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倭国の時代2025年01月25日 00:27

倭国の時代(わこくのじだい)は2024年12月21日に行われた古代史講演会のテーマである。

概要

  • タイトル  第27回古代史講演会「倭国の時代」
  • 会場    オンライン
  • 講師    古市 晃氏(神戸大学大学院人文学研究科 教授)
  • 日時    2024年12月21日(土)14時00分から15時30分

要旨

倭国はどのように成り立ったか。研究成果によれば5、6世紀は倭王中心の王族による専制的倭王権であった。5世紀段階は血縁継承とはいえず、血統による王権継承は6世紀からである。 倭王のグループから倭王がどのように選ばれるか。5世紀後半から倭王の権力が強まった。 470年代では倭王による専制支配であった。6世紀前半の欽明以後は血縁継承と認められている通説をどのように考えるか。諸伝承の排除は理由がある。記紀伝承は後からの造作があることが明らかにされている。作られた物語からは歴史を構成できない。しかし、まったくのゼロではない。記紀の基礎的な部分には歴史的事実があるだろう。出土文字資料は同時代資料であるから、造作の心配が無い。5世紀後半に「大王」の出土文字資料があり、稲荷山古墳の鉄剣に書かれる。当時は複数の王統があった。記紀と宋書を見比べれば、「珍」と「斉」は血縁関係は無い。中国の史書においては、諸外国の王朝についても、継承関係は可能な限り正確に書くのが原則であるから、血縁が記されないのは、重みがある。藤間生大は「珍」と「斉」は血縁がないと書いている。すなわち当時は少なくとも2つの王統があったことになる。5世紀の倭王の王権は不安定であったといえる。

考察

参考文献

  1. 古市 晃(2021)「倭国 古代国家への道」講談社

縄文時代の陥し穴2025年01月21日 00:27

縄文時代の陥し穴(じょうもんじだいのおとしあな)は2025年1月18日に行われた古代史講演会のテーマである。

概要

  • タイトル 「縄文時代の陥し穴」
  • 会場    東京都埋蔵文化財センター 会議室
  • 講師    齋藤由美子氏(東京都埋蔵文化財センター調査研究員)
  • 日時    2025年1月18日(土)13時30分から15時30分

要旨

陥し穴とは

陥し穴は地面に穴を掘り、その底面に逆茂木を埋め込み、穴の上面に草や土を敷き詰めてカモフラージュし、そこを通過した動物を穴に落下させて捕獲する狩猟装置の一つである。陥し穴は丘陵や台地の斜面などの傾斜地に多く作られる。陥し穴と判断できるのは、断ち割りすれば底面に逆茂木が見つかるからである。上部に敷き詰めた草や土の痕跡が残る場合もある。 穴の形は円形又は楕円形である。陥し穴はほぼ日本全国でみつかっている。陥し穴を日本で始めて報告したのは、神奈川県の横浜市緑区霧ヶ丘遺跡の報告書であった。それによれば、最も深いもので1.7mを超える穴の深さがあり、底面に向かうにつれて径が狭くなる形状である。底面には竹や木の穴を刺した跡が見られ、落ちた動物が身動きがとれないようにするためのものと判断された。

江戸時代の動物との攻防

江戸時代の東北八戸藩では、18世紀中頃に猪の食害で、「猪飢渇」が生じたという。冷害に猪害が加わって生じた飢饉であったという。当地の方言で「いのししけかち」(いのししけがち)と読む。猪垣(ししがき)は害獣の侵入を防ぐために山と農地との間に築かれる垣根、石垣、土塁である。石垣は1.5mの高さである。この高さを猪は乗り越えられない。

陥し穴の分類による分析

講演者は陥し穴を底面長軸の長さと長短軸比の組み合わせにより20種類に分類し、地域的特性を調べた。南関東では、丘陵部と台地部とでは形状が異なることを発見した。南関東の丘陵部では長短軸比の中央値が0.315であったが、台地部では0.138と非常に細長くなっている。楕円形の陥し穴は北部九州と南関東の台地部で多い傾向がある。円形は中国地方の中国山地沿いの標高の高い処で多い傾向が見られた。旧石器時代の陥し穴は1遺跡で1基から2基が多い。

