
  • 後援:日高市教育委員会
  • 開催日:2024年7月27日(土) 13:30-16:30
  • 会 場:日高市総合福祉センター「高麗の郷」1F研修室
  • 定 員:150名(申込先着順))

内容プログラム

  • 講演「白村江戦余滴~亡命百済人・高句麗人の到来とその行方~」
    • 13:45~15:15 講演1(45分)
    • 講師:森公章氏(東洋大学文学部教授)
  • トークセッション『古代東アジア情勢と白村江の戦い、その後の行方を探る!』
    • 15:30~16:30 (60分)
    • 講師:森公章氏
    • コーディネーター:中野高行氏(日本高麗浪漫学会副会長) 進 行
    • コメンテーター:新井秀規氏(日本高麗浪漫学会副会長)

講演要旨

講演1「古代東アジア情勢と白村江の戦い、その後 行方を探る」森公章教授

「白村江」は日本書紀の写本に「ハクスキノエ」と読むモノがあるが、最近では「ハクソンコウ」と読んでいる。 当時の百済への倭国への軍事援助は3段階があった。

  1. 661年9月 百済豊璋を国に還すとき(倭国は)5,000名の兵士を送った。(①)
  2. 663年9月 新羅を側面攻撃するため27,000名の兵士が渡海した。(②)
  3. 663年8月 百済遺民の拠点・周留城を救援するため万余の兵士が渡海した。(③)
  • 『三国史記』『旧唐書』によれば倭国は1,000隻の船を出したが、663年7月26日の「白村江戦」で唐と新羅の連合軍に大敗した。1000隻の内400隻が焼かれた。その後、9月7日の周留城陥落が最終的な敗北で転回点となる。②の軍は南部中央にいたので、「白村江戦」に参加していない。伽耶地域から上陸し、戦後はそこから退去したと思われる。百済人の随伴はない。③は百済の高官と倭軍が随伴して、百済の南部地域から倭国に亡命・帰還した。亡命百済人は倭国の形成に大きな役割を果たした。百済の佐平は3名おり、百済の王族の余自身は671年(天智10年)、大錦下を授与されている。同じく佐平の沙宅紹明は671年(天智10年)法官大輔となっており、673年(天武天皇2年)閏6月に死去した。高句麗は668年(天智7年)に滅亡したので、そのときの亡命高句麗人も多かったが、百済人とは異なり、倭国の中央政界で活躍する例は少ない。高麗若光は666年(天智5年)に日本に派遣された使節の一員として玄武若光がいたが、同一の可能性のある人物である。高麗若光は高句麗王の息子であり、『続日本紀』703年(大宝3年)4月4日条に「王」の姓を与えたとの記載がある。716年(霊亀2年)、武蔵国に東海道7ヶ国から1799人の高句麗人を移住させたが、高麗若光はそのリーダーであった可能性がある。

トークセッション『古代東アジア情勢と白村江の戦い、その後の行方を探る!』

  • 高麗郡、新羅郡の設置記事はあるが、百済郡の設置記事はない。百済郡の設置はおそらく664年から700年の間ではないか。
  • 高麗系と百済系の違いは何か。
  • 高句麗から倭国には間に新羅や百済があった。どうやって倭国にきたのか。高句麗と倭国とは4世紀以来の通行の歴史がある。百済経由できたのではないか。
  • 高句麗の貴族階級はどのくらいの規模できたのか。
  • 666年(天智5年)高句麗から玄武若光が倭国に来ている。これは高麗王若光と同一人物であろうか。『日本書紀』には「二位玄武若光」と記載されている。『日本書紀』記載の玄武若光と『続日本紀』記載の高麗若光が同一人物ではない可能性もある。
  • 新羅、百済、高句麗ではそれぞれ土器が全く異なる。高句麗土器は日本ではあまり出土しない。深い関係はなかったのではないか(酒井清治駒澤大学名誉教授)。