考察

縄文時代の土坑は陥し穴、お墓、貯蔵穴など様々な種類がある。それらは土坑の形状や出土遺物、堆積土の状況から区別する。墓では副葬品の有無、埋葬に伴うと考えられる遺物が出土すること、穴のサイズ形状が人間を格納できる寸法であるかどうかにより判断できる。貯蔵穴は断面の形が袋状であり、掘り込みは浅めのものが多い。直径・深さともに1m内外の土坑である。集落内の一定の場所に設けられ、その内部からはドングリ・クルミ・クリなどが発見される。 貯蔵穴と墓は集落内や集落の近くにある程度まとまって検出される特徴がある。 陥し穴は多くの場合、山の傾斜部などでみつかるが、集落内で見つかることもある。 平面形状が円形や方形は陥し穴、であるが貯蔵穴にも円形や方形は見られる形状であるから穴の形状は決定要因にはならない。陥し穴は列状に並ぶ場合もある。 陥し穴は坑底(土坑の底面)に逆茂木などの施設があることが多い。 船久保遺跡(横須賀市、旧石器時代)では穴は1m×50cmの長方形の穴で、深さは2メートルほど。調査範囲だけで13基あり100mにわたって等間隔に並んでいた。深くなるに従って幅が狭くなるとの狭い部分に鹿の足が入り込むと鹿は動けなくなる。シカは後ろ足の力は強いが、前足が落ちると脱出できないという。船久保遺跡では四角い穴が、谷筋に沿って列になっている。

参考文献

  1. 齋藤由美子(2025)「縄文時代の陥し穴」講演資料
  2. 佐藤 宏之(2009)「日本列島旧石器時代の陥し穴猟」国立民族学博物館調査報告33
  3. 足立 拓朗(2018)「石川県内の縄文時代陥し穴猟」

卑弥呼と大和王権2024年12月17日 01:11

卑弥呼と大和王権(ひみことやまとおうけん)は2024年12月07日に開催された古墳時代の大和に関する講演会である。

概要

  • タイトル 「卑弥呼と大和王権-古墳時代の大和を考える-」
  • 主催    大和文化会
  • 会場    銀座ブロッサム 中央会館(東京都中央区銀座2-15-6)
  • 定員 900名(申込先着順)
  • 日時    2024年12月08日(日) 14時00分から16時00分

講演1 12時50分~14時10分

「倭王のイメージ -古墳と王権-」

奈良県立橿原考古学研究所 学術アドバイザー 岡林孝作先生

倭王のイメージは『魏志倭人伝』に記載されている。最初の前方後円墳は250年頃に築かれたから、『魏志倭人伝』は同時代史料であり、貴重である。「大王」の初出は埼玉稲荷山鉄剣の銘文と江田山古墳の鉄剣銘である。倭王朝は中国の王朝と交流があった。262年に伊与を告諭しており、266年張政の帰国を送ったとされる。

桜井茶臼山古墳に見られるように倭王は産業を支配する王であった。当時の朱は非常に高価であった。それを多量に使用する王墓を作っていることは、倭王が強大な財力を持っていたことを示す。当時の倭は豪族連合の国家であったが、その中で倭王の前方後円墳は、同時期で最大の規模の古墳であり、その時代の階層的構成(秩序)の頂点にある。

講演2 14時30分~16時00分

「纒向遺跡とヤマト王権-私の邪馬台国論-」

桜井市纒向学研究センター 所長 寺沢薫先生

卑弥呼は巫女のイメージと弥生中国のイメージとがある。弥生時代は「白鷺=神」であったから、白鷺の扇を持ち、絹傘を差し掛けている。服は白ではなく、トキ色、すなわち黄色ものある白である。ところで纏向遺跡は発見されてからすでに50年を経過する。

『日本書紀』によれば、崇神の王統は三輪山西南麓の磯城・纒向に宮を構えたとされている。垂仁は纏向に都を定めたと書かれる。纏向の名前は古くからある。纏向遺跡は2世紀では集落は何もなく、3世紀になって突然に出現した都市である。農業を行った痕跡は極めて薄い。一方、唐古・鍵遺跡からは農具が多く出土するので、大きな違いがある。

唐古・鍵遺跡から纏向遺跡に移住したとは考えにくい。唐古・鍵遺跡では伐採用斧の柄、竪杵、一木鋤、平鍬 鎌、杵などの木製農耕具が出土する。一方、纏向遺跡からは鎌や鍬が出土しない。95%は鋤などの土木用具である。当時の纏向遺跡は物流・交通の要衝であった。纏向に登場した前方後円墳は倭国の全国に広がった。纏向遺跡に祭祀の象徴として最も古い段階の導水遺構がある。さらに大型の王宮が発見されている。前方後円墳は、初期型の石塚古墳、矢塚古墳、ホケノヤマ古墳が定型化されて勝山古墳と東田大塚古墳が登場した。それらから最初の定型的前方後円墳の箸墓古墳が登場した。最古の希少品として、倭の天蚕で作られた絹製品が出土し、紅花やバジルの花粉が見つかっている。西アジアから中国経由で齎された貴重品である。纏向遺跡からは北部九州から南関東までの各地の土器が出土している。

弥生時代200年頃までに紀元前の北部九州で「国家」が登場した。橋口氏が弥生時代の戦死者リストを作成しているが、ほとんどの使者は北部九州であった。最初の倭国王帥升は伊都国王であり北部九州にいた。

その後に倭国乱があり、卑弥呼共立の時期のAD204年以後は、纏向遺跡に政権が移動した。新生倭国は女王を王とした。纏向遺跡は邪馬台国の王都ではない。倭国の首都である。卑弥呼は大和政権の最初の王(大王)である。王国と呼んで良いだろう。ここから飛鳥時代の明日香に繋がる。

参考文献

  1. 「卑弥呼と大和王権-古墳時代の大和を考える-」講演資料、大和文化会
  2. 岡林孝作(2018)『古墳時代棺槨の構造と系譜』同成社
  3. 寺沢薫(2008)『王権誕生』講談社
  4. 寺沢薫(2023)『卑弥呼とヤマト王権』中央公論新社

古代の交通ルール2024年12月09日 00:20

講演会フライヤー

'古代の交通ルール(こだいのこうつうるーる)は2024年12月08日に開催された古代の交通ル-ルに関する講演会である。

概要

  • タイトル 「古代の交通ルール」
  • 主催    国分寺市教育委員会
  • 会場    いずみホール
  • 講師    近江俊秀(文化庁主任文化財調査官)
  • 日時    2024年12月08日(日曜日)14時00分から16時00分

要旨

講演は主として時代の逆順で行われたが、ここでは時代順で説明する。

弥生時代

弥生時代にすでに道路交通ルールがあった。『魏志倭人伝』に道で偉い人に出くわしたら、身分が下位のものが道を譲ると書かれる。道を譲る行為は身分の上下関係の可視化とみられる。

飛鳥時代

670年(天智9年)、天智大王が「行路の相避ることを宣ふ」(『日本書紀』第廿七 天智九年春正月条、宣朝庭之禮儀與行路之相避)と勅したと日本書紀に書かれる。道路で出会ったら互いに避けるという意味である。弥生時代と同様の交通ルールである。

奈良時代

奈良時代の太宰府の条坊から奈良時代の柵の跡、道路と側溝が発見された(大宰府条坊跡第 357 次調査)。路面幅は約3m、東側溝は幅約2m、深さ0.5m、西側溝は幅約2.5m、深さ0.5mの直線道路であった。路面に幅5cmの筋状の溝(轍の跡)が残り、また牛の足跡も残る。「荷物を運ぶ車両は道路を通り、それ以外の人や牛は側溝を歩いていたのではないか。車両と歩行者を分離していたとも考えられる」とされるので、歩車分離の交通と見られる。牛の蹄の跡から左側通行と推定されている。

平安時代

公家の礼法では牛車がすれ違うとき、左に避けるルールがあった。しかし平安京の発掘調査では車の轍は道の中央を通っていた。

鎌倉時代

『宇治拾遺物語』では左側に避けている(大膳の大夫以長、前駆の間の事)。『極楽寺殿御消息』(北条重時、1198年~1261年)では相手が高貴なら左に避けると書かれる。公家社会のルールであったと想定される。

戦国時代・安土桃山時代

『石山寺縁起絵巻』(巻1)で人は左側を通行している。『中島摂津守宗次気』(1558)は路地でで輿に出会ったら右に退き、左を輿に通す。

江戸時代

平和の時代 右側によける戦国時代のルールは変化する。理由は敵意がないことを示すため(刀を使えない)自分から見て左側に避けるようになった。身分を示す刀が相手に当たらないようにする意味がある。『海陸行程細見記』(増補:1836年)は右に除けると無礼になると示している。武士のルールが庶民まで広がったと見られる。