参考

  • (日本書紀 巻第廿七 )
  • (天智五年)冬十月甲午朔己未、高麗遣臣乙相奄𨛃等進調。大使臣乙相奄𨛃・副使達相遁・二位玄武若光等。
  • (旧唐書原文 卷八十八 列伝第三十四 劉仁軌 ?處俊 裴行儉)
    • 仁軌引新羅之兵,乘夜薄城。四面攀草而上,比明而入據其城,遂通新羅運糧之路。俄而餘豐襲殺福信,又遣使往高麗及倭國請兵,以拒官軍。詔右威衛將軍孫仁師率兵浮海以為之援。仁師既與仁軌等相合,兵士大振。於是諸將會議,或曰:「加林城水陸之沖,請先?之。」仁軌曰:「加林險固,急攻則傷損戰士,固守則用日持久,不如先攻周留城。周留,賊之?穴,群兇所聚,除惡務本,須拔其源。若克周留,則諸城自下。」於是仁師、仁願及新羅王金法敏帥陸軍以進。仁軌乃別率杜爽、扶餘隆率水軍及糧船,自熊津江往白江,會陸軍同趣周留城。仁軌遇倭兵於白江之口,四戰捷,焚其舟四百艘,煙?漲天,海水皆赤,賊?大潰。餘豐?身而走,獲其寶劍。偽王子扶餘忠勝、忠志等,率士女及倭?並耽羅國使,一時並降。百濟諸城,皆復歸順。賊帥遲受信據任存城不降。
  • (旧唐書原文 卷一百九十九上 高麗 百濟 新羅 倭國 日本)
    • 二年七月,仁願、仁軌等率留鎮之兵,大破福信餘眾於熊津之東,拔其支羅城及尹城、大山、沙井等柵,殺獲甚眾。仍令分兵以鎮守之。福信等以真峴城臨江高險,又當沖要,加兵守之。仁軌引新羅之兵乘夜薄城,四面攀堞而上,比明而入據其城,斬首八百級,遂通新羅運糧之路。仁願乃奏請益兵,詔發淄、青、萊、海之兵七千人,遣左威衛將軍孫仁師統眾浮海赴熊津,以益仁願之眾。時福信既專其兵權,與撫餘豐漸相猜貳。福信稱疾,臥於窟室,將候扶餘豐問疾,謀襲殺之。扶餘豐覺而率其親信掩殺福信,又遣使往高麗及倭國請兵以拒官軍。孫仁師中路迎擊,破之。遂與仁願之眾相合,兵勢大振。於是仁師、仁願及新羅王金法敏帥陸軍進,劉仁軌及別帥杜爽、扶餘隆率水軍及糧船,自熊津江往白江以會陸軍,同趨周留城。仁軌遇扶餘豐之眾於白江之口,四戰皆捷。焚其舟四百艘,賊眾大潰,扶餘豐脫身而走。偽王子扶餘忠勝、忠志等率士女及倭眾並降。百濟諸城皆復歸順。孫仁師與劉仁願等振旅而還。詔劉仁軌代仁願率兵鎮守。乃授扶餘隆熊津都督,遣還本國,共新羅和親,以招輯其餘眾。

参考文献

  1. 「古代東アジア情勢と白村江の戦い、その後 行方を探る!」当日資料
  2. 森公章(1998)『「白村江」以後 国家危機と東アジア外交』講談社
  3. 森公章(2006)『東アジアの動乱と倭国』吉川弘文館

広域交流の重層性2024年07月17日 00:03

広域交流の重層性(こういきこうりゅうのじゅうようせい)は2021年12月15日に開催された「第5回 歴史文化講演会座」の特別講演会のテーマである。

概要(講演概要と要旨)

  • タイトル:「第5回 歴史文化講演会座」
  • 主催者:古代歴史文化協議会(8県で構成する)
  • 開催日:2021年12月15日(土) 13:00-16:00
  • 会 場:会場:岡山県立美術館ホール(オンライン配信)

特別講演

  • タイトル:「広域交流の重層性 -1~3世紀の東アジア・日本列島-」
  • 講師:石川日出志先生
    • 明治大学文学部 教授・明治大学日本古代学研究所 所長)

要旨

序論

様々な検討課題があるが、本日は3つに絞って論じる。璽印、ガラス、鉄器からみる日本列島の広域交流の重層性である。弥生時代の後期から古墳出現期にかけて、日本列島内で活発な地域間交流が行われてきた。遠隔地とも密接な交流が見られ、古墳時代社会形成の基板となっている。これは日本列島だけみても分からず、朝鮮半島さらにアジア大陸の王権も視野に入れて見なければならない。