考察

右側または左側の通行は「礼」と密接に関係する。何らかの社会的な合意がないと、無用な衝突が起こる。江戸時代の生麦事件も交通のお約束(ルール)を知らなかったために起きた歴史的事件である。

参考文献

  1. 近江俊秀(2024)『「人は右、車は左」 往来の日本史』朝日新聞出版
  2. 近江俊秀(2024)「古代の交通ルール」講演資料

富雄丸山古墳の蛇行剣と保存科学2024年12月04日 00:13

富雄丸山古墳の蛇行剣と保存科学(しょくとちょうりのこうこがく)は2014年11月23日に開催された古代史と保存科学に関する講演会のタイトルである。

概要

  • イベント名 第14回奈良県立橿原考古学研究所 東京講演会
  • タイトル 「富雄丸山古墳の蛇行剣と保存科学」
  • 主催 奈良県立橿原考古学研究所、由良大和古代文化研究協会、朝日新聞社
  • 会場    有楽町朝日ホール
  • 日時    2024年11月23日(土曜日)13時00分から15時55分

要旨

保存科学の歴史と富雄丸山古墳の蛇行剣に適用された保存科学を解説する。

講演1「富雄丸山古墳と保存科学」

奥山誠義氏 橿原考古学研究所 総括研究員

保存科学は文化財の医者である。保存科学の役割は、今の文化財の姿を後世に残すことである。1989年に橿原考古学研究所保存科学研究室ができた。1992年に保存科学棟ができた。 研究員は現在4名である。2022年に国内最大の蛇行剣が発掘された。下にある銅板(当時の認識、距離も不明であった)や遺構を傷つけないように取り上げる必要があった。アクリル樹脂を塗布し土と剣を補強し、ガーゼを当てて竹串で周囲の土を掘り下げ、10人かかりで取り上げた。研究所に搬入後は透過X線撮影を行い、三次元形状計測を行った。当初は剣が1本か2本か分からなかったが、最終的に1本と確認した。木材の痕跡が見つかり、鞘はホオノキ製と判明した。中央部に織物の痕跡があった。慎重に剣のクリーニングを行って公開にこぎ着けた。

講演2「蛇行剣-富雄丸山古墳出土品の理解に寄せて-」

北山峰生氏  橿原考古学研究所 調査第1係長

蛇行剣は全国で約80本出土しており、茶すり山古墳(兵庫県)、宇陀北原古墳、花の木古墳群、豊中大塚古墳(大阪府)、フネ古墳(長野)、七観古墳(大阪府)などがある。韓国でも金城里古墳など数例がある。蛇行剣の年代はまだ確定しない。鉄生産は5世紀に大型利ができ、長い剣の国産化が出きている。蛇行剣は5世紀に登場し、Aタイプ、Bタイプ、Cタイプに分かれる。蛇行剣以外の剣は何度も折り返して鍛錬するが、蛇行剣はブロック状の素材がついているだけで鍛えられていない。武器としては実用では無く、儀礼用の剣ではないか。

講演3「保存科学と考古学」

今津節生氏 奈良大学学長

1989年に橿原考古学研究所入所した。藤ノ木古墳では玄室内の泥のように見えた塊が、持ち帰って分析すると実は布の塊であることが分かった。1996年の下池山古墳では地下2mの空洞から鏡と織物を発見した。繊維を剥ぎ取り、毛織物を顕微鏡で調べると兎の毛であることが分かった。鏡袋の存在を明らかにできた。目に見えない有機物の残片から様々なことが分かるようになった。出土繊維の調査が全国で行われることを期待する。

考察

考古学の発掘現場には保存科学が必須であることがよく分かった。見逃しがちなゴミに見える塊が実は、貴重な研究素材を提供する。今回はだ龍鏡の分析は未完了のため蛇行剣に焦点が当たった。

参考文献

  1. 第14回奈良県立橿原考古学研究所 東京講演会 資料

食と調理の考古学2024年12月03日 01:13

北区飛鳥山博物館 企画展講演会

食と調理の考古学(しょくとちょうりのこうこがく)は2024年11月30日に開催された古代史の講演会である。

概要

  • タイトル 「食と調理の考古学」
  • 会場    北区飛鳥山博物館 講堂
  • 講師    鈴木直人氏(博物館学芸員)
  • 日時    2024年11月30日(土曜日)14時00分から16時00分

要旨

旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代の食と調理を概説する。

旧石器時代

旧石器時代は非常に寒い頃で、列島は針葉樹林が広がり、ナウマン象、オオツノジカが跋扈していた。それゆえ食料は動物ではナウマン象、オオツノジカ、植物はナッツ、ベリーなどであった。調理は動物を解体してそのまま食べたり、蒸し焼きにして食べた。動物は大型動物を狩猟で捕獲していた。植物のチョウセンゴヨウ、ハシバミはアク抜きが不要で、そのまま食べられる。

縄文時代

縄文時代には温かくなって広葉樹林が広がって小型動物が増え、シカ、イノシシ、野ウサギ、鳥類のキジ、カモ、貝類のシジミ、ハマグリを捕っていた。植物は堅果類、豆類、根茎類、球根類、野草類、キノコ、核果類を食べていた。土器が発明されたので、煮ることが可能となった。焼く、蒸す調理も行う。

弥生時代

弥生時代では壺が登場する。稲作が始まるが、田の生産力はまだ大きくなかったので、米だけに頼る生活ではなかった。米、あわ、ひえ、きび、大麦、小麦などの穀物の他、どんぐり・くるみ・かや・とち・くりなどの木の実、いのしし、鹿、熊、うさぎ、たぬき、きつねなどの野生動物、すずき、くろだい、はも、きす、にしん、あじ、ふぐ、あゆ、ふ な、うぐい、うなぎ、たこ、さめ、すっぽん、さんしょう魚などの魚・水産動物を取っていた。はいがい、おおたにし、かわにな、まがき、うみにな、しおふき、さるぼう、 やまとしじみなどの貝類も利用する。弥生人は、土器に海水・海藻などを入れ、熱を加え水分を蒸発させ、塩をつくっていた。

古墳時代

朝鮮半島からカマドが伝わった。竈は炉に比べると熱効率が良く、少ない燃料で強い火力が得られた。古墳時代には、かまどの強い火で「こしき」と下に水をいれた甕をつかい、米を蒸して食べていた。お粥や雑炊だけではなく、米を蒸した「強飯」とよばれる赤飯が炊かれた。水田技術や農具も発展し、米の収穫が増えた。これにより米が美味しくなった。古墳時代には大規模な水田が作られるようになったので、収量が増えた。弥生時代後期に朝鮮半島から鉄器が伝来し、鉄製の農具を使う効率的な農作業ができるようになった。古墳時代には食生活がより安定している。 古墳時代の食材は弥生時代と似ている。主食はアワ・ヒエや豆、米を栽培し、ソバなどの穀類を採っていた。ハマグリやウニ、魚類などの海産物が食卓に加わる。動物はシカやイノシシなど、木の実はドングリ、シイの実、クリなどで、果物は果物は、モモやスモモなど野イチゴ、ブドウ、アケビなどがある。穀物や魚介類を発酵させた味噌や醤油、塩辛などの原型も加わる。日本酒の原形といえる麹カビも採用する。 海がない地域では、川のマスやフナ、 コイ、ウナギ、 サケを食べていた。

参考文献

  1. 鈴木直人(2024)「食と調理の考古学」配付資料
  2. 名久井文明(2019)『食べ物の民俗考古学』吉川弘文館

弓矢の誕生2024年10月21日 00:13

弓矢の誕生(ゆみやのたんじょう)は2024年10月19日に開催された考古学の講演会のテーマである。

概要(講演概要と要旨)

  • タイトル:「弓矢の誕生 有舌尖頭器から石鏃出現の意義を考える」
  • 開催日:2024年10月19日(土) 14:00-15:30
  • 主催者:大田区立郷土博物館
  • 会 場:大田区立郷土博物館 2階会議室
  • 定 員:先着順 50名
  • 講師:愛知学院大学 白石浩之 名誉教授
    • 講師紹介
    • 國學院大學修士課程を修了後、1971年、財団法人かながわ考古学財団入職、調査研究部調査研究部長を歴任。2000年、「石槍の研究 : 旧石器時代から縄文時代初頭期にかけて」で博士 (歴史学:國學院大學)。2000年より愛知学院大学教授、現在名誉教授。1993年に第3回岩宿文化賞を受賞。1994年12月、神奈川県研究業績賞。