璽印

アジアの国家間の様相は、まず璽印(判子)から描ける。これまで日本では鏡の研究が多く、そこでは日本列島、中国の黄河中流域、楽浪郡あるいは帯方郡の3つの関係を論じていた。しかし日本列島と楽浪郡帯方郡との間の地域、朝鮮半島の地域を含め、横断的に見る必要がある。 金印は印面に漢字五文字、三行で「漢委奴國王」と書かれる。「漢」は漢王朝、「委」は仮借により倭である。「奴」は北九州の奴国を指す。漢王朝が倭人中の奴国王として皇帝が認めたことを示す。金印は封泥用の印である。中国古代に相手の王に物品を封じて親展とするとき、第三者が開けないよう泥で封印し、ひもで結んだ上に璽印(判子)で封印する。開けると封泥が破壊されるので容易に分かる。紙に印を押すのは、だいぶ後世になる。

金印偽作説

江戸時代以来繰り返し偽物説が登場し、最近も鈴木勉先生と三浦佑之先生が、江戸時代の偽作説を提唱している。1968年に九州大学の岡崎敬先生は金印を詳しく計測して、その1辺が後漢代のお墓から出てきた物差しの一寸と一致するから偽作ではないと主張した。二人は漢代の一寸は2.3 ㎝、一尺23.5 ㎝ということは江戸時代にわかっていると反論した。つまみの蛇の鈕の形は前漢時代から後漢、魏、晋の時代まで続いている。江戸時代にも蛇の鈕の印は知られていたが、具体的にどのような形かは知られていなかった。蛇の形で首が後ろを向くことは20世紀になってから分かったことで、江戸時代には知られていない。 偽物を作るとしたら、金属組成を漢代の基準に合わせる必要があるが、江戸時代では知りようがない。金の純度の変遷を調べると、漢代の金製品は金の純度95 ~ 99.9%であり、金印の95%はこれとまったく矛盾がない。漢から後漢の漢字の文字形の変遷は著しい。前漢の時代の特徴、王莽時代の特徴。後漢の時代の特徴の3つを併せ持つのは、後漢前期しかない。今や真贋論争は終結したと考える。

『後漢書』の信頼性

璽印の真贋論争決着により、『後漢書』の記事の信頼性が高まった。倭国王帥升と金印の二つの記事は『魏志倭人伝』に書かれていない。『後漢書』記事は長らく疑念が持たれていた。福井重雅先生は、『魏志倭人伝』を持ってきたのではなくて、華嶠、すなわち『魏志倭人伝』が編まれたのと同じ時期の別の『後漢書』から范曄が持ってきたと指摘した。

下賜物のランク

魏の皇帝から、倭国に与えられた下賜物には重要度のランクがある。これは書かれる順番に現れる。ランクは詔書、印綬、その次に金帛、錦罽、それから刀、鏡、采物である。金、織物系が最初で、刀、鏡、采物の順番である。魏が倭王に物品を与えるときのランク付けとみてよい。刀は鏡より上位である。

広域交流の重層性

五尺刀をより重視すべきである。五尺刀は当時の物差しで、大体120㎝である。湖北省の北端、魏の領域の中に115.5 ㎝の素環頭大刀があった。日本列島では福岡県の糸島市の上町向原遺跡に119 ㎝の鉄刀がある。まさに五尺刀である。伊都国の墓からは大型鏡と共に、長さ80 ㎝の素環頭大刀が出土した。奈良県天理市の東大寺山古墳では環頭部が断ち切られているが、環頭部があれば五尺に近づく。三津永田遺跡に素環頭大刀、佐賀県唐津市の桜馬場遺跡、長野県の根塚遺跡では、三本の鉄剣があるが、これらは韓国、朝鮮半島島南部の釜山・金海周辺のデザインである。遠距離の物流、発注・供給という事態が起きている。首長間の広域連携が認められる事例としては、出雲の西谷3号墓がある。吉備の特殊器台と壺に加え丹後、北陸方面の土器が出土する。首長の葬送の場面に各地域の有力者が立ち会う。銅鐸の地金は、洛陽、後漢の都周辺からきているが、どのルートで流通したのか。瀬戸内ルートか日本海ルートか。青銅の地金の流通はどうか。鉄器の流通を考える場合は、銅鐸の原料がどう動いたかも検討しなければならない。結論はないが、そのような目で研究していきたい。

参考文献

  1. 石川日出志(2021)「広域交流の重層性 -1~3世紀の東アジア・日本列島-」第5回 歴史文化講演会座、動画、資料(「講演録」)