講演要旨

忠実な講演の再現ではないし、記載ミス(誤解)もあり得るので、文責は筆者となる。

講演

弓矢の起源はどこまで遡れるかということであるが、定説では縄文時代からとなっている。しかし、そうではないらしい。弓矢を考える上で、自然環境の理解が大事である。古い時代の気象環境は16千年前頃の地球は氷河時代で寒かった。15千年頃前からのベーリング期では気温が急に上がった。最寒冷期には海水面が下がっており、樺太と北海道は地続きであった。対馬海峡は深いので、大陸とつながってはおらず、島が海に点々としていた。植生について東日本は氷河期・高山の植生であるが、西日本は温帯針葉樹の混交林であった。先史時代の動物相は、北海道・東北ではマンモスが陸続きの大陸から移動してきた。ナンウマンゾウは森林地帯に生息し、ヘラジカは亜寒帯針葉樹林にいた。月見野遺跡群(神奈川県大和市)の上野遺跡では16千年前の地層から、旧石器の無文土器、石鏃、細刃が出土している。15千年前の地層(第二地点)第一文化層から旧石器時代の石鏃が見つかっている。縄文時代草創期初頭では、三ノ宮・下谷戸遺跡から有舌尖頭器がみつかっている。矢尻は矢の尖頭部である。埼玉県寿能泥炭層遺跡では縄文時代後期の石鏃が出土している。弓は出ていないが、石鏃があれば矢がある。愛知県上黒岩岩陰遺跡の石器として、えぐり込みがある有舌尖頭器が出土した。後代の古墳時代になるが、埴輪では、矢で射られる鹿、猪が表現されている。 鈴木道之助(1972)は変遷「木葉形尖頭器⇒有舌尖頭器⇒石鏃」を提唱し、弓矢の出現を捕らえようとした。 石鏃はどこまで遡ることができるのか。神奈川県綾瀬市吉岡遺跡群、C区15層上部相当(約16000年前)から大型木葉形石槍に伴って石鏃が出土している。芹沢長介(1966)は有舌尖頭器が大型から小型に変化する中で、鏃が使用された可能性を指摘した。栓先形尖頭器は月やり・投げ槍、有舌尖頭器は投槍器の投げ槍、石鏃は弓矢としてそれぞれ使われた。したがって時期的な順序関係が証明されれば、芹沢長介(1966)説が支持されるであろう。 有舌尖頭器には大型、中型、小型の区別がある。寸法によって役割がそれぞれ異なる可能性がある。 おそらく自然環境変化に伴い、大型動物から小型動物への交代があり、縄文人が対応した可能性が考えられる。また有舌尖頭器を弓矢に使用した可能性もある。 長崎県百花台遺跡の台形石器は、「ナイフ形石器⇒台形石器⇒細石器」が層位順に出土した。 これは2万年前にすでに弓矢が存在していた可能性を示唆する。佐野勝宏(2012)の実験結果は、後期旧石器時代初頭の3万年から4万年前に弓矢があった可能性を示唆する。小型の有舌尖頭器は弓矢に用いていた可能性がある。すなわち石鏃が弓矢の穂先に用いられたことと、弓矢の出現の意義は異なると考えられる。

参考文献

  1. 「弓矢の誕生」配布資料
  2. 小野 昭(2019)『人類と資源環境のダイナミクスⅠ 旧石器時代』雄山閣
  3. 小林謙一(2009)『縄文はいつから!?-地球環境の変動と縄文文化-』新泉社
  4. 佐藤宏之(2019)『旧石器時代』敬文社
  5. 鈴木道之助(1972)「縄文時代草創期初頭の狩猟活動」考古学ジャーナル
  6. 芹沢長介(1966)「新潟県中林遺跡における有舌尖頭器の研究」『日本文化研究所研究報告2』東北大学文学部附属日本文化研究施設、pp.1-67
  7. 佐野勝宏(2012)「狩猟同定のための投射実験研究(1)」『旧石器研究』No8、pp.45-63
  8. 白石浩之(2020)「石鏃の出現に関わる諸問題」『神奈川考古』第56号,神奈川考古同人会,pp.35-54
  9. 大工原 豊(2014)「石鏃の出現について」岩宿博物館・岩宿フォーラム実行委員